笑う男「生」学


ジェンダーフリー教育

(中日新聞4月7日夕刊名古屋版掲載)

岡 崎 勝

 はじめに

 「性別に関わりなく、その個性と能力を生かせる社会を創ろう」という主旨で「男女共同参画基本法」(1999年)が作られた。学校教育でも、教育基本法の第五条男女共学から一歩進んで、性による不必要な区別は止め、性別に関わらず、教育のチャンスを平等に与えるべきだという「ジェンダーフリー教育」を進めようとしている。 ジェンダーという言葉は、生物学的な性(セックス)と区別されている。簡単にいうなら、社会的制度的に期待され、作られた男らしさ・女らしさである。そのクサリを解こうというのである。例えば、学校では「生徒会長は男子で、副会長は女子」とか、「やさしい女の子、たくましい男の子」といった習慣的な考えかたがある。しかし、そうしたイメージを先入観として持つと、女子が会長をやることを望ましくないとしたり、「サッカーは男子だけのスポーツ」とか、「編み物クラブへ男子が入りにくい」というようなことになってしまう。

 今どき、会長を男子に限っている学校はないだろうし、女子もサッカーをする機会がある。つまり、時代の流れは、確実に男女の機会均等が少しずつ実現しつつある。

 名古屋市ではほとんどの小・中学校で「男女混合名簿」が実施されている。しかし、私が十年前に、男女別々になっていた子どもの名簿を男女混合にしようと学校内で提案したときは、同僚たちは「なんで?」であった。現場では、常に男子が先になっている男女別名簿のおかしさに気づいていなかった。「たかが名簿、なぜ男女混合にこだわるのか?」という質問には「どうして男女別にする必要があるのか?」と聞いてみた。ところが、考えてみると区別する理由はない。区別するときは、その必然性があるはずという単純な論理だ。私にとっては、男女平等教育を教員として子どもに進めながら、不必要な男女別の名簿を混合にすることなど、たいして面倒なことでもない思っていた。

 ところが「混合名簿より大事なことはあるはずだ」「混合にしても差別はなくらない」という意見も多かった。もちろん、混合名簿にしたからといって、すぐに差別がなくらならないのは当然で、差別解消はそんな簡単なものじゃないと私も思う。しかし、さまざまな角度から差別を明らかにして、改善していくことは必要だ。私たち教員も、ジェンダーにとらわれているのではないか? と問うことも必要だ。

 なんとなく今までのやり方を変えるのがいやだというホンネもあるに違いない。私は、「実際に混合にすると最初は慣れないから面倒かもしれません。でも、子どもたちにとってそれが望ましいなら、多少の不便は我慢しましょうよ」と呼びかけた。じっくりと三年くらいかけて研究、試行錯誤して、学校全体で実施した。

 「男が男らしくないのは問題だ」「女らしさを失った女も困る」という意見も多い。しかし、「男らしさ」ってなんだろうか? 男らしさというのが、「たくましさ」だとしても、また女らしさが「やさしさ」だとして、それは、両性にとっても必要なことであろう。また、男も色々いていいし、女も色々いていい。つまり、人間を、大きく男女に分類しても、その二つを「らしさ」でくくること自体に無理がある。

 ときどき、ジェンダーフリー教育は「性差をなくすことだ」という批判をされる。しかし、私には、とてもそんな大それたコトは考えていない。全部混浴にしたり、トイレも男女共用、着替えも男女一緒などというのは勘弁して欲しい。男女一緒に着替えなどというのは、セクハラだ。

 ジェンダーフリー教育はそんな機械的に性別を無視することではない。性による「不必要な区別」が、一人一人の可能性を奪ったり、チャレンジの不平等になったり、「らしさ」の強制になるのを止めようということにすぎない。何人も、人が人として尊ばれる人権教育の一つとしてのジェンダーフリー教育なのだ。そして、その考え方もまだ未完成であり、これからもっともっと検討や研究が必要なものなのだ。



笑う男「生」学にもどる   ホームページへ戻る