笑う男「生」学


フェミニズムと子育て論

『そだちの科学』10号 08年3月日本評論社発行

 はじめに

 私は、「威勢の良くない『男のフェミニズム』」=「男生学」を目指している(笑)。それは、「フェミニズムに理解がある男」とか、「女の立場を理解する男」というのではなく、男である自分が、男の性を背負いながらも、「気楽に生きたい」と思うからだ。男性学という分野や運動もあるらしいが、もう少し生活感のある、具体的な毎日の暮らし方の中で男がどう生きるかを模索したいと思うからだ。
 だから、「フェミニズムと子育て」というこのテーマを実践的な感覚、生活感覚で論じていこうと思う。つまり、現代の少子化の危機感への言及も、男女共同参画社会の促進も、セクハラの問題の解決についても、男性であるがゆえに「立ち止まって考える」慎ましさが必要だと思っている。
 つまり、威勢のいいフェミニズムは、男性である私自身が語るほど「熟成」していないという思いがあるからだ。私が語れるとするなら「男性学」ならぬ「男生学」だろうと考えている。
 本稿では、私自身が関わった「フェミニズムと子育て」に関することを、「男生学」的に論じたい。私が経験したことを、できるだけ整理しながら、子育てにおける課題と男女の関係について述べていく。

一 家事育児に参加しない男性の劣等感

 (一)「男にも育児時間を!」と要求したこと

 私は長男の育児のために、まだ制度化されていなかった「男性の育児時間」を名古屋市に措置要求(地公法四六条による勤務条件改善のための要求)したことがある。その動機は、母親には二時間の育児時間が取れるのに、なぜ父親には取れないのだろうか? という素朴なものだった。一九八四年という時代に「男に育児時間が必要だ」というのは、世間では、まだ「たわごと」の印象しかなかったと思う。
 子育てに男親も関わるべきであるという、フェミニズムの課題に、積極的、社会運動的に賛同していたわけでもない(もちろん反対もしていないけど)。ただ単に、私は男性だけれど、現実に育児をやっているし、まあ、嫌なときもあるけど、楽しいし、自分たちでつくった子供だから、子育てをするのは当たり前!だと思っていた。今でも、そう思っている。
 にも関わらず、「なんで女性ばかりが育児環境で優遇されているのだ……」と思ったのだ(本当は優遇されてなんかいないが)。だから、具体的に行政に「ボクにも育児時間を認めてよ」と働きかけたのである。(実際は、育児時間を取っている女教員もほとんどいなかったが。)
 そのことが、友人の新聞記者の知るところとなり、記事になった。すると、フェミニズムに理解のある人達には、好意的に受け入れられたが、たくさんの批判、誹謗、中傷をいただいた(笑)。結果的には、法的に、この要求は慎重に吟味され却下されたが、私の要求が間違っているとまでは言えないと判定された。ま、言ってみれば、ちょっと世間の先を走っていただけだと……。
 当たり前の話だが、父親が育児に参入参加していけないとは、いくらなんでも言えないのだ。基本的に私は、社会的にも正しかったのであり、向かい風ではあるが、誰も正面切って「間違っている」とは言わなかった。地元新聞などは、社説でもって、私のことを取り上げ「『泣くまで待とうほととぎす』ではないな」と、不可思議な論じかたをした。
 私はこの「事件」によって、「男女差別撤廃に一番尽くした男性」として、フェミニストグループから、その年から始まった「ベストマン賞」に選ばれ表彰された。
 それ以来、幾多のフェミニズムの集会、男女差別撤廃関連の集会に招かれ、淡々と、しかし四苦八苦しながら家事育児をやっていることを話した。
 男性が育児や家事をやるとどうしてこんなに注目されるのかと聞くと、それは「そんな男性はまずいないからです」と、シーラカンスのような珍しさで言われた。しかし、家族に夫婦がいて、子どもがいれば、子育ては夫婦で一緒にやるのは、別にそんなすごいことでも、大変なことでもない。
 自分の生活から「男にも育児時間が必要だ!」と要求を出したにすぎないのである。はじめは、フェミニズムの運動としてではなかった。

 (二)男性が子育てに関わるのは、多数派ではなかった。

 「普通なら、子育てを夫婦でやるのはあたりまえだろう」と思う自分はヘンなのだろうか? そんなに男性は家事・育児をやっていないのだろうか? 統計的にはやっていないらしい。  父母会に、父親の参加が少なすぎる。「お宅のお父さん、今日は参加しないの?」と聞くと、「無理っす」と母親。父親は、家でテレビを見ているという。正直、ちょっとおどろいたのである。みんなに言うと「それって、普通よね」だ。
 私は、やはり少数派だったのだ。
 父親たちが、日常的な子育てに参加しない理由は、大きく言うと二つある。一つは、育児家事に関わる時間がない。つまり、働く多くの男性は会社・企業人間で、帰りも遅く、家庭より会社に身を捧げているから、家へ帰っても子どもはすでに寝ているという理由だ。二つ目は、そもそも、男性は技能がなく、やる気がない。子どもをあやしたり、寝かしつけたり、医者に連れて行ったりするという活動が学習されていない。「できないことには、やる気も失せる」という、児童生徒が勉強に向かうのと同じような「態度形成」がされているということだ。  もちろん、このことは、「全部」とか「すべての」という形容詞を付けて男性と家事育児を論じることはできないという前提がある。
 では、逆に女性はどうか? と問うてみる。女性は、ワーキングマザーでなければ、とりあえず時間はある(というより、家事育児を押し付けられているし、「保障」もされている)。そして、社会的に多くの女性は、「子育ての文化と方法」を、とりあえず受け継いできたから、身に付いてもきた。
 もちろん、ワーキングマザーだろうと、仕事を持たない母だろうと、母親の一日の家事労働時間は、確実に多い。つまり、妻に仕事があろうが、なかろうが、夫は家事育児をしないのである、統計的に。共稼ぎの夫は、平日の家事労働時間が、一六分。妻が無職の場合、夫の家事労働時間は一八分。要するに、男性はどんな状況でも、家事労働を女性より、はるかにやらないのである。
 子育てについても当然のこと同じである。子育てはとくに、母性神話があるから、女性の方が向いているという賛成多数にのっかって、さらに男の育児に関わる時間は少なくなる。「女性の方が育児は向いているから」と、最近は大きな声で言うことはあまりないが、気持ちの中では、しっかりと持っているお父さんが多い。それが、正しいかどうかなどは、問題ではない。
 男性は、子育てや家事を学習していないから、要領は悪く、たとえやっても、周囲を不快にさせることが多いし、ヘタをすれば仕事をさらに増やしてしまうことだってあるだろう。その能力の無さに、確実に劣等感を持っている。
 男性が家事育児をしない三つ目の理由がここで銘記されなければならない。つまり、男性は役に立たないという劣等感をもっているのである。家事育児はもっとも合理的効率的に働かないと一日が回らない。しかも、子育てにおいては、子どもの動きに、合わせ引き回されることが多い。そこを、リズムやケアでなんとか凌いでいくという、ある意味、高度な能力(家事育児をしない男性にとってね)が必要だから、男性はリングに上がれないのだ。負ける試合はしない……という感覚だ。そして、それがラクだと感じているからである。男性は「常に世話をされる対象」であるという「母の鎖」から自由になれないのである。

二 空虚な「男性らしさ」的育児

 (一)子育ては、男性も女性も、やってるいことに違いはない

 先日、ある親たちの集まった教育・子育ての集会で、初老の男性がこう発言した。「岡崎先生は、父親には、男性らしさが必要とは思われませんか? 男性らしさを生かすというか、つまり父性原理が家庭には必要で、いざというときにガン!という夫や父親がいないと、子どもは育たないのではないか?」と、私に質問したのである。
 こういう質問は、たいてい初老の勉強熱心な男性がする。私は、こういう考えをまったく持っていないので、「『父性原理=男性らしさ』という分かりやすい図式は、間違いだと思いますよ。たぶん、いてもいなくてもどっちでもいいのが父親で、いないと困るのが母親ですよ。男性らしさとか女性らしさがいまいちよく分からないのですが。具体的に教えてください」と答えている。
 すると、たいていは、「きめ細かく、優しく世話をするのが女性らしさ」みたいな男性らしくない(笑)感情的で浅薄な話に脱線していくので、「そういう考え方もあるかもしれないけど、私はまったく、ぜんぜん、これっぽっちも、爪の先程度も、そう思わないので、お答えできません」と優しくお詫びする。
 いざというときにしかガン! とやらないから、父親がうっとうしくなるのだ。優しかった娘に「たまに口出しやがって! 偉そうにするんじゃねえ、クソ親父」と言われて、ショックで家庭内緘黙になった男を知っている。日常的に、家庭の問題に関わることが必要なのであって、父親だろうと母親だろうと、親なんだから、一緒に考えたり、決定したりした方がリスクが少ないに決まっている。
 また、完全に勘違いしている若いお父さんもいる。公園で自転車の練習をしている親子がいた。転ぶたびに「男だろ、泣くな、頑張れ!」と、星一徹のような形相で、子どもを叱咤激励強迫恫喝しているのだ。いわゆるスパルタパパである。子どもにとっては、えらく迷惑であろう。
 これが、もっとエスカレートすると「やられたら、やりかえせ」というエールを子どもに送るのだ。これで、困っている子どもも多い。やり返したあと、また次の日から学校へ行って、その友だちと顔を合わせるのだ。子どもにとっては、単純にケンカをすればいいというものじゃない。勝っても負けてもとりあえず、同じ場所でまた生活するのだから、それなりの調整が必要なのだ。「男らしく」やったり、やりかえしたら、居心地が確実に悪くなる場合の方が多い。お父さんは、何も知らないのだ。もちろん、会社で、お父さんは上司にも、ちゃんと「やられたら、やりかえしている」のかを確認したい。

 (二)社会性を持ち込むことの意味

 それでも、百歩譲って、男らしさを理解しようとするとき、一つの典型を考えることはできる。それは、親と子、家庭、学校という、どちらかというと限定された場所や関係に、社会通念や社会常識、あるいは、相対的なものの見方を、会社や世間で仕事をしている父親が持ち込むことである。親と子などの狭い関係で、見えなくなるものがあったり、論議が煮詰まったりすることを防ぐかもしれない。
 しかし、「世間は甘くないんだ」とか、「誰のおかげで喰わせてもらってるんだ」などという昔のドラマの偉そうなせりふはすでに消費期限切れである。なぜなら、会社や世間自体が、価値観が多様化しているために、父親(働く母親)の「社会通念」「社会常識」に、ほとんど有用性(一般的な説得力)がなくなっているし、情報化社会の中で、それは、それほど珍しい、あるいは、的を射たものとなっているとは言い難いからだ。
 すでに、現代では「男らしさ」などというものが、生活レベルでは、見切られている。
 もちろん、だから、男女の「らしさ」が消滅しているということではない。それはフィギアスケートの男子と女子との演技と作られた表情の差異に見られるような、いかにも女! いかにも男! というジェンダーは、まだ至る所で、しっかり存在している。フィクションの世界ではまだある。
 子育ての中で、赤ちゃんが着るもの、身につけるものは、顔や体つきなどの見た目で、男女の区別できないほどの乳幼児でも、ピンクかブルーの上着に親が執着するように、男女らしさのつくられた物語にすがって子育てがなされていることにかわりはない。

三 男女共同参画社会の子育て

 (一)女性の社会参加と子育て

 女性を家に縛り付けておくことが必要だ(かなり反フェミニズム的言い回しだが)という社会から、女性も社会参加をしていこうという世の中の流にそって政策的にでてきた男女共同参画社会は、どこの地域でもそれなりの重要課題となっているはずだ。
 私も自分の住んでいる地域の男女共同参画社会推進のための施策策定に参加してきた。昨年まで男女共同参画推進懇話会の副委員長をつとめ、男女平等条例も制定された。この施策に関しては、男女平等への具体的な政策として評価はできるものの、上からの施策というところで、市民の盛り上がりもまだまだだという感じも否めない。
 つまり、女性の労働力が社会として、必要なこの時代に、働きにくくして、その足を一番引っ張っているのもやはり、無理解な社会だったりする。
 女性の労働力が男性並みに扱われていないことへの不満は当然分かるし、ガラスの天井の下で、将来の見通しも保障もなく働いている女性は、必然的に男性社会の桎梏から自分を解き放たなくてはならないし、男性の論理に闘いを挑む意外にない。
 フェミニズムは、女性の労働力が、不当に低く評価されているという「現実」を厳しく批判してきた。それは、至極当たり前の、人間の尊厳を傷つけられた女性の正しい思想であり運動である。
 その危機感を表すのは、男性がよく「どうせ、女は、結婚したり、出産したりすれば仕事から離れるんだから、男と一緒にはならない」という言い方を見ればわかる。だが、ここには、仕事を中断したらできなくなるような仕事や、運営できない会社自体に、問題があるのではないかという視点が欠けている。
 だからこそ、女性が、今の時代に仕事を続けようとすると、結婚や出産は、仕事の障害になってしまうのである。会社の在り方をそのままにしておいては、男女共同参画推進もお題目だけに成り下がる。
 男も女も、子育てに関わることのできるシステムを会社や企業が考えていかないと、働きながら子育てをする母は、父がいようといまいと、いつまでたっても自立できないのである。  ところが、女性が「男並みの仕事」をすることで、逆に子育てをする時間がなくなってしまったように見えるのはどうしたことだろう。実は、男女共同参画社会は、労働面だけでなく、家事や育児にも共同参画することを目指しているのである。
 女性の労働参加と、男性の家事育児が同時にチャレンジされてこそ意味のある「男女共同参画社会」なのである。ところが現在は、女性も男性も、長時間労働など現状の厳しい働き方をそのままにして、育児軽減の「保育サービス」を充実させることを望んでいるかもしれない。目途としている。しかし、働き方そのものを問うこと無しに、育児をサービス機関に、より多くゆだねることが必ずしも善きことだとは私は思われない。

 (二)女性も管理職になれる、なりたい、なりたくない

 管理職にしめる女性の割合を増やすために、アファーマティブアクションとして、数値目標を立てることは、男女雇用平等に関わっても重要なことだろう。しかし、一方で、数値に目が行って、管理職という仕事そのものを吟味すること無しで進められるのは、間違っているのではないか?
 「管理職が過労職であるなら、私は管理職を拒否する」という女性職員がいてもおかしくない。時として、こういう言い方をすると、「要するに、ラクになりたいから、男に任せて、自分は適当に仕事しようと思っているのだろう」と揶揄される。
 こうした難問に、適切な回答はでてこない。ただ、今はっきりと言えることは、管理職なり職場の重要なポストと言われるところに着くのは、男女問わずに、過労職なのである。したがって、家事はもちろん、子育てはとても余裕を持ってできないのである。
 夫婦で子育てをしながら働くと言うことは、ある程度、お互いが家事育児をシェアしながら生活するよりない。その際、両者とも過労職では無理である。したがって、どちらかが、過労職でないか、両者とも過労職を避けるしかない。
 それでも、日本の労働条件の悪さの中では、保育サービス無しでは、やっていけない。しかし、先に述べたように、その保育サービスが「充実している」ことを喜んで受け入れるうちに、結果的に育児をしなくなることに結果しているとしたら、おそらくそれは、本質的に労働者から子育てを奪うと言うことである。
 子育てをしたいのに、単身赴任を平気でする企業はまだまだ沢山ある。子育てよりも企業の運営を優先させるのである。フェミニズムが今、一番問題にしなければならないのは、女性の社会進出・参画・参加にともなって、今の男の受容している過労職的な労働観を改変することである。
 できれば、夕方早くから、子育てに参加することのできるくらいの労働時間で仕事を切り上げることである。もちろん、そんなことをしたら「食べていけない」と言う声がきこえそうだ。だが、これを改善しなかったら、およそ少子化には対抗できないし、結婚すらできなくなる男女が増えるだけである。

四 強い女と弱い男はフェミニズムのせい?

 (一)男女平等教育・ジェンダーフリー教育のこと

 「男女混合名簿」「性教育」などジェンダーフリー教育は間違っているという、数年前から、いわゆる「バックラッシュ」問題があった。今でも、ジェンダー関連の講演会の突如中止、図書館での性教育関連書の撤収などがつづいている。
 私自身は、ジェンダーフリー教育が、性差否定教育だという認識は全くないし、自分でもやってこなかった。逆に、いくら低学年でも着替えは男女別の部屋の方がいいし、体育の授業も参加者の意見を聞き、あるいは様子を見て、男女別でやった方がいい場合も時にはあると柔軟に考えてきた。(もっと言えば、身体測定などは、男女別どころか、個人別になりつつあると思う。)
 それでも、必要のない区別はやめた方が便利であるし、性別についての、根拠なき区別は差別になりやすいということを経験的に知っている。そもそも性で分けていかないと困るものは、ちゃんと区別すればよい。やってみれば、それほど大変なことではない。
 もちろん、男女が平等になることや、性別から自由になることは、簡単なことではないし、イデオロギーだけで事足りるものではない。
 「戦後強くなったのは、靴下と女性だ」という、言い古された言葉があるが、別に戦後も戦前も女性はそれなりに強かったろうし、また、弱くもあったと思う。この言葉が、男性の負け惜しみから出た言葉でないことだけを祈りたい(笑)。

 (二)本当に「女子が強くなった」のか?

 まず、個人差による成長や発達の違いは確実にあるのは自明だ。また、個人差ほどでないにしろ、男女に身体的精神的な発達傾向(早い、遅いだけでなく、質の違い)があるような気はする。もちろん客観的に、科学的に証明を私はすることができない。しかし、いままで、どの学年を担任しても、女子は弁が立ち、周りに気配りをしながら活動できるが、男子は、それに比べると未熟であることが多い。もちろん全員ではない、大まかな傾向としてである。
 で、私としては、印象として「人間関係の調整する能力の発達は、女子が男子より全体的に進んでいる」と思わざるを得ない。特に最近は、高学年になると、「幼い男子集団をあきれて見守っている女子」という風景が一般的になってきている。
 ところが、それは、何も突然そうなったのではなく、昔からそうだったのではないかと、私は考えている。また同じことを、ベテラン教員仲間に言われたこともある。ただ、今は男女の枠がはずされたので、女性が自由に発言したり、活動に参加したりできる分だけ、差が広がって、お互いの違いが目立つようになったと言えるだろう。
 誤解を恐れずに言うと、女性にチャンスを与えなかった分だけ、女性は卓越性を表出できなかったし、学習ができなかったのだと言える。だから、小中学校の発達・成長期には、女子が遅れているように見えたのかもしれない。
 しかし最近では、女子も、ほとんど男子と機会均等の状況になり、逆に人間関係調整の力が発揮できるようになった。その結果、男子より相対的に「強く」なったように見えるのではないか。
 男女の違いを強調しての子育ては、あまり展望が持てない。それは、男女の差より、個人の違いの方が、将来的には重要であり、価値観も多様化しているから、子どもたちを一本の「ものさし」の上でならべることはできなくなるし、意味もなくなる。
 男女が競争して、仕事の重要性を競い合ったり、業績を競争する時代ではない。男女問わずに、今の仕事の在り方を問い直したり、暮らしに散見する「男女別」が果たして妥当なのかどうかを、再検討する必要がありそうだ。



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