いまボクは「やかまし村の子どもたち」という名前の教室通信を出ている。週に一度くらいになるだろうか?でも、忙しくなると、中断する。親たちの反応はあまりない。これは、もう最近15年くらいは、こんなもんだ。それで、いいし、しょうがない。読んでくれる人は読んでくれているのだからそれでいい。
ボクは、単純に「教室の出来事」を連絡したり、みんなよく頑張ったわね!的なことを」書き連ねないことにしている。通信は表現活動なのだ。それは、リアリティのある表現とポリシーがないとだめだというか、意味がないとボクは考えている。ちょっと、わがままでもいいから……。子どもたちの生活のなかで、自分はどう考え、どう動いているか、そして、そこになにを読みとるか?
この通信は学級の親だけでなく、学校の外の友人知人にも渡している。だから、おもしろいといってくれると、うれしい。でも、親の中にもそういう人がいると、もっとうれしいが、あまり期待してはいけない。学校からの通信というのはどんなものでも「力」をもち、子どもと親に圧力として立ち現れる。コミュニケーションというのはもともとそういうものだ。基本的に、学校の視線をうっとうしく感じている親や子が、まず、拒否反応するのは当然である。そこを、かいくぐって、ボクのメッセージをどう伝えるか?それが、一つの醍醐味である。
2000.5.23