ようこそ! ひとみの部屋へ

「心」

月の精霊ルナのひとみです
なにもフルネームで名乗ることもありませんね(笑)今日はちょっと変わったお話です。
しんやおじさんは色々な人にお手紙を出します。
神様に関する質問には黙っていられないのね。
これはその中の1通ですが、私が横で読んでいても凄いの。
感動して倒れそうになりました。
どの神様がおじさんに「内流」を伝えているのか、ひとみは知っていますが
その内流を元に、こんな考え方のできる男の人を私は知りません。
今暗くて冷たくて悲しみしかない世界にいると思っている貴女、
貴女のことをこんないも思ってくれる人が世界にはいるのよ。
おじさんの手紙を横取りして、勝手に公開しちゃいます。


<2007年3月3日の書簡>


唯一存在 絶対存在である根元様は「神意発動」して
「絶対実の世界」と「絶対虚の世界」になり、人間の視界に姿を現しました。

左目に写る世界は「絶対実の世界」です。「初動」とも言います。
右目に写る世界は「絶対虚の世界」です。「次動」とも言います。

左目に写る根元様は、「歓喜」であり「完全無欠」であり「全知全能」です。
右目に写る根元様は、「悲哀」であり「完全欠陥」であり「無知無能」です。

両者の間には徹底的な違いがありました。
「こころ」です。
「歓喜」「完全無欠」「全知全能」には「心」がありません。
悲しみもなく、何の欠点も無く、何の迷いも無い世界では、心はある必要が無いからです。

「悲哀」「完全欠陥」「無知無能」には「心」があります。
悲しみも、苦しみむ、不条理もb、欠点だらけのこの世界には、心が必要だからです。

「絶対実の世界」が初動
「絶対虚の世界」が次動とすると
初動の資質を受け継ぐ「男の原型」には心が無いことになります。
もちろん「原型以降の男」には、二つの世界がまぜこぜになっていますから、心はあります。

でもこれが「男の原罪」です。

左目で神界を見るMさんによる「かむなから神業」は心を必要としないように見えます。
もちろん普段の人間
Mさんは、ひとを真剣に心配する心優しい人です。
ところがひとたび神の世界に没入したとたんに、左目しか見えなくなります。

人が死のうが、どんなに苦しもうが神界背景の理にかなっていたのであれば、国替えは当然であり、
不幸現象はあって当然の、なんでもないことになります。
神業に不必要になった人間は、情け容赦なく霧のかなたに捨て去ります。
神の御旗を立てれば、どんなことでも許されるし、汚いお金も使っても良いことになります。

でもこれは、今までは仕方の無いことで済まされました。今まではね。
左目には「歓喜」「全知全能」しか見えなかったからです。

「右目で神界を見る」「心ない男を見る」女の心の苦しみはいかばかりであったのでしょうか。
心は千路に乱れ、ずたずたになった女は、なにかとんでもないことをやらかしたのでしょう。
「女には償わなくてはならない責任がある」ようです。
これらはこれからの、人間としての「かむなから」の宿題だと思います。
この神様のお言葉にそれを感じます。

つみをつみとみつめて あお(男)
つぐないにてっして あか (女)

1994年 平成6年9月20日、鳥取県弓ヶ浜半島米子弓ヶ浜で
「米子弓ヶ浜中秋の名月祭」が執り行われました。
祭事場の正面に、満月の月が海から昇ってきます。
その美しさに驚嘆の声が上がる中、神様のお言葉が始まりました。

20:40   取り継ぎ
(前略)     
この日を楽しみにしていた。
嬉しいのと、何といおうか、コトバに出来ない思いで顔がくしゃくしゃになる。
そういった感じが、皆に伝わるであろうか。
大きな荷を背負わせてしまった。大きな負担に思うであろ
(間あり)
辛いであろうが、いつ、どんなときでも笑みを絶やさず、ひとつ、ひとつ、乗り越えてくれぬか。
本日、自身2つに割って芯核を見せる。

そなた達がわびの旅を続けるなら、これが我のわびの形である。
そなた達が、今迄被害してきたところのものたち割を
この芯核からでるヒカリによりて我もとに治める。

残りは皆の手で彼らの思い遂げさせてやってはくれぬか。
(間あり)
.
悲しくて、嬉しくて、根元涙が止まらぬ。


感動のお言葉です。
かんながら神業は辛い旅です。お金はもとより、悲しい思いをさせらりたり、
憎しみの思いを
もった存在の恨みを、いったん体験させられます。
正直「こんな神様なんか放り投げたい」気持ちになります。

大きな荷を背負わせてしまった。大きな負担に思うであろう。

しかしこんなお言葉を頂いてしまっては、もう何も言えません。
ところが207年平成19年3月3日、再びこれを読んだ私は妙なことに気が付きました。
以前もらった神業報告書では

悲しくて、悲しくて、根元涙が止まらぬ。

になっていたのです。それともう一箇所気になる点があります。

『嬉しいのと、何といおうか、コトバに出来ない思いで顔がくしゃくしゃになる。

ここでも「嬉しい」が出てきます。
どうして正式な神業報告書が、差し替えられているのだろう?
悲しくて、嬉しくて、では何か不都合があるのだろうか?
でもこれ以上考えるのはやめました。
そんなことより、自分なりの答えをみつけなきゃなりません。
かむなからの人にすまないと侘びを入れているのに、なぜ、何が嬉しいんだ?

原文と報告書が違っていると
指摘すると、
一人の人から「どうして嬉しいの?」とメールが来ました。

答えようとして言葉を捜した瞬間に「内流」が来ました。

このお言葉は、「親の心」だ。

不敬にも根元様を私に置き換えてみました。
私は自由気ままに生きてきました。
子供の成長期に仕事のためと全国のデパートを渡り歩き、ほとんど家にいたことがありません。
その上現場神業として日本はおろか、外国旅行も通産150日を越えています。

どんなにか子供たちは寂しかったことでしょう。
挙句の果ては金が無い、倒産する、家を売ると大騒ぎ。
どれほど子供たちの心を痛めつけ、苦しめたのでしょうか。
そのことを考えると、悲しくて涙が止まりません。

でも私達の子供は立派でした。
逆境を跳ねつけ、辛さを何も言わず乗り越え、ここまで立派に成長してくれました。
このことを考えると、嬉しくて涙が止まりません。
私は悲しくて、嬉しくて、涙が止まりません。

そうか、根元さんも、そうだったのか。
なんだ、それじゃあ根元さんはそこら辺に転がっている普通の親と一緒じゃないか。
やはり根元様は遠くにいたのではありませんでした。
私の直ぐ横で、見守っていてくれていると確信しました。

ところが子供たちがいるという幸せを実感した瞬間にHさんのことが頭に浮かびました。

彼女は私の幸せの向こう側にいる。
私が持っている子供たちという幸せは、宇宙の重さに匹敵します。
しかし対極にある彼女は、最愛の息子さんを3年前に失っています。
それ以来彼女は3年以上も、重くて暗い悲しみを抱え続けているんだ。
私の幸せに匹敵する重さの「悲しみ」を彼女は抱えて、それでもなお懸命に生きている。
それでもなお「世乃元之神」を捜し求めている。

なんということだろう。

知らないこととはいえ、本当にすまないことをしてしまいました。
できれば少しでもその荷を背負ってあげたいが、それは絶対に出来ぬこと。
私に出来ることはただ一つでしょう。
彼女の悲しみの重さを、少しは感じてあげることしかありません。

Hさん、今日2007年3月3日、私は貴女の悲しみの1億分の1をなんとか理解できました。
私に出来ることは、なんでも言ってくださいね。


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