<生きるということ>

よく「病は気から」とか「健全な肉体に健全な心が宿る」と言われますが、
昔の人は「気」というものを非常に重要視していたようです。

私達現代人はシステム上のことの研究に目が向くあまり、
この「気」というものを忘れて物事を理解しようとしてしまいます。
目の前の現実に存在しているものにしか、関心を示しません。
もっと極端に言えば、日や月や満天に煌めく星のことすら忘れてしまっています。
自分が宇宙の中の存在であるという認識がありません。
見えないものに対する感性を失ってしまったのです。

生物が生きていくためには確かに、エネルギーが必要です。
生物学的エネルギーというものを科学的に研究していった結果、
生命が使用するエネルギーは、
ブドウ糖がアデノシン3リン酸に変化する時に発生するエネルギーであると
決定してしまったため、その瞬間から
人間は「気」というパワーがあることを、意識の中から放棄してしまいました。
科学的説明のつくこと以外のすべては、
無視するどころか、「ない」と言い切ってしまったのです。

ところが「ガン患者」と真正面から向き合うお医者様の中に、
「気力」を無視しては救えないということを言い出す人が出てきました。
命がけで仕事している人は、
「気力」という目に見えないパワーというか、エネルギーというものを感じているのです。

確かに、肉体という物質を動かしているエネルギーは
ブドウ糖から作られているようです。 
しかし、「それだけだ」と言い切ってしまって良いのでしょうか。
「生きる」という根元的な「気力」は、どこから来るのでしょうか。
一度考えてみてください。

何か目に見えない「力」があるとすると、それは「気」と表現しても良さそうです。
「気は力であり、エネルギーである」とは、気功などを実践する人が良く口にします。
しかしそんな人にも「生きたいという意欲」というエネルギーは見えません。
意欲というものは、測定不可能なのです。

では実際には、なぜ気功などにより気を入れると、「健康」になるのでしょうか。
それは、人間の体が「気」を入れた時に「気力」に変換しているからなのです。
「生きる」という現実的なことは、
「気」を「気力」という力に変えなければならないのです。
1個1個の細胞が「気力」をみなぎらせてこそ、
人は生きる「力」、ちからを持つのです。


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