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 「えいっ」


 「ぐおっ!」


 「せいっ」


 「ぬうっ?!」


 「とりゃっ」


 「ぬごごっ!」


  ツン、と鼻を突く消毒液の臭い漂う病院独特の空気の中。フィリスの診療室には何者かがまるで
 格闘するかのような奇怪な叫び声が響きわたっていた。


 「……よし、今日はこれで終りにしましょう。お疲れさまでした」


 「あ、ありがとうございまし……た」


 「はいおそまつさま♪」


  ぽんと背中を叩かれ、恭也はまだグッタリとベッドに横たわったまま、フィリスはやれやれと額
 の汗をぬぐいながら、二人それぞれにマッサージが終わった事に安堵のため息をつく。


 「どうですか? 恭也くんから見て、身体の方は」


 「うーいや、最近は膝の方も調子がいい。本当に感謝している」


  まだ少し上ずった声で、ぐるぐると肩や手足首を回し曲げ伸ばしするのを一瞬止めると、恭也は
 担当医であり兼現在恋人であるフィリスに向かって軽く頭を下げる。


 「ここの所、真面目に通ってくれてますしね」


 「う、む」


  根が正直な為か、自分の動機に少々不純な部分のある事にためらいを憶えつつ、曖昧に頷き返す
 恭也。


 「どっちにしても、私は嬉しいですよ」


 「…………」


  そんな恋人の気持ちを知ってか知らずか、そう言って嬉しそうに微笑むフィリスを見て、恭也は
 再び沈黙し顔を明後日の方へと背けたのだった。


 「そ、そういえば来週はフィリスの誕生日だったな」


  ふいと逸らした目の端に、壁にかけられたカレンダーが入り。話題を変えたいと思っていた恭也
 が、付けられていた赤丸にやや大きめの声をあげた。


 「あ、そうですね。もうそんなころでしたか」


 「何が欲しいですか? 欲しいものがあればそれを買いたい」


 「本当ですか?」


  敬語とタメ口が入り混じる所が、二人の付き合いがまだ短いものだという事を示していた。


 「ああ。なんでもいいです」


 「本当に、なんでも?」


  一人机に向かい、カルテに何事か記入していたフィリスはその言葉に急にクルリと振り返ると、
 キィと背もたれを反らして恭也の方を振り返り。


 「俺は嘘と坊主の頭はゆったことがない」


 「本当に本当になんでもなんですか?」


 「う、はい」


  キャスターで椅子ごと、さらにずずいっと迫り来るフィリスに何事かと圧されながらも、恭也は
 何とか首を小さく縦に振る。


 「後悔……しません?」


 「……手加減はしてくれ」


 「あはは。じょーだんです」


  ほとんど真横にある恋人の顔に少し頬を熱くしつつ、根負けした恭也が降参とばかりに両手を上
 げると、フィリスはすぐに笑ってパッと体を離し。


 「じゃあわたしは、カレンダーが欲しいです」


 「可憐だー?」


 「はい。カレンダーです」


  言われて恭也が再びカレンダーに目をやると、そこにはフィリスの誕生日以外にも、患者の名前
 や予定らしき物がいくつか赤文字で書き込まれていた。


 「どちらかというとフィリスはスレンダーだが……」


 「何か言いました?」


 「いやなんでもない」


  フィリスの胸から腰の辺りへ下げていた視線を慌てて戻して、意外と鋭い、と恭也はそ知らぬ顔
 で妙な感心をする。


 「しかし、そんなものでいいんですか?」


  プレゼントにしては少々安かろうと改めて恋人の顔を覗き込むが、フィリスはその恭也の強い、
 今はやや困惑の色の混じった黒い瞳をしっかりと受け止めて。


 「手加減してくれとは言いましたが、その、もう少しいいんですが」


 「いいえ、カレンダーがいいんです」


 「ふむ」


 「あのですね……」


  そう言い切るハッキリとした態度に、恭也はとさっとベッドに座り直すと、フィリスも顔の前に
 人差し指を立てて。実は……と身を乗り出し少しだけトーンを落として語り始めた。








  〜CALENDAR〜
  (Main:フィリス Genre:ほのぼの Written by:竹枕)








 「遅いな……」


  そうため息のように呟くと、すでに何度も見返してきた腕時計の針をもう一度だけ見返す恭也。
 その夜フィリスの誕生日当日、約束の時間は既に20分以上オーバーしており、夜の帳と共に自分
 の心にゆっくりと黒い不安の影が降りて来るのを感じていた。


 「きょうや、くーん……っ!」


  迷惑になるかもと我慢していた携帯に連絡を入れようかと思った矢先、恭也の目に通りの向こう
 から長い銀色の髪を乱暴に振り乱しながら、待ち人が駆け寄って来るのが見えた。


 「はぁ、はぁ、ごめんなさい遅れちゃって。待ちました?」


 「いや、たいして待ってはいない」


  よほど慌てていたのか、手を振る恭也の目の前でフィリスは、ひざに手をついて荒い息を整えて
 いるのか、頭を下げているのかわからない状態で。


 「実は今日は忙しかったのに加えて、その……」


 「うん?」


 「……お食事の、後にしましょうか」


  何故かごにょごにょと語尾を濁すフィリスに、恭也もそれ以上突っ込んだりはせず。待ち合わせ
 場所だった駅前から二人並んで移動し始めた。


 「まずは誕生日おめでとう。フィリス」


 「ありがとう、恭也くん♪」


  腕を組んだりはせず、ただ並んで黒い上着に手を入れたまま歩き出した恭也が、そう祝いの言葉
 を口にすると本当に嬉しそうに、フィリスの顔が花が咲いたようにパッとほころぶ。


 「それと、これを」


 「あ、カレンダーですね。ありがとうございます」


  同時に恭也は脇に抱えていた二本の筒をフィリスに差し出す。


 「あれ? ふたつ?」


 「どちらもカレンダーです」


 「2つもですか?」


  受け取った白い筒状のカレンダーを両手で持って、ん? と首と3本並んで傾げて見せる。


 「一つは今年の。もう一つは来年のもの」


 「あ、そうなんですか。わざわざすいません」


 「いや、今年のはすでに処分品にしかなかったし……だから気にする事は」


  値段よりもむしろ探す方が大変だった、と歩きながら恭也が肩をすくめると、フィリスはくすり
 と小さく笑って。


 「一年中過去の事も見られるように、破らずめくるタイプにした」


 「あ、にゃんこのカレンダーですね♪ かわいー」


  目で、見てもいいですか? と尋ねてこくりと頷き返す恭也を確認すると、じゃあとフィリスは
 くるくるビニールを手繰りとって約束のカレンダーを広げて見た。


 「今年はもう書き込める事も少ないかもしれないが、今この時から始めていきましょう」


 「はい♪」


  可愛らしい猫の写真のカレンダーにニコニコと頬を緩ませながら、恭也の言葉でさらににへら〜
 と幸せそうに表情を崩すフィリス。


 「忙しいのかな、病院の方は」


 「ええ、少し。いい事なのか悪い事なのか、ちょっとわかりませんけど」


  からからと両手でカレンダーを丸め直し、ちょっとやりにくそうにまた脱皮したビニールの中に
 戻していく。


 「もう終ったかな、という頃に、急患や検査が入る事も多いですし」


  その間恭也に持ってもらっていたもう一本を返してもらいながら、フィリスは今日もそれで遅れ
 ちゃいましたし、とため息混じりにつぶやく。


 「お風呂にゆっっくり入って、パジャマ着て、よぉーやくベッドに横になってもうなんにもしたく
 ないっ! ……と思った瞬間にトイレに行きたくなった時の悲しみに似てるかも」


 「ぶっ! ま、まあわからんでも、ない」


  やけに具体的な例だな、と苦笑しつつ恭也は何となくブルッと体をひと震い。


 「患者さんの中にはお尻さわる人とか居ますし、その今、ぱ、パンティ何枚履いてる? とか聞い
 てくる人とかも居ますし……」


 「いや、それは1枚だろう……」


  あまり野暮なツッコミ入れまいと思っていた恭也だったが、それでもつい口の、心の端から小さ
 く漏れてしまう。


 「あ、ごめんなさい。いつの間にかわたし、仕事の愚痴ばっかりで」


 「いや、聞く事でフィリスの気が晴れるのならいいし。それに……」


 「それに?」


  ちょっと遠くを見上げて、ふっと一息ついて。


 「俺だけに話してくれる、というのも、正直嬉しい」


 「あ……♪」


  先週治療の時以来逢えていなかった恭也にとって、今こうしてフィリスと話していられる事だけ
 で、素直に嬉しかった。


 「あっ! わっ、わっ」


  しかしフィリスの方はといえば、嬉しさのあまりぎゅっと恭也の腕に抱きついた拍子に、カレン
 ダーを取り落としてしまい慌てる羽目になる。


 「はわっ、まっ、逃げちゃダメぇ〜」


 「……らしいというか、なんというか」


  拾おうと身体をかがめると、つま先が当たりさらに逃げる。そんな自分の尻尾を追う犬のワルツ
 のような恋人の痴態を眺めながら、恭也は笑って軽く歩を速めたのだった。






                     〜◆〜






 「1羽2羽3羽4羽カモのヒナ〜♪」


  レストランで二人少し遅めの夕食をとり、ご機嫌と言う名のスピーカーになったフィリスは鼻歌
 交じりでぴょんと、両足で跳ねるように体ごと恭也を振り向いた。


 「やっぱりイタリアンは、誰かと一緒に食べるに限りますね」


 「そうですね。中華なんかと同様に」


  色んな種類が楽しめるからな、と無意識に口に手をやりつつ恭也も小さく微笑み返す。


 「あの店名のダンデライオンって、西洋たんぽぽのことですよね」


 「イタリア料理屋なのに、店の名前は英語か」


 「あはは。そういうのって多いですよね」


  たわいない会話にも、いちいち心躍らせながら。やがて二人は街中の広場にたどり着いた。


 「ここ……そのちょっと、あてられちゃいますね」


 「ん、ああ」


  煉瓦造りの噴水の周りに座って話でもしようと思っていたのだが、辺りにはカップルが大勢居て。
 あまり慣れていない二人は何となく、居心地の悪さを感じてしまう。


 「昼間はそうでもなかったのに、夜になるとこう、なっちゃうんですね」


 「移動するか」


 「はい」


  恭也の提案にすんなり同意すると、少し時間をかけて臨海公園まで移動する事にした。


 「わあ……」


  ここにもカップルらしき人影は見られたが、広い分まばらに感じられる。フィリスはとてとてと
 沿岸の柵に駆け寄って手をかけると、感嘆のため息を漏らす。


 「静かだなここは」


 「それにここなら、星もよく見えますし」


 「ああ」


  そうですね、と先に同意しておいて恭也が顔を上げると、そこには秋のうすぼやけた四角い星座
 が夜空に輝いていた。


 「ここの所……あんまり空なんか見た事ありませんでした」


 「俺も、そうかな」


  お互い病院からの帰りや、鍛錬の合間にこの星の下に居た事があるはずなのだが、それを見上げ
 る余裕が無かったのだろう。


 「いいですよね。こうやって、一緒に星が見られるって」


 「……ああ」


  それが今、共に特別な人の隣で星空を見ている。その事に恭也はしみじみと、ただため息のよう
 にそう答える。


 「ん、あんな所にも新しい建物が建ってるな」


  が恭也はその短い返事と共に自分の感情が漏れてしまった気がして、なぜだかなんだか気恥ずか
 しくなってしまい、慌てて湾の対岸に見える見慣れない灯りを指差した。


 「ラブホテ……あの、モーテル、だそうですよ」


 「そ、そうか」


  ますます墓穴を掘ってしまった恭也は天を仰ぎ絶句し、少し恥ずかしげにそう言ったフィリスも
 黙ってそっぽを向いてしまい。


 「よく知ってますね。フィリス先生」


 「え? い、いやあのその、病院内でですね、なぜかそういった事は自然と耳に……」


 「ぷっ」


  あたふたと手を阿波踊りのように振り回すフィリスの姿を見て、逆に恭也は落ち着きを取り戻し、
 つい吹き出してしまう。


 「あーからかったんですね! ひどーい」


  そんな恭也の様子にからかわれたと思ったフィリスは、顔を赤らめたままぷーと頬をふくらます。


 「すまんすまん」


 「もう」


 「くっくっく」


  まだふくれながらも、最近よく自分に笑顔を見せてくれるようになった恭也に、フィリスの口元
 にもまた自然と笑みがこぼれた。


 「……実は今日はちょっと、大変な事があって」


  暫く星座の話題などをぽつりぽつりと話していた二人だったが、やがてフィリスがくるっと振り
 返りカツンと手すりにもたれると、スーッと一息ついて。


 「珍しくわたしの元に寄って来たネコが居たんですが、それが、その」


  恭也の顔と湿った地面を交互に見返しながら、まだ少し歯切れ悪く語り始める。


 「見せに来たらしくって、咥えていた獲ったネズミの死骸を目の前に落としたんです」


  聞き役に徹してくれている恭也に、わたし跳び上がって悲鳴をあげちゃいました、とパッと両手
 を上げて見せた。


 「病院のそばにも意外とネズミが沢山いるんですよ。ちょっと恐いっていうのもあるんですけど、
 それ以上に汚染の方が問題で」


 「なるほど」


 「しかも後でイヤイヤ見たら、ながーい尻尾と、その、中身の一部だけが残ってました……」


  お食事前には合わないお話だったんで、と上目遣いで恭也の顔色を窺うフィリス。


 「猫が獲物を見せにくるのは、その人を自分より下の存在に見てると聞いた事があるな」


 「あう。やっぱりそうなんでしょうかー」


  予想通りというか、やはりあまり良い意味の行動ではなかったのかと、恭也の返答にフィリスは
 しゅーんと肩を落とす。


 「まあ、親愛の情かもしれないさ」


 「そうならいいんですけど……わたし、元々嫌われる性質ですし」


  あからさまな慰めの言葉に頷いてみせるが、フィリスは少し寂しそうに俯き首を振っていた。


 「うちでもあったな。その、口に黒いゴ……を咥えた猫が迷い込んできた時が」


  そんなフィリスを気遣ったのか、あごに手をやって思い出したとばかりに口を開く恭也。


 「爆弾抱えたスイカ頭よろしく、追われて家中が大騒ぎで逃げまわっていました」


 「あはは♪」


  珍しく身振り手振りを交えながらの自分の話に、戻った恋人の笑顔を見て、恭也も三日月の様に
 にっこりと口の端を吊り上げていた。






                     〜◆〜






 「あのですね……」


  誕生日の一週間ほど前。抑えられた診療室の灯りの下で、フィリスはそう言って立てた人差し指
 を肩越しに、正面の恭也の方を向いたまま壁のカレンダーの方へと向ける。


 「実はわたしの誕生日は、今の、義父の元へと来た時がそうなってるんです」


 「そうなんですか」


  はい、とやけに明るく。しかしすぐにフッと表情に影を落とすと今度は膝の上に手を組んで。


 「色々と事情があって。昔はわたし、人としての心すら持っていませんでした」


  フィリスはもじもじとその手先を見詰めながら、ぽしょぽしょと少しずつ話し始めた。


 「それでわたしが両親の元へ、まだ家に来て間もない頃に。一人暗闇の中で、本当に明日をも知れ
 なかった時の事です」


  今まであまり詳しく聞いた事は無かったが、何か事情があるのは知っていた為、恭也はただ口を
 つぐんでフィリスの話に耳を傾けていた。


 「見かねた父がわたしに、一冊のカレンダーを差し出してこう言ったんです」


 「うむ」


 「これはお前のカレンダーだ。ほら、当たり前のように1年あるだろう? こんな風にお前にも当
 たり前のように、明日も明後日も、その先もズーッと訪れるんだ……って」


  遠い潤んだ目で思い出し、確かめ直すように、胸に右手をやって語り続けるフィリス。


 「連なった日付を指差して、お前はこの空欄を幸せで埋めていくんだって。そう言ってくれました」


 「そう、か」


  その手をスーッと伸ばし、かざしながら言い終えたフィリスの熱っぽい口調に、恭也も一つウン、
 と大きく頷き合わせて肩を上下させ。


 「実はその時のわたしには、なんの事だかよく分からなくって。不思議そうに首を傾げていたそう
 ですけど」


  だからこの話も、後になってもう一度母から聞いたんですけどね、とそう言って少し明るい調子
 に戻り、フィリスは恭也に小首をかしげて見せた。


 「じゃあその時のフィリスはなんと?」


 「はい。そのカレンダーをめくって、12月までしかないーって言ったそうです」


 「ははは」


  思わず額に手をやって、恭也が笑って仰け反るとギィッと後ろに左手をつき、不満げにスチール
 製のベッドの骨組みが声を上げる。


 「いい話が、台無しですよね」


  ちょっと自嘲気味に引きつった笑みを浮かべながら、フィリスは痒くもない後頭部を掻く。


 「さすがに最近は処分してますけど、その一番初めにもらったカレンダーは、今でも大切に持って
 いるんですよ」


  ほとんど予定は書き込まれていないし、仕舞いっ放しなんですけどね、と薄くスレンダーな胸を
 グッと前に、僅かに張りながら。


 「そんな風に、恭也くんからもカレンダーがもらえたらって。そう思っちゃったんです」


  そうしてフィリスはもう一度ポン、と両手で膝を叩いて恭也の顔を覗き込んだ。


 「わかりました。しかしそれだと……」


 「あ、心配しないで下さい。お義父さんにも、これまで通りちゃんと買ってもらいますから♪」


  役目を奪ってしまうのではないか、と恭也が心配を口にする前に、そう言ってあははと悪戯っぽ
 く笑いかける。


 「いつかカレンダーだらけになるぞ」


 「それでもいいです」


  苦笑する恭也のツッコミに、フィリスは顔色も変えずすぐにキッパリとそう返事すると。


 「そうやって大切な人達にもらったカレンダーに囲まれて、過ごすのって。ちょっと素敵だと思い
 ませんか?」


  笑って少し頬の辺りを熱くしながら、濡れそぼったうす紫の瞳でもう一度、昨晩の闇夜を一遍に
 吸い込んだような黒く深い、恋人の両の眼に問い掛けた。


 「……実は、俺の正確な誕生日もよく分かっていない」


 「え? で、でもカルテには――」


 「一応書類上のものは。だから俺も、父さんの元へ来た日が誕生日ですね」


  元来あまり自分の事を語らない恭也だけに、そんな事角砂糖の欠片ほども知らなかったフィリス
 は、思わずえっと大きく目を見開く。


 「まあ、うちも色々と複雑な部分があるようで」


 「……恭也くん」


  コーヒーをブラックで飲んだようなちょっと変な顔をするフィリスを気遣うように、恭也は努め
 て明るい口調で。


 「予定を入れよう。俺とフィリスの、何か楽しい予定を」


  恭也もぱっと目を開き、穏やかなテノールになって薄く三日月に笑みを作ると、好きになった人
 に向けて誘うように右手を差し出す。


 「この先もずっと、あたり前の毎日があるように。一緒の時が流れるように」


  さしあたって誕生日かな、と頭を上げ、壁のカレンダーとフィリスの顔を交互に見比べる。


 「そうして子供が出来たら、その度毎にまたカレンダーを買って。永遠に続けていきたい」


 「ハイ♪ ……って、ええっ!? こ、子ども、てあの、えーっと」


 「っとスイマセン。その、そういう意味じゃ」


 「…………」


  なかったんですが、と続けようとするが時既に遅し。真っ赤になって俯いてしまったフィリスに、
 恭也も言葉を無くしてポリポリと頭を掻く他なかった。


 「あの――」


 「わたし、も」


 「む?」


  このままでは千年戦争に突入してしまいそうだと、なんとか声をかけようとした恭也だったが、
 足元を見詰めたままフィリスの方が先に口を開いた。


 「わたしもそうできたら、って思います」


  フィリスはそう言って気を紛らわせる為か、視線の先にある自分のスリッパを僅かに浮かせて、
 パタパタッと二度三度、リノリウムの床に打ち鳴らし。


 「家族も増えて。その時にはまた、カレンダーに書き込む事も増えてるでしょうね」


 「フィリス……」


 「きょうや……くん」


  恥ずかしそうに精一杯微笑む恋人に、恭也は思わずその肩に手をかけると中腰で身を乗り出し。
 フィリスも合わせてゆっくりと両まぶたを閉じてゆく……


 「あー……お邪魔だったかい」


 「ぬをっ?!」


 「わっ! り、リスティ?!」


  とその時、何時の間にか開かれたドアの前には、さざなみのビジンダーことリスティが立ってい
 て二人のラブシーンをしげしげと眺めていた。


 「は、入る時は、ノックぐらいしてって前から言ってるでしょ!」


 「したさ。でも聞こえなかったみたいだから」


  相変わらず指にタバコをはさんだまま、恥ずかしさのあまり突っ掛かってくる妹を軽くかわして
 肩をすくめて見せるリスティ。


 「聞こえないぐらい何かに夢中になってたんじゃないのかい?」


 「う、はう、う」


  予想通り、いや予想以上にうろたえるフィリスの反応に、にたーっと意地の悪い笑みを浮かべて。


 「じゃあね恭也。若いからしょうがないけど、避妊だけはした方がいいよ」


 「りりリスティ! な、なんてこと言うのよっ!」


  んじゃねん、と言うだけ言って逃げるように手を振ると、結局何をしに来たのかよくわからない
 まま、リスティはかったんと閉じられたドアの向こうへと消えていった。


 「んもう……あ、恭也くん、あの人の言う事は気にしない……でね?」


 「…………」


 「あ、あの、えっと……ふみゅ」


  フォローも空しく恭也は完全に固まってしまっていて。その様子にフィリスも押し黙ってしまい、
 結局その日はそれ以上何もできないまま二人ぎこちなく別れたのだった。






                     〜◆〜






 「フィリス」


 「はい?」


  臨海公園にて、強く吹きつけ始めた海風が少し辛くなってきた頃。会話も少し途切れてきちゃっ
 たかなと思い始めたフィリスの横顔に、突如自分の名前を呼ぶやや強張った声が吹きつけられた。


 「えーと、あ、あと実はこれも、プレゼントだ」


 「え? これって……っ?!」


  口調そのままに硬い動きでポケットから取り出された物を受け取ると、今度はフィリスの表情が
 一変、一瞬身体ごと硬直する。


 「あの、指輪、ですか?」


 「う、む」


 「わぁ……」


  紺色の所謂指輪ケースを開けると中身はまさに予想通りのそれで。付けてみてもいいですか? 
 とフィリスが尋ねると、恭也はまだ少し緊張した面持ちでこくんと首を縦に振る。


 「……嬉しい、です」


 「それは、よかった」


 「これは恭也くんが?」


 「ああ、いや、うん……すまん。カレンダーだけではあんまりだと、フィアッセに言われて買って
 きたものだ」


  フィリスの左手に輝いたそれは、シルバーリングに小さなブルートパーズの2個付いたスマート
 な指輪だった。


 「あはは♪ そんな、正直に話すことなんてないのに」


  相変わらず馬鹿正直ともとれる恭也の言動に、フィリスはまた楽しそうに笑って。


 「でもわたしは、恭也くんのそんな所が……好き、なんですよ」


 「……ありがとう」


 「お礼を言うのはこっちですよ」


  はめた左手をかざすように前へ突き出して、嬉しそうに眺めるフィリス。


 「しかし手伝ってもらったが、最終的に選んだのは自分のつもりです」


 「はい。嬉しいです、とっても……」


  今度は指輪ごと拳をぎゅっと胸に抱きこんで、気持ちを噛み締めるように目を閉じる。


 「今日は本当に、ありがとうございました」


 「いや、俺の方こそ、その」


  そうして改めて恭也の方を振り向くと、足を揃えてペコリンと頭を下げ。街灯の光を銀色に反射
 する長い髪が、フィリスの顔をすっかり覆い隠した。


 「……俺も、こうやって逢えて嬉しい」


 「恭也、くん。わたしも――」


 「こんな風に、一緒にどこかへ、出かけたり」


 「はい?」


  言葉を選びながら、時にマイペースに語り続ける恭也にフィリスが少しだけ困惑しながらも。


 「色んな物を見たり、話したり。こんな風に楽しい時を、二人の暦を書き込んでいこう」


  途切れ途切れにも、精一杯に自分の正直な気持ちを伝える恭也。


 「これからも、ずっと」


 「あ、はい……♪」


  その暖かい気持ちが、やがてフィリスにもしっかりと伝わってきて。カーッとまた自分の顔と胸
 が熱くなるのを自覚しつつ、差し出された手を握り返した。


 「……こないだは、邪魔されちゃいましたもんね」


  目を潤ませて下を向いたまま、繋いだ手をむにむにと握り直したり、指でさすったりしながら。


 「続き、しちゃいましょうか」


 「ん、う、うむ」


  フィリスは何時ぞやと同じく真っ赤な顔して、恭也を見上げるとペロッと舌を出して微笑む。


 「フィリス……」


 「あ、きょう、や……んん」


  思ったより早く、そして強く抱かれた肩にちょっと驚きつつも、フィリスはやがてゆっくりと瞳
 を閉じると、その夜もはや恋人達を邪魔するものは何もなく。


 「……スキ」


  濃い葡萄酒色の星空の下、二人の唇が重なった。






                     〜◆〜






  恭也との誕生日デートから暫らくの後。


 「ココ コココ ココ ココ コココ 恋は恋は 恋〜♪」


  フィリスは鼻歌とするには少し大きめの、あまりに楽しげな歌を口ずさみながら、診療室で一人
 カルテなどを整理していた。


 「ご機嫌だねフィリス」


 「きゃっ! リスティ〜、だからノックしてって……」


  したってばさ、とヒッチハイカーのようにドアの部分にもたれて、突如として現れたリスティは
 チシャネコのような三日月型の笑みをにたりと浮かべ。


 「向こうから帰って久しぶりに顔を見せたら、これまたずいぶんと楽しそうなご様子じゃないか」


 「そ、そう?」


  曖昧に小首を傾げながらもすぐにポポッと、リスティの言葉に反応したフィリスは赤くした顔を
 隠すように、両手の平ではさんでその熱を自らで確認する。


 「ま、聞くまでもないけど。どうせあの彼がらみだろう?」


 「え、ええとあの、別にそんな」


  否定はするが、ゆでだこみたいになって手足をパタパタと踊らせ、慌てふためくフィリスの態度
 が全てを物語っていた。


 「そうかい? あー……なるほどね」


 「リスティ?」


  そうしてデスク正面の猫のカレンダーを見た、急にリスティが納得した様にあごをさすって頷く
 のを、不思議そうに眺めるフィリス。


 「え、なんで? 別になんにも」


 「ま、彼氏によろしくな」


 「ちょ、リスティ、なにが――」


  分かったの、とすでに出て行こうとするリスティの背中に問いかける。この部屋のカレンダーに
 は普段通り患者の予定などしか書き込んでおらず、私的な恭也との事は見当たらないはずだった。


 「お・し・り」


 「はい?」


  フィリスは思わず見詰めていた自分の左手から顔を上げる。あの時もらった指輪も残念ながら、
 診療中ははめていない。


 「どんなにじょうずにかくれても、かわいいおしりが見えてるよ〜」


 「え? え? え?」


 「bye♪」


  言われてお尻をさすったり、振り返って見たりするが何も確認できず、おろおろと全身を見回す
 フィリスを残してリスティは本当に出て行ってしまった。


 「先月の事だろうに、まーだご機嫌が持続してるなんて……」


  廊下に出て改めて煙草に火をつけると、ひとりごちるリスティ。


 「よっぽど、嬉しかったんだろうねぇ」


  呆れた様に、でもちょっとだけ自分も嬉しそうに。


  カレンダーの猫の顔の部分には、逆さになったハートマークがまるでお尻のように。裏から強く
 描かれ過ぎてくっきりと透けてしまっていたのだった。






                                        了









  後書き:「親から子へ。子からまたその子へ血は流れ、永遠に続いていく。
      それが本当の永遠の命だと、俺は信じる」
      ハーロックのこのセリフはやっぱりカッコイイですね〜。
      結局フィリス、恭也の誕生日は分からなかったので、曖昧なまま書いてしまいました。
      ご了承下さい。





  03/09/05――初投稿。
  04/10/30――加筆修正。

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takemakuran@hotmail.com
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