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  〜ごろごろ〜
  (Main:十六夜 Genre:ほのぼの Written by:竹枕)






 「フゥ」


  初夏の真っ直ぐな日差しがリビング内にも降り注ぐ昼下がり。どっかりとソファに座り込んだ耕
 介は、肺の空気を全て押し出すかのような盛大な溜め息をつく。


  午前中から今まで掛かってしまったトイレと風呂掃除を終えて、ようやく一息ついた所だ。


  網戸から流れ込んでくる風は爽やかで、しかし照りつける陽光の下へと一歩足を踏み入れれば、
 汗を流すことに事欠かないだろう。この先更に暑くなっていけばシャワーを浴びる事が多くなり、
 風呂釜に湯を張る回数が減る。使わないと余計に汚れていくもので、そうなる前に耕介は釜床壁全
 てを一度徹底的に掃除をしておきたかったのだ。


 「……あ。居るんだ」


  しかしこのままつくねんとしているのもなんだと思っていると、耕介は視線の先、ふとあるもの
 を発見した。


  窓の端のカーテン横に立てかけられた見慣れた蒼い鞘姿。霊剣十六夜自身である。


  十六夜と付き合いだしてから早幾日、最近ではこうして薫が気を使ってくれる事も多い。ありが
 たい事だが何故だか少々情けない気もして、耕介は無意識にボリボリ頭を掻いた。


 「十六夜さーん、居ますかーっと」


  さりとて嬉しくないはずも無い。刀身から気配を感じなかった為耕介は外かな、とやや浮ついた
 声と共にガラガラと網戸を開け辺りを見回していた。


 「いざよいさーん……近くには居ないのかな?」


 「いえ、ここに居ります」


 「わっ! な、なんだ、そこに居たんですか」


  声に驚いて振り向くとすぐ近く、窓の外の左手の死角になった所に十六夜は居た。


  あい、とやや申し訳無さそうに俯く十六夜に耕介は先程以上に慌てて、誤魔化すようにこう問い
 掛けた。


 「十六夜さんは庭で何してたんです? 水遣りですか?」


 「いえ、カタバミの実を取っておりました」


 「カタバミ?」


  そう言って十六夜は手に持っていた30cm程の草の束を差し出した。その先端にはサヤ状の、
 オクラのような実が付いている。


 「このサヤの中の実を、鳥が好んで食べるものですから」


 「へえ」


 「よければウィンディさまに、と」


 「それはいいですね。後で俺がやっておきますよ」


 「では、よろしくお願い致します」


  稲藁のように束ねられた、かなりの数を摘んだと思われるそれを受け取ると耕介は一旦玄関まで
 置きに走る。


 「お帰りなさいませ」


 「はいただいま」


  戻ってきた時には十六夜も室内に入っており部屋の隅でちょこんと、おりこうさんで耕介の事を
 待っていた。


 「耕介さまは、今何を?」


 「え? あ、ただいま休憩中です。ハハ」


  トイレと風呂掃除で大変だったと笑う耕介。言い訳のように一度昼食を挟んだんですが、と付け
 加えると、十六夜も釣られてニッコリと微笑む。


 「まあまあ、それはそれは」


 「それで、十六夜さんもよければ一緒に座りませんか」


 「……はい」


  さりげなく手を掴んで引きながら耕介がそう言うと、十六夜はぱあっと頬を染めて小さく頷いた。


  耕介は最近、求めると十六夜が喜んでくれている気がしていた。無論体をとか極端な話ではなく、
 自分にも出来る事があると嬉しいのだろうと。


  ええ人や。耕介は一人で勝手に感動し心の中で涙を流す。


 「それでは、わたくしはお茶を淹れて参りますね」


 「じゃあお願いします」


 「お茶請けは何に致しましょう」


 「あ、前に薫が買って来てくれた最中が残ってるはずですから。手亡餡の。自分で持ってきます」


 「はい」


  十六夜の体質上、一緒にお茶が飲めないのは淋しくないと言えば嘘になる。しかし今はこうして
 彼女が自分の為にお茶を淹れてくれる。それだけで耕介には十分だった。


  その為に二人は急須やお茶の場所など、手の届く、決められた位置に置くようにしていた。


 「お疲れ様でございました」


 「ありがとう。でもまだ全てが終わった訳じゃないですから。ま、今晩のおかずは決まってるんで、
 買い物には行かなくていいんですが」


 「そうでしたか。今晩は何になさるのですか?」


 「餃子。ニラが3束で32円だったから」


 「まあ」


  だから今はこんな食事の話も平気だ。


 「一緒にミツバも3束で30円だったもんで、つい沢山買い込んできちゃってるんですけど。正直
 こっちは何に使ったらいいか悩み中で……」


 「御御御付け……などに使うのが一般的なのでしょうが」


 「ただ大量にあるもんですから。早めに食べないと足も早いですしね」


 「ふふ、それは困りましたね」


 「まあうちは口が多いんで、それでもすぐに消化できるとは思いますが」


  並んでソファに座った二人の手はずっと繋がれたまま。


  黒い瞳と、光を映し込まない蒼い瞳とが見合うたびクスクスと笑い合う。たったそれだけの事が
 無性に楽しい。


 「ところで十六夜さんは、今朝からそこに居たんですか?」


 「はい。薫に外に出たい、と言いましたら、昼間から余りふらふらするものではないと。怒られて
 しまいましたが、そこへ立てかけて置いてくれました」


  庭に出るぐらいなら、刀本体が部屋にあったとしても問題は無い。そこはやはり少しでもそばに
 居させてやろうという薫の気遣いなんであろう。


 「そっかあ、全然気がつかなかったなぁ」


 「フフフ、耕介さまは朝食後に、床に箒をかけておられましたね」


 「そんなことも分かるんですか?」


 「ええ、まあ」


  耕介は正直驚いた。掃除機のように音がするものならともかく、気配を感じない位置に居ながら
 そんな静かな、さらにほんの数分の動作まで分かるものなのかと。


 「……いつも耕介さまの事を、見ておりますから」


 「え? あは、はっ」


  続く発言にまたも耕介は驚き、そして赤面した。十六夜がこんな風にストレートに感情を伝えて
 くるとは思ってもみなかったので、完全に不意を突かれた格好だ。


 「ははは、まぁ厳密には箒じゃないんですけどね」


  震える声を覆い隠そうと、やや急いて耕介は続ける。朝食の後片付けの仕上げとして、床を所謂
 クイックルワイパーで拭いていたのだと。


  寮の朝食には小さな焼き魚をつける事が多い。そうすると美緒のようなお子様でなくても、意外
 と魚の皮等を床に落としているものなのだ。人数が多い分その量はかなりのものになる。


 「では、わたくしの勘違いでしたか」


 「へっへ、そう全てを見通されはしませんよ」


 「申し訳ございません……」


 「い、いやいや、そうではなくて、ね?」


  きゅーんと肩と眉をハの字に下げる十六夜の姿に、またも耕介は慌てふためき頭を抱えた。


  この人は俺の言葉を真面目に受け取ってくれる。だからこそ俺の方が気を付けなければならない
 のに。


 「何て言うか、もっといっぱい、俺の事を知ってもらいたいなって」


 「はい」


 「それでもっともっといっぱいいっぱい、十六夜さんの事も知りたいなーって」


 「……はい」


  ぎゅっと握る耕介の手にも力がこもる。汗が滲む。勢いで出た言葉だったが、その気持ちは本当
 だった。


 「嬉しい、です」


 「う、ん」


  きゅっ、と十六夜の方からも握り返される。焦点の無い目が耕介の顔を見上げていた。


  掌の間に溜まった熱がすうっと吸い取られていくようで、そこから一緒に心も伝わっていくよう
 に思えた。






                     〜◆〜






 「先代の亜弓さまに、幼少の頃相変わらず芸も無く花輪を作って差し上げた事があったのですが、
 亜弓さまは殊の外喜んでくださいまして」


 「うん」


 「その亜弓さまも歳を重ねられ、一度心臓の病でお倒れになった事があるのです。その時に、一族
 の方々以外にわたくしの事もお呼びになられて」


  暫くの後、珍しく十六夜の方から己の身の上についての話をしていた。


 「ずいぶんと立派な箱、だったそうなのですが、経箱を差し出されたのです。開けてみますと中に
 はカサカサと、紙くずのような物が入っているばかりでした」


 「それってまさか……」


 「はい、以前にわたくしが差し上げました花輪だったのです」


  一つ一つ、確かめるように言葉を噛み締め綴っていく十六夜。耕介も真剣に耳を傾け、時折頷い
 ている。


  宙を見上げる十六夜の瞳の奥には、見た事も無い筈の当時の情景が浮かんでいるようだった。


 「お前にはたくさんの物を貰ったが、その中でこれを返しておく、自分が死んだら改めて墓に手向
 けてくれと。涙が止まりませんでした……」


 「十六夜さん……」


  涙は出ていなかったが、耕介はそっとその頬を掌で拭ってやる。初め十六夜はその感触に驚いた
 様子で、やがてニッコリと泣き笑いの表情を作った。


 「すみません、ありがとうございます」


 「えーと、亜弓さんってもう亡くなってるよね?」


 「はい」


 「じゃあ十六夜さんは約束通りその花輪を贈り直したんだ」


 「いえ、その後亜弓さまは自分で思われた以上に長く生きられたのですが、亡くなった時、とある
 事情により一緒にその花輪は燃えてしまったのです」


 「そっ、か」


 「手ずから手向けられなかった事は残念でしたが、共に天に昇って行ったのだと、今は思っており
 ますから」


 「うん。俺もそう思うよ」


 「はい。ありがとうございます」


  律儀に感謝の言葉を述べるその度、十六夜はゆっくりと頭を下げる。


  耕介はその輝く綺麗な丸い頭を撫でたい衝動に駆られ、そして10秒も我慢出来ずに実行した。


 「耕介さま、申し訳ありません、突然このような突拍子の無い話をしてしまいまして」


 「いやいや、そんな」


 「先程カタバミを探している時に、ふいに思い出したものですから」


  十六夜さんの事を知りたいと言ったのは自分だから。そう言って耕介はサラサラと黄金色の川を
 撫で続ける。


 「こんな風に昔を思い出すのは、やはりわたくしがそれだけ年月を重ねているからなのでしょう。
 最近では薫にも、老楽の恋だ、などと言われて」


 「お、老いらくってのはいくらなんでも……」


 「ふふふ。そう薫に、笑われてしまいました」


 「い、十六夜さ〜ん」


  ふいと背を向け、袖で釣りあがった口の端を隠すのを見て耕介はからかわれたのだと分かった。
 しかし情けない声を上げる一方、耕介の頬も自然とにやにやと緩んでいく。


  冗談を言い合えるのは信頼の証であるし、何よりその優しい笑顔が嬉しく眩しい。


 「むむ……えいっ」


 「あっ?」


  未だくっくと揺れている白い背中を眺めていたが、耕介はいきなり十六夜にガバッと抱きつくと、
 そのままボスッと自分もろともソファに引き倒した。


 「あ、あの、あの、耕介さま?」


 「お茶も飲んだし、暫くこうしてごろごろしませんか。二人で」


 「で、でも」


 「ね?」


 「……はい」


  押し倒しておいて今更確認も無いものだが、そう言って耕介が腕に力を込めるとスーッと徐々に
 十六夜の体からも力が抜けていく。


  下敷きになった左腕は、重くは無かった。


  耕介が後から抱きしめる格好のまま、二人並んで横になり足を折り曲げた形でぴったりと体同士
 を合わせる。曲げた足に当たるなだらかなヒップラインと、ツルツルとした着物の感触が心地よい。


 「あ、ん」


  そうして耕介の顔は十六夜の首筋に埋められていた。


  柔らかな肌。すんすんと鼻を鳴らすと不思議な事に十六夜自身の匂いもする。グッと胸が詰まる
 ような女の子の香りが。


 「なにやら、こそばゆいです」


 「十六夜さんのにおいがするよ」


 「そ、そうですか? 自分ではよく、分かりません」


  今日は香水もつけていないのに。そう言っておたおたする十六夜の体に耕介は更に密着していく。


 「あ」


  その時耕介が着物の合わせから、そっと右手の先を差し入れた。


  通常着物姿はさらしを巻くなどして出来るだけ体を筒状にするのだが、十六夜にはそれが無い。
 よって胸は着物の上からでも物凄く柔らかく、また耕介の左手の下にある帯もそうで。着物という
 より浴衣に近い触り心地であった。


 「耕介さま」


  十六夜はそんな耕介の手の上に着物の上からそっと、自分の手を重ねた。


  おいたはいけませんよ、と言うように優しく。


  差し入れられた手はほんの少しで、直接肌に触れている訳ではないのだけれど。しかしそれは、
 それ以上差し入れられないのと同時に、引き抜かれないようにとも受け取れた。


 「十六夜さんの体……あったかい」


 「はい、わたくしも、背中がとても温かいです……」


  豊かな胸がぽよぽよと反発し、柔らかい。温かい。だが手全体はじんわりと暖かいが、耕介には
 十六夜の脈、ドクドクと鼓動を打つ様を感じることは出来なかった。


 「んっ」


 「を?」


  それを察してか否か、十六夜はおもむろに腕から逃れるとコロンと体を反転させ、ぽすんと耕介
 の胸に顔を埋めた。


 「耕介さまの、胸の、心の臓の音がしますね」


 「うん」


 「とく、とくと……」


  すり寄せた耳元に寄せては返す波のような、リズムカルな耕介の胸の鼓動が伝わってくる。また
 くんかくんかと鼻を利かせると、その匂いも。


  好きな人の音を聞くと、匂いをかぐと、どうしてドキドキするのに安心するのだろう。


 「い、いざよいさん?」


  と、耕介はギョッとした。にこにこ終始笑顔のまま、十六夜の頭がずりずりと下がり始めたのだ。


  下半身へ向けて下がっていく事に何やらよからぬ想像をしてしまった耕介だったが、彼女の頭は
 その途中、お腹の所でピタリと止まった。


  そこで十六夜は今度は耕介の腹部に顔を埋め、耳を押し当てる。


 「こちらも、音がしておりますね」


 「そ、そう?」


 「はい。ごろごろや、くるくると」


  ゴロゴロ、クルクル、キュキュッ、ク〜。


  一定のリズムを刻んでいた心臓とは違い、様々な音達がお腹のあちらこちらから声を上げていた。


 「別にお腹が減ってるとかじゃないんだけどね」


 「はい、存じております。こちらも心臓と同じで、常に動いているものなのだと」


  だからといって耕介はお腹が減っている訳でも壊している訳でもない。普段聞こえないだけで、
 お腹の中も常に動いている為鳴っているものなのだ。


  十六夜はきゅっとシャツの端を掴んで、お腹にすがりつくようにして暫しそれらの合唱に熱心に
 耳を傾けていた。


 「……十六夜さん、楽しいの?」


 「はい。とても」


  頷いた十六夜の頬は何故か上気しており、恍惚とした表情で時折熱い吐息を漏らしながら本当に
 嬉しそうにいつまでもすりすり頭を擦り付けている。


 「はぁ……」


 「……俺も聞く」


 「あっ」


  その幸せそうな様子を見て、何だか堪らない気持ちになってきた耕介は、グイッと力ずくで体を
 引き上げると十六夜の腹に自分の耳を当てたのだった。


 「こ、耕介さま? 耕介さま?」


 「十六夜さんもなんだか音がするよ。クルクル、コロコロ〜って」


 「え? え? そんなはずは……」


  十六夜は焦って身をよじるが、耕介の手ががっしりと掴んで逃さない。


 「耕介さま、お許しください、その」


 「なに?」


 「……その、なんだかとても、恥ずかしいのです」


  普段されなれていない行為には慣れない、不思議な気恥ずかしさがある。


  思わず耕介の頭に掛けた手に軽く口付けられ、それだけで唇を重ねるよりも戸惑い、もぞもぞと
 した落ち着かない感情が十六夜の背筋をゆるく伝う。


 「俺はとっても嬉しいよ。凄く、十六夜さんを感じる」


 「こうすけ、さま……」


 「いざよいさ……はら? うはぁあっ?!」


 「きゃっ?!」


  ドスン!


  そんな甘い空気を打ち破るようにして突如鈍い音がリビング内に響く。狭いソファの上で暴れて
 いたから、二人固まったままバランスを崩しずり落ちたのだ。


 「いちちちちち……」


 「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」


  痛む腰を摩りながら狡い、と耕介は思った。


  十六夜が思わずなのかこんな時だけ体を透明化しすり抜け、一人難を逃れていたのだ。


 「…………」


 「あの、耕介さま……?」


 「えいっ」


 「あっ」


  呼びかけても返事の無いことに不安になり、十六夜は恐る恐る、手探りで耕介の体を探し始める。
 その手が何かに触れた、と思った途端、引き寄せられ自分も倒れこんでしまった。


 「あ、あの、どうしたら……ンッ! んん……」


  十六夜を引き込んだのは当然床に転がる耕介だった。


  咄嗟の事に焦った十六夜が体を起こそうとするが、その前に頭を抱きしめられ唇を奪われた。


 「十六夜……」


 「あ……耕介、さま」


  ようやく離れた二人の唇が、耕介の、そして十六夜の唾液によりてらてらと濡れ光っている。


  耳元で名を囁くと急速に十六夜の体から力が失われいく。下に居る耕介はなんだかふわりと覆い
 被さる、羽毛布団を抱いているような気分だった。


 「好きだよ、十六夜」


 「はい……わたくしも。ずっと御傍に……」


  何度も互いの愛しい名を呼び合い、何度も唇というより顔と顔とを重ねあった後、ころんと体を
 倒し二人は再び横並びに。密着しすぎた体を離す為だ。


  耕介はずりずりと背中でテーブルの足を押しやり、スペースを作る。


 「ん……はぁ」


  ふに、と目の前のおっぱいに手を掛けた。表面を、指先がなぞるように這いまわるたび十六夜の
 体が細かく身悶える。そうして耕介が合わせから覗く胸元に口付けようとしたその時――


 「ただいまーっ!」


 「はっ!」


 「?! み、美緒か?」


  玄関から場違いなほど明るい声が、寄り重なる二人の上に降り注いだ。美緒が帰ってきたのだ。
 焦ってなかなか立ち上がれない二人を余所に、どたどたと無粋な足音はどんどんと近づいてくる。


 「耕介、おやつー」


 「あ、ああ、冷蔵庫の中にオレンジゼリーが作ってあるから、それ食べるといい」


 「はーい」


 「1個か2個までにしとけよー」


  リビングの真ん中に二人並んで立ち尽くすその姿は、ともすれば不自然であったが、美緒は気に
 した様子も無く再びキッチンの方へと姿を消した。


  ふと耕介が隣を見る。十六夜は胸元を押えるよう手をやり、そっぽを向いていた。


  続けて時計に目をやると何時の間にか美緒が帰ってきてもおかしくない時間になっていた。美緒
 は日によって窓から入ってくる事もあり、耕介は改めて危険な事をしていたのだと身震いする。


 「……あのー、十六夜さん?」


 「…………」


 「いざよいさーん?」


  やはり怒らせてしまったのだろうか。返事がない事をそう受け取った耕介は今更ながら無節操な
 自分を恥じていた。


 「ハァ……ん?」


  耕介が諦めて美緒を追いキッチンへと向おうとした時、その袖を引っ張る者が居た。他でもない
 十六夜その人である。


  十六夜は体を耕介から背けたまま、耳元でそっと、こう囁いた。


 「……月に叢雲、花に風、ですね」


 「え?」


 「好い状態は長続きしない、ということです」


 「っ?!」


  驚いて耕介が振り返ると、十六夜も再び顔を明後日へと逸らす。そうしてそのまま逃げるように
 して、音も無く廊下の方へと立ち去ってしまったのだった。


  しかし立ち去り際耕介ははっきりと見た。十六夜の、自分と同じように真っ赤に微笑んだ顔を。


 「こーすけー、ジュースも飲んでいいー?」


 「え、あ、あー今行くから待ってろー」


  美緒の声にハッと我に返る。慌てて今度こそキッチンに向った。


  自分と触れ合う事を十六夜さんも喜んでくれていた。そう思うと耕介の胸が早鐘のように高鳴る。


  今夜また彼女と逢おう。絶対に。


 「耕介、今日雷鳴ってた」


 「え、マヂで? こんなに晴れてるのに?」


 「うん。遠くの方でごろごろーって」


  美緒のグラスにジュースをついでやりながら、雲や風程度ならへっちゃらだがどうか今夜は雨が
 降りませんように。そう心の中で手を合わせる耕介だった。






                                       了









  後書き:本当に返してもらったのは、アメジストの指輪でしたけどね。
      祖母と実家の愛犬追悼SSでした(笑





  05/10/01――UP。

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