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 「おばけなんてないさ〜おばけなんてうそさ〜♪」


  いつも通りの朝。夏の早い陽射しはすでに高い位置から照りつけており、それを手で遮りながら
 耕介は鼻歌まじりに朝刊を取りに表へ出た。


 「ねぼけた人が〜みまちがえたのさ……あ。い十六夜さんっ?! あの、その、スイマセン」


 「いえ……」


  そんな時耕介と、たまたま庭に出ていた十六夜の光を映しこまない目と目が合った。口ずさんで
 いた鼻歌の内容から、二人の間になんとなく気まずい雰囲気が流れる。


 「……あ、あの、そろそろ朝食なんで。薫に食堂までくるように言ってくれますか」


 「はい」


  耕介は慌てて取り繕うが十六夜は澄ましたまま。ふわふわと裏の方へ移動して行ってしまった。


 「やれやれ、ちょっとまずったなぁ」


  自分の無神経さを呪ってコツンと後頭部を一叩き。耕介は新聞を片手にぷらぷら振り回しながら、
 寮の中へと戻っていった。


 「さてと、今日の世界情勢はと……巨人が勝ったか」


  バサリと開くとたちまちインクの匂いが辺りに立ち込める。そういえば最近テレビ見てないなぁ
 と耕介はスポーツ欄を眺めながら思った。


  リビングのTVは年少組が支配している状態がほとんどで、またダイニングでは真雪がよく野球
 を見ていた為、耕介は野球の音声だけを聞いている事が多かった。


 「耕介くん、今年の虎は一味ちがうでぇ!」


 「……ゆうひ、それ去年も聞いたぞ」


  と、どこからか体は大人、頭脳は年少組なゆうひが現れたかと思うと、そう言ってビシッと耕介
 を指差した。


 「それにお前、そんなにタイガースファンってわけでもないだろうに」


 「府民はみんな、生まれついてのトラFANなんよ♪」


  朝っぱらから高いテンションに中てられてやれやれと額を押える耕介。


 「だいたい阪神の優勝は、3回見ると人生が終ると聞くが」


 「う。そ、そう言われると、なんや呪いのなんとか〜みたいやね」


  ははは、と乾いた笑いが二人の間を行き来し、耕介とゆうひはまた何事もなかったかのように、
 それぞれ朝の仕事や支度に戻ろうとしたその時。


 「キャーッ!」


 「な、なんだなんだっ?!」


 「なななななにごとっ?!」


  絹を引き裂く処女の悲鳴が寮中に響き渡った。


 「お兄ちゃん! みおちゃんが、美緒ちゃんが……」


 「?! み、美緒がどうしたって?!」


  声に続いて転がるようにもの凄い勢いでキッチンに突入してきたのは知佳であった。


  すっかり取り乱した様子の知佳の言葉を聞いて、耕介の心臓が凍りつく。


  現在の、そして未来の恋人に何か不幸があったのだろうか。そう思うとたまらず耕介は逆に知佳
 を問い詰めていた。


 「おひげ……」


 「ヒゲ?」


  両肩を掴む強い力と、耕介の剣幕に飲まれ知佳はただ小さくそれだけ呟いた。


 「ヒゲって一体――」


 「おはよー、なのだ」


 「?! み、み、美緒ーっ?!」


 「み美緒ちゃん?!」


 「ほえ?」


  耕介だけでなく、ゆうひの頭上にもクエスチョンマークが浮かび上がる。しかしその謎の言葉に
 対する疑問は、美緒本人が現れたことで一遍に氷解した。


 「なんなのだ?」


  美緒の口元には本物の猫のような、横に伸びる長く固い髭が左右に向って生えていたのだった。








  〜ヒゲよさらば〜
  (Main:美緒 Genre:ほのぼの Written by:竹枕)








 「これって一体……」


  知佳が改めて美緒の髭を見て唖然とする。


 「ヒゲ、だよなぁ」


  呆然と耕介が右に髭を引っ張る。


 「おひげ、やねぇ」


  必然とゆうひが左に髭を引っ張る。


 「むー」


  交互に髭を引っ張られて不機嫌そうな美緒。


  四者四様の体を見せる耕介達の周りには、すでに騒ぎを聞き駆けつけた他のさざなみ寮生の姿も
 あった。


 「今更コレの体に何が起ころうと、驚く事でも無いのかもしれませんが……」


 「でも、なんだっておヒゲなんでしょうかねー」


  訝しげに眺める薫。心配げに見守る愛。


  例の美緒巨大化事件の事もあり驚きは少なかったが、それでも動揺は隠せないでいる。


 「さすがにこのままだと目立っちゃいますよねえ」


 「夏休み中でよかったな」


  みなみと真雪の言葉に皆ウンウンと頷き合う。


 「まぁとりあえずこのまま外に出さずに、様子を見るしかない、か」


 「えーそんなの困るのだぁ」


  そうして耕介の出した日和見な結論に、一人美緒だけが不満の声を上げる事となったのだった。


 「今日は昼までは望と遊ぶ約束が入ってるんだから」


 「しかしなぁ……事態が事態だし、キャンセルできんのか?」


 「いやーだ!」


  どういった事態かすら分からんのに、と耕介が頭を撫でながらなだめるが、美緒は首を横に振る
 ばかり。


  その頑なな態度に今度は自分の頭を掻く事となる耕介。皆の視線が注がれる中、ぽそっと小さく
 美緒が口を開いた


 「……のぞみ、お昼から塾だから。だから昼までじゃないとダメなのだ」


 「気持ちは分からんでもないが……」


  友達が熟や部活などで遊んでくれなくなる淋しさは誰もが知っているもので、美緒の言葉にそれ
 以上強く言えなくなってしまう。


 「はー、どーしたもんか」


 「切ってまえばええんと違う?」


  皆一様に頭を抱える中、ゆうひがそんな身も蓋も無い提案をする。


 「しかしなあ、迂闊に切るのもどうかと。一体どんな影響が出るかも分らんし」


  耕介がなぁと隣に振ると、慎重派の薫がハイと頷いて返す。すると何故か連鎖的に隣隣へと発言
 が続いていった。


 「真っ直ぐ歩けへんようになるとか……」


 「穴の大きさが自分が通れるかどうか判断出来なくなるとか?」


 「樹液の在り処がわからなくなるとか」


 「昆虫っ?!」


  もう何がなんだか分からない。


  皆が無責任に騒ぎ立てる中、当の美緒本人は脇で欠伸をしていた。


 「……しょうがない、切ってみるか」


 「い、いいんでしょうか?」


 「さー」


  結局不安は残るが、かと言ってこれ以上マシな提案が出る気配もなく。いっそ切ってしまえとい
 う空気がダイニングを満たし始める。


 「さあ、ひとおもいにすぱっと」


  何より美緒自身がそれを望んだ為、件の髭を朝食後にでもすっぱりと落としてしまおうという事
 になった。


 「ホントにいいの?」


 「ブシの情けなのだ」


  今、リビングの床に座して待つ美緒の隣には、髪切りバサミを持った知佳が立ち尽くしている。


 「カイシャクはよろしく」


 「じゃあ……えいっ」


  仕事、学校、部活と用事のある者達を除いた耕介、知佳、ゆうひの三人が見詰める中、しゃきん
 とハサミのあぎとが閉じられた。


 「…………」


 「どう? 美緒ちゃん」


  ハサミが二度鳴いて、はらりと左右の髭が敷かれた新聞紙の上に落ちた。ゆっくりと瞼を上げる
 美緒。


 「んー……なんとも、ない」


  そう言ってすぐにしゅたっと立ち上がり、二、三度肩や腰を振り回し調子を確かめると。


 「じゃ、遊びに行ってくるのだ!」


 「あ、おい美緒!」


  耕介が止める間も無く、美緒はそのまま寮を飛び出して行ってしまったのだった。


 「なんか、心配するほどの事でもなかったのかも」


 「だといいんだけどな」


  元気すぎるのも困りものだが。


  耕介は知佳と顔を見合わせ、腰に手をやりやれやれと安堵と諦めの溜め息をつく。


 「あいかわらず、さっぱりした子やねぇ」


 「サッパリと言うか、何も考えてないというか」


 「きっと将来ええ女になるでぇ」


 「は? どうしてだ」


 「ふっふ〜ん、気になる?」


  そう言われてただ憮然とした表情を見せる耕介に、うりうりと肘で突いていたゆうひはつい噴出
 しそうになる。


  未来の恋人。しかし今はまだ親娘に近い二人の複雑な関係に、耕介も苦労しているようだと。


 「元々美人になる事は確定なんやし、素のええ娘が無頓着なのを見ると、なんとなく羨ましく見え
へん?」


 「んー?」


 「うちの友達にも一人居ってな、本人めっちゃ美人やのに平気で鼻から牛乳噴いてたりしたんよ。
 それがちょう羨ましかったりしてなあ」


 「そんなもんか」


  それはゆうひ自身の事なんじゃ、と思ったが耕介はそれを口にする事はなく。ただもう一度顔を
 上げ美緒の出て行った入り口の方を見詰めるのだった。






                     〜◆〜






 「ほんとにおばけが〜でてきたらどうしよう〜れいぞうこにいれて〜かちかちにしちゃおう〜♪」


  昼下がり。カッと乾いた日差しが照りつける寮の玄関先に、調子っ外れの鼻歌が響き渡っていた。


 「……あ、十六夜さん。その……たびたびスイマセン」


 「いえ……」


  と、耕介はまたまたたまたま庭先を通り掛った十六夜と出くわしてしまった。


 「はあ、つくづく学習能力のない……」


  頭を下げつつ己の不甲斐無さに再び深い溜め息をつく。一気に重くなった気がする荷物と足取り。
 それらを吹き飛ばすかのように耕介は勢いよく玄関の戸を開け、誰へとも無く帰宅を告げた。


 「たーだいまーっと」


 「あ、お帰りお兄ちゃん」


 「お帰りなのだー」


 「おうただいま美緒。なんだ知佳、今日は家に居っぱなしか?」


  応えたのは既に帰宅していた美緒と、それに知佳だった。


  耕介の問いに知佳はたまたまね、と何となくばつの悪そうな笑みを返す。


 「買い物ついでにブドウ園までブドウを買いに行ってきた」


 「わー♪ あそこのブドウ美味しいんだよねー」


 「こーすけ、おみやげおみやげー」


  足元にまとわりつく美緒をものともせずぶら下げたまま、キッチンの方へと向かっていた耕介は
 ふと何かを思い出し、ガサゴソと抱えていた段ボールの中を漁ると。


 「ほれ、お土産」


 「え? なになに」


  茶色い紙袋を一つ、差し出した。


 「ってきゃーっ! か、かさかさ、カサってなんか中でカサって!」


 「カブトムシなのだ!」


  騒ぐ知佳を尻目に美緒はすぐその場で中身を確かめる。紙袋の中に入っていたのは一匹のオスの
 カブトムシだった。


 「木につくらしい。子供が居るって言ったらくれたよ」


 「あうう、カブトでも虫は苦手……」


 「触角仲間のくせに」


  わきわきと美緒の手の中で暴れるカブトムシから、知佳はすでに身を引いている。


 「仲間じゃ、ないもん」


 「そうか、知佳はもっとこう触角の長い、黒くて平べったーい虫と友達なんだな」


 「っきゃーっ!」


  耕介の言葉からその御姿を想像するだけで、あううと知佳はその場にうずくまっってしまった。


 「こいつで遊んでくるー」


 「おおー……っておいちょっと待てコラァ!」


 「あん?」


 「あんじゃなくて、それ! ひげ髭ヒゲっ!」


  そんな二人を余所に美緒は早々にカブトムシを手に再度遊びに出かけようとする。笑顔で見送る
 耕介。だがすぐに違和感に気付き美緒を引き止めた。


  美緒の鼻の下に再び、ピンと張った猫髭が生え揃ってしまっていたのだ。


 「なんかまた、生えてきちゃったらしいよー」


  首根っこ掴まれ不機嫌そうな美緒の代わりに知佳がそう答える。


 「そ、それで、いつ生えたんだっ?! 大丈夫だったのか?!」


 「わかんないのだ」


 「わかんないってお前……」


 「いつの間にか元にもどってたから」


  誰かに見られたかどうかもわかんない、と平然と美緒は言う。


 「望はなんも言ってなかった」


 「じゃあ特に誰かに見られたという事はなかった……のか?」


  一方耕介は気が気ではない。要領を得ない美緒の説明にうーんと眉をしかめるばかり。


 「いっちきまーっす」


 「あ、おいちょっと!」


  美緒は隙を突いてバッと耕介の手から逃れたかと思うと、そのまま鉄砲玉の如く窓から外へ出て
 行ってしまったのだった。


 「ったく……今日はいつにもまして活発だな」


 「耳やしっぽより目立たないかなって、もうみんな諦めてるよ」


 「そうかあ? まあ本人が元気ならいいか」


  ヒゲの影響か? と耕介もこの時はまだ冗談めかして語る事が出来た。


 「さ、て、と。夕食の準備でもするかね」


 「手伝うよお兄ちゃん」


 「サンキュ」


  二人は知らない。この先更なる驚異が待ち受けている事を。






                     〜◆〜






  その夜。


 「いかそーめんLOVEなのだー♪」


  あいかわらずヒゲを付けたままの美緒と、そしてその事にも慣れ始めてきてしまった寮生達は、
 皆で夕食を取っていた。


 「旬のもんだからな。やっぱこの時期イカはいいよなー」


  今夜のおかずの烏賊ソーメン。これには美緒も、酒の肴になるからと真雪も上機嫌。


 「お兄ちゃん、これって何イカなの?」


 「スルメ。白イカとかもあったけど、やっぱりイカソーメンにするなら歯ごたえのいいスルメイカ
 だろう」


 「な」


 「へえ〜」


 「イカと言えば前のアレ、黒いやつ。黒豆のソースだっけ? あれも美味かったよな」


  夏場は意外に旬の食材が限られる。葉物は硬く逞しく、魚には油が無い。


  そんな中でも数少ない旬の烏賊や茄子、胡瓜などを飽きる事が無いよう、手を変え品を変え食卓
 へ出す耕介の料理は今日も好評を博していた。


 「小さ目のヤツを沢山な。やっぱりあんまり大きいのより、小さいのの方がやわらかくって美味し
 いから……ってあれ矛盾してる?」


 「ううん、そんなことないよ」


 「……はい?」


  分かるよー、と十数杯の烏賊を捌いた苦労をねぎらってくれた妹の頭を撫でてやりたかったが、
 手が届かなかったので耕介は代わりに隣の愛の頭を撫でておいた。


 「ごちそーさまー」


  真っ先に食べ終えた美緒はいつも通り後片付けもせぬまま席を立ち、早々に去ろうとする。それ
 を見咎めた愛が口を開きかけたその時。


 「っ、ほえ?」


 「ん? どした美緒」


  へなへなと力無く、美緒はその場にしゃがみ込んでしまった。


 「はれ、あれれ?」


  何とか立ち上がろうとするのだが、足に力が入らない。


 「腰が、抜けたのだ……」


 「腰が抜けたぁ?」


 「立てな、いっ、ふぎゃ!」


 「み、美緒ちゃん!」


  しゃがんだまま前へ、後へと体を振り回していた美緒だったが、とうとう仰向けにスッ転んでし
 まった。


 「だ、大丈夫美緒ちゃん?」


 「うー……」


  駆け寄ってきた愛に引き起こされて何とか身を起こしたが、腰を床につけたまま、美緒は思うよ
 うにならない自分の体に苛立ちの声を上げる。


 「もしかして……イカを食べて、腰が抜けた?」


 「ネコやもんね……」


 「でも今まで、こんな事、なかった」


  美緒の言う通り猫耳が生えていようが、尻尾がついていようが猫本来の習性に振り回されるよう
 な事は今までには無かった。


  猫語が分かろうが尻尾が二股に分かれていようが、美緒の基本は人間だったのである。


 「とりあえずソファーにでも横に……?! うわっ?! み、美緒!」


  耕介が美緒の体に触れた途端、その感触に思わず叫び声と共に手を引いてしまう。


 「毛が……」


 「え? うわわっ?!」


  シャツの上からでも分かるほど美緒の肩口、背中からは多量の体毛、としか言えない物が生えて
 きていたのだ。


 「ひょっとして、猫化が進んでるのか……?」


  信じられないといった様子の耕介の呟きに、答えるものは誰も居なかった。






                     〜◆〜






  明らかな身体の変化、それに伴う体調不良のより楽観視しているわけにはいかなくなった。


  耕介一同早々に夕食を切り上げ、とりあえず美緒の体を調べてみる事にした。


 「耕介さんは、一応後ろ向いててくださいね」


 「はいはい」


  やや落ち着き、今では自分で立ち上がっている美緒の衣服を、愛らが確かめながら一枚ずつ脱が
 していく。


 「えーとどれどれ……」


  既にシャツを脱がして見るまでもなく、美緒の全身には細く長い、柔らかな金色の産毛のような
 体毛が生え揃ってきていた。


  いけないとは思いつつも皆興味深々で、その体をジロジロと眺め回してしまい、美緒は居心地悪
 そうに身をよじっている。


  真雪に至ってはすでに手を出していた。指の間を通り抜けるふんわりとした触感が気持ちいい。


 「うわっ! 漫画とかと逆で、乳首以外の部分に毛が生えてる! エロッ!」


 「え、エロって、仁村さん……」


 「んー乳首は2つだけか。6個や8個あるわけじゃねーんだな」


  実際には乳首から生えていないだけで、ほぼ体毛に覆われている状態なのだが、真雪の言葉につ
 い薫まで頬を赤らめてしまう。


 「じゃあ今度は下は、っと」


 「うー。あんま、いじんないでほしい」


  真雪はわざと外野に、つまりは耕介に聞こえるよう大声で次々と調査結果を報告していく。


 「うわわっ! 『ピー』の周りに毛が生えてるっ!」


  わざわざ自主規制も自分の口で入れる徹底ぶり。


 「これは大変勇者さまは変態」


 「そりゃある意味当たり前では」


 「あの、ヘソの周り……ですよ? 耕介さん」


 「を?」


  耕介の背中に笑い声がケタケタと降り注ぐ。まんまと騙されてしまった耕介はクッと詰まるが、
 背を向けているのをいい事に知らぬ振りをする事にした。


 「……ねえ、お兄ちゃん」


  そんな耕介の袖を引っ張る者が居た。知佳は美緒には聞こえないよう声を顰めて、屈んだ耕介の
 耳元に口を寄せる。


 「もしかしたら美緒ちゃん、このまま本物の猫さんになっちゃうの?」


 「む〜ん」


 「前の時みたいに、なんとかならないのかなぁ」


 「そうだ! 薫、例の巨大化事件の時使ったあのお札は?」


 「スイマセン、あれはもう騒ぎの後返してしまいました」


  それに、と薫は続けるが何故か歯切れ悪く口篭もると、もう一度美緒の方を振り返る。


  美緒は既に服を着直し、体毛の為やや窮屈そうに身を持て余していた。


 「あの、耕介さん」


  薫は知佳と同様、耕介の耳元に口を寄せてこう言った。


 「……あの時は、あれの霊的バランスが崩れて大人化していたわけで。その余剰分を例のお札で吸
 収して子供に戻していたのですが」


 「うん」


 「でも今回は、その……」


 「……現在進行形、か」


  はい、と声に出さず薫が頷く。


 「ですからたとえお札を使ったとしても、進行を遅らせる事はできても、根本的な解決にはならな
 い可能性があります」


 「そうか……」


  薫の話を聞き耕介はスッと目を伏せた。自分達が思っている異常に事態は深刻なのではないか。
 耕介の脳裏に真っ黒な不安が火事場の煙の如く立ち込めてくる。


  と同時にこのまま猫になったらさぞかしデカイ猫が出来上がるんだろうな、などと不謹慎な事も
 考えていた。


  いくら美緒が小さいと言っても1m以上の猫など豹かライオンである。


 「一応手配はしておきますから」


  「ああ、頼むよ薫」


  ハイ、と今度は声に出して、そして薫は小さく微笑んだ。きっと大丈夫ですよ、と。


  その笑みが自分を励ましてくれているのだと悟った耕介は、顔を上げ、ありがとうと自分も微笑
 み返すのだった。


 「あと猫が嫌がる事は……イカ食べさせたりおミカンあげたり、ヒゲ切ったり耳倒したりしっぽの
 先をちょっとひねったりお風呂に入れて洗っちゃったり、ってとこ?」


 「お前よくそんだけ猫の嫌がる事知ってるな……」


 「あ、尻尾の先をきゅいっとひねるいうんもあるで」


 「うー……」


  一方美緒を取り囲んでいた面々は今後の美緒の取り扱いについて相談していた。


  頭上を飛び交う物騒な会話に、美緒は思わず尻尾を押え身を竦める。


 「お風呂は慣れてれば大丈夫でしょうけど。あ、でも歯磨き粉が駄目かもしれませんねー」


 「ネコって歯磨き粉苦手だもんなぁ」


  美緒は元々歯磨き苦手だけど。そう付け加えると、耕介と愛が顔を見合わせ苦笑した。


 「口に入るものと言えば、やっぱり一番問題なのは食べ物ではないでしょうか」


  皆でわいわいと話し合っていると、いつしか抱いていた不安も自然と薄らいでいく。


  そんな和らいだ雰囲気を今一度引き締めるように、薫が小さく手を上げてそう発言した。


 「本来猫が口にしてはいけないものを、今の陣内に与えるのは拙いかと」


 「えーとじゃあイカとか、タコ、タマネギ、柑橘類にチョコレート、牛乳……塩分自体もあんまり
 よくないですしねー」


 「だからってキャットフードやるわけにもいかんしなぁ。しょうがない、味付け無しの魚の水煮で
 も用意するか」


  それを聞いた途端えーっと美緒の口から不満の声が上がる。


 「そんなの、食べたくない」


 「仕様がないだろ? どんな事になるか分からんのだし」


  お菓子も駄目だな、と止めを刺され美緒の頬は極限まで膨らんでいた。


 「うー」


 「まぁその内味覚の方も猫と一緒になるかもしれな……あ」


  しまったと慌てて口を押えるが既に遅く、耕介が振り返ると美緒は俯いてしまっていた。端から
 見ると毛だまりが小刻みに震えているように見える。


 「そ、そんなの……そんなのいやなのだあっ!」


 「あ、美緒!」


  涙声と共に美緒はその場から逃げるように走り去って行ってしまった。


  耕介は今更己の迂闊さを呪うがその時ドンと真雪に尻を蹴られ、今は後悔している場合じゃない
 と気を取り直し、美緒を追いかけリビングから飛び出した。






                     〜◆〜






 「美緒……?」


  階段を駆け上がる音を頼りに美緒の部屋の前までやってきた耕介。コンコン、と控えめにドアを
 ノックするが返事は無い。


 「美緒、入るぞ」


  キィと戸を引いて中に入る。心配された鍵はかかっていなかった。


  実は火事等何かあった時の為、子供である美緒は原則部屋の鍵の使用は禁止されているのだが、
 本気で拗ねた時などは怒られる事覚悟で、鍵をかけ部屋に閉じ篭る事もあった。


 「さっきはゴメンな美緒。その、そんなつもりじゃ――」


 「つき……」


 「うん?」


  耕介の謝罪を遮って響いた青く透明な声に、思わず顔を上げる。美緒は耕介の方を見ておらず、
 何時ぞやのように窓際に腰掛け外を眺めていた。


 「月を、見てた」


  視線の先、見上げた夜空に浮かぶ丸い遠い月からは、白く透明な光が無数に美緒の体に降り注い
 でいた。


  ひょっとしたら香箱でも作っているかもと不埒な事を考えていた耕介は、一瞬その神秘的な光景
 に見惚れてしまう。


  暫くして我に返った耕介は相変わらず乱雑な美緒の部屋を縫って窓際までたどり着くと、無言の
 ままその隣に腰掛けた。


 「ごめんね」


 「ん?」


 「カブトムシ」


  と、暫くしてやはり耕介の方を見ないまま、美緒が口を開いた。


 「逃がしちゃった」


 「あ、ああ、別にそんな、構わないよ」


  振り返る。月明かりに照らし出されるもう髭か体毛か分からないぐらいになった美緒の横顔は、
 小さいままなのになんだか酷く大人びているように見えた。


 「あたしは今日も森であいつらネコと一緒に、木にのぼったり、ごろごろしたり遊んだり……」


 「元気だったもんなー今日の美緒」


 「だから前は、このまま全部、ネコになっちゃってもあたしは困らなかったかも」


 「う、ん」


 「でも、今は違う」


  ふと視線を上げると、何時の間にか美緒は耕介の方を見て微笑んでいた。


  うっすらと、やわらかなアルカイックスマイル。その憂いを帯びた濡れて黒光りする瞳に、耕介
 は引き込まれそうになる。


 「……耕介がいるから、困るよぉ」


  次の瞬間、引き込まれていたのは美緒の方だった。ドサッと体ごと、耕介の胸へと倒れこむ。


  それは美緒の正直な気持ちだった。自分が猫になって、今困るのは耕介の事だけ。そしてそれが
 唯一にして絶対に譲れない事であると。


  そう思った途端、なんだか酷く悲しくなってきてしまって。気がついたら美緒は耕介の胸の中で
 嗚咽を漏らしていた。


 「……だいじょうぶ、大丈夫だ。たとえ本物の猫になっても、俺はずっと美緒のそばに居るから」


 「でも、やだぁ〜……」


  大丈夫、大丈夫と何度も何度も繰り返し、抱きしめた手で耕介は上へ下へと美緒の背中をさすり
 まくる。しかし美緒は駄々っ子のように、暫くの間泣きじゃくり続けたのだった。


 「……あの、こーすけ」


 「んん?」


  泣き疲れたのか、やや落ち着いてきた美緒は何故かもぞもぞと体を揺すりながら、ぽつりとこう
 呟いた。


 「逆撫では、やめて欲しい」


 「猫だもんな……」


  耕介が手の甲で摩るのを上から下、首から腰方向へと統一すると美緒の体から力が抜けていき、
 やがてその背中の上下が緩やかな寝息へと変わっていったのだった。






                     〜◆〜






  ところが、である。


 「治った」


 「なぜ」


  あの日をピークに美緒の猫化は徐々に薄れ始め、二週間ほどでついには綺麗さっぱり元に戻って
 しまったのである。


 「なんでまたすっかり元の姿に……」


 「ん〜良く寝たし?」


 「なんてアバウトな体だ!」


  きっとこいつの世界ではお湯が98度ぐらいで沸くんだろう。


  安堵した反面、耕介は歯噛みしながら今まで心配した分、何となくもやもやとした気持ちが晴れ
 ないでいた。


 「あの……」


 「ん? どうした薫」


  そんな耕介に薫がやや神妙な面持ちで話し掛ける。何事かと振り返る耕介。


 「実はあの頃、陣内が猫化していったのと月の満ち欠けが一致しているんです」


 「つき?」


  言われて、そういえばあの時も立派な月が出ていたなと耕介は記憶の隅を掘り返す。


 「ちょうど一番猫化が進んだ日は、満月でした。ですから今回の騒動は月がもたらしたものかもし
 れません」


 「ははあ」


  薫の言葉に耕介は分かったような分からないような返事を返していた。


 「月は様々な生き物に影響を与えると言いますし。あれは霊的な影響も強く受けたのではないかと」


 「……でも今まで満月の日で特に何かあった事は無かったよな?」


 「はい。まあ」


 「じゃあまたなんで今回に限って突然影響を受けたんだ?」


 「さぁ、それについてはなんとも」


  顔を見合わせ、薫はちょこんと可愛らしく首を傾げるのみ。


 「つまりはよく分からない、と」


 「あは、あはははは……」


  所在無さげに今ごろ届けられたお札を背後に持って、薫の乾いた笑いがリビングに虚しく響く。


 「ええい、いい加減な体をしおって。今度からお前の語尾はガンスだガンス!」


 「にはは♪」


  そのリビングを耕介の怒声もどこ吹く風、美緒はいつも通り元気に飛び跳ねていた。






                     〜◆〜






 「みーお、もうこんな時間だぞ、早くお風呂入って寝ろ」


 「ん〜」


  美緒猫化事件から暫くたったある日の事。


  心配された満月時の再度猫化もなく、その夜美緒はリビングで寝転がったままテレビを見ていた。


 「ほら美緒、大体それはビデオだろ?」


 「んー、もうちょっと」


 「はぁ」


  先程から美緒はテレビにかじり付きっぱなし。見かねた耕介がもう何度も注意しているのだが、
 生返事を返すばかりで一向にその前から離れようとはしない。


 『下がれ 下がれ 下がれ 下がりおろう〜♪』


 「ほら、下がれって言ってるぞ。TVの前から下がれ」


 「なー」


  何より夢中になる余り画面に近づき過ぎており、目が悪くなるぞと腕を掴んで力ずくでずるずる
 とテレビから引き離した。


  相変わらず男の子みたいな腕だなぁと耕介は思う。美緒の腕にはあちこち傷や湿疹等を掻いて、
 ぷっくりと薄紫に膨れた跡がいくつも見られる。


  それは耕介が子供の頃に、自分や友達の腕によく見かけた物だった。


 『カモン カモン カモン ダイオージャ〜♪』


 「来いって言ってるのだ」


 「こーら」


 「あうっ」


  再び這ってまでテレビに近づこうとする美緒に耕介は腰に手を当てて嘆息した。


  何故にそこまで夢中になれるのか。チラと時計に目をやる。大分夜も更けようとしていた。


 「しょうがないなぁ、俺もそろそろ風呂入ろうと思ってるし……一緒に入るかー?」


 「う〜ん……ッ?!」


 「うわっ?!」


  今まで通り気の無い返事を返すのみ。と、突然美緒は弾けるように立ち上がり、耕介を押し退け
 廊下への出入り口まで駆け抜けていた。


 「美緒?」


 「だっ、ダメ……」


  怯えたように、顔を真っ赤にして身を半分出入り口の柱に隠しながら、掠れる声でそう言った。


 「なにが駄目なんだ?」


 「だ、だって」


  驚き目を丸くする耕介に対し、美緒は俯いて、もじもじと身をよじり二、三度足踏みをしたかと
 思うと。


 「は、恥ずかしいから……イヤなのだっ!」


 「あ、おいっ」


  そう言い残し今度こそ風呂場へと逃げて行ってしまったのだった。


 「……恥ずかしいから、ねぇ」


  その場に一人残された耕介は、美緒の残した言葉を反芻し、何となく肩をすくめた。


  以前は平気で一緒に入った事があったのに。今は恥ずかしいと彼女は言うのだ。


 「猫にじゃなくても、日々女の子は変わっていく……か」


  いつしか少女は猫にではなく着実に、一人の女性へと変わっていく。


  それを少し嬉しく、ちょっとだけ寂しく思いながら、耕介はつけっぱなしにされたビデオの電源
 をピッと落としたのだった。






  ヒゲよ、さらば。






                                       了









  後書き:『これは架空の話ではありません。あなた自身の話なのです。
      もしも、あなたの恋人がアンバランスゾーンの中へ落ちたとき、
      それでもあなたの愛は変わらないと言えるでしょうか。では、また来週まで……』
      ナレーションby石坂浩二

      美緒の、恋愛要素有り? の話のつもり……私にはこれが限界でした。
      実はコレ、かなり以前に書きかけた物で、出来がイマイチでお蔵入りになっていた物。
      まだ阪神も優勝してなかったというのが歴史を感じさせますね……申し訳無いです。





  05/10/01――UP。

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