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  〜好き好き大好き〜
  (Main:知佳 Genre:ほのぼの Written by:竹枕)






 「おや、お帰り。お疲れ様」


  と、キッチンに現れた漫画家を見て槙原耕介がちょっとおどけた口調で言った。


 「あー、牛乳温めてくれ」


  仁村真雪は気だるそうに頭を掻きながらそう言った。


 「ハイハイ。ところで知佳は? もう寝ちゃってるとか?」


  耕介はすぐに応じてマグに牛乳を注ぎ電子レンジに投入する。


  時刻は朝と呼ぶには遅いが、昼と呼ぶには早い時間。真雪が昨晩から原稿にかかりっきりなって
 いた事、それに知佳も付きあっていた事を耕介も知っており、労いの意味もこめてお帰りと言った
 のだった。


 「うんにゃ、あいつもすぐ来ると思う」


 「そう、じゃあ知佳には何を飲ませようかね」


 「んーあっ。あーおにいちゃん、おはよー」


  言ってる傍から知佳が盛大な伸びをしながら現れた。こちらも一仕事終えたといった体である。


 「お疲れ知佳。眠いかい?」


 「ううん、そんなに眠くはないんだけど、目がちょっと、ね」


 「目が?」


 「うん、さっき顔洗ってきたんだけど、何度洗っても目やにがついてるような、引っかかる感じが
 するの」


  知佳が目を擦りながらうーんと唸っていると、横から姉にそりゃ目が疲れてるんだと笑われた。


  そっか、皆も同じような事があるんだ。と知佳は思った。これは好きじゃない。


  じゃあ、と耕介は持っていた薬缶を一旦置くと、ドタドタとどこかへ行ってしまった。がすぐに
 帰ってきた耕介の手には、一枚の白いタオルが握られていた。商店街で貰った安物だ。


 「ちょっと待ってろよ」


  それを水に浸して固く絞ると、そのまま電子レンジの中へ。一分ほど温めて取り出した。


 「あちっちちち、ちょっと回しすぎたかな?」


  耕介はもうもうと湯気を立ち上げながらタオルを解し、座らせた知佳の顔の上にモフッとかけた。


 「ほり」


 「うーわー」


  顔中が温かい蒸気に包まれ、知佳は思わず歓喜の声をあげる。


 「床屋さんみたいだろ」


 「え?」


 「ああ、わかんないか」


  耕介の言葉が気にはなったが、今はタオルを外す気にはなれない。知佳は初めて体験する徹夜明
 の蒸しタオルの蠱惑的な快感に捕らわれていた。


  耕介が上から軽く、目玉や額の辺りを押し付けてくれる。


  じゅんわりと熱が疲れた眼球や、皮膚に染み透っていくような感じが気持ち好い。


  少し息苦しい感じも、ゆっくりと呼吸すると喉の奥まで潤されるようで嫌ではなかった。


 「床屋だと髭剃り前とかこうやって蒸しタオルをかけてくれるんだけどな。知佳たちが行く美容院
 じゃあやってないか」


 「うん、わたしこんなの初めてだよー」


 「美容院でも乾いたタオルやガーゼならかけられるぞ」


  髪洗う時とかに、と横から真雪が言った。だよねと知佳もタオルの下から同意する。


 「でも蒸しタオルじゃないんだよね。何のためなんだろう?」


 「上向いて洗髪するし、多分目が合うのが嫌なんじゃね?」


  成る程なと耕介は思ったが、それならば蒸しタオルでも同様ではという疑問が残る。


 「それに女は化粧してる場合が多いからな」


 「あー、なる」


  その真雪の説明に耕介はようやく納得した。勝手に化粧を崩してしまう訳にはいかないのだろう。
 仰向けの洗髪も同じ理由なのかもしれない。うつ伏せでは水が顔の方まで垂れるからだ。


 「よかったら真雪さんにも用意しますけど。蒸しタオル」


 「んー、あたしはいいわ。これから出かけなきゃならんし、素直に顔洗ってくるよ」


 「出かけるの? ああ、原稿渡しに行くのか」


 「いや、渡すだけじゃなく」


 「え?」


 「終わったのは知佳の手も借りたい部分だけだから」


  耕介は驚いた。てっきりもう原稿は仕舞えたものだと思っていたのである。


  これからホテルで立派な缶詰になりに行くのだと真雪は力無く笑っていた。


 「いつ出るんです?」


 「すぐ。これから用意して」


 「そっか……それはまたまた、ご苦労様です」


  耕介にはそれだけしか言えなかった。本当に頑張っている人には、頑張ってとも言えなくなるも
 のである。


  その代わり耕介はある提案をした。


 「じゃあ送るよ。そんな状況で運転させるわけにもいかないし」


 「んー……じゃ頼もっか。タクシー呼んでもよかったんだけどな」


  車の運転ぐらい問題無いと思っていた真雪だったが、事故起こしたら洒落にならん。送ります。
 そんな耕介の有無を言わせぬ強い態度に、素直に従う事にした。


  そんな二人の様子を、何時の間にかタオルの仮面を取っていた知佳が見ていた。


  つい、その頬がにまっと自然に緩んでいく。


 「夜中になってもいいから、帰って来たい時には連絡してくださいよ。迎えに行くから」


 「あー、分かった分かった」


  兄の、姉に対するそんな優しさが、知佳は掛け値なしに大好きだった。


 「じゃあ知佳、ちょっと行ってくるから」


 「てかお前なんでこんな所まで来てんだよ、わざわざ」


 「えへへ、お見送りー」


  用意が済み、耕介が車で真雪を送っていく事に。知佳も表まで二人を見送りに来ていた。


 「悪いけどお茶は自分で淹れてくれな。お湯だけ沸かして、他はもうテーブルの上に用意してある
 から」


 「はーい」


  車はブロロロロ……と低い唸り声を上げながら走り去っていく。後に残されたのは、排気ガスの
 臭いだけ。


 「……行っちゃった」


  走り去っていく車の後姿を見るのが好き。少し淋しい感じがするけど、何となく。好き。


  でも排気ガスは嫌い。


  でもでも雪の日に道路に沈んだガスの臭いだけは、ちょっとだけ好きかな?


  そんな事を思いながら、知佳はその姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。


 「ふぅ……」


  そうしてダイニングへと戻った知佳は無意識に一つ溜め息をつく。一人になった途端、気が抜け
 たのかなんだかずっしりと疲れが襲ってきた気がする。


  テーブルの上のタオルを拾い上げる。それはもうすっかり冷たくなっており、今や蒸しタオルで
 はなく濡れタオルだった。


  その濡れタオルを横長に二つ折りにすると、椅子にくたーっと斜めに腰掛けた知佳は再び目の上
 に乗せる。


  ひんやり感が一晩中モニターを覗いていた疲れ目に心地好い。しかしべっちゃりと重い感触が、
 蒸しタオルに比べると今一つ好きになれなかった。


  それにあの時はお兄ちゃんがかけてくれたから。お姉ちゃんも居たし、一人で食べる御飯は美味
 しくないのと似てるのかな……。


  などとぼんやり考えている内に、やがて知佳の意識は暗転していった。


 「……か、オイ知佳!」


 「ふ、ふえ?」


  その時突然耕介に揺り起こされた。と知佳は思った。


 「何だ、寝ちゃってたのか」


 「え? あ、う、ううん。ちょっとぼーっとしてただけ」


  しかし実際には知佳が一瞬だと感じた時間は二十分ほどが経過しており、意識が飛んでしまって
 いた事は明白だった。


  耕介は既に真雪を送り届け、帰宅していた。心配そうに知佳の顔を見詰めている。


 「お茶も淹れてないし……そんなに疲れてたのか。待ってろ、今淹れてやるから」


 「うん」


 「飲んだら一眠りするといい。夕飯の時間になったら起こしてやるよ」


  ありがと、と小さく礼を言う。ずり落ちてきたタオルを握り直し額を拭った。それで少し意識が
 ハッキリした知佳はキッチンに立った兄の後姿に目をやる。


  耕介は普段からラフな服装で居る事が多いが、それでも寮に居る時と外出する時の格好は違う。
 それを知佳は知っていた。


  帰ってきて部屋着にも着替えず、外着のままエプロンだけつけて、自分の為にお茶の支度をして
 くれている。


  そんな耕介の後姿を眺めるのが、知佳は好きだった。


 「ちょっと少なかったかな?」


  どうやら早くお湯を沸かそうとするあまり、少々水が少なかったらしい。


 「よー……っと」


  最大限、薬缶を傾ける耕介がいつしか片足立ちになって、体ごと傾いていく。


  そんな所もまた、可愛くて好き♪


  まるで新妻の後姿を眺める夫のような気持ちになりながら、知佳は恋人の事を眺め続けていた。


 「さ、出来たぞ」


 「ありがとう、お兄ちゃん」


  お盆に載って運ばれてきたのはポットにカップが二つ、それに加えて角砂糖のビンがテーブルに
 置かれる。


  最近耕介は耐熱硝子の丸い紅茶ポットを使っていた。当然硝子なので透明で中の様子を見る事が
 出来る。知佳はその中の葉っぱや、ポット自体の変化を眺めるのが好きだった。


  ポットに蓋がされると、まずサーッと蓋が湯気で白く曇った。次に湯気が水滴に変わっていき、
 再び中が見えてくる。その内にプチプチと水滴同士がくっついて、だんだんと大きくなっていく。
 蓋の内側に並ぶいびつな水滴の塊。


  それが鱗のようで、ちょっと好きじゃない。


  知佳は蓋を持ち上げ傾ける。水滴が滑り落ち、蓋を戻した途端また白く曇って初めから……。


 「もういいかな」


 「あっ」


  と、横から耕介の手がポットを掴み、琥珀色に染まった飲み物がカップへと注がれた。知佳の意
 識が現実に引き戻される。


  先程から目覚めてはいるのだが、焦点が合わなくなる事が多い。やはり疲れているのだろうかと
 知佳はちょっと自覚する。


 「悪いな、いいお茶請けが無くって紅茶だけなんだ」


 「いいよー、わたしお茶だけの時は、お砂糖入れるし」


 「うん、疲れてる時は甘いものを摂るといいな」


  知佳は角砂糖を掴み、ぽんぽんっと小さなカップの中へと投げ入れた。かき回しもせず、じっと
 眺める。


  カップの底で、角砂糖がじわっと溶けていくのを見るのが好き。


 「しかし知佳も大変だな。完徹だったんだろ?」


  未だぼんやりしがちな知佳を気遣い、耕介がストレートを啜りながら労いの言葉をかけた。


 「ううん、お姉ちゃんの方がずっと大変だし……それに今日はお休みだから」


  だからそんなに辛くないよ、と知佳は優しく笑う。釣られて耕介も微笑んだ。


 「おねーちゃん……大丈夫かなぁ」


 「結局ちょっと仮眠してからにするって言ってたから、大丈夫だよ」


 「そっか」


  ようやく安心したとばかりに両手で紅茶をあおる。そんな知佳の姉思いな部分が、耕介は大好き
 だった。


 「…………」


 「……ほーっ」


  ふと、ダイニングに沈黙が訪れる。聞こえて来るのは時計の秒針がカッチカッチと進む音、お茶
 を飲んだ後に出る溜め息だけ。


  しかしこんな静寂も、二人の間に流れる空気のようなものを感じ取る事ができ、知佳は嫌いでは
 なかった。


  好きな人と同じ部屋に、同じ空間に居る。ただそれだけで幸せ。


 「そういえばね」


 「うん?」


 「玄関の外に置いてあったあの鉢、あれなんだろうね?」


 「ああ、あれはラナンキュラスだよ」


 「らなんきゅらす?」


 「そ。黄色いやつだろ」


 「うん。最初花びらが薄いし、わたしバラかなと思ったんだけどそうじゃないし。花の真ん中とか
 葉っぱとか、菊に似てるなーと思ったんだけどでもやっぱり違うし」


 「俺も思った。葉っぱは何て言うかこう、マイタケみたいな形してるよな」


 「そうそう、あれ? 名前なんだっけ、ら、ラー……」


 「ラナンキュラス」


 「ラナンキュラスって言うんだ。ふーん」


 「葉っぱからアネモネに近い種類なんじゃないかって愛さんは言ってた。球根だから上手くいけば
 来年またいけると思うよ」


 「アネモネかぁ。アネモネはもっとこう、花が開いてるよね」


 「ちなみに2鉢あっただろ? セールになるまで待って待って最後には1鉢100円、合計たった
 200円のお買い物でしたっと」


 「あははっ♪」


  もちろんこんな他愛無い会話も好き。


  恋人として、兄妹として、家族として。耕介との甘いひと時……だが知佳の至福の時間は長くは
 続かなかった。


 「ふぁ……」


 「眠いのか? 知佳」


 「う、ん。ちょっとだけ、ね」


  退屈している訳でもないのに頻発する欠伸をかみ殺す事も出来ない。加えて肩の後ろが何となく
 重く感じる。


 「部屋で一休みしてこいよ。気が張ってたから目は冴えてたかもしれないけど、体は睡眠を求めて
 るんだよ」


 「うん、そうする」


  名残惜しくはあったが、これ以上耕介に心配をかけたくなかったので知佳は退散する事にした。


  しかし立ち上がった知佳は出口へは向わず、スススッと耕介の座っている椅子の後ろまで来ると。


 「……えいっ!」


 「ををっ?」


  椅子に座った耕介の首に、後から抱きついた。


 「どした、ちーか」


 「ン〜」


  知佳は答えない。ただ無言で何度も耕介の背中、首の後ろにスリスリと顔を擦り付ける。


 「うは、知佳、くすぐったいよ」


 「んーにゃ、んふふー♪」


  こうして椅子に座った相手に、後ろから抱きつくのが知佳は好きだった。しばしば姉に対しても
 同じ事をしていたりする。


  普通なら決して届かない兄の肩にまで手が届いて、腕を首に回せるから。頬をすり寄せることが
 出来るから。それに……。


 「……あのね、お兄ちゃん」


 「なに?」


 「今日はね、多分お姉ちゃん帰ってこられないんだ」


 「うん」


 「それで、ね」


  知佳はちょっとはにかんでから、んっと首を伸ばし耕介の耳元に口を寄せると、こう囁いた。


 「今夜、一緒にいられるよね?」


 「…………」


  思わぬ知佳からのお誘いに、耕介は絶句する。


  言うまでは自分もちょっと恥ずかしかった知佳だったが、その耕介の表情を見てしてやったりと
 口の端がむにむに歪むのを抑える事が出来なかった。


  お兄ちゃんのちょっと困ったような笑顔が、好き。


  知佳は思った。今ではその困り笑顔の理由が分かるから。


  求められると嬉しいけど、自分はそれに応えられているのか、どうしたら応えられるのか自信が
 無くって。だからちょっと困ったような笑顔になる。


  まだ自分が恋人ではない頃など、兄は今以上に困った事だろうと知佳は心の中で苦笑した。


  だからこういう時、私はおもいっきり求めることにしている。全身でくっついて。ベッタベタに
 触りまくる。


 「ねぇーえー、いいよねぇ、おにーいちゃん?」


 「あ、ああ、いや、その」


  少し鼻にかかったような、甘ったるい声と共にネッキングを繰り返す知佳に対し、気圧されてし
 まったのか何故か耕介は即答する事が出来ない。


  その間にも、その間さえ楽しむかのように知佳の攻勢は続く。


 「んふふ、んーちゅ、ちゅ」


 「ちょ、ち、知佳ぁ」


  首筋にキス。ちょっと進んで顎にキス。知佳はちょっちょと唇を這わせていく。その度に耕介は
 情けない悲鳴をあげた。


  男の人でも首はやわらかい。肉食獣の気持ちがちょっと分かるかも。


  食べてしまいたいほど好き。そんな気持ちからか、知佳は耕介の首の皮をはむっと、歯を立てぬ
 よう唇で摘んで軽く引き伸ばした。


 「っ!」


  その途端にピクッと震える耕介の体。やっぱり男の人でも首は弱いんだと知佳は思った。色んな
 意味で。


  くるん、と知佳は耕介の首にぶら下がるように、顔の前へと身を滑らせる。降り注ぐ耕介からの
 ジト目にも知佳は怯む事無く、上目使いを返して駄目押しした。


 「ね?」


 「……ああ、今夜、な」


 「えへへー♪」


  約束だよ、と最後にんっと唇にベーゼを残し、知佳は足取り軽くダイニングから去っていく。


  耕介はその後姿を、やれやれと頭を掻いて見送るしかなかった。


  自分からキスも出来る。それが座ったお兄ちゃんに抱きつくのが好きなもう一つの理由。






                     〜◆〜






  その夜。パジャマ姿の知佳は自室で約束通り耕介が来てくれるのを待っていた。


  外には音もなく細かな雨が降り頻っている。やはり真雪は帰ってこなかった。


  自分から誘った知佳であったが、待っている時間というのは色々と考え込んでしまい、なかなか
 に緊張するもので。


  ふと視線を足元に落とす。先頃まで自分の寝ていたベッドがちょっと恥ずかしい。自分のにおい
 がする気がして。


  シーツを替えてやろうかという兄の好意を、素直に受け取っておけばよかったと知佳は後悔して
 いた。でもどうせ汚すんだし、と思うと勿体無い気がしてつい断ってしまったのだ。


  とそこでまた知佳は汚す、という単語に一人顔をカァッと熱くする。スススッと何故か足が内股
 に閉じていく……。


 「こんばんは。遅くなりましたが夜這いにきましたよ」


 「ひゃっ!? お、おにいちゃん。こんばんは……」


 「?」


  その時ガチャッと扉が開かれ、待ち人である耕介が姿を現した。驚いた知佳は思わず閉じていた
 両足をガバッと大きく開いてしまう。まるでいけない事が見つかってしまったかのように。


  知佳は大股開きになっている自分に気付き、赤面しまたすぐさま足を閉め直した。


 「いや、さっき自分の部屋に寄ったんだけどさ」


  開脚閉脚を繰り返す知佳の謎の踊りを不思議に思ったが、耕介は気にせず先程自分が体験した話
 をする事にした。


 「電気点ける前にふと見たら、網戸になんか黒い塊がついてるんだよな。なんだろう? と思って
 近づいてみたら……」


 「うん、見たら?」


 「目を凝らしてよーく見ると、なんとコウモリだったんだなそれが」


  楽しげに語る耕介。しかし蝙蝠という名前を聞いた途端、対照的に知佳の表情にはサッと翳りが
 さしてしまう。


 「こうもり……」


 「多分雨宿りかなんかしてたんじゃないかな。電気点けると眩しかったのか、よじよじと光を避け
 て登っていったよ」


  飛ばずにね、と耕介が笑って言う。しかし知佳は話を聞いているのかいないのか俯いたままで、
 急に酷く暗い雰囲気を纏ってしまった。


 「どした知佳、コウモリ嫌いか? まぁあんまり好かれちゃいない動物かもしれんが、よく見ると
 意外とちっちゃくって可愛いんだぞ? コウモリって」


 「うん、知ってる……」


  心配そうに耕介が顔を覗き込むが、知佳は目を合わせようとはしない。やがて意を決したように
 知佳は突然バッと顔を上げた。


 「……あのっ! あのね、おにいちゃん」


 「うん?」


 「あの、わたし、ね」


  しかしまたすぐに風船がしぼむように俯き、知佳は何度も何度も言葉を区切って、ぽつりぽつり
 と話し出した。


 「昔、わたしがまだここに来たばっかりの頃。ちょっと、荒れてた時期があったって知ってるよね」


 「ああ」


 「その時に、一度、ね」


  あくまで今の自分ではないと言うように、昔の事だと強く前置く。


  窺うような口調、か細い声に言い難い事なのだろうと察した耕介は、隣に座ってただ頷いて聞い
 ていた。


 「部屋の中にコウモリが迷い込んできた事があったの。夜電気をつけたら、何時の間にか入ってき
 てたコウモリが、部屋中を旋回してて」


 「それで、コウモリが嫌いになった?」


  知佳は黙って首を横に振る。


 「わたしは部屋の隅に座って、ただグルグル飛び回り続けるコウモリを黙って見てた。関心が無か
 ったの。って言うかその時は、他人や自分自身にも、関心が無かったから」


  丁度今の自分のように膝を抱えて。あの時とは自分の心も、取り巻く環境も部屋の形すら違うけ
 れど。


 「その内に鬱陶しくなってきて。それにフンとかされたら困るなーって思って。コウモリがどうや
 ってフンするのか、飛びながらするのか、全然知らないんだけど」


  急くように早口になったり、かと思えば急に口篭もったり。それは知佳の複雑な心理をそのまま
 表すものだった。


 「だから……だから、わたしその」


 「うん」


 「……ちからで、そのコウモリを……叩き落したの」


  知佳の告白に耕介は驚いた。そんな直接的な手段に出るとは思わなかったからだ。しかし耕介は
 知佳を気遣い、僅かに目を見開くに止める。


 「パシッ、てあっけなく落ちちゃった。落ちた途端に急に小さくなっちゃって、凄くドキッとした。
 飛んでる時は20cmぐらいあるように見えたのに、ピンポン球ぐらいの大きさになっちゃって」


  本当はバシッというぐらい強い音、衝撃がした気がする。


  こんな所でもつい嘘をついてしまう、自分を庇ってしまうそんな自分が知佳は大嫌いだった。


 「息で吹いただけで飛んで行っちゃうぐらい軽かった。けど触りたくもなくて、あは、わたしった
 ら酷いんだよ? 窓枠の外へ置いて、それっきり」


  言いたくない。ずるい醜い自分を知られたくない。自分の好きな人に。


  でも言ってしまいたい。言って楽になりたい。知って欲しい。自分の好きな人に。


  相反する、白と黒との様々な感情が知佳の中に入り乱れ、マーブル模様に渦巻いていた。


 「次の日見たら無くなってた。落ちて死んじゃったのか、飛んでいったのかは分かんない」


  とうとう言ってしまったという後悔と開放感。それはあたかも懺悔の告白のようだった。


  対する耕介は黙ってじっと耳を傾けて続けている。


 「そういう事があったの。それで今もコウモリ見るのが辛いなんて……随分と勝手だよね」


 「そっか」


  こんな私だけど、まだ好きでいてくれますか?


  そう相手を、好きでいてくれている人を試しているようで。知佳はこんな自分が嫌いだった。


  しかし次の瞬間、一人落ち込む知佳の耳に飛び込んできたのは、信じられない言葉だった。


 「じゃあその頃からいい子だったんだな、知佳は」


 「えっ?」


  我が耳を疑った。思わず顔を上げる。


 「え、だ、だってわたし――」


 「叩き落とした後、本当は辛かったんだろう? その時はまだ素直じゃないだけで、心はずっとい
 い子だったのさ」


 「で、でも、でも……」


 「知佳はいい子だよ、俺が保証する。だって俺が好きになった子だもの」


 「……おにいちゃあん」


  差し伸べられた優しい言葉、優しい手、優しい笑顔。気が付くと知佳は耕介の胸に縋りつくよう
 に倒れこんでいた。


  自分の意思とは関係なく両目からじわっと涙が溢れ出す。


 「ちーか、泣くな、んん?」


 「ふぇ、ヒッ、ひっく、ううん」


  赤ん坊をあやすような、ちょっと困った耕介の声に、知佳はこれ以上心配をかけたくないと泣き
 止みたかったが、嗚咽が止まらない。


 「ほーら知佳、ん、おすそ分け。どうだ自分の涙は?」


 「う、ん。しょっぱあい……」


  耕介がちゅっと知佳の涙の雫を吸い取り、ころんと知佳の口の中へと転がし戻す。そのしょっぱ
 さに知佳の顔はようやく泣き笑いの表情になる。


  本当はどこか期待していた。あなたが優しく許してくれる事を。でも今はそんな自分を嫌悪する
 よりも何よりもただ。


  ――お兄ちゃんのことが、大好き。






                     〜◆〜






 「ふぁ、んっ、んにゃ、ふにゃ〜」


 「知佳、好きだよ。ちーか」


 「ん、わたしも、だよぉ」


  二人の睦み合いは、ふざけ合いから何時の間にか本格的な唇の奪い合いになっていた。


  Hの取っ掛かり難しい。さて、となってしまうとお互い手を出し辛くなるものだ。意図した訳で
 はないが今回は自然に上手くいったと言えた。


  唇と唇、舌と舌とがぬるぬると絡み合い、時折歯が当たるのも間から胸に零れ落ちる唾液ももは
 や気にしない。


  以前、知佳はキスの時鼻がぶつからないか心配だった。


  昔見た洋画では、鼻の高い俳優さん達がやっぱり当たっていたし。結局正解は当たるぐらい深い
 くっついたキスも出来る、だったんだけど。


 「ふぁ、おにいちゃ……んっ」


  ここでようやく二人の顔が離れ、水面に出た亀の如くプハッと一息つく。荒い息を整えながら、
 体の芯に残る熱い余韻に耐え切れず先に耕介の胸に倒れこんだのは知佳だった。


  抱き合うのは勿論大好き。


  好き、いぢめたい、触りたい、触られたい、愛しい、温かい、くすぐったい、気持ちいい……。
 お兄ちゃんの湯水の如く溢れる色んな感情がこちらにも流れ込んできて、その内に自分の気持ちか、
 お兄ちゃんの気持ちか混ざり合って分からなくなってくる。


 「あっ!」


  と、やおら耕介の手が知佳のつつましい胸を包み込んだ。ビクッと背筋に電流が走ったように、
 知佳は身悶える。


 「はっ、やん、あっ、あはっ」


  胸は気持ちがいいけれど、弄られた分だけむずむずと切なさが腰の辺りに溜まっていくみたい。


  そんなもにょもにょとした気持ちを知ってか知らずか、耕介は知佳の胸元を開き露にした。


  舐める、揉む、触る、弄る、舌で転がす、指で転がす、摘む、吸う、口付ける、先端を指で挟み
 ながら乳房のラインに沿って舌を這わせる……。


  知佳が小さな自分の胸が申し訳なく思えるぐらいに、耕介はくにくにと更に熱心に胸を愛撫し続
 けた。


 「んっ、あっ、ダメ、ひゃあっ」


  知佳は強い刺激に頭の中が真っ白になる。どこかに落ちてしまわないよう、首にしがみつくのが
 精一杯だった。


  触られるのも勿論好きだけど、自分は何も出来なくなっちゃうからちょっと心配。


  そう思った知佳は、気付くと愛撫してくれている耕介の腕を遠慮がちに掴んでいた。


 「ちょ、あ、あの、お兄ちゃん」


 「ん?」


 「その……わたしばっかり、されてばっかでごめんね」


 「……女の子ってのは変な心配するんだよなぁ」


  知佳の囁きに耕介は目を丸くする。やがて呆れた口調でそう言った。


 「男はね、ただ触ってるだけで十分幸せなのっ」


 「きゃっ!」


 「やわらかいしね」


 「ふ、ふに〜」


  自らの言葉を実証すべく、耕介は今度は胸だけでなく知佳の全身これ余す所無く撫で回す。


  知佳はギュッと目を瞑り震えながら、その二の腕辺りはやわらかいと言われても嬉しくないなあ
 などと考えていた。


 「ん、んんっ」


  その内に耕介の腕が抱きしめるように知佳の背後へと回り、ズボンの下へ、なだらかな腰のライ
 ンに手の平を這わせ始める。


 「あ」


  知佳は背中と腰を撫でられながらある事を思い出した。


  お尻の上、ちょっと湿疹があるんだった。


 「あ、ちょっと荒れてるねお尻」


 「あう」


  気付きませんようにとの知佳の願いも虚しく、目敏い耕介は皮膚の荒れを見つけてしまった。


 「季節の変わり目ってそうなるよな。俺もだよ」


 「え、お兄ちゃんも?」


 「ああ、痒くなって掻くとボロになるよね。ホントはいけないんだけど」


  ザラザラとした感触をむしろ楽しむかのように、耕介は知佳のお尻を優しく撫でながら言った。


 「夏場肘の内側とか、関節に熱いお湯かけると気持ちいいよな。痛気持ちいいというか」


 「分かる分かる♪」


  まるで何でも無い事のように明け透けに語る己の姿が、知佳の心を安らげている事を耕介は知ら
 ない。


 「じゃあ後で一緒に、お風呂に入ろっか」


 「あ……うん」


  誘うのと、誘われるのでは違った気恥ずかしさがある。キスをするのとされるのが違うように。
 知佳は恥ずかしくも、嬉しくもありポッと頬を赤らめた。


  やがて会話が途切れると、仕切り直しとばかりにお互い完全に服を脱ぎ去り、二人は一糸纏わぬ
 姿に。


 「あんっ」


  今朝の反撃のつもりか、耕介が知佳を後から抱きすくめるとちょ、ちょとの唇でうなじ、耳辺り
 に何度も触れ始めた。


  こそばゆい。知佳の体が勝手に逃げようとするが、耕介の太い腕が捕まえて離さない。


 「知佳ってさ、髪は感じるの?」


 「え? か、感じないよ〜」


  ウソだけど。


 「残念。さわってる方は、こんなに気持ちがいいのに」


  サラサラと耕介は何度も手で髪を梳き、愛しむ。それに釣られて次第に知佳自身も、自分の長い
 髪が愛しく思えてくるから不思議だ。


 「ん〜」


  と、知佳が上を向いて仰け反り、耕介が覆い被さるようにして頭越しのキスが交わされた。


  後ろから抱きしめられる安心感と、口付けの甘露さに恍惚としながら。こういう時体がちっちゃ
 くてもよかったかなと知佳は思う。


 「えーっと」


 「んん?」


 「よっと。えへへ、おにーいちゃん」


  今度は私の番とばかりに知佳はえいっ、と両手で耕介の胸を突いて横倒しにすると、お腹の上に
 馬乗りになった。


 「……知佳は上になるのが好きだな」


 「べ、別にそんな事ないもんっ」


  知佳は否定するが、そういえば毎度自分から上に乗っかるのが恒例になっている気がする。


  一方耕介も、実は知佳の僅かに湿ったあそこ、茂みがペタッとお腹に当たりひんやりとして気持
 ちいい。ゆえに上になられるのは何気に嫌いではなかったが耕介は黙っていた。


 「ただこういう時は、体がちっちゃくてよかったって思うかな」


 「実は体重は人一倍重いんだけどな」


 「むー」


 「……どわ?! ち、知佳、た体重ががっ!」


 「なーにー? 重くないもーん」


 「わ、悪かった悪かった、重くない重くないっ!」


  知佳が力の効力を切ったのだ。急激に重みを増し始めた知佳の体に、耕介は起き上がる事も出来
 ずあたふたするばかり。


  その慌て様に知佳は思わず吹いてしまい、すぐに普段の体重に戻した。


 「ふぅ、やれやれ」


 「大丈夫?」


 「ああ」


  自分がした事なのに、申し訳無さそうに耕介の顔を覗き込む知佳。


 「知佳が重いのは本人のせいじゃないし。知佳自身はもうちょっと太った方がいいぐらいだよ」


 「えー、いいようお兄ちゃん、もう」


 「いやホントホント」


  ご機嫌取りだとは思ったが、知佳も悪い気はしない。こういったフォローが自然と出来る兄を、
 知佳は嬉しいと思うと同時に凄いなあと思う。


 「もしこの髪切ったら、10キロぐらい減るかな?」


 「減らん減らん」


  髪の束を持ち上げて見詰める知佳がどこまで本気なのか分からず耕介は苦笑する。


 「俺としては知佳の感じちゃう可愛い髪は、切って欲しくないしね」


 「う」


 「ははは」


  分かってたんじゃない、と知佳は唇を尖らせる。


  だがそれも長くはもたない。自然と滲み出る笑顔にああやっぱり自分はこんな軽いやり取りも、
 甘い雰囲気も、この人の全てが好きなのだと知佳は思った。


 「おにーいちゃーん……」


  しかしそれはそれとして。今は意地悪な恋人にどう逆襲してやろうかと、知佳は先ずは唇を奪う
 べく耕介の上に倒れ込むのだった。






                     〜◆〜






  カポーン……。


  さざなみ寮の広い風呂場に謎の音が響き渡る。情事を済ませた知佳と耕介は一汗流すべく、湯船
 に浸かっていた。


  知佳はお湯が汚れるから、と先ず体を全て洗わないと湯には浸からない派だった。が、汚れても
 かまわないさと耕介に言われ一緒に浸かる事に。


  初めはちょっと抵抗のあった知佳だったが、今は二人並んで湯に浸かっている事に幸せを感じて
 いた。


  こうしていると、まるで夫婦みたい。


  ふと自分の胸を見下ろす。耕介に散々揉まれた小さな胸が温められ赤くホカホカと上気している。
 何となく胸自身も嬉しそうに見えて、知佳は微笑んだ。


 「お背中流しますよー」


  湯から上がると、知佳は耕介の背中を流し始めた。知佳は耕介のこの広い背中が好きだった。


  目の前に広がる肌色の丘。額をぶつけると、ぺとっとした感触と体温を生で感じる事が出来る。


  お父さんみたい。


  知佳は密かにそう思っていたが、耕介にこう言うのはちょっと変な気もして黙っていた。


 「あのね、こないだ理恵ちゃんたちと駅前のデパートへ行ったの」


 「ほう」


 「あの中にゴディバのお店が出来たの知ってる? そこにはチョコ以外にアイスも売ってて、奮発
 して皆で買って食べてみたんだ」


 「ゴディバ高いからなぁ」


 「でもその分おいしーよー♪ バレンタインにお姉ちゃん宛てに色んなチョコが送られてきたけど、
 その中でもやっぱりゴディバは美味しかったもん」


 「やっぱり材料の違いだろうな。シンプルなものほど材料の影響がデカイから」


 「でね、わたしはカップアイスを食べたの。味は美味しかったんだけど、ただちょっと……」


 「ちょっと?」


 「中にチョコが入ってたの。チョコ味の〜とかじゃなくて! それがまたおっきくて、だから硬か
 ったんだよー。食べててもゴリッ、ゴリッて感じで」


 「まぁ冷たいんだから、ある意味当たり前だよな」


 「せめて細かくチョコチップ状だったらなーって皆言ってた。1センチぐらいの塊なんだもん」


  背中を流しながら世間話をする。これも何となく夫婦っぽい感じがして、好き。


 「さて、俺は先に上がるぞ」


 「はーい」


  二度目の入浴となる為、体を洗うのもそこそこに耕介達はもう一度湯に浸かって体を温めると、
 風呂から出る事にした。


 「……さ、わたしも上がろっかな」


  耕介が先に上がり、それからすぐに知佳も湯船から立ち上がる。体を手ぬぐいで軽く拭って水気
 を落とす。


  姉などはいつもこれをしないので、脱衣所の足拭きをベタベタにしてしまう事に知佳は心を痛め
 ていた。


  お兄ちゃんは気にしないでいいって言ってくれるんだけど。


 「あれ? お兄ちゃん」


 「はい知佳、おかえりー」


 「むぎゅっ」


  カラカラと重い扉を開けると、そこには耕介が立っていた。両手に広げたバスタオルごとバフッ
 と知佳の体を抱き留め包み込む。


 「む〜」


  そのままわしわしと全身を拭きだした。知佳は直立不動でされるがままになっている。


  その内に耕介の人差し指が、タオル越しに耳の穴の中にまで入ってきた。


  知佳はこれが気持ち好くて好きだった、と同時に前から不思議だった。どうしてお兄ちゃんの方
 が指が太いはずなのに、自分でするより奥まで届く気がするんだろう。


  耕介の太い指にぐりぐりと、穴の奥の奥まで掻き回されながら、知佳はまるで小犬にでもなった
 かのような気分を味わっていたのだった。


 「おにーいちゃん」


 「なんだい、知佳」


 「今夜はこのまま、一緒のお布団で寝ようね」


 「ああ、もちろんそのつもりさ」






                     〜◆〜






  それから暫く経ったある日の午後、知佳と耕介はデートに出ていた。


  デートといっても近所の河川敷辺りを歩く、散歩の延長程度だったが知佳はご満悦であった。


 「この辺り、前にも来たよね」


 「ああ、もうちょっと奥へ行くと、以前皆と一緒にツクシ採りに来た所だな」


 「いっぱい採れたよねー」


 「いっぱい採れ過ぎて食べ切れなかったけどな。最後の方俺だけがお昼にずっとツクシの煮物食べ
 てたよ」


 「あははっ。ちょっと、苦かったもんねツクシ」


 「うん、あんまり子供が好むもんじゃなかったからなぁ」


  知佳は耕介の左側に立って腕を組んでいた。いや耕介の左腕にぶら下がっていた、といった方が
 傍目には正確だったかもしれない。


  知佳はこの点だけが少々不満であった。


  自分の体が小さいが為に、恋人と自然に腕を組むことが出来ない。こうして腕にぶら下がる様は
 他人から見たら、仲の好い兄妹にしか見えないだろう。


  こういう時は、ちょっぴり姉が羨ましくなる。姉ほど背があったら腕を組む事も、胸を、押し付
 ける事だって出来ただろう。


 「……んふふ♪」


 「ん? どうした知佳。なんかいい事でもあったのか?」


 「ううん、なーんにもっ」


  しかしそれでも今の楽しい気分が阻害される訳ではなかった。


  兄と妹としての関係も、知佳はまた好きだったから。


 「あのね、お兄ちゃん」


 「うん?」


 「あのね、わたしおにーちゃんの事……だーい好き!」


  唐突な告白に思えたが、それはコップから水があふれ落ちるように、今の幸せな気持ちが、溜ま
 り溜まった感情が知佳の口から零れ落ちてしまったものだった。


  一瞬驚いて眉を上げた耕介だったが、立ち止まって知佳の顔を見詰めニッコリと、優しい微笑み
 を湛えてこう言った。


 「……愛してるよ。知佳」


 「ふぇ? ……あ、う、うん」


  予想外のカウンターに知佳はしどろもどろ、無意味に何度も頷くばかり。


  その内に急に恥ずかしさが襲ってきた。顔はトマトのように真っ赤に腫れ上がり、ザザザーっと
 血流が頬に流れる音が聞こえる程だった。


 「プッ。はは、ははははははっ!」


 「むー」


  ついに耐え切れなくなった耕介は、腹を抱えて笑い出した。


  ようやくからかわれたのだと気付いた知佳は、可愛らしくぷーっと頬を膨らます。


 「もう、おにーちゃんなんかキライ!」


 「ククッ、ご、ごめんよ知佳」


 「ふーんだ」


  もう、知らない。


  恥ずかしさの裏返しで怒りも倍増していた知佳は、未だ笑い続ける兄を置いてスタスタと一人先
 へと歩き始めた。


 「なぁ知佳、悪かったって」


 「…………」


  知佳はつーんと明後日の方を向いて無視し続ける。


 「知佳、すまなかった、このとーり!」


 「……へへ、うーそ」


  追いすがる耕介の声に悲鳴が混じり始めた頃、知佳はピタッと止まってこう言った。


 「やっぱりお兄ちゃん、大好きっ♪」


  淡い萌黄色したスカートを翻しながら、知佳は花咲く様に笑ったのだった。






  一番好きなのは、あなた。


  一番好きになれたのは、きっと私自身。






                                       了









  後書き:他人の事を好きになるより、自分自身を好きになれるのって難しいですよね。
      なんだかんだで人間自分が一番可愛い、とかそういう意味じゃなくて。
      そうして誰かを好きになる、誰かに好きになってもらう事によって、
      ちょっとでも自分を好きになれたら。
      それはきっと素敵な事なんじゃないかなぁなんて。





  06/04/03――UP。

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