その日は 二男が風邪を ひいており学校を 休んでいた。
実家の父と母が 直の具合を 気遣っているだろうと思い お昼頃 実家へ直と電話した。
直が お食事しっかりとれているよと 安心させようと思って 又、20日の土曜日から 一泊二日で
滋賀県は伊吹のペンションをとっているので(父と母を あの丸太のコテージに どうしても
泊まらせてあげたくて予約を とっていたのだ) ペンション内は 暖房が ちゃんと きいており
とても 温かいから 薄着も 持って来るんだよと伝えたく 電話を したのだ。
家の方にかけても 誰も出なかったので 携帯電話のほうにしてみた。
結局 その電話での会話が 父との 最後の会話となったわけだ。(昼頃だった)
携帯電話の向こうには 父がでた。
一番に 直の風邪の具合をうかがってくれた優しい温かい父だった。
「直は、大丈夫だよ ご飯 いっぱい食べれたよ。安心してね。」
というと 「ああ、良かった」 と すごく胸をなでおろしたような声で 答えてくれた父だった。
妙に 声に生がない。 気になって 「どうして?」 と 父に聞くと・・・・・・
今 お昼ごはん中で事務所の中や ということだった。
ああ、それで 小さな声なのかと思い 会話を 続けた。
「オジジ、ペンション伊吹の中は とても暖房きいているから半袖くらいの薄着持って来ると良いよ。
それに 近くに 沸き水が 湧いているから ペットボトル用意してくると良いよ。
私達も ペットボトル持って行くからね。」
というと 父は
「ああ、ワシらも ペットボトル用意しているんやで。薄着やな。わかった 持って行くわな。
わしらも 念のため スノウタイヤしてあるねんや。」
「そしたらな、近江の郷で 合流しようね。」と、私
「ああ、伊吹で 会おうな。楽しみにしているで。」と言ってくれて
電話をきったのが 父との最後となった。
名古屋と奈良からでは 伊吹へ向かうのに
道の駅近江の郷が 一番良いね ということで
父が名古屋に来てくれたときに(結局それが最後の生前の父となった) 父と話し合ったのだった。
「俺 ここ よう知ってるで!8号線の所や。よっしゃあ、近江の郷で 合流しような」
って 得意げに 私が コピーした
近江の郷のマップと
ペンション伊吹の泊まる予定だった
コテージのコピーを しっかりと 持って 父は奈良へと 母と帰って行ったよね。
まさか それが 父との最後だったなんてその時 思いもしなかった・・・・・・
何故か その日は 玄関に忘れ物をして 一度帰ったのに又 戻ってきたよね・・・・
いつものように 二男の直が オジジとオババの走り去っていく車を 追いかけていたよね・・・
いつものように 私達はオジジとオババを お見送りしていたよね・・・・
目を 閉じると あの時の
ホンダのフィットの車に乗っている手を振る父と 母の姿が 目に
しっかりと 浮かびます。お父さん・・・・・・・・・、
あれが あれが 最後だったんだね。
平成15年12月17日水曜日の夕方は 長男が 帰ってくると同時に長男の鼻のアレルギーの
薬をもらう為 子供達2人連れて 耳鼻科へ 行っていた。
ふと 懐かしい 懐かしい
父との想い出の曲・・・・・。
まだ 私が中学生だった頃、当時 私達家族に いろいろな事があり 胸を痛めて
父を思い この曲を何度も口ずさんで 泣いてピアノを弾いていた当時の事を 思い出しておりました。
父を思っての私にとって とても思いで深い曲・・・・・・、
(小さな木の実)という歌・・・・・←
(クリックすると曲が聴けます)
急に父が 恋しくなったのを 覚えています。
なんて 懐かしい 父との想い出の曲がテレビから
流れているんだろうって 思いつつ 耳を 傾けていました。
この歌詞が大好きで
パパという 歌詞が出てくるので
中学生だった頃の私は 音楽の時間に習っていた この曲を歌うたびに
妙に 当時の心境の私の心に ぐっとくるものがあり 涙浮かべていたものでした。
耳鼻科の診察を終え、急いで 家に戻り 明日 算数のテストだという長男の言葉を聞いて
無理承知で 木曜日だった家庭教師の日を 水曜日に してもらうよう
今から 来て欲しいと 家庭教師に 電話したのだ。
家庭教師が 5時30分に 夕方 来てくれた。
その日は 用事が あるらしく6時20分までとの事だった。
5時45分ごろだっただろうか・・・・・、
母から 電話があり
「水ぼうそうの薬 こちらでも 手に入るから 大丈夫だよ」
と 電話があった。
そして 妙に 私は その日 時計ばかりみていたのだ。
6時20分ごろ 母から 緊急電話が入り
「おじいさん 倒れたー うちらの事は ほっといて あんた達だけで伊吹へ行って!」と。
そして 数分後 気になり 電話すると 親戚のおばさんがでて
「まきちゃんか、すぐ 帰って来てくれるか。」 と、、、、、。
その後 救急隊により 蘇生 心臓ショックや あらゆる処置が 行われていたらしい
母は 医師に
「必ず 奇跡が おこる!!!」
と 泣きながら 訴えたらしい・・・2時間 蘇生が 行われたが医師のほうから
「これ以上は・・・・・・・・。」ということで 蘇生の処置が 終えられたらしい・・・・・
死亡時刻 午後 8時40分と 記される・・・・・・・・・・・・
もう 救急隊が 来た時には 既に 息はなかったらしい。
お父さん 私が やたら その日 時計が気になって みていた
夕方 6時10分から15分頃 息を ひきとったんだね。 と 私は思った・・・。
母が シャワーかかっている間の出来事だったらしい・・・・・・・
父は母の温かい おいしいシチュウの食事をとって 母がシャワーを浴びている間に
突然 心筋梗塞で息をひきとったらしい・・・・・・・・・・・・・
親父が倒れた事を聞いて 私達が 奈良へ 駆けつけた・・・・
途中 親戚や 警察の人から 携帯に 電話が 入る・・・・
一体 何が 起こっているのだろう・・・・・
まだ 親父が 亡くなったことを 知らない 私達は 不安に 追われながらも
親父の所に 駆けつけようと 車を 急がせていた・・・・・・
親戚からの電話で 兄に 連絡を とれという・・・・・・・
もう 兄とは 15年 会っていない・・・・・
連絡先も 知らない・・・・・
ただ 兄が 経営している会社の名前だけは 薄っすらと わかっていた・・・・・
急いで 104で 兄の会社名を 言って 電話番号を 調べた・・・・
警察から 携帯に 電話が 入る・・・・・
『今 娘さん どこ 走っていやはあるの? 』と・・・・・
「まだ 名古屋です。もうすぐ 湾岸道路に 入ります・・・・」と 私・・・・・
『 気をつけて 来るねんで! お父さん 待って いやはあるからな
○ ○ インターで おりた 病院やで そこへ 来るねんで・・・・』と警察の人の温かい声・・・
あの時 名古屋を まだ 走っている時点で 警察の人が 親父の死を 隠してくれていなかったら・・・・
恐らく 私達は パニックで 交通事故を 起こしていただろう・・・・・
警察の方のおもいやりで
親父の死を かくしてくれた おかげで・・・・・・
私達は なんとか 気丈に 運転して 名古屋から 奈良へと 車を 走らせる事が出来た・・・・・
もうすぐ 奈良だというときに 息子が
『一体 何が 起こっているのか 聞いてみようよ』と息子が言う・・・・・
怖かった・・・・何が起きているのか 聞くのが 怖かった・・・・・
恐る恐る 着信で入ってた親戚の叔父の携帯にしてみた・・・・
叔父は あっさりと
『 ああ お父さんな〜 死なはったで〜』と 叔父の声・・・・・・・・・・・・・・・・・!!!!!!
もう その後の私や子供達は 取り乱し パニック 錯乱状態に なった・・・・
事故も起こさず 奈良に たどりつけたのが 不思議なくらいだった・・・・・・・・・・・・・・
やっと 指示通り 病院でなく 実家の方に 必死の思いで たどりつけた・・・・・・
帰るのに 3時間以上の時間が 軽く かかった・・・・・・
私は 名古屋に 住んでいる為・・・ 父の 死に目には 間に合いませんでした。
まわりの人の 話によると・・・・
救急車で 運ばれて とても 長い 長い時間 医者による 心臓マッサージを
繰り返されたそうです。
母が 『心臓マッサージを 止めないでー! やめないでー!』
と 泣き叫んでいたそうです。
最後に 医者から 『もう 心臓マッサージを 止めて 良いですか?』と
言われたそうです。
まだ 父の死を 知らずに 奈良へ夜中急いで 車を 走らせていました。
携帯に警察の方から 連絡が 入り・・・
『 娘さん お父さん 生きているからな 名古屋から 気ぃつけて
運転してくるんやで!お父さん 待っていやはぁるからな!』と・・・。
既に 亡くなっていた父なのに 警察の方の 優しい おもいやりの嘘だったんだなぁ。
とりあえず 家の方に 向かえと・・・、最後の連絡が 有り・・・・
ようやく 家に 辿りついたら・・・
叔母と叔父から・・・・
『まきちゃんの お父さん 死なはったんやぁ〜!』と・・・・
私は その場で 崩れ 号泣だった・・・・。
夜中だから 叔父 叔母が 声を 抑えるようにと いうアクションの 様だったが・・・・・・
私は 何も 常識なんて 考えられない・・・・・・・・・・・
ただただ 号泣で 狂ったように 泣き叫んでいた・・・・。
それから 約40分後・・・・・・・・・
親父は 病院の 白い車に 乗って 無惨にも 変わり果てた姿で 帰ってきた・・・・・・・・・・・
今日のお昼に 親父と電話で 話したのに・・・・・・・・・・・・・!!!!!!!!!!!!!
ドラマを みているシーンのようだった・・・・・
その後ろで 母が 号泣していた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私も 取り乱し 号泣していた ・・・・・・・・
不思議なものだ・・・・・・・
親父が 亡くなった時って・・・・娘は 子供の頃の娘に 戻るものだと・・・・・
私の まわりが 全く見えなかった・・・・
私の子供には 申し訳ないが 私の子供すら 目に 入らなかった・・・・・・・
ただ 父の子供である 娘に返っている 自分が いた・・・・・・・・・・・・・
この詳細な出来事を このページに打ち付けている間 私は 涙が絶えず
とても 辛かったけれど
どうしても 父の最期を このホームページに残しておきたく
キーを 打ちました。
結婚前・・・・・・
父とは よく 飲み歩きしました。
父とは よく アホなこと 言い合い笑いました。
父とは よく 私が高校生の頃
ポールモーリアやリチャード・クレイダーマン
のコンサートに行きました。
父とは よく 待ち合わせしてデートをしました。
父とは よく ケンカもしました。
父には よく 反発もしました。
父とは よく グルメ歩きしました。
最高の親父でした。
父とは よく会話したけれど 肝心なことを 話さなかった・・・・。
話しておきたかった事 いっぱいいっぱい あったのに・・・・・
自分が親となり 親の気持ちが良くわかるようになった今・・・・・・・・・・・・、
私が思春期の頃、又、同じ女性として母の気持ちがわかるようになった頃、
反発ばかりしてたけど 親父が こんなに苦労して 頑張ってきてくれたから
今が あるんだと・・・・、
話したくても もう 父は いない・・・・・・・・・・・・。
お経巻あげているときが せめてもの父と 話せる時。
親父! 苦労かけたね 私を 育ててくれてありがとう!!!
親父は 本当に温かく いつも 自分より 周りの人間の事を先に 気配りする温かい人だった
そして 浪漫いっぱいの 素晴らしい 親父だった 人を 笑わかすのが 大好きな親父だった!
私は そんな親父の影響を いっぱい もらった。
親父 親父の人生!よく がんばったな! 親父!最高だよ!
親父の人生に 乾杯!
17日から19日のお通夜まで 父と 一緒に居れたのが せめてもの救いだった。
親父のそばに いてあげた。夜もずっと 親父の隣に添い寝してあげた。
ドライアイスで冷やされていく親父の手をずっと 握り締めていた。
親父の手のぬくもりを ずっと 残しておきたくて。凍って欲しくなくって、、、、。
でも 霊法界の方に、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「お父さんは直々 大門約上大菩薩様に手をひかれて
霊界へと導かれのぼり歩いていらっしゃいますよ。」
そう言われた瞬間 私は 親父をこの世に 引っ張ってあげては いけないと気がつき
親父の握っていた手を そっと 離しました。
離した手は みるみる 凍っていきました。
親父 私を 育ててくれてありがとう
親父 私の子供達を いっぱいいっぱい愛してくれて ありがとう
最後まで 親父は 親父らしく 自分のことより 周りの人に気遣う 温かい温かい人だったね
親父!スキーやスケートに子供の頃 よく 連れて行ってくれたね。
親父! 日本海で ウニ取りしてくれたね。
その記憶を 大切に 親になった私たちが 親父が私にしてくれたことを 子供に してあげているよ
親父を 思い出してね 親父との想い出を 子供達に しっかりと話しつつね。
そして19日 昼前頃だっただろうか・・・・、葬儀屋が親父を迎えに来る前に・・・・・
親父との最高の想い出の曲!!!
親父と共に 聴いた 愛した 想い出の曲!!!
親父とふたりで よくコンサートへ行き 親父との想い出の曲で
この家から親父を送り出してあげたく
私は そっと ピアノに向かった・・・・・・・
当時・・・
ポールモーリアグランドオーケストラのオリジナル曲や リチャード・クレイダーマンの曲を
いつも 応接間(ピアノのある部屋)を暗くして ピアノの上にあるオレンジのライト
ダウンライトだけを 照らして 親父は そっとグラスにブランデーを入れて
私が弾く この曲に 耳を 傾けてくれていたよね。
親父は 当時 フラストレーションが いっぱいの毎日だったけれど
娘との時間が 親父にとって 恐らく 癒せる時間だったんだろうね。今から思うとね。
そんな 私の気持ちを 察したのか 兄貴が親父の変わりに ソファーに そっと座って
私のピアノに 耳を 傾けていた。
「親父 このピアノ聴いてる!? 親父! 私の弾くピアノの音色が 好きだったでしょう?
親父!もう 本当に最後だね! 火葬されていくんだね・・・姿が無くなるんだね・・・・・
親父! 親父との思い出の曲で 私のピアノで
親父を この家から送り出してあげるね。」
お通夜からお葬式の19日から20日は雪の舞う寒い寒い日だったね
伊吹へ行こうねっていっていた20日の土曜日 父の葬式の日となりました。
なんだか 親父が火葬される時の扉が 閉まる時 気が おかしくなりそうだった程
涙が でた・・・・。号泣だったとの事らしい。周りが全く見えなかった私だった。
でも 不思議と 火葬されていくと 父が 天国に舞い上がって行ったように思え
胸が スーっとなったのを 感じた
子供達と ずっとずっと 火葬されてく親父の煙を みつめていた・・・・・・・・・・・・・・。
その後 不思議と 私は実家の あの家を ひたすら 掃除しつづけた自分がいた。
涙ドボドボ 流しながら ただ 大掃除しつづけた自分がいた・・・・・・・・。
そして あの家に母が 住みやすいように 住みやすいように 又 可愛いお部屋に してあげた
親父が母にしてあげたかったことを 今度は 私が親父の気持ちを 引き継いで
私が 母に していくからねと 心の中で誓い 叫びながら。
してあげたい時には 親は いないって 聞いた事あるけど 本当だと思った。