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エピローグ

 空が白み始め、夜通し降り続いていた冷たい雨もいつの間にか止んでいた。
 池のほとりにある木のベンチに腰を下ろしたまま一夜を明かし、雨で濡れた体はかなり冷え切っていた。直に夜が明けて太陽が空に昇れば、夏場のこの時期ならすぐに体もしめった衣類も乾くだろう。
 太陽が昇れば新しい一日が始まる。それがどんなに昨日までと違う今日だろうと、世界が存在する限りそれは普遍的に容赦なく訪れる。
 今日を照らす太陽が空に昇ったら、昨日までと違う今日を受け止めて生きていかなければならない。例えそれがどんな今日であろうとも。
 シェドは目を細めて暁の空を見上げる。
 もしシェドの前にシールディアが姿を見せれば、それはアリアの命がすでに燃え尽きていることを意味するだろう。そしてもし、アリアがシェドと共に今日という時を刻んでいけるのであれば、それはシールディアがアリアの身代わりとなってその命を捧げたことを意味している。
 シールディアが躊躇して覚悟が揺らいでしまったとしても、シェドにそれを咎める権利などない。もしシールディアが躊躇ったのならば、間違いなくその理由はシェドにあるだろうから。
 現実を受け止めなければならない。前を向いて立ち上がらなければならない。
 そんなことを思いながら空を見上げていると、キリキリと錆びた鉄同士が擦れ合うような音が後方から響いてきた。
 振り返ったシェドの視界に、車椅子の車輪を回しながらこちらへ近寄ってくるアリカが映った。
「ずっとここに居たの? もう、びしょ濡れじゃない」
 覇気のない笑顔でアリカはそう言った。目の当たりが赤く染まって少し腫れており、顔色はあまり良くない。きっと一睡もしてないのだろう。
 そのままアリカは車椅子を進めて池のすぐ手前まで移動し、シェドに背中を見せながら天井に空いた穴から覗く空を仰いだ。
「雨、あがったね。今日はいい天気になりそう」
「……そうだな」
 アリカに習ってシェドも空を仰ぐ。先程よりも白みが増し、もう夜明けはすぐそこまで近づいていた。
「今日の朝陽を、きっと何処かであの子も見てるでしょうね」
「…………」
「もしかしたら朝陽そのものになって私達を見ているのかもしれないわ」
 アリカの言葉で先程の答えが分かった。
 シェドは瞳を閉じ、銀色の髪をした少女の姿を脳裏に描く。
 頭に浮かんだ少女の顔は笑っていた。何も迷いがないかのように、とても晴れ晴れとした笑顔をシェドに向けている。
「最後にお礼言われちゃった。私が居たから今のシェドがあって、今のシェドが居るから今の私が居る。だからありがとうって」
 空から視線を下へ戻すと、アリカは穏やかな表情でシェドを見ていた。そんなアリカを真っ直ぐ見つめ返し、シェドは口を開く。
「……俺が居たから、か。もし俺と出会うことがなかったら、あいつはずっとラーミアの遺跡で眠りについていただろう。もしかしたら、その方があいつにとってよかったんじゃないかって思う」
「それは――」
「ああ、それは違う。最後にあいつが見せてくれた笑顔。それが答えだ。あいつは俺と出会えたことを心から喜んでくれていた。だから、俺とあいつの出会いは決してあいつを不幸にするためのものじゃなかったと、俺は信じてやらなければならない」
 シールディアがシェドと出会ったことは、決してシールディアにとって不幸なことではなかったはず。それは他の誰でもなく、シェドがそう信じなければならないことだ。
「俺は生きている。そして俺が守りたかった者の命も、あいつがその命を犠牲にしてまで守ってくれた。世界も、まだ滅んだわけじゃない」
「そうね。きっと、あの子はあなたにすべてを託したのよ」
「わかってる。あいつが守りたかったものを、今度こそ俺が守らなければならない」
「……何よりも、あなたが一番大切に思う人をね」
 アリカがシェドの後方を見つめ、柔らかな表情でそう言った。そして車輪を掴んでキリキリと回し始め、シェドの脇を抜けて家の方へ引き上げていく。
 そんなアリカを目で追おうと後方を振り返ったとき、シェドの瞳にその姿は映った。
 最後にその瞳が自分を捉えたのはいつだろう。あの澄んだ青空みたいなコバルトブルーの瞳に、自分の情けない顔が映ったのはいつ以来だろう。
 アリカがその者の隣を通り過ぎて自分の家へ引き上げていく。まだ夜も明けきらない池の畔に、シェドと桃色の髪をした少女だけが取り残される。
 あれから背も伸び、髪も少し長くなっていた。しっかりとそれ以外の部分の女らしくなっており、外見だけでなく心も成長していることだろう。
「アリア」
 強くハッキリと、噛みしめるようにシェドはその名前を呼んだ。
 おそらくアリカのものであろう大きめの服を身に纏うアリアが、一瞬体をビクッと強ばらせた後、何度か迷うように口の開閉を繰り返す。
 しばらく黙り込んだ後、アリアは顔をふるふると左右に軽く振ってから、あの頃と変わらぬ、いや一層磨きの掛かった柔らかな笑顔を浮かべた。
「シェド……」
 きっと何を言っていいのか困惑していたのだろう。けれどどんな言葉よりも先んじて相手の名前を呼び、相手に自分の声が届いていることを幸せに思う。シェドがそうだったから、きっとアリアも同じ気持ちなのではないかと思った。
 ゆったりとした歩調でアリアが近づいてくる。互いの距離が近づいて、さらに相手の顔、表情がしっかり見えるようになる。
 前はシェドの腰当たりまでしかなかった身長も、今では胸元くらいまで伸びている。ショートボブだった髪は肩口に触れるセミロングになっており、体の輪郭は子供特有の丸みではなく女性特有の柔らかなカーブへ変わっていた。
「見違えたな。たった一年だって言うのに、女の子の成長ってのは早いモンだ」
「シェドはちっとも変わってない」
「そりゃあこの年で劇的に変化する方がおかしいだろう。まあ激太りとか激やせならあり得るだろうが、身長が二十センチも伸びたりはしねぇさ」
「……何かちょっと安心した」
 目をやんわりと細めてシェドを見上げるアリアの表情は、少し頬が朱く染まっていることも相成ってとても愛らしかった。
「安心?」
「うん。シェドが私の知ってるシェドのままで居てくれたから、安心した」
「……成長してないって言われてるみたいで素直に喜んでいいのか迷うところだが、まあ、お前がそう言うならよしとするか」
 そう言いながらシェドは右手を持ち上げてアリアの髪に触れる。
 以前なら高さ的にちょうどいいアリアの頭頂部を撫でているところだが、今は耳の横辺りの髪を愛でるように優しく触れた。
 失ったものもある。けれど、失われていないものだってある。
 今度こそシェドがアリアを守っていく。生きがいとして真っ向から受け入れた自分の正直な気持ちを貫くため、シールディアが救ってくれたアリアを今度はシェドが守っていく。
 髪を撫でていた手を肩の後ろへ落とし、シェドは静かにアリアを抱き寄せた。


 触れている部分から相手の鼓動、熱が伝わってくる。
 一度体を離して互いの顔を見つめ合った後、もう一度、今度はアリアの方からシェドの胸に抱きついた。シェドはアリアの背中と後頭部に手を回し、優しい手つきで後ろ髪を撫でてくれる。
 夜が明けて太陽の光が降り注いでくる。池の水面のがキラキラと輝き、鳥たちの囀りが地下空間であるテムルに明るく響き渡っていた。
「たくさんのことがあった」
 シェドに身を寄せたままアリアは口を開いた。
「……そうだな」
「楽しかったこと、幸せだと思ったことも沢山あるけれど、悲しいことも沢山あった」
 目が覚めてしばらくは呆然としていたが、泣きながら抱きついてきたセシリーや元気なく微笑むシルヴァランスの顔を見つめている内に何があったのかを思いだし、徐々にハッキリしていく記憶が恐怖を喚起させた。
 火の手が上がる街。目の前で倒れた父親の姿。再び堕ちた深い闇の中。
 けれどそんな恐怖を振り払ってくれたのは、大好きな人達の温もりと、アリアの胸に輝く聖石とは違って暖かな光を放つ綺麗な石だった。両手で包み込むだけで温かい気持ちがこみ上げてくるその石が何なのか、アリアはちゃんとわかっている。
「私が居たせいでジペインの街は灼かれ、私を守るためにお父さんは命がけでかばってくれた。そして私がニーヴルに捕まったせいで世界は崩壊の危機にさらされて、私を救うためにシールディアはその身を犠牲にした。全部、全部私のせい……」
「そんなことはない」
 懺悔を口にしたアリアの耳にシェドの声が強く響き、アリアはシェドの胸にしがみつく手に一層力を込める。シールディアがアリアにくれた命をシェドにも感じて欲しくて、胸元に埋まっている暖かい石をシェドの体に押しつけた。
「スルトさんもシールディアもお前が生きていることを望んだ。そして世界もそれを許してくれたからこそ、お前は今ここにいる。だからお前はここに居ていいし、何よりも俺がお前に笑っていて欲しいと願っている。お前には悲しい顔じゃなくて幸せそうに笑っていて欲しい」
「……夢の中でシールディアが言っていた。幸せになれって。誰よりも幸せになってくれって」
「ああ。きっとスルトさんだってそう願っている。二人とも、お前に生きて幸せになることを望んでいるはずだ」
 ずっと抱き合っていた体を離し、アリアはシェドと並んで空を仰いだ。
 朝陽がアリア達を照らしてくれる。それはシェドの言葉通り、アリアがまだこの世界で生きていてもいいと言ってくれているかのようだった。
 眩しくて暖かな朝の光に身を包まれていると、不思議と夢の中で会ったシールディアの笑顔が脳裏に浮かんだ。アリアはシェドの顔見上げ、視線に気づいたシェドがアリアへ視線を落とす。
「どうした?」
「夢の中のシールディア、とてもあったかい笑顔を浮かべてた。すごく女の子らしくて可愛い笑顔だった。太陽みたいに暖かかった」
「知ってる。最後にあいつが見せてくれた笑顔は、今のお前に負けないくらいの笑顔だったさ」
 きっとアリアの脳裏に浮かんでいる笑顔と同じ笑顔を思い浮かべたのだろう。シェドは穏やかに微笑みながらそう言った。
「あと、シールディア言っていた。シェドに、キス……、したって。夢から覚めたら本人に聞いてみろって」
「……ったく、夢の中でそんなこと言うなよ」
「ホントなの?」
「言っておくが俺の方から無理矢理迫ったわけじゃないぞ?」
 どうやら本当らしい。夢でシールディアが言っていた通り、シールディアの方からシェドの意志を挟まず奪ったようだ。
 シェドがシールディアとキスしているところを想像すると少しムッとする。どんな気持ちでシールディアがそうしたか分かってるし、誰にもそれを咎める権利なんてないのに、それでも小さな嫉妬心は消えそうになかった。
 だってアリアはシェドのことが好きだから。一年前の別れの時、どんなに自分にとってシェドが大切な人なのか知ったから。
 シェドが、黙ったまま口を尖らせているアリアの髪に触れる。
「ちゃんと言葉にして伝えておきたいことがある」
 アリアの瞳に映ったシェドの表情は何よりも真っ直ぐで穏やかだった。
「なに?」
「生きがいが見つかったんだ。ずっと探していた、俺の生きがいが」
「生き、がい……」
 久しぶりにシェドの口から聞いたその言葉に、大きくアリアの胸が高鳴る。
 何度その言葉を不安に思ったことだろう。シェドは決してアリアのためではなく自分の生きがいを探すためだけに一緒に旅をしていた。だから別れの際にアリアが自分自身の内にあるシェドへの強い想いを自覚しても、ぐっと押し殺して涙に暮れた。
 シェドの生きがいが見つかることは、アリアの両親が見つかることと同じくアリアとシェドの別れを意味していた。だからずっと恐れていた。
 けれど今は、恐れと共に小さな期待が胸にある。シェドのアリアへ向ける穏やかな表情が、アリアの胸の鼓動を加速させる。
 そして――
「俺の生きがいは、お前を護ることだ」
 望んでいた言葉。心が温かくなり、自然と涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
 側にいて欲しい人が側にいてくれる。それはどんなことよりも幸せなことに思えた。
 幸せであればあるほど同じだけの恐怖が生まれるとセシリーは言っていた。幸せを失う恐怖が芽生えてしまうから、幸せに対して臆病になってしまうと。
 でも、だからといって逃げていては駄目なのだとも言っていた。本当に幸せになりたいのなら、怖くても前を向いて今の幸せを心から喜ばなければならないと。
 だから――
「私も、私もシェドを護りたい」
 アリアはそう誓いを立てた。
 大切な人と共に過ごせる愛おしい日々。それを失うかも知れないという恐怖はある。でも、だからこそ逃げたりせず、自分の手でその幸せを守っていきたいと強く願う。
 夢の中でシールディアは言っていた。必ず幸せになれと。アリアには、幸せになる義務がある。
「そうか。じゃあ、お前の背中は俺が護るから、俺の背中はお前が護ってくれ」
「うん」
 どちらからと無く互いの手を握り、揃って朝焼けの空を見上げた。
 溢れんばかりの光がアリア達を照らしてくれる。包み込んでくれる。
 そっと瞳を閉じれば、光の中でシールディアが微笑んでいるような気がした。シェドと一緒に前を向くアリアを優しい眼差しで見守ってくれている気がした。
 掌から伝わってくるシェドの体温を感じながら、アリアはずっと空を見つめ続ける。
 これからもずっとこの手をつないでいられるよう、そう願って。
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