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第五章 代償 闇に包まれた空を駆ける一頭の飛竜の背に、がたいのいい大男がまたがっていた。額に傷のある男――ミゲルの目には、漆黒の空に浮かぶ巨大な闇の球体が映っていた。 ヴァルハラが漂っていた空域には、まるで闇を凝縮させたような球体が浮かんでいた。太陽とは正反対にすべての光を飲み込んでいくような球体は、直径数キロはある巨大な物体。 ミゲルは飛竜の手綱を強く引き、怯える飛竜を押して無理矢理闇の中へと突貫させた。闇がミゲルと飛竜の体にまとわりつき、視界が一瞬にして真っ黒に染まる。 まるで分厚い暗雲に包まれた小惑星へ突入したかのように、長い闇のトンネルを抜けた先には生まれたばかりの大地が広がっていった。薄暗い世界は草木の一本も無い荒れ果てた大地が続き、生命の息吹など微塵もない。 そんな世界の中心に、石造りの巨大な城がそびえ立っていた。それはまるで闇に浮かび上がる悪魔の居城。 ミゲルは何の躊躇いもなく、むしろ少し腹立たしそうな表情で城へ向かい、テラスで飛竜から飛び降りるとズカズカと奥へ踏み入った。 しばらく長い廊下を進むと、朱い絨毯が敷かれた広い王の間に出た。玉座に腰を下ろす精悍な顔つきの男と、その両隣に佇む長い黒髪の女、赤い短髪の隻眼男をそれぞれ一瞥し、ミゲルは不機嫌そうに口を開く。 「勝手に計画を前倒ししやがって」 玉座に腰を下ろしたまま不敵に微笑むルシフェルの隣で、長い黒髪を掻き上げながらレミネーラが柔らかく笑んだ。 「ごめんなさい。あなたに声を掛ける余裕がなかったのよ。無遠慮にヴァルハラ神殿へ踏み込んできた連中が、少々こちらの予想よりも手強かったから、仕方なく不完全なまま真の天使達、そして真のヴァルハラを起動させるしかなかったの」 レミネーラの言葉を受け、ミゲルはグルリと王の間を見渡した。 玉座の後方には、微動だにせず佇んでいる十二人の少女達がいる。だが彼女らには感情どころか命の鼓動すら感じられず、精巧に作られた人形にしか見えなかった。 「逃げたエインフェリア程度なら、人工聖石を使ったお前やカルネなら造作もなく殺れる相手だろう」 「それだけじゃないわ。ガルバトロスが結成したという組織の連中に可愛らしいドラゴン、そして、魔弾……」 「シェドが来たのか!」 頷くレミネーラを見た後、ミゲルが口惜しそうに奥歯を噛みしめた。まるで待ち合わせに遅れた相手を待たず、先に帰ってしまった恋人を恨むように。 「安心して。私やカルネでは殺せなかったわ。もしかしたら、また私達の計画の邪魔をしにくるかもしれないわね」 「……そうか。それで? 聖石の完成度はまだ不十分だったはずだが、どうする?」 「どうもしないさ。不完全とはいえ、真の天使達を目覚めさせられた。もう一つの神を復活させるために必要な聖王石も、この通りだ」 ミゲルの問いにルシフェルが落ち着いた様子で答え、手に持っていた水晶のような半透明の球体をミゲルに見せた。 亀裂が走り、ひび割れたガラス玉のようなこぶし大の球体を、ルシフェルは口角をあげたまま弄んでいる。 「それが真の天使が持っているという聖王石の欠片を合わせたものか。……欠片を奪われても天使どもは動けるのか?」 「ああ。聖石と聖王石の欠片は別物だ。もう一つの神が我々の神によって封印されるとき、自身の魔力を分散させて聖石に溶け込ませたのが聖王石の欠片であり、真の天使を動かす魔力は聖石に由来するため、聖王石の欠片を奪っても天使達は駒として動かせる」 「なるほどな。だが、どう見てもまだ聖王石は未完成だが?」 「計画を前倒ししたから仕方ない。聖石を通じて器だった少女達から穢れや闇を吸収させたが、まだ完成には至らなかった。だが、ここまで復元できれば後は精錬せずとも自己修復で十分だろう。時間は掛かるがそれは待つしかない。なに、ものの数日だ。蝕には十分間に合う」 ミゲルはルシフェルの手の上にある、聖王石と呼ばれたひび割れた水晶のような球体を見つめ、目を細めた。 しばし聖王石を見つめた後、ミゲルは踵を返してルシフェル達に背を向ける。 「世界再生……、いや、あいつらに言わせれば世界崩壊だが、あいつらはそれを阻止するために必ずまた現れるだろう」 背を向けたまま、ミゲルは言う。 「だろうな」 「その時まで体を休めている」 そう言い残し、ミゲルは王の間を後にした。 廊下を進みながら、ミゲルは強く拳を握りしめ、長い長い廊下の先を見つめながら口角をつり上げた。そこに居ないはずの人物を網膜に映し、沸々とたぎる血の鼓動を心で聞く。 「世界を崩壊させたくなかったら阻止してみせろ。……俺を楽しませろ、シェド!」 誰も居ない廊下で呟き、ミゲルは闇へとその身を沈めた。 * * * いつもなら夕暮れに染まる空が広がり、世界が燃えるような茜色に包まれる頃合い。だが今日は厚く空を覆った黒い雨雲のせいで、まるで世界は色を失いつつあるかのようにモノクロな色合いを呈していた。 テムルという名の、アルトレア大陸各地から集まってきた人々によって作られた町から少し離れた森の中で、アイザックはナイと共に体を休めていた。ヴァルハラでレミネーラから受けた傷は、決して浅くはない。 シルヴァランスとガネットは魔弾のシェドとドラゴンの少女を追ってテムルの中へ入っていき、部外者に対して寛容でないテムルに自分たちまで押し入るのはまずいと判断したアイザック達はこうして外でガネット達の帰還を待っている。ガネットがシェドに話を通し、アイザックと話す場を用意させる算段だ。 「そういえば、あのエイルというドラゴンはどこへ行ったんだ?」 「行き先は言っていませんでしたが、何か向かわなければならないところがある様子でしたね」 他のドラゴン達のところにでも行ったのだろうと思い、アイザックはそれ以上の詮索をやめた。 森の中は静寂に包まれており、自分の呼吸音と心臓の鼓動ぐらいしか音がしない。 しばらく静寂に身を任せてアイザックが佇んでいると、ふと風が森を吹き抜け、青葉茂る木々の枝をサラサラと揺らした。 アイザックは無言のまま顔をあげる。今にも泣き出しそうな曇天に、一際目立つ純白の白馬――もといペガサスの姿があった。 「ヴィクトリア達が来たのか?」 「そうでしょう。セカンドベースの同志からヴィクトリア達が飛び出したという連絡がありましたので、そろそろ来る頃合いだと思っていました」 そんな話は聞いていなかった。てっきりヴィクトリアはずっとセカンドベースで待っているものだとばかり思っていたので、少しだけ心拍数が上がるような気がした。 ジトッとナイを睨んでみるが、当人はまったく気にする様子はない。 「まあ、いきなり通信が切れたからおかしいとは思っていたが……。ふぅ……」 別に再会前に準備が必要とかそういうわけではないのだが、何となく今は、無様に負けて全身傷だらけの情けない体たらくをヴィクトリアに見られるのが億劫だった。セカンドベースに戻ったときに会ってもそれは同じなのだが、今はまだ油断していたというか、心の準備ができていない。 そうこう考えているうちにヴィクトリアの愛馬、ポニーが降りてきて、背中から三人の女が降りてきた。ヴィクトリアと、セシリーというシルヴァランスの恋人らしき蒼い髪の女、もう一人は見覚えのない黒髪の女だった。 アイザック達に気づいたヴィクトリアが二人に何か言っている。そして二人がテムルへ向けて走り去った後、ヴィクトリアだけがアイザック達の方へ駆け寄ってきた。 「アイザックさん!」 「よう、ヴィクトリア。魔通信でも言ったが、お前の声を聞けてようやく生きて帰れたって実感が湧いてきた。……まあ、見ての通り無様な敗走だったわけだがな」 木の幹にもたれたまま、アイザックは片手を上げて白い歯を見せた。何とか普通の態度をとれたことに思わず安堵する。 ヴィクトリアはアイザックの痛々しい傷口を見て眉を顰め、ポケットから白いジェムを取りだした。 「ヒールジェムか。俺よかナイを先に癒してやれよ」 「何を言っているんですか。どう見ても私よりアイザックさんの方が傷は深いでしょう。……ヴィクトリア、私は後でいいので、アイザックさんの手当てを頼みますよ」 そう言い残してナイがその場を離れていく。あまり感情を顕著に表さないナイだけに、去る間際の、ほのかに笑んだその横顔はアイザックの瞳にしっかりと映っていた。 ナイが去った後、ヴィクトリアがアイザックのすぐ隣の大地に両膝をつき、ヒールジェムを握った手をアイザックの胸元へ近づけた。アイザックの顔のすぐ下にヴィクトリアの頭が潜り込み、甘い香りが優しくアイザックの鼻孔をくすぐった。 「……情けない、よな」 ヒールジェムの淡いグリーンの優しい光に包まれながらアイザックは呟く。ヴィクトリアは何も答えず、ヒールジェムを輝かせ続けていた。 「世界崩壊を食い止めるなんて大見得切って出てったのに、こうしておめおめと逃げ帰ってきたんじゃ、マジでヘタレもいいところだな」 「そんなことありませんわ。アイザックさんも、ナイさんも、そしてお兄様や他の同志の方々も、皆一生懸命、世界を救うために命を賭して戦ったのです。それを情けないなどと思う薄情でスカタンなヒトデナシなどいませんわ」 「ヴィクトリア……」 「え――……っ!?」 気づいたとき、アイザックはヴィクトリアの小さな身体を強く抱き寄せていた。自分でもどうしていきなりそんなことをしようと思ったのかわからない。ただ、本能的に目の前の少女を愛しいと思って暴走してしまっただけかもしれない。 瞳を閉じ、しばらくヴィクトリアの熱を間近で感じていると―― 『バチンッ』 小気味よい音が森に響き渡った。雲に隠れた夕焼け空に代わり、アイザックの頬に朱色の手形が浮かぶ。 「な、ななな、何をなさるんですか! ひ、人が手当てをしてさしあげている無防備なところに、は、破廉恥なことをしないで下さい! アイザックさんはやはりヘンタイで鬼畜で女ったらしのロクデナシです!」 頬を赤く染め、怒っていると言うよりも困ったような顔つきでヴィクトリアが一気にそう言った。その表情がまた反則的に可愛く、思わずまた出そうになった手を自重する。 「悪い悪い。……どうも最近溜まってるみたいでな。そんでもって身近に可愛らしい女の子が居たもんだから、つい手が出そうになった」 「か、かわ――……。……っ! も、もう知りません! 大方手当ては終わりましたので、わたくしも行きますわ!」 逃げるように背を向けて走り去っていくヴィクトリアを見つめ、アイザックは頬をさすりながらため息をもらした。 程なくして戻ってきたナイに、アイザックは口を開く。 「すまねぇ。お前の手当てはまた後で頼んでくれ」 ナイがアイザックの頬にある小さな手形をしばし見つめた後、聞こえよがしに大きなため息をついてから首を左右に振った。 隠者の町テムル。深い森の奥にひっそりとたたずむ、天然の地下空間に作られた町。 巨大なドーム状の地下空間の壁に横穴を掘った住居で生活するのは、様々な地方から色々な理由を持って落ち逃れてきた人々で、過去のしがらみに怯えながらも穏やかで安らかな生活に身を委ねていた。 階層構造をとるテムルのゼロスフロアにある一軒の家。シルヴァランスがまだシェドと共に旅をしていた頃に立ち寄ったことがある、アリカという女性が父のギャムルと一緒に生活している場所。 アリカの部屋の壁際で、シルヴァランスは口をつぐんだまま、固く瞳を閉ざしてベッドに横たわるアリアと、ベッドの脇でアリアをジッと見守るシェドを見つめていた。 シルヴァランスの隣にはシールディアとアリカ、そしてガネットの姿がある。シールディアは瞳を閉じて落ち着いた様子を維持しており、ガネットはそんなシールディアとシェド、アリアを切り替わり見つめていた。 そっとアリカの部屋を出て玄関に面している居間へ移動する。シルヴァランスに少し遅れてキリキリと何か軋むような音を引き連れ、車椅子に乗ったアリカが居間へやってきた。 ビリジアンの長い髪を結い上げて後頭部でまとめ、菫色の瞳には困惑とともに悲壮が漂っている。 「アリカさん。今更ですが、お久しぶりです」 「はい」 「いきなり押しかけて、ろくな説明もせずにすいません。……それだけ、今のシェドさんには余裕がないということですので」 「はい。今のシェドを見ているのはとても辛いです」 他人の感情に敏感なアリカだけに、シェドのアリアに対する深い想いには気づいているだろう。だからこそ、今まさにそれを失おうとしているシェドの内心を察し、まるで自分のことのように悲しんでいるように見えた。 シルヴァランスは間を置きながらアリカに経緯を話した。アリアが天使の器であったことや、両親が見つかったこと、父親が殺されたこと、そして、アリアが瞳を開かない理由。 あまりに現実離れした事柄にも関わらず、アリカが静かにシルヴァランスの言葉を聞き、それを現実だと認識してくれた。いや、本当なら受け入れたくない事柄だろうが、アリアを見つめるシェドの表情を思い出しながら、それが現実であり受け入れざるをえないと思ったのだろう。 「アリアちゃん……。なんで、あんなにも純粋でいい子が、こんな辛い運命を背負わなくちゃいけないんだろう」 居間に広がる重たい空気を払う術など無く、シルヴァランスは項垂れるアリカから視線を逸らして固く拳を握りしめた。 その時、遠慮気味に玄関の戸をノックする音が響いた。 顔を上げたアリカが、瞳の縁に溜まっていた涙を手の甲で拭って健気に笑顔を整え、車椅子の車輪を回して扉の方へ寄っていった。 「はい。……あっ……」 アリカが戸を開くと同時に驚きの声を漏らした。シルヴァランスが視線を向けると、途端に訪問者と目が合った。 夏の青空を思わせる長い髪と、愁いを帯びた黒い瞳。シルヴァランスが一歩踏み出す前に、その人は真っ直ぐシルヴァランスへ駆け寄って胸に飛び込んできた。 「シルヴァランスッ!」 「セシリーさん」 互いの名前を呼び合い、そのままシルヴァランスはセシリーと唇を重ねた。 数秒間唇を重ねた後、セシリーがゆっくりと体を離し、安堵と不安の混じった表情でシルヴァランスを上目遣いに見つめる。 「シルヴァランスさん! アリアちゃんはっ?」 二人が見つめ合っているところへ遅れながらミレーヌがやってきて、「そういうのは後っ!」と声を張り上げてシルヴァランスとセシリーの間に割って入った。 「……奥の部屋で眠っています。シェドさんとシールディアさんもそちらに」 「行こう、セシリー」 ミレーヌがセシリーの手を引いて奥へ消えていく。怯えた眼差しでシルヴァランスを見つめ、アリアのところへ行くことを躊躇っているように見えたセシリーに、シルヴァランスは何も声を掛けてあげられなかった。 アリアを本当の妹と変わらないくらい愛していたセシリーに、現実を伝えるだけの勇気が無かったのかも知れない。シルヴァランス自身が、何か絶望に近い諦めを感じているからなのかもしれない。 セシリーの背を見送った姿勢のまま固まっていると、アリカが車椅子の車輪を回して近寄ってきた。 「……何時の間に、シルヴァランスさんとセシリーさんはそういう仲に?」 「え? ……ああ、実はここを離れてしばらくした後、その、夫婦の誓いを立てまして」 「あらあら、素敵です。初めてお会いした時から、お似合いのカップルだと思ってましたから」 重い空気を無理に払おうとしているのか、アリカが無理をしているのは痛いほどよくわかった。アリアの残酷で非情な現実からほんの少しでいいから目を背けたいという、アリカなりの必死に情緒を維持しようとする気持ちがうかがえる。 お似合いと評してくれたアリカに笑顔を送ったとき、ふいに家の外が騒がしくなった。 「何かしら?」 アリカが不思議そうに扉へ近寄っていく。外から聞こえるのは、姦しい少女の声だった。 「わた――は――様とお姉――家族で――ですから――……!」 「……アリカさん、僕が見てきます。どうやら騒ぎを起こしているのは僕の関係者みたいですから」 セカンドベースに居るはずのセシリー、ミレーヌが現れた時点で予想はついていた。やはりヴィクトリアも一緒にテムルへ来ているのだろう。 「関係者?」 「実の妹です」 そう言い残して玄関をくぐり、シルヴァランスは階層構造をとるテムルの最下層、ゼロスフロアを、その中心にある池の方へ歩いていった。 地下空間で唯一太陽や月の光が届く池の周囲。しかし今は厚い雲が空を覆っているため、すでに陽は沈んでいるのだが月光は届いておらず、町の人間が持っている松明や魔練器灯の灯りだけが輝いていた。 「怪しい女だな! 何故この場所がわかった!」 「だから何度も何度も再三に渡って繰り返し繰り返し答弁していますでしょう! わたくしは――」 「ヴィクトリア!」 声を張り上げると、ヴィクトリアとヴィクトリアに視線を向けていた町の人間全員が一斉にシルヴァランスを見つめた。 すかさずヴィクトリアが自分を取り囲む男達を払いのけてシルヴァランスの元へ駆け寄り、その背中に隠れるようにしがみついた。 「……お前さんの知り合いか?」 「はい。僕の妹です。……すいません、お騒がせしてしまって」 一年半ぶりにテムルを訪れたシルヴァランス達を町の人々は覚えてくれていた。だからすぐに招き入れてくれたが、本来は町の外から来る人間に対してかなり強い警戒心を抱いている人達だ。それだけの過去があるということだろう。 シルヴァランス達のことを信用してくれているからか、町の人達もそれ以上ヴィクトリアについて追求しようとせず、中には「悪かったな嬢ちゃん」と後頭部を掻きながら笑みを浮かべる男もいた。それに対してヴィクトリアも、 「こ、こちらこそ突然の来訪でアポイントも取らず申し訳ありませんでしたわ! その、まだまだ世間に疎い若輩者ですので、こ、今回のことはどうかご容赦下さいませ!」 と、先程まで泣きそうな顔で強気の発言を繰り返していたのを一転させて、あたふたしながらペコペコと頭を下げていた。 ずいぶん丸くなったというか、お転婆も少しは落ち着いてきたかと兄ながら嬉しい反面寂しく思いつつ、シルヴァランスはヴィクトリアの頭にポンと手を乗せた。 「……お兄様、この手は何ですか?」 「え? ああ、ごめん。つい」 シェドがアリアに対してそうしているところを見てきたからだろう。他人の癖が勝手に伝染ってしまったのかもしれない。 「……別に、嫌ではないので構いませんが……。それより、お姉ちゃんやミレーヌさんはどちらへ? それと、あの……、桃色の髪をしたあの女の子は……?」 視線を泳がせつつ、表情を曇らせたまま尋ねるヴィクトリアの手を取り、「こっちだ」と言ってシルヴァランスはヴィクトリアを連れてアリカの家へ戻る。 玄関から居間を抜けるとき、アリカが笑顔でヴィクトリアを迎え入れてくれた。ヴィクトリアにアリカのことを話すと、ヴィクトリアは丁寧に腰を折ってアリカに会釈をした。 そのまま三人でアリアが眠る部屋へ移動する。 部屋の戸を開く音が響いても、ベッドに横たわるアリアはもちろん、それを見守るシェドもこちらを振り返ったりせず微動だにしなかった。実はヴァルハラからを含めてまだ一言もシェドと言葉を交わしていない。 シルヴァランスとシェドの間に会話がなかったことを証明するように、久々にかつての旅の仲間が集ったにも関わらず、そこに再会を祝う空気など微塵も感じられなかった。 アリアの呼吸音は今にも止まってしまいそうなほど儚く、誰もが口をつぐんで静寂が覆う部屋の中ですら微かに聞こえる程度の弱々しいものだった。 脆そうで微風でも消えていまいそうな炎を、誰もが黙って見守るしかなかった。 ベッドに横たわったまま固く瞳を閉ざして微動だにしないアリアをその隣でじっと祈るような顔で見つめていたシェドと、部屋の端で押し殺した蚊の鳴くような声で嗚咽を漏らしていたアリカを残して他の面々は別の部屋へ移動した。 かつての旅の仲間にガネット、そしてシルヴァランスの妹であるヴィクトリアを加えた面々を見渡しながら、シールディアは落ち着いた声音で語り出す。 「現状を説明しよう」 セシリーはシルヴァランスの隣で今にも泣き出しそうな表情を浮かべており、ミレーヌも普段の爛々とした笑顔ではなく悲壮を漂わせていた。ガネットは正面からシールディアをまっすぐ見据えて何か言いたそうにしており、ヴィクトリアもシールディアへ体を向けているが、時折セシリーの様子を気に掛けていた。 たぶん、今一番現実を正面から受け止めているのはシールディアだろう。 ここに至るまで様々な葛藤を抱き、何度も現実から逃げたい、目を背けたいと思ったが、今はすべてを受け入れ、その上で自分が進むべき道を進もうという確固たる決意が胸の奥にあった。 「正直、世界崩壊の状況についてはよく分からない。だがアダムを始め他のドラゴン達が未だ時間があると言っていたのであれば、希望は残されているのだろう」 希望が残されていると言ったにもかかわらず、皆の表情は一向に晴れる様子はない。いま皆が聞きたがっているのはそのことではないからだろう。 「真の天使という存在についても、私にはよく分からない。だがルシフェルという男の話から推察するに、真の天使こそがもう一つの神を復活させるために必要な天使であり、聖石に適合した少女達は真の天使を目覚めさせるのに必要な器だったのだろう」 「もう一つの神を復活させるために必要な真の天使。真の天使を復活させるために必要な天使の器。……そういうことなのね?」 ガネットが神妙な顔つきで尋ね、シールディアは頷いてみせる。 「そして今のアリアの状態だ。今、アリアの体にはほとんど魔力が残っていない」 「魔力が残っていない? その、体力とかそういうのじゃなくて?」 またも質問してきたのはガネットだ。 「魔力だ。本来、ヒトは誰しも魔力を持っている。それをジェムを用いて外に発露できるかできないかの違いはあるが、ヒトであれば誰でも少なからず魔力は持っている。それはヒトの命を支える上で欠かせないものだ。魔力は骨や血液と同じで、ヒトを構成する上で必要不可欠なもの。アリアは今、それがほとんど失われた状態にある」 「それってつまり、出血多量で血が足りない状態と同じってこと?」 「その通りだ。そして本来、多少の量であれば失われた魔力は体を休めることで自然と回復する。ガネット、そなたもジェムを使って魔法を扱えるが、ジェムの魔力と違ってそなた自身の魔力は時を置けば回復するだろう?」 「回復しなかった困っちゃうよ」 「そう、それが普通だ。だが、一度に大量の魔力が失われた場合、それを回復させることができない。体の自然治癒能力と同じで、限界を超えた量を失った場合、それを回復させることができないのだ。今のアリアは体に残っているわずかな魔力で辛うじて生きながらえている状態であり、その魔力減少を食い止めない限り、アリアの命は明朝まで持つかどうかという危険な状態にある」 シールディアの言葉に、誰もが押し黙って息を飲んだ。 アリアの死。それが現実として迫っていることを突きつけられ、誰もが困惑し、何も考えられないくらい頭の中が真っ白になってしまっているだろう。 しばらくしてミレーヌがガバッと顔を持ち上げた。 「でも! 魔力が足りないんだったら補えばいいんでしょ! 血液で言えば献血みたいなことをできれば、そうすればアリアちゃんを救えるんじゃないの!?」 「ミレーヌよ。魔練器技師のそなたなら知っているだろう? どんな魔力にも固有の魔力振動数がある。それは血液型と違い、一人一人異なる固有のものだ。魔力を補うことができれば確かにアリアは救える。だが、アリアと全く同じ魔力振動数を持つ魔力は、アリア自身にしか作り出せないのだ」 遠回し遠回しに説明しているのは、たぶん、シールディア自身がそうしたいと思っているからだろう。アリアを救う術を知っているなら、すぐにそれを行えばいいだけなのに、こうして直線の道を迂回しながらゆっくりと進んでいる。 本当はゴールに着きたくないのかもしれない。強い決意が胸にあるとはいえ、全く揺るがないわけじゃない。 だから揺れる思いを少しでも和らげたくて、自分の想いを少しくらい出しゃばらせてもいいのではないかと思って、こうして回りくどい説明をしている。 ただ、皆がアリアを心から大切に想い、その想いが強いが故に悲しむ様を瞳に焼き付けておきたかった。それがシールディアの自己満足だと言われようとも、許してほしいと心から願った。 「……以上だ」 最後にそう言って、シールディアは部屋にいる面々を見渡す。 セシリーは涙を零してシルヴァランスの胸にすがっている。ミレーヌは何も出来ない自分を情けなく思っているのか、俯いたまま拳をギュッと握って唇を噛みしめていた。 ガネットはシールディアから視線を逸らさず見つめ続けており、それは落ち着き払ったシールディアの本心を探ろうとしているように見えた。ヴィクトリアはあまりアリアと接点が無かったためか、アリア本人というよりアリアのことで涙に暮れるセシリーのことを気に掛けている様子だった。 アリアは愛されている。たとえ世界に愛されていなかったとしても、世界に住まう大勢の人々に愛されていなかったとしても、こうしてここにはアリアを心から愛している人がいる。そして、その一人はシールディアだと自信を持って言える。 シールディアは踵を返して部屋を出た。 伝えるべき事がある。伝えるべき人がいる。迷いはあるが、それ以上の想いがある。 その想いを胸に廊下へ出たとき、シールディアの視界に見え覚えのある顔が映った。 「エイル……」 『その顔は、どうやらもう決意は固いみたいですね』 短く切りそろえた黄檗色の髪を軽く左右に揺らしながら、シールディアの前に現れたエイルは穏やかに、でもどこかもの悲しさを帯びた笑顔を浮かべていた。 自惚れでなく、エイルが自分のこと好いてくれていることはシールディア自身気づいていた。それは自分と同じ境遇、本来自我を持たないはずのドラゴンであるにも関わらず、ヒトと関わって掛け替えのない心を手に入れた者同士だからだろう。 『そんな顔を見せられたら、もう私には何も言えませんね』 「……ありがとう、という言葉がこの場では一番相応しいと思う。それから、すまない」 『私は何もしていません。むしろ、その手を引っ張って阻害しようとしたくらいです』 エイルの表情は今の言葉が嘘でないことを物語っていた。今も、出来ることなら道の真ん中で通せんぼしたいと目が訴えている。 でも同時に、エイルの表情には晴れ晴れとした、どこか吹っ切れたような空気も漂っていた。 『たぶん、あの子が自分の命を賭してまで息子の命を救おうとしたときの気持ちと、今シールディアさんの胸の内にある想いは同じ色をしているんでしょうね』 ふと、遠い昔を懐かしむようつぶやいたエイルに、シールディアは麗らかに微笑んで見せた。幾度となくシェドを始めとする大切な仲間、家族達に硬いとかぎこちないとか評されてきた笑顔だが、自分の心が成長していくのに伴ってその笑顔が本物に近づいてることをシールディアは自覚していた。 今の笑顔があるのは、今の心があるから。今の心があるのは、家族が側で笑顔を見せてくれていたから。 『それでは、私は行きます』 「ああ」 今の道が何処へつながっているかを知った上で、エイルはそれ以上の言葉は要らないと判断したのだろう。だからシールディアも余計なことは言わない。 ゆっくりとした歩調で離れていくエイルの背中をしばし見つめた後、シールディアはアリカの部屋の戸を開いた。 部屋のベッドに横たわったまま、今にも途絶えてしまいそうな儚い寝息を立てている少女と、それを沈痛な面持ちで見つめる男を交互に見つめながら、アリカは緩んでいる涙腺のボルトをしっかり締めながらただ押し黙っていた。 会話はない。テムルにきてから、シェドは一言も発することなく今に至っている。それほど今のシェドはアリアのことで頭がいっぱいなのだろう。 シェドとアリアがテムルを去ったとき、アリカはまたいつの日にか二人揃って眩い笑顔を携えてアリカの元へやってくるだろうと思った。人の思考を読むことに長けているアリカだから、二人の心の奥底にある想いは薄々気づいていた。 アリカが見た未来は、寄り添って幸せそうに笑う二人の姿。だから、今の容赦ない現実を受け入れたくなかった。 「シェド」 ふとアリカの後方から声がする。微動だにしないシェドに代わって振り向いたアリカの視界に、以前よりも随分感情豊かになったシールディアが映る。 シェドの消沈ぶりと正反対に、シールディアはとても落ち着いていた。だがシールディアが決してアリアのことを大切に想っていないわけじゃないことをアリカは知っている。 気丈に振る舞っているだけなのか。 いや、今のシールディアは無理して元気を装っているという空気は微塵もなく、風のない日の湖畔みたく、穏やかな心の波音が聞こえてきそうな趣があった。 「シェド、二人だけで話がしたい。池のほとりで待っている」 振り向かないシェドの背中にそう告げて、シールディアは音もなく部屋を出て行った。 それからしばらくして、シェドがのそっと立ち上がる。 「…………」 振り返ってアリカを見つめたシェドの表情は、笑っているようにも泣いているようにも見えた。 言葉はなく、目で「アリアのことを頼む」と訴えた後、シェドは車椅子の脇を抜けて部屋を出て行った。 アリカは車輪を回してベッドのすぐ隣へ移動する。微かな寝息を立てている眠り姫は、以前にも増して愛らしく成長していた。 笑ったら誰よりも可愛いだろうと、アリカは心から思う。 「アリアちゃん……」 そっとアリアの頬に触れ、その体温を感じながらアリカは人知れず涙を零した。 シールディアが出ていった後の部屋にはセシリーの嗚咽だけが静かに響いていた。涙に暮れるセシリーを、シルヴァランスが無言のまま優しく抱き留めてくれている。 先程、ミレーヌが持っていた魔波計が何やら反応を示してミレーヌがそそくさと部屋を出て行き、それに続いてガネットとヴィクトリアも部屋を出て行ったため、今、この部屋にはセシリーとシルヴァランスしか残っていない。 今度こそ心が折れそうだった。ジペインの町でアリアがさらわれたときに感じた絶望も、ヴィクトリアやミレーヌがずっと側に居てくれたお陰で立ち直れそうだったのに、現実は容赦なくセシリーを絶望の谷に突き落とそうとしてくる。 もう二度とアリアが目を覚ますことはないのだろうか。ずっと側で見つめ続けて来られたあの笑顔を、これからも見つめ続けていくことは叶わないのだろうか。 世界で一番アリアが不幸だとは思わない。セシリーの知らぬところで、残酷な現実に苦しんでいる人は沢山居るだろう。だからアリアの幸せだけを願うセシリーは独り善がりで自分勝手な人間なのかも知れない。 けれど、それを自覚している上でもアリアさえ笑顔で居てくれればいいと願ってしまう。セシリーに無関係な他人を排してでも、アリアさえセシリーの前で微笑んでくれさえすればいいと思ってしまう。 きっとアリア本人はそんなことを望んでいない。過去の罪を重く受け止め、他人の幸せを大切に考えるアリアは、他人の犠牲の上に成り立つ幸せなど望まないだろう。だからセシリーの願いは独善的だと自ら評しているのだ。 それでもいい。何でもいいから、アリアに笑って欲しい。ずっと再会を望んでいた人が目の前に居るというのに、瞳を固く閉ざしたまま、笑顔をその人に見せられないまま散っていくアリアの命を見つめることなど、セシリーには耐えられない。 シルヴァランスは何も言わず、ただセシリーを抱き留めてくれていた。きっと投げかける言葉が思いつかないのだろう。今の状態では、何を言われても言葉は宙を彷徨うだけだと思う。 シールディアが言った、アリアに残された時間。それがとてつもなく長く、そしてとてつもなく短く感じられた。 ミレーヌは魔波計の反応を頼りにテムルの外を駆けた。 そして森の中の拓けたスペースで、火を焚いてその脇に腰を下ろすスラッシュの姿を見つけた。スラッシュの後方には、夜闇の中でたき火の光を浴びてぼんやりと浮かび上がる飛空器の姿がある。 「ミレーヌちゃん、こんな夜中に女の子が一人で森の中を歩いてたら危ないよ?」 ミレーヌの姿を見つけるや、スラッシュが心配そうな笑顔を浮かべた。それはきっと、魔物や山賊に襲われることを心配したのではなく、ミレーヌの元気ない表情からその理由を察しているのだろう。 「テムルはよそ者に冷たいところだって前にミレーヌちゃんから聞いたからね。こうして外で待ってようと思ったんだ」 「……そんな気を遣わなくていいのに。あたし達の仲間だって言えば信じてもらえるよ」 「な、仲間っ!? 俺ってただの仲間なの? 俺はミレーヌちゃんの恋び――ごふっ!」 スラッシュの頭を小突きながら、ミレーヌはその隣に腰を下ろしてたき火の炎を見つめた。 パチパチと音を漏らして燃える炎は力強く赤々としていた。けれど、どんな炎でもいずれは消えてしまうだろうし、人間の意志で水を掛けられれば容易に鎮火してしまうだろう。 「……ねえ、スラッシュ」 「ん?」 こてんとスラッシュの肩に頭を乗せながら、ミレーヌは瞳を閉じた。 「こんな時に何も出来ないなんて、魔練器技師って無力だよね」 才能という一言で片付けられるものが無ければ使えないそのままのジェムと違い、魔練器は誰でもその恩恵にあずかることができる。誰もが魔法の恩恵を享受でき、生活を豊かにすることができるのが魔練器だ。 みんなが魔法の力で幸せな生活を送れるよう、その手伝いができる魔練器を作りたい。誰かを護れる魔練器が作りたい。それがミレーヌの目標だった。 でも、結局ミレーヌはアリアのために何もしてあげられなかった。もっと早くにミレーヌがアリアの体から聖石を取り除く術を見つけていればこんなことにならなかったはず。 スラッシュが自然な感じでミレーヌの肩を抱き寄せる。 「魔練器技師が何でもできるなんてのは傲慢だ。魔練器がこの世界のすべての人を救えるなんてのは幻想。俺たちが作れるものなんて、高が知れている」 「……うん。頭では分かってる。でも、だからって納得できるものじゃないよ」 「ミレーヌちゃんは優しいからね。それに、天使の器だった女の子が、ミレーヌちゃんにとってそれほど大切な子だってことだよね」 その言葉に心の奥が痛んだ。 ミレーヌがこんなにも落ち込んでいるのは、大好きなアリアを救いたいのに何もできないからだ。でもそれは裏を返せば、もし倒れているのがミレーヌの知らぬ他人ならそれほど切実に助けたいと思わない、そんな汚い一面を持っている。 魔練器でみんなを護りたいなんて偽善。本当は自分の大好きな人達だけが幸せに笑っていてくれればいいと思っている自分がいる。 「あたしは、アリアちゃんだけを救えたらいいなんて思ってる」 今の気持ちをそのまま口にしても、スラッシュは肩を抱く腕を解いたりしなかった。 「それは普通のことだと俺は思うけどなぁ。人間って、何だかんだ言ってやっぱり自己中心的なモンだと思う。でも、だからこそそれが人間らしいって思うわけ」 「そうかな? 自分よりも他人を思いやれる人だって沢山居ると思うよ?」 「俺に言わせれば、自分の幸せをないがしろにして他人の幸せばっか考えてるヤツは思いやりがあるとは言えないな。まず自分の幸せがあって、その上で自分の幸せの輪を広げてその中に他の人間を招き入れていけるヤツこそ、思いやりがある人間だと思う」 たまにスラッシュは真面目な口ぶりで自分なりの哲学を語ってくれる。普段ヘラヘラしているだけに、こうして自分の本心を語るときの落ち着いた声音はとても耳当たりが良く、聞いてる方も自然と穏やかな気持ちになる。 「……そうだね。たぶん、あたしはそっちのタイプだと思う。自分が幸せで、その幸せを自慢しながら輪を広げていくタイプ」 「笑顔を伝染させていくのが上手いよ、ミレーヌちゃんは」 「うん、それはちょっと自信ある。……でも、やっぱり、自分の幸せの前に他人の幸せを願う女の子も居ると思うんだ」 女の子と特定した時点で誰を指しているか察したらしく、ミレーヌの肩を抱くスラッシュの手に力が籠もった。 そのまましばらくの間、ミレーヌは瞳を閉じたまま静かにスラッシュの肩へもたれ掛かっていた。 こんな時とはいえ激戦を終えた後ということもあり、やはり体は栄養を欲しているだろうと、ヴィクトリアはガネット共におにぎりを持って町の外で待機しているアイザックとナイのところで向かった。 分担作業と言うことで、ナイの分はガネットが作り、アイザックの分はガネットが握った。少々不格好なおにぎりになってしまったが、口に入れてしまえば同じだろう。 「これが、少々か?」 「何か文句があるのですか?」 手に取った瞬間、ボロボロと膝元へ崩れ落ちていった元おにぎりを見つめ、アイザックが深々とため息をつく。曲がりなりにも作成者の手前なのだから、聞こえよがしにため息をつくのはいただけない。 「将来、お前の旦那になる男は苦労するな」 膝の上に散らばった米の塊をすくい上げながら口へ運び、落胆したよう肩を落としながらアイザックは絶えずため息をついていた。 チラリと脇へ視線を向ければ、ナイが美味しそうにガネットの作ったおにぎりを頬張っている。ずるいことに、いま表に出ているのはCなのだが、料理下手なCはおにりぎを作るときだけAにやってもらったのだ。 「……アイザックさんが余計な心配をなさる必要はありません。それに、わたくしは既に家督を継いでレンウィッグ家の当主となりました。料理下手など、使用人を雇えば問題ありませんわ」 それが自分の料理下手をさらに助長させると分かっていても、何となくアイザックに呆れられたままなのが嫌で苦し紛れにそう言ってしまう。その裏、いつかセシリーにもっと料理を教わってアイザックを見返してやろうと密かに誓う。 「家督を……継いだ? お前が、シルヴァランスの代わりに?」 「ええ。世界各地で暴れているドラゴンの被害者は増える一方で、わたくし達の保有する基地だけでは収容できません。そこでわたくしがレンウィッグ家の家督を継ぎ、その領地を被害者達のために仮設住居スペースとして提供しています。またお医者様や食事の用意もこちらでしておりますわ」 「ただでさえ女が家督を継いだらあちこちから鬱陶しい批判があがるランバーグで、しかも未婚のお前が家督を継ぐなんて、正気の沙汰とは思えないな」 アイザックの言うとおり、影でヴィクトリアを悪く言う貴族は後を絶たないだろう。それだけレンウィッグ家が古くより広い土地を治めてきた名家であり、敵も多いと言うことだ。未婚の娘が家督を継いだとなれば、他の貴族にしてみればレンウィッグ家を貶める格好の材料を手に入れたようなもの。 家督を継いでからランバーグを奔走していたほん僅かな間ですら、あちこちから縁談が持ち込まれたものだ。およそ政治的な駆け引きなど知らぬ小娘だと思われ、うまく丸め込んでレンウィッグ家ごと乗っ取ろうとでも思っている輩は数が知れない。 「承知しています。ですがお兄様はもう二度とレンウィッグ家に関わろうとしないでしょうから、遅かれ早かれわたくしが家督を継ぐことになっていたでしょう」 「……シルヴィーがセシリーって女のところへ行くかもしれないからか?」 「と言うより、もう行かれてしまいました。もうお姉ちゃんのお腹には新たな命が宿っていますから」 ニブチンなアイザックのことだからそんなことは露程にも気づいていなかったのだろう。目を丸々と見開いて、「マジか?」と尋ねてくる。 「わたくしもいずれは結婚を考える必要があるでしょう。同志として困っている人々のためにレンウィッグ家の財産を惜しみなく使用するつもりですが、家督を継いだ以上、貴族院への出席など公務もありますから、一人では身が持ちません」 もともと自分が貴族の令嬢であるということを自覚し始めた頃に、いずれは父に政略結婚させられるだろうと思っていたため、自分で勝手に相手を選べるなんて思ってはいない。結婚をただの足がかりと見なして割り切ることくらいできる。 「……ドライだな。もっとこう、女の子だったら恋に恋するっていうか、結婚ってもんにもっと憧れとか幻想とか抱いてないのか?」 「そう、ですわね。なら、縁談を持ちかけてくる相手の中に良き殿方がいらっしゃることでも夢見ることにしますわ」 あまり期待した様子もなく答えると、アイザックが必死に背伸びする妹を見つめるような目をヴィクトリアへ向けた。アイザックが時折見せる優しげな眼差しは、今は亡き長兄のパーシヴァルに少し似ている気がした。まあ、性格は全然似ても似つかないのだが。 一度話がとぎれ、ヴィクトリアはたき火に薪をくべるアイザックの挙動を黙って見つめる。晩夏にたき火とは少しおかしな気もするが、暖をとるためではなくただの明かりとして焚いているに過ぎない。 「そろそろ戻らなくていいのか? 大好きなお兄ちゃんや新しくできたお姉ちゃんが待ってるんだろ?」 厄介払いと言うよりは気を遣ってくれた様子でアイザックが尋ねてくる。ヴィクトリアが元気なく、言葉少なくジッと座り込んでいたからだろう。 ヴィクトリアは少し迷った後、何故慕っている兄や姉のもとを離れてここまで逃げてきたのか白状することにした。 「……今、あの町にいらっしゃるのは、わたくしのお兄様やお義理姉様ではありません。天使だった女の子の家族です」 「…………そうか」 遠回しで婉曲的な言い回しだったが、それでもアイザックはヴィクトリアが何を言いたいのか察してくれたようだ。 あの場所は、決してその場にいる誰もが気にしないと言っても、他人であるヴィクトリアには重々しかった。まるで他人の家の葬儀にでも出席しているような気分と言えばいいのだろうか、自分の居場所ではないということを痛感した。 もちろんヴィクトリアも天使の器だった女の子が瞳を閉じたままなのは悲しい。でも悲しいとか可哀相とか、たぶん、あの女の子の周りに居る人間を包む感情はそんな生やさしいものじゃないだろう。だからこそ、そんな強い感情を抱けないヴィクトリアの居場所はあそこになかった。 「お姉ちゃんのことが心配ですので、もう少ししたら戻りますわ。ですが、今しばらくはここに居させて下さい」 「ああ、好きなだけ居ろよ」 そう言いながら腰に手を回そうとしたアイザックの手を弾き、ヴィクトリアはすっとアイザックとの間にさらに距離を空ける。 アイザックの大きなため息を耳にしながら、ヴィクトリアは星一つ見えない漆黒の夜空を見上げ続けた。 以前馬車ごと落下した池に雨粒がポツポツと波紋を立てながら吸い込まれていく。周囲に人影はなく、みな各々の居場所で大切な人と一緒に時を刻んでいるのだろう。 しばらく頬に当たる雨粒を感じながら天井に空いた穴から見える星のない夜空を見上げていると、少しぬかるんだ地面を叩きながら近寄ってくる足音が聞こえてくる。 シールディアは池の畔にある木製のベンチに腰を下ろしたまま、視線を足音のした方へ向け、歩み寄ってくる人物を静かに見つめた。 時の流れで言っても決して長くなく、シールディアが刻んできた時の中ではほんの一瞬だけ同じ時を共有した相手。けれど自我が芽生えてから、シールディアという名前で呼ばれるようになってからはずっと一緒に居た相手。 シェドが無言のままシールディアの隣に腰を下ろし、生気が抜けたような目でシールディアを見た。 「酷い顔だな」 いつでも飄々と笑い、時に優しく微笑んでくれるシェドは今は影を潜め、大切な人を失うかも知れないという恐怖に震えて現実から目を逸らそうとしている弱々しいシェドだけがシールディアの瞳には映っていた。 「シール、早くアリアを救う術を教えてくれ。俺はどうしたらいい? 俺に一体何ができるんだ?」 「そなたが今すべきことは無い。そなたは目を覚ましたアリアと共に、世界を崩壊から救うために立ち上がればいい」 雨脚が強まり、服がしっとりと肌に張り付いてくる。ヒトの心を得てから、シールディアの体を包む衣服はほとんどがシェドの手作りだった。 ベンチから腰を浮かし、シールディアは立ち上がって一歩、二歩と前へ歩を進め、くるりと振り返ってシェドの目を見つめた。 長身のシェドと小柄なシールディアだと、この時にちょうど目の高さが同じになる。 「シェドは、私に沢山のものをくれた。シールディアという名前やヒトの心、愛おしい感情、大切な仲間達と家族。すべては、そなたが一緒に居てくれたからこそ手に入れることができた掛け替えのないものだ」 「シール? 一体、何を言ってるんだ?」 「そなたが私にくれたものを全て賭し、私は私の意志でアリアを救いたいと思う」 シールディアは自分の胸を包むように両手を胸の前で組み合わせ、静かに瞳を閉じた。 脳裏に焼き付いている旅の記録。自我が芽生えてから触れていった新鮮な世界。 本当ならすでに失われた聖石を守護するために未来永劫ずっと寒々としたラーミアの遺跡で眠りについているはずだった。けれどそれは、一人のヒトとの出会いによって大きく変わることになる。 そっと瞳を開けば、その人物の顔がハッキリと琥珀の瞳に映った。 「言ったとおり、魔力を回復させなければ明日の日の出を待たずしてアリアの命の炎は消えてしまうだろう。そして、魔力を回復させる術はただ一つしかない。……竜結石だ」 「竜結石って、前にお前が天使の波動を遮断してドラゴンやニーヴルに感づかれないようにってアリアに渡したアレか?」 「そうだ。ドラゴンの魔力は特殊な魔力振動数をもち、その魔力をヒトへ注げば、自然と受容したヒトの体が自分と同じ魔力振動数へ変換できる。だが、以前渡した物では魔力量も少ないため、とてもアリアの命をつなぎ止めるには足らない」 「そ、そうなのか? じゃあどうすればいい?」 「簡単だ。これ以上にないほど極限まで凝縮させたドラゴンの魔力、言うなればドラゴンの命そのものを錬成し、竜命石とでも呼ぶべきそれをアリアの体へ埋め込めばいい」 シェドの表情が沈痛な面持ちから驚愕へ変わる。 「お、おい、そんなことしたら――」 「大丈夫だ。聖石と異なり、竜命石は時間が経てば体に吸収されていって最後には跡形もなくなる。だから体に痕は残ることはない」 「そう言うことを言ってんじゃねぇっ!」 わざと見当違いな説明をしたシールディアを、シェドが怒りと戸惑いを掛け合わせたような表情で睨んだ。雨音がシトシトと降る静かなテムルの夜に、シェドの怒声は雷鳴のように大きく響いた。 シェドが見せた怒りには、シールディアの言葉の意味を正確に理解した上でシールディアのことを大切に想ってくれているシェドの気持ちが顕れており、戸惑いには、その気持ちと真っ向から対立するアリアへの深い愛情が顕れていた。 まったく寂しくないと言えば嘘になる。けれど、それはずっと前から知っていたこと。シェドがシールディア以上にアリアを大切に想っていること。 それは本当は比べてはいけないものなのだろう。けれどどんなに他の道を探しても見つからず、後戻りできない分岐点まで来てしまった以上、二者択一でより大切に想っている方を選択しなければならない。 「……そう、そなたの考えているとおりだ。アリアの命を救うためには竜命石を体へ埋め込む必要がある。簡単に言えば、私の命をアリアへ与えるということ」 シールディアは笑ってみせる。初めて会ったとき時からずっと、シェドはシールディアにいつも笑顔で居るよう執拗に言っていた。だから今は、今だからこそ、今出来る最高の笑顔を浮かべようと努めた。 シェドは確かに戸惑いを見せた。アリアの方がシールディアよりも大切で、この選択も仕方ないと思ってしまう自分自身に戸惑うように。 けれど、シェドは怒りも見せてくれた。それはシールディアのことも大切に想い、自分の命を捧げてアリアを救おうとしたシールディアを叱ってくれたのだ。 「……それ以外に、それ以外の方法はないのか?」 「ない」 「そ、そうだ! 俺の体にはドラゴンの血が流れているんだろ? なら俺にだって竜命石とやらを作れるんじゃねぇか! 俺の命でアリアを救えるんじゃねぇか!?」 「竜命石は純血のドラゴンにしか錬成できぬ。それに、アリアが目覚めたときに一番側に居て欲しいのは誰だ? その者がもうこの世に居ないと知ったとき、誰がアリアを支えてやれるのだ?」 必死に言葉を探すシェドの表情を見つめたまま、シールディアは微笑んでいた。自分でも不思議なくらい、穏やかで温かな気持ちだった。 歯を食いしばって視線をそらしたまま、シェドは黙り込んで拳を握りしめていた。 それ以外に方法がないと理解しながらも受け入れたくない。でも、受け入れればアリアを助けることが出来る。そんな葛藤の声が聞こえてきそうな表情だった。 ミレーヌ達の前でアリアの状況を語ったとき、誰もが心からアリアが助かることを願っていた。どれだけ皆がアリアのことを愛しているか確認できた。 そして今、シェドのアリアに対する深い愛情と、シールディアに対する強い愛情を確認できた。 「そなたは、ずっとアリアのことを自分の娘のようなものだと自分自身に言い聞かせていただろう。だが、そなたがアリアに接していた気持ちに含まれていたのは、父親の娘に対す愛情とは別のものだったはず。むしろ、そなたが私に接していた気持ちこそ、父親の娘に対する愛情に近いものだったのではないか?」 答えなんてきっと無い問いに苦しんでいるような表情のシェドに、シールディアは笑顔のままそんな質問をしてみる。 「……もしそうなら、俺は何て酷い父親だ。俺は、もしそれしかアリアが助かる方法がないのなら仕方ないのかと思ってしまう。娘を切り捨てようなどと思ってしまう」 奥歯をギリッと噛みしめ、口元からうっすらと血が滲んでいる。強く握りしめすぎた掌に爪が食い込み、雨粒に混じって赤い血がポタポタと水たまりへこぼれ落ちていった。 「そんなことはない。もし私が本当にそなたの娘だったら、きっと別の答えにたどり着いていただろう。たとえ話であって、私はそなたの娘ではない。年で言えば、私はそなたの五十倍近く生きている」 「…………」 「それに、娘ならこんな気持ちは抱かないはずだ。父親に対してな」 「え……? ――っ!?」 シールディアはシェドに歩み寄ってそっとその頬に手を添え、振り向いたシェドの唇に自分の唇を重ねた。 瞳を閉じたまま、体の一点から相手の鼓動が感じられる。同時に、自分の中にある相手への強い気持ちも伝わっていくような気がした。 シェドはシールディアを娘のように思っていたのかも知れない。けれど、いつの間にかシールディアの中にあるシェドへの気持ちは親を慕うそれとは異なっていた。 今シェドの唇を奪ったのはドラゴンではなく、シールディアという名前の一人の少女として。シェドを愛する一人のヒトとしてそうした。 触れあっていた数秒間の間に、シールディアはすべての気持ちにけじめを付ける。アリアを救うと決めた以上、もうシェドと一緒に行くことは出来ない。アリアと笑顔で再会し、どちらがよりオンナノコらしくなれたか競うことも出来ない。 「シール……」 「私はそなたのことが好きだ。それは娘が父親を思う好きとは違う、一人の女としてそなたのことを愛しく思う。今までありがとう、シェド。私はそなたと出会え、そして一緒に旅ができて幸せだった」 「シール、俺は……」 頭を垂らして肩を震わせるシェドを穏やかな気持ちで見つめ、シールディアはすっと踵を返す。 すでに全身はびっしょりと雨で濡れており、頬を冷たい雨水が幾度と無く伝っていった。雨模様の夜空を見上げてシールディアは思う。 ヒトはよく心を何かに例える。それは空だったり、水だったり、風だったり。 今の空はまるでシェドの心を顕しているようだった。堪えきれない感情が雨粒となって大地へ降り注いでいる。 けれどそれは決して晴れない雨空ではない。いつか雨はやみ、雲が晴れ、そして東の空から世界を明るく照らす太陽が昇るだろう。その太陽こそがアリアだろう。 ならば自分は月。シールディアが空に居る限り、アリアは昇ってこられない。太陽が大好きな月は、晴れ晴れとした気持ちで今の場所を太陽へ与える。そして太陽が昇ったあと、月は影ながらずっと太陽を見守り続けていく。もう二度と空へ昇れないことを知っていながら、それでも輝く太陽を見守っていけることに言葉では言い尽くせない温かな感情を抱いて。 シールディアは歩き出し、数歩進んでからシェドの方を振り返った。シェドはシールディアを見つめたまま、言葉が見つからないことを苦しんでいるように見えた。 「シェド、最後に一つだけ頼みがある」 「……何だ?」 苦しげに尋ねたシェドにシールディアは笑顔で言う。 「名前を呼んで欲しい。そなたが私につけてくれた名前を」 自分がここに居る理由。この気持ちを抱けた理由。それをシェドに問う。 「……お前は、お前の名前はシールだ! シールディア=エガンフィスだ!」 その言葉を聞いてシールディアはシェドに背を向ける。ぬかるんだ大地を踏みしめながら、ゆったりとした歩調でシェドの元から離れていく。 頬を伝う雨粒がいつの間にか温かくなっていた。ずっと笑顔を努めていたはずなのに、今自分がどんな表情をしているか自分自身よく分からなくなっていた。 最後に、心の中で静かに思う。 “ありがとう、シェド” 頭に直接響く声を聞いてガネットが天使だった少女が眠る部屋へ戻ったとき、その場にはシールディアとシルヴァランス、セシリー、ミレーヌ、スラッシュ、ヴィクトリア、アリカが揃っていた。ただ、先程まで片時も離れず少女の脇にいたシェドの姿はない。 そしてこの場にいる誰しもが、たった今シールディアが言ったことを受けて言葉を失っていた。それは一言で言えば、シールディアが犠牲となって代わりに天使だった少女を救うということに要約できた。 「そんなの絶対ダメ! いくらその女の子が助けるためだからって、シールが身代わりになるなんて意味ないじゃん!」 ガネットは声を張り上げる。それはこの一年間一緒に旅を続けてきた仲間として、天使だった少女よりもシールディアの方がガネットにとって大切な人だから。 自分でも凄い剣幕で言ったと思うのに、シールディアはガネットの表情を見つめたまま微笑を崩さなかった。その顔を見て、ガネットはシールディアの意志が固いことを悟ってしまう。 「……あたしは絶対にイヤだもん! シールが居なくなっちゃうなんて、絶対絶対イヤだもん!」 もうどうやっても動きそうにないシールディアの意志に気づいてしまったから、ガネットはまるで駄々をこねる子供みたいにそう言った。 「ありがとうガネット。この一年、そなた達にはとても世話になった。Cはまるで姉のように、Aはまるで母親のように私に優しく接してくれて、とても嬉しかった」 「やめてっ! そんな、これで最後みたいなこと言わないでよっ!」 その場にいるガネット以外は口をつぐんでいる。それは天使だった少女さえ助かればシールディアのことなどどうなってもいいということではなく、どんなに止めようともシールディアの意志は変わらないことに気づいているからだろう。 このまま両手を縛り、口を手で塞いで押さえつけてやりたかった。けれど、シールディアの慈愛に満ちた笑顔がガネットのそんな衝動を抑え込んでしまう。 「セシリー。そなたは私にとって、一番母親に近い感情を抱いた相手だった。そなたが居てくれたから、私は今のような心を得られたのだと思う」 「シール……」 「シルヴァランス。そなたの真っ直ぐな心はいつも私に勇気をくれた。そなたが居てくれたから、私は心の強さを知ることが出来た」 「シールディアさん……」 すでにセシリーは堪えきれない涙が頬を伝っており、すがるようシルヴァランスに寄り添っていた。シルヴァランスは目を細めて静かにシールディアを見つめている。 一人一人に別れの言葉を告げるよう、シールディアが部屋にいる面々を見渡していく。ガネットは今にも泣きそうな気持ちを堪え、身代わりなんてやめるようにと必死に怒った表情を維持した。 「ミレーヌは私に笑顔の温かさを教えてくれた。何度そなたの笑顔に励まされたことだろう。そなたの笑顔こそ、私の求める理想的な笑顔だった」 「シールディアちゃん……」 「これからもスラッシュと共に、人々を幸せにする魔練器を作っていってくれ」 「任せてよ。なに、俺とミレーヌちゃんが組めば何だって作れるさ」 曇った表情でシールディアを見つめるミレーヌの隣で、スラッシュが曖昧な笑顔を浮かべながらミレーヌの肩に手を乗せてシールディアに答えた。 「アリカ、私自身はそなたと直接何かあったわけではないが、そなたが居てくれたからこそ今のシェドがあり、今のシェドが居てくれたからこそ今の私がここにいるのだと思う。だからそなたにも、ありがとうと伝えておきたい」 「……シールディアちゃん」 「ヴィクトリア、そなたとはあまり話す機会が無かったが、前に一度だけ言葉をかわしたことがあったな。その時、そなたがとても責任感が強くて気高く、けれどとても優しく慈愛に満ちた者だと思った。天使という呪縛から解放されたアリアは、もはや世界の敵などではない。仲良くしてやってくれ」 「……あなたに言われるまでもなく、お兄様とお姉ちゃんの妹分であるその子はわたくしにとっても姉妹同然です。仲良くしていくのは当然ですわ」 気丈に振る舞うヴィクトリアに最後の笑みを見せ、シールディアは皆に背を向けて天使だった少女の方を振り返った。 その背中をしばらく見つめた後、ヴィクトリアは部屋を出て行き、アリカ、ミレーヌとスラッシュ、そしてセシリーとシルヴァランスも無言のまま部屋を後にした。 シールディアの背中が、最後は天使だった少女と二人きりにして欲しいと言っている。けれど、今ガネットがこの場を離れれば、もう二度とシールディアの姿を見ることは出来ない。もう二度と、シールディアと言葉を交わすことができなくなってしまう。 やめさせたい。でも、やめさせてはいけない。 堪えきれなかった涙がポロポロとこぼれ落ちていき、水面のように揺れる視界にシールディアの後ろ姿をしっかりと焼き付ける。 ガネットは踵を返し、振り袖の袖口で涙を拭いながら部屋を飛び出した。 * * * 気が付いたとき、シールディアは大きな光の奔流に抱かれていた。 辺り一面が眩く輝き、自分自身の姿すら確認できないくらい純白に染まった世界で、緩やかな光の流れにシールディアは身を任せる。 ここは何処だろう。 ふとそんなことを思ったとき、光の流れとは逆に向こうからこちらへ近づいてくる小さな人影に気づいた。いや、真っ白な世界に影など映るはずもないのだが、シールディアにはそれが誰なのか、どんな姿をしているのかハッキリとわかった。 「あ……」 恐る恐る石橋を叩きながら渡ってきたような顔でシールディアを見つめるのは、桃色の髪をしたコバルトブルーの瞳を持つ少女。 「シールディア……?」 「ああ。久しぶりだな、アリア」 この眩い光の中、相手にもシールディアの姿が見えているようだ。驚いた様子でシールディアを見つめたまま瞬きを繰り返し、キョトンとしながらも足は光の流れに逆らってシールディアの手前から近づいてくる。 「うん。久しぶり。シールディア、全然変わってないからすぐにわかった」 「そなたは随分背丈が伸び、顔つきも少し大人びたな。表情もとても柔らかくなった」 「そ、そう? ……うん、ありがとう。でも、シールディアだって前より笑顔が暖かくなったと思う」 戸惑いながらはにかむアリアに、今し方褒められた笑顔を絶え間なく送る。 シールディアの足も止まらない。光の流れに逆らわずにゆったりと進んでいき、流れに逆らってこちらへ向かってくるアリアとの距離はどんどん近くなる。 「ねえシールディア、ここはどこ? 私、何でここにいるの? どうして足が勝手に進んじゃうの?」 「ここは夢の中とでも思えばいい。そなたはいま眠っている。この道をまっすぐ行けば、そなたはこの夢から覚め、そなたの目覚めを待っている者と再会を果たせるだろう」 「夢……? 私、寝ているの? 夢の中でシールディアと話しているの?」 「そうだ」 シールディアとアリアの距離が迫る。もう手を伸ばせば触れられそうなくらいに近い。 ここは何処なのか。 消えゆくシールディアの意識が見たただの幻想かもしれない。でも、もしかしたら神がシールディアにくれた最後の奇蹟かもしれない。 何の根拠もないが、シールディアはこれがただの夢幻ではないことを自覚していた。目の前に居るアリアが本物であり、互いの道がそれぞれどこに繋がっているのか理解していた。 すぐ脇を通り抜け、近づいていったシールディアとアリア距離が、今度は徐々に遠ざかっていく。 「シ、シールディアはどこへ行くの?」 「すまないアリア。私はそなたと共に夢から覚めることはできないのだ」 「えっ? どうして?」 「…………」 離れていく気配を感じながら、シールディアはそっと瞳を閉じる。 「そなたとは、どちらがよりオンナノコらしくなれるか競っていたな」 「え? あ、うん……」 「ここで勝敗を決しよう。確かにそなたの方が容姿や表情が柔らかく、とてもオンナノコらしいと認める。その点ではそなたの勝利だ」 もう互いに背を向けて歩いている。本当なら声を張り上げなければ聞こえないはずなのに、ここでは囁き声でもちゃんと相手に届く。 この先、もうこの勝負を続けていけないことは承知している。だからこそ、ここで決着を付けなければならないし、シールディアはアリアに言っておきたいことがあった。 「だが、私はここへ来る前にシェドとキスをした。オンナノコとして、好きな男にキスをしたのだ。この点では、私の勝利だと言えるのではないか?」 「キ、キス……? シールディア、シェドとキスしたの? ダ、ダメッ!」 「駄目も何も、既成事実だ。夢から覚めたら、シェドに確認するといい」 「シェド……。目が覚めたら、そこにシェドがいるの?」 「言ったであろう。そなたが目を覚ますのを待っている者がいると」 もはや互いの気配すら感じ取れないくらいシールディアとアリアの距離は開いてしまった。もうそろそろ、この奇蹟の終わりが近いと言うことだろう。 目を覚ましたアリアの側にはシェドがいる。セシリーやシルヴァランス、ミレーヌら大切な仲間達、家族がアリアを待っている。 けれど、そこにシールディアの姿はない。 「あ、こんなところに扉がある。ねえ、シールディア、これを開ければいいの?」 ずっと離れたところにいるはずのアリアの声が、すぐ耳元で聞こえる。同様に、シールディアの声もアリアのすぐ耳元で響いているのだろう。 きっとその扉を開いた瞬間、この夢は終わる。儚くも短かった淡い奇蹟がその幕を下ろす。 だから―― 「アリア」 ドアノブに手を掛けたアリアにシールディアは言う。 「私はシェドとキスをするまでにしか至らなかった。それも私の意志で勝手に奪ったに過ぎない。そして、私にはその先へ進むことはできない」 「シールディア? どうして? シールディアもこの扉を開いて一緒に夢から覚めればいいんじゃないの?」 「それはできないのだ。だからアリア、そなたには私の分も幸せになって欲しい。心からそう願っている」 「え……? それって、どういう……?」 「幸せになれ。この世界の誰よりも幸せになってくれ」 「シール――」 扉が閉まる音がアリアの声を遮った。 そしてこの世界にはシールディアがただ一人残される。 誰も居ない世界で、流れるままに光の中を先へ先へとゆったり進んでいく。一歩足を前に出す度、自分というものが薄れていく気がした。 瞳を閉じて心を風のない日の湖面みたいに落ち着ければ、目覚めたアリアがシェドの胸に泣きつく情景が浮かんでくる。そしてその二人を見守る暖かい家族達の表情も。 これからもきっと変わらず、アリアの周りには絶えず笑顔が咲き続けるだろう。世界崩壊を必ず食い止め、平和で穏やかな世界を取り戻し、その中でみな幸福を感じながら大切な者と同じ時を刻んでいくだろう。 シールディアの意識はこの光の流れに溶け込み、そして世界を照らす光となって彼らを見守っていく。幸せに生きる大切な家族を、暖かく照らしながら見守っていく。 シールディア=エガンフィス。 大切な人から受け取った名前を天に返し、シールディアは光となる。 人々を幸せに導く、暖かな光に。 |
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