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第一章

 いつも通りに起床した天川翔は、寝癖のついた頭を掻きむしりながらパジャマ姿のまま二階にある自室から一階のリビングへ移動する。脳がまだ三分の一くらい寝ていたせいか、途中で階段を踏み外し、盛大にずっこけて危うく二度寝どころか永眠しそうなほど後頭部を強打した。
「……っつぅー……」
「お兄ちゃん何してるのぉ? 頭痛いのぉ? 風邪ぇ?」
 階段の先で後頭部を押さえながらうずくまっている翔の耳に聞き慣れた少女の声が響く。すっかり覚めた双眸にうっすらと涙を滲ませながら、翔は階段をゆったりと下りてくる妹、
千紗の顔を睨め付けた。やり場のない怒りを取りあえず眼光に込めて千紗へぶつける。特に、無駄にひょこひょこ動いている千紗の短いツインテールへ。
「お兄ちゃぁん? 大丈夫ぅ?」
「うるせえ、ちょっと足が滑っただけだ」
 心配そう、というより不思議そうに自分を見つめる妹にそう八つ当たりじみた言葉を投げつけ、翔は痛みを堪えて立ち上がり、ずかずかと大股でリビングへと足を運んだ。
 朝っぱらから階段でつまずくわ、自分より五つも下の、まだ小学生の妹に八つ当たりしてしまうわ、今日はどうも厄日らしい。いや、転んだのは翔の不注意だし、八つ当たりだって翔の勝手な行いだ。責任転嫁はみっともないか。
(今日は何か、ヤなことが起きそうだな……)
 何やら予感めいた悪寒を感じながらリビングへ足を踏み入れると、母さんが朝食の準備を着々と進めていた。トーストとコーヒーの匂い。テーブルにはすでにヨーグルトとベーコンエッグが用意されている。
「おはよう、二人とも。……さっきすごい音がしたけど、どうかしたの?」
「……何でもねぇよ」
「お母さん、おはよーっ。んーとね、さっきのはねぇ、お兄ちゃ――うきゅっ!」
 母さんの問に答えようとした千紗の口を左手で押さえながら、翔は千紗に鋭い視線を送る。嬉々とした笑顔でありのままを語ろうとした妹に、余計なことは喋るなと目で警告したつもりだ。
 千紗は翔の言いたいことを理解してくれたのか、コクンと頷いてにこぉっと笑った。それを見て翔は手を離す。
「何してるの?」
「なんでもないよーう」
 不思議そうに首を傾げる母さんに千紗はしれっと応じて席に着く。そしてそれ以上何も言わず、ニコニコ笑いながら朝食を食べ始めた。
 千紗は小学生ながら中々賢しい。だが微妙に抜けているところもあるのが、兄として一番心配なところだ。
(千紗の心配よりまずは自分の心配だ)
 強打した後頭部の痛みはまだ続いている。それを堪えるために表情が険しくなってしまうが、もともと寝起きは良くないため毎朝こんな顔だ。母さんもそれを知っているから何も言ってこない。
 これ以上馬鹿になって成績が落ちるようなら本気で進級が危うくなってくる。後頭部強打で大切なニューロンが壊れ、シナプスが切れていないことを祈るばかりだ。
「はむはむ……」
 食卓には千紗が元気よく食物を咀嚼する音が響く。しかしそれ以外の音が皆無で、会話など一切無い。翔は何気なくテーブルの上にあったテレビのリモコンと取り、ピッとスイッチを入れた。
『おはようございます。十月十三日、朝のニュースをお伝えします』
 タイミング良く始まった報道番組。翔はトーストにマーガリンを塗って角からかじりながらモニタを気怠く見つめた。
『本日のヘッドラインです。――今日未明、○○県××市で、コンビニエンスストアに強盗が押し入り、店員を脅して現金を奪って逃走しました。襲われた店員の話に寄りますと、犯人は十代後半の少年と見られ、自分は“能力者”であると言っていたもようです。警察は犯人が何らかのタレントを持つ未登録エクセッサーである可能性が高いと見て、独立機関余剰能力者犯罪対策部隊と連携して犯人の行方を追っています』
「またエクセッサー絡みの事件か……。最近ほぼ毎日じゃねえか」
「あらあら物騒ね。店員さんに怪我は無かったのかしら?」
「……ああ、大丈夫みたいだ」
 連日のように起こるエクセッサーの事件。もはや新聞には新たに余剰能力者欄という新しい欄が確保されており、毎日エクセッサーの事件を扱った記事が載っている。
「えくせっさーって、すっごい力が使えるんだよね? うわぁ、あたし見てみたいなぁ」
「やめとけ。どうせロクな連中が居ないんだ。そんなのと関わりあいにならない方がいいだろ」
 エクセッサー。それは十年ほど前から現れ始めた、特殊な能力を持った人間を指す。
 人間が長い年月を掛けて培い、導き、発見してきたあらゆる物理法則や人間の構造を根底から覆すような、現代科学では解明不能の力を持った人間が現れるようになって世界は大きく揺れ動いた。
「そうね。お母さんも、心配だから千紗にはエクセッサーの人とは会って欲しくないわね。どんな力を持っているかわからないもの」
「うー……、お母さんがそう言うならそうするー」
 炎を操る、風を操る、水を操る能力といった自然をコントロールする能力や、爆発的に身体能力を向上させる能力など、エクセッサーの能力は多岐にわたる。中には全く役に立たないような能力もあるようだが、殆どが一般人にとって脅威になる危険な能力だ。
 またエクセッサーと呼ばれる能力者は今のところ日本人しか確認されていないため、諸外国にとって軍事利用可能な未知の力は脅威であった。よって最初の能力者が発見されて以来、世界の軍事事情は細い糸の上を片足で歩いているような緊迫感に包まれている。
 そしてエクセッサーを抱える日本では、その能力を悪用する犯罪が後を絶たず、ここ数年の治安悪化は甚だしいものがある。刃物や銃器を使う犯罪と異なり、エクセッサーは武力解除ができないという点が犯人の無力化の大きな障害となっていた。
「でも本当、物騒よねえ。法整備が進んで少しは穏やかになったけれど、まだまだ事件は後を絶たないものね」
「まったくだ」
 嘆かわしく呟いた母さんに同意しつつ、翔は大きくため息をもらした。
(何だってエクセッサーなんてのが誕生したんだろうな……。さっさと偉い大学の教授が解明して、その無力化に尽力してくれよ)
 そんなことを考えながら朝食を終え、翔は流しへと赴く。顔を洗って歯磨きをし、その後自室でブレザーに着替えて家を出た。


 秋口の十月半ば。一年の中でも最も過ごしやすいと定評のある秋。しかし、直に通り沿いの銀杏がギンナンを大量にまき散らす時季に突入し、鼻を突く異臭を朝夕に味わわなくてはならない日々が来るかと思うと、本当に過ごしやすいのかと疑念が浮かぶ。
 翔は今年から隣の市にある高校へ通っている。朝は自転車で駅まで移動し、そこから電車に乗って三駅。駅からは徒歩で十分だ。
「……少しやばいか?」
 軽快に自転車を走らせ、駅の駐輪場に止めて改札口を駆け抜ける。通勤通学ラッシュと重なって局所的に人口密度が上がっているホームで、翔はいつもと同じ乗車口に並ぶ。
 その時、ポンと後ろから肩を叩かれた。
「よう」
「おっす」
 相手を確認する前にそう返事をもらし、翔は振り返ってその人物を見つめた。
 線のように細い目の長身男。耳には校則違反であるピアスをつけ、短い髪は茶色に染まっている。翔と同じ高校の制服を身につけているが、朱いネクタイはまるで工事現場で働くおっさんの首に巻かれたタオルのように無造作に首にからみついているだけだ。スラックスの裾は地面を擦り過ぎてかなり傷んでいる。
 中田慎司。翔の中学来の友人である。色々と問題児であり、先生に目を付けられている奴だ。
「どうした? 朝っぱらから元気ねえじゃん。……さては昨日、前に貸した赤居楚良ちゃんの新作で……」
「違えよ。朝から盛大に階段で転けて後頭部を強打、まだ痛みがひいてないんだ」
「何だ、つまんねえな」
 たいそうがっかりした面持ちで慎司が欠伸をかみ殺した。
「そういうお前だって、今日はあまり元気そうじゃねえな」
「……わかるか?」
「それだけ大口開けて欠伸ついてりゃ、誰だってそう思うさ」
 慎司の表情は世間一般にはただの睡眠不足に見える。だが付き合いの長い翔には、その表情の中に普段とは違う、少し陰を含むようなものがあることに気づいていた。
 逡巡するように顎を引いて口をつぐむ慎司を翔は静かに見つめる。いくら友人とはいえ、相手が話したがらないことを根掘り葉掘り聞くのは野暮というものだ。
 無言のまま電車に乗り、車内でもさしたる会話がないまま、翔は慎司と共に高校最寄りの駅で降りた。駅の改札口を出れば、翔と同じ制服で身を包んだ男子や、ブレザーは一緒で下がチェック柄のプリーツスカートという女子が同じ方角へ歩を刻んでいた。
「実は……」
「ん?」
 ずっと黙りこくっていた慎司が口を開いたのは、高校の校舎が見えるようになった坂の中腹だった。軽薄そうな格好とは正反対に、表情はどこか痛々しさにも似た、長い間付き合っていた彼女と別れてしまったような顔をしている。
「兄貴が……、ああ、兄貴ってのは実の兄じゃなくて」
「知ってるさ。従兄の彰さんだろ? 中学の頃に何度か遊んでもらったからな。……彰さんがどうかしたのか?」
「余剰能力者だと認定されたらしい」
「な――っ」
 重々しく呟いた慎司の一言に、翔はセメントで塗り固められたように動けなくなった。
 天道彰という、慎司の従兄にあたる人物。翔より二つ年上で、同じ中学の先輩だった。慎司と親しくなったばかりの頃、何かと面倒をみてもらった。
(彰さんが……? エクセッサーに……?)
 彰が余剰能力者――つまりエクセッサーに認定されたという話は、あまりに漠然として突拍子もない戯言のようにも聞こえた。だが同時に、ここ数年頻発している能力者による犯罪やが相次いでいる現状を思い起こし、現実味のない恐怖が全身にからみついてくる。
「ほ、本当……なのか?」
「こんな嘘言うかよ」
 寂しげに、口惜しそうに、それでいて何かに怒っているように吐き捨てた慎司。
「……彰さんの余剰能力、タレントって何なんだ?」
「さあな。俺が聞かされたのは、兄貴がエクセッサーだと認定されて、余剰能力者犯罪対策部隊の本部に連れて行かれたっていう事実だけだ」
 それだけ言って慎司は再び口を閉ざした。本当なら誰にも言いたくなかったことを、友人である翔にだけ話してくれた、そんな気がするのは自意識過剰だろうか。
(余剰能力者犯罪対策部隊……か)
 今朝のニュースでも流れていた自衛隊とは異なる独立機関の名前。エクセッサーの犯罪に対する部隊として、しばしばEC対策部隊と言われる。
 EC対策部隊とは文字通りエクセッサーの犯罪に対して動員される軍隊のようなもの。相手が非科学的な力を持っている以上、こちらもそれに応じられる要員が必要となるからだ。だから構成員のほとんどがエクセッサーであると言う。
 そして同時にEC対策部隊とはエクセッサーの監獄といっても等しい場所である。国はエクセッサー特別処置法という法令を定め、余剰能力者だと認定されたら本人の意志にかかわらずEC対策部隊に配属され、国の監視下で生活することを強いられる。
(確かにそれが、俺達普通の人間からしてみれば安心して生活できるってことだが……)
 翔自身、法整備が進んでエクセッサーが一カ所に集められることに今まで賛成していた。だが実際に身の回りの人間がそういう状況になった今、果たしてそれが正しいのかどうか困惑する部分があるのも事実だ。特に、本当の兄のように慕っていた慎司にとって彰がEC対策部隊に連行されるのは、言葉では言い表せないほど辛いことなのだろう。
 実際の所、エクセッサーの中には彰のような高校生も少なくない。どのような時、どのような人間に発現するかわかっていない余剰能力。過去の事例では、小学生で発現した子もいれば、五十代半ばで発現した人も居るという。
(何で、エクセッサーなんてのが誕生したんだろうな……)
 今朝ニュースを見たときとまったく同じ疑問を抱きながら、翔は高校の正門をくぐった。


 見窄らしい、あまり特徴があるとは言えない少年が校門をくぐって高校の敷地内へ消えていった。チラリと見ただけだが、表情もどこが陰鬱で根暗そうな感じであった。死んだ魚のような顔、まさにそんな表情をした少年だった。
(そこまで作りは悪くないけど、いつもあんな気怠そうな表情をしていたら、できる彼女もできないでしょうね)
 そう思いながらポケットから携帯電話を取りだし、メモリから一番使用頻度の高い番号へ電話をかける。
『どうしたの?』
 電話越しに聞く聞き慣れた女の声。自分より高く、自分より幼さなの残る声音だが、年齢的には向こうの方が上だ。
「標的を確認したわ。すぐに仕掛けていい?」
『駄目よ。彼は予定者であり、まだ私達と同じではないでしょう?』
「それを確かめるために仕掛けるんじゃない!」
 苛立ちが募る。何であんな男を監視するために自分がこんなところに居るのか。自分はこんなところで燻っているような人間ではないのに。
『駄目ったら駄目。大人しくしてないと、怜治さんに告げ口しちゃうわよ?』
「うぐ……っ」
 その名前を出されてはどうしようもない。まだ一年間一緒に過ごしているだけだが、電話の相手はこちらのことをよく知っている。
「わかったわよ。私は何もしないで、監視を続ければいいわけでしょう!」
『そうよ。じゃあ、また何かあったら連絡して』
 素っ気ない言葉を残して電話が切れる。乱暴に携帯電話を折りたたみ、それを外れクジのようにポケットへねじ込んだ。
 代わりに胸ポケットから取りだしたのは一枚の写真。
(何が、予定者よ……。何が、未知のタレントよ……)
 何度も何度も怨念めいた声を頭の中で繰り返し、写真に写っている少年を忌々しく見つめた。
 先程まで生で見ていた、あの冴えない少年の写真。
 今回の任務、監査対象の写真だ。


 慎司と昇降口で別れて翔が自分の教室へ足を踏み入れると、すでに翔の席には男子生徒が鎮座し、机に手を着いている女子生徒の姿もあった。勝手に人の席に座っている男子、そしてその男子と談笑している女子、二人とも仲のいい翔の同級生だ。
「おはよー、天川君」
「おはよう草尾さん。……おら、藪、どけ」
「おわっ! 鞄で殴るなって!」
 男子は藪隆介。チビでやせっぽちだが、何かと威勢のいいやんちゃ坊主だ。クラスの中ではマスコット的な存在であり、一部の女子にもの凄い人気がある。
 天使のような穏やかスマイルで挨拶してきた女子は草尾美由紀。クラス委員で、男子生徒の憧れの的とでもいうべき存在だ。
 綺麗に切り揃ったショートボブが上品で、白い肌に整った鼻筋がキュート。着やせするタイプで実はけっこうなナイスバディだということも有名。たまたま席が隣同士だったからお近づきになれたわけで、密かに翔が狙っている女子でもある。
(まあ高嶺の花ってヤツだけどな……)
 美由紀を狙っている男なんてごまんと居る。そこにいる隆介だって、まだまだ小学生といっても通用しそうな顔をしていながらも、美由紀狙いだと宣言しているくらいだ。
「そう言えばっ! なあ天川、聞いてくれよっ!」
 隆介を押しのけて席につき、鞄の中身を取りだし始めると、隆介が目をキラキラさせながら翔の顔をのぞき込んできた。
(そんなに顔を近づけるなっつーの。アップで男の顔なんざ見たくねぇよ)
 そう思いながらも口には出さず、あからさまに嫌そうな顔だけを浮かべてみせる。隆介は翔の気分などお構いなしに口を開き、美由紀もその隣で微笑みながら話に耳を傾けていた。
 まず開口一番、
「今朝、来る途中にすっげーカワイ子ちゃんと遭遇しちゃったっ」
 そう隆介は言った。学食カレーに入っている具のようにとろけた間抜け面で、表情からは食欲をそそる香辛料ならぬピンク色の吐き気を誘発するオーラを放っている。
(カワイ子ちゃんって死語だろ……。それに、仮にも狙っている女の前でそんな話はまずいんじゃねえか?)
 チラッと美由紀の様子を伺う。こちらはこちらで、「へぇー、そんなに可愛い子だったんだぁ」と綿菓子のような笑みを浮かべている。問答無用で可愛い笑顔だ。
「この学校の制服じゃなかったけど、ホントにもう、もしこの学校の生徒だったら草尾さんと学園美少女のトップを競えるくらいカワイかったんだよっ」
「あら。相変わらず藪君は口が上手ね」
 登校途中で目撃した子の評価をしつつも、ちゃんと美由紀を持ち上げる隆介。流石は裏でプレイボーイの称号を得ている男だ。もう少し背が高ければ、それこそ掃いて捨てるほど女が寄ってくるだろうに。
「あの艶やかな黒髪。しなやかに伸びた四肢。切れ長の瞳はまるで黒曜石のようっ」
「……藪、帰ってこい」
「ああっ、一目見たときから僕の心は君の瞳にフォーリンラ――ごふっ!」
 友人としてこちらの世界に帰ってこさせた方がいいと判断し、翔は容赦なく隆介の顔面を殴りつけた。妄想したり白昼夢を見るのは勝手だが、目が届かないところでしてくれ。
「藪君がそこまでのめり込むなんて、よほど可愛い人だったんでしょうね。……天川君も興味在るんじゃない?」
「……別に。どうせ別の学校のヤツなんだろ? 接点のない女に興味持っても仕方ない」
「冷めてるわねぇ。……じゃあ、狙いは同じ学校の女の子ってことなのかしら?」
 クスクスと肩を震わせながら微笑む美由紀を前に、翔は何も答えられなかった。
(同じ学校の女の子どころか、目の前にいる女の子だよ……)
 当然、そんなことをハッキリ言うことなど根性無しの翔にはできず、ただ曖昧な表情を浮かべることくらいしかできなかった。


 昼休みに隆介が再び翔の席に寄ってきた。そしてもう一人、その隣には眼鏡を掛けた優等生らしき男子生徒がいる。
 長谷部紀之。こいつも比較的親しい同級生の一人だ。常にノート型のPCを持ち歩き、学園屈指の情報通である。特に一部の情報、エクセッサーマニアとでもいうべき存在だ。
「飯飯ーっ」
 弁当を持って寄ってくる友人二人と翔は昼食を取る。これがいつもの風景だ。そして昼食を食べながら紀之がPCを起動し、
「なあなあ、聞いてよ」
 と、話題を提供してくるのもいつも風景だ。それこそ歴史の授業はつまらないから寝るのと同様に、昼食の時は紀之の提供する話題に乗るのが日常の一コマである。
「今日はどんなネタ仕入れてきたんだ?」
「またまた未知のタレントが見つかったんだって! それを今朝、掲示板で見つけてさ」
(またエクセッサーの話か……。今日は何かとその手の話題が多いな)
 爛々と眼鏡の奥にある瞳を輝かせる紀之と、多少興味はあるがそれ以上に昼飯優先という隆介が適当な相づちを打ちながら箸を走らせている。
「先週見つかった未知のタレントは、折り紙で折った動物を自由に操れる“式神”ってヤツだったけど、今回はこれだ!」
 紀之はそう言いながらPCのモニタをこちらに向けた。翔は母さん特製のだし巻き卵を咀嚼しながらモニタをのぞき込む。
(……人間リモコン……。なんじゃそりゃ)
「意味がわからないって顔してるね? で、詳細はここのリンクを辿って……」
 ページが切り替わり、掲示板らしきページからタレントデータベースなるページへ飛んだ。そこには今までに確認された余剰能力者のタレントがほとんどすべて掲載されており、今紀之が話したがっているタレントもすでに載っているという。
 この手のページはエクセッサー特別処置法に違反するため発見されれば即閉鎖になってしまう。しかし人間は駄目だとわかっているものほど興味を示し、こうして場所を変えアドレスを変え、膨大なネット社会の片隅には常にこうしたアングラーなページが存在する……と紀之は言っていた。
(そりゃあ俺だって多少は興味在るけど……)
「ほら、ここに今回新たに発現した能力の詳細が記されているよ。まだ名称は決まってないみたいだけど、今のところ人間リモコンと言われてるみたいだね」
「……この記事を読む限り、リモコンを使わずにテレビのチャンネルを変えたり、クーラーのスイッチを入れたりできるわけだな?」
「そうだね」
 人間リモコンとは確かにそのままのネーミングだ。あまりに直球過ぎてネーミングセンスの欠片も感じさせない。
 それにしても便利というか、あまり役に立たないというか、どうでもいい能力だ。
「こういう能力ばっかだったら、エクセッサーだって腫れ物を触るような扱いをされずに済むだろうに」
「……うーん。でもこの能力は要するに赤外線を放出できるわけでしょ? もしタレントランクが高いエクセッサーだったら、電磁波の波長を短くすることができるんじゃないかな? そうなると放射線とか、それこそレーザービームだって可能だと思う」
 翔の意見に、眼鏡の橋を中指で押し上げながら紀之が微妙に恐ろしいことを言った。以前隆介はあまり興味なさそうに相づちだけを打っているが、翔はその話に多少なりとも危機感を抱く。
(リモコン人間に、いきなりマイクロ波を浴びせられて干からびるのはイヤだな……)
 それができるかどうかはタレントのランクによるだろう。以前紀之が教えてくれたが、エクセッサーはタレントの種類とは別にどれほど威力が発揮できるかというランク付けが行われるらしい。つまり同じ炎を操る余剰能力を有していたとしても、ランクが違えば威力も異なってくるという。
「レーザービームかぁ。格好いいな、それ。俺もエクセッサーになりてえなぁ……」
「はあ? 藪、お前何言ってんだ?」
「何って。漫画の主人公みたいにすっげー力が使えるんならさ、男なら誰だって憧れるだろ?」
「僕は賛同しないね。例えエクセッサーになって凄い力を手に入れたとしても、監獄と同じようなEC対策部隊に叩き込まれて自由のない生活を強いられるのはごめんだ」
「俺も長谷部の意見と同じだ。好きこのんでエクセッサーになりたいなんてヤツの気はしれねえな」
 隆介がつまらなそうに口を尖らせ、「夢のない奴らだ」と呟いた。何もしてないのに無期懲役判決を言い渡されてEC対策部隊という監獄に幽閉されるようなエクセッサーに夢を抱くなど、正気かと疑いたくなる。
「そのレーザービームが使える……かもしれないヤツは、そいつが初めてその能力を発現させたヤツなんだろ?」
 隆介が紀之に尋ねる。紀之が首肯で応じると、隆介はニカッと白い歯を見せながら笑い、
「つまりまだまだ未知の能力があるかもしれないってことだろ? だったら、俺がその未知の能力を手に入れて、そんでもって超絶スーパーウルトラすっげー能力で世界に平和をもたらすってのはどうよ! マジでイケてね?」
 などと楽しそうに尋ねた。
(だから、能力者だと認定された時点でEC対策部隊に連行されるんだって何度も言ってんだろ……)
「さあね。それに未知の能力は文字通り未知なわけだから、役に立つのかどうかすらわからないってことだよ。先月の半ば見つかった能力は、夜中に目を光らせることが可能だっていうだけの能力だったし」
「……懐中電灯が要らなくなっていいじゃねえか」
 翔は皮肉混じりにそう言って食べ終わった弁当箱に蓋をした。弁当を鞄にしまい、小さくゲップを吐く。
「未知の能力なんて最近はめっきり減ってきたからね。先週今週と続けて見つかったのだって一年ぶりだっていう話だし。今はもう、殆どの能力が出尽くしたんじゃないかな?」
「出尽くしたって言っても、一人二人しかいない珍しい能力だってあるんだろ?」
 翔がそう尋ねると紀之がまた嬉しそうに顔を緩めてキーボードをタイプした。またもアングラーなページがモニタに映し出され、紀之がそれを翔へ向ける。
「レアタレント一覧ってページ。ここに載ってる余剰能力は、今のところ一人しか確認されていない能力ばかりだよ」
「結構あるな……」
 ザッと見た限り、百近い能力がレアタレントとしてそのページでは紹介されていた。まあさっきの光る目と同程度の意味無さげの能力も数多くある。レアと聞くと何かとてつもなく凄い能力かのように聞こえるが、実際はレアだからといって凄い能力というわけでもなさそうだ。むしろ一般的によく知られる火や水、風や雷を操ったり、身体能力を飛躍的にアップさせる能力の方が凄い。単純な力としては。
(まったく、一体何でエクセッサーなんてのが誕生したんだろうな)
 同じ疑問を抱くのも本日三度目。通算では何度になるか翔自身覚えていない。
 翔は何気なくモニタを眺め続け、存在意義の分からない数々のタレントをスクロールしていった。


 双眼鏡の視界にパッとしない少年の憂鬱そうな表情が映る。顔の造形で言えば好みといっても遜色ないが、いかんせん顔相が悪い。資料に寄ればまだ十五だというのに、枯れたもみの木みたいな表情をしている。
「あらあら、キリッと凛々しくしておられれば二枚目と評しても良いでしょうに」
 何気なく口から独り言がこぼれ、双眼鏡を肩掛けポーチへしまう。
 丁度その時、スカートのポケットで携帯電話が振動し、取りだして着信を確認すると、毎度お馴染みの相手からだった。
「はい、どうしました?」
『……さっき本部から連絡があったわ。何処の国なのかは不明だけど、この辺りに余剰能力者拉致集団が逃げ込んだそうよ』
「それはちょっと状況が変わりましたね」
『どうするの?』
(あらあら、ずいぶん嬉しそうね。でも――)
 電話越しの相手の声には何かを期待しているような音が乗っていた。その期待が何なのか当然把握しているのだが、いきなり実力行使というのはエレガントではない。
「わかりました。ではまずは私が彼と接触します」
『…………』
 期待を裏切られた、そんな声ならぬ声が電話越しに聞こえてきそうだった。相手のへの字に曲がった唇が容易に想像できる。相変わらずわかりやすい性格をしている。
「あなたはその拉致集団に警戒を払って下さい。また同時に、向こうさんにもね」
『……わかったわ』
 不満に満ちた声で応じ、相手から電話を切った。本当にわかりやすい。
(まあ、それがあの子のいいところでもありますからね)
 まるで姉のような気持ちでそう思い、携帯電話をポケットに収める。そしてもう一度、今度は眼鏡越しの肉眼で監査対象である少年を見つめた。
 眠そう、というより見ている間に机に突っ伏して居眠りを始めた少年。隣の席に座っている可愛らしい同級生がクスクスと少年の寝顔を見つめて笑っていた。
(さて……、あなたはどう動くのでしょうね)
 こちらに全く気づいている素振りを見せない少年に心の中でそう問いかけ、静かにその場を後にした。


 秋の夕暮れはわびしい気持ちがこみ上げてくるとはよく言ったものだ。斜陽に浮かぶ人気のない校舎とその向こうに広がる茜色の空。夕暮れ空を泳ぐ烏を見つめていると、確かに何か物思いにふけりたくなってくる。
 バレーボール部に所属している翔は、練習の後コート整備とネットのたたみ込みを行い、気が付けばすっかり人気の無くなった校内にぽつんと佇んでいた。一緒に片づけをした一年生の姿もすでになく、着替えを終えて部室を出る頃には視界に誰も映らない。
(……ったく、今日も最後かよ)
 運動部の中で一番厳しいと有名なバレーボール部。練習のハードさもさることながら、練習量の多さ、つまり練習終了時間の遅さも有名である。
「うわ、しまった。明日数Iの宿題提出日だった……」
 部室に鍵をかけ、鍵を体育教官室へ返還した時、ふと翔はそう口に出しながら顔面を歪めた。特に宿題のない日は教科書一式学校に置きっぱなしにしているからだ。
(忘れると、数学の富田がうるさいんだよな……)
 いっそこのまま忘れてしまうかとも思ったが、ちび眼鏡鬼として恐れられる数学教師の顔を思い出してしまい、翔はしぶしぶ教室へ戻ることにした。まあ明日朝一で来てやるという手もあるのだが、朝の弱い翔としてはあまり取りたくない手段である。
「まだ昇降口は開いてるか」
 ここで昇降口が既に閉められていたら行くのを断念するところだが、天恵なのか何なのか、まだおおっぴらに昇降口は開かれていた。
 行くしかないかと半ば諦めたような気持ちで翔は教室へ向かう。この時間になれば校舎の中にも殆ど人気がない。途中すれ違った用務員のおじさんに、忘れ物を取ったらすぐ帰るようにと注意されたくらいだ。
 南校舎の三階にある一年C組の教室へ翔が足を踏み入れた時だった。
「ごきげんよう」
「え……?」
 誰も居ないと思っていた教室の中から、フルートの音のような美声が空気に乗って翔の鼓膜をノックする。一瞬空耳かと思ったが、すぐにその考えも払拭した。
 教室には一人の女子生徒の姿があった。しかも、少女は翔の席に腰を下ろしていた。
 おそらく染色したのであろう茶色のセミロングは、夕日に照らされてまるで金髪のように見えた。丸い眼鏡の奥にある大きな瞳がやんわりと笑みを携え、白い肌も夕日でオレンジ色に染まっている。
「……え? あ……、あんたは……?」
 突如現れた見も知らぬ少女に、翔はかちこちに固まった体でそう尋ねるのが精一杯だった。相手が一体誰で、何でこの教室にいて、何で翔の席に座っているのか全くわからない。
(あの制服は、うちのじゃないよな)
 この高校は男女共にブレザーであるが、目の前の少女が身につけているのは紺のセーラー服だった。スカート丈も、この学校に通う女子生徒みたいに制服改造を行っていないせいか、膝下十五センチはある長いものだ。
「初めまして、天川翔さん。私は遠藤梓と申します」
 鳩が豆鉄砲を食ったよう、もしくはいきなりブレーカーが落ちたときのプログラマーみたいな顔をしながら、翔は梓と名乗った少女を見つめる。
(な、何で俺の名前を知っているんだ?)
 頭の中の何かが、言葉に言い表せない危険を告げている。この女と接触してはいけない。この女の話に耳を傾けてはいけない。さもないと今までの普通が壊れてしまう。
 翔は頭の中で何度も逃げようとした。しかし体が思うように動かない。金縛りとはこういう状況を言うのだろうか。目の前の少女はとても友好的な笑みを浮かべているというのに、勝手に脳内で恐怖を感じる神経伝達物質が分泌されている。
「あ、そうですね。名前だけ名乗ってもよくわからないでしょうから……」
 口を開けたまま呆けている翔の前で少女がごそごそとポーチの中を探る。そして何かを取りだし、席を立って翔へゆったりと間を詰めてきた。
「これ、私の名刺です」
 両手で角を持ち、丁寧にこちらへ差し出された名刺。まるでビジネスマンが交渉の場で相手に手渡すように、少女の手つきはとても手慣れていた。
「……独立機関余剰能力者犯罪対策部隊、関東支部第十七小隊所属、遠藤梓」
 名刺には明朝体でそう書かれていた。だがそれ以外には何も記載がない。関東支部とやらの所在地も、梓の住所も電話番号も。ただ所属と名前が記されているだけだった。
「そうです。わかりましたか? 私がどのような人間なのか」
「……エクセッサーか」
「はい。では、何故エクセッサーである私があなたに接触しに来たのか、その理由を説明しますね」
 そう言って梓はくるりと翔に背を向け、窓際へと寄っていった。翔は何かに導かれるよう、いや、自分の意志とは裏腹に勝手に足が前へと進んでいくもどかしさ、恐怖を感じた。
(何でエクセッサーが、俺の所に……?)
 まさか今朝、慎司から彰がエクセッサーになったという話を聞いたことに関係あるのだろうか。それとももっと別に理由があるのか。
 梓が窓際の壁にもたれてこちらを振り返った。翔はその一メートルくらい手前で立ち止まり、怯えた目で梓を見据える。実際、内心かなり怯えていた。得体の知れない、エクセッサーだと名乗る小柄な少女に。
「さて、何から説明しましょうか。順を追ってボトムアップ方式で説明した方がいいですか? それとも先に結論を述べた上でその理由を述べる方がいいでしょうか」
「結論から頼む」
 背中に嫌な汗が滲んでいるのがわかる。おそらく順を追った説明ではその汗の量が二次関数的に増えるだろう。ならば先に結論を聞いてしまった方がむしろいいかもしれない。
 相手がもし本当にエクセッサーならば、次の瞬間にも余剰能力で翔に何か危害が及ぶかも知れない。本当に能力者なのか、もし本当ならば何の能力が使えるのか。わからないことだらけなので余計に動悸が激しくなる。
「わかりました。では、単刀直入に結論から述べます」
「…………」
 翔が固唾を飲んで見守る手前、梓は何の言いよどみもなくこう言った。
「天川翔さんはエクセッサーになる素質を持っています」


「何者だ、あの二人は」
 夕日に照らされた人気のない教室で向かい合っている男女を遠方より見つめながら、自分の隣に立つ少女へ尋ねる。
「……女はエクセッサーです。どうやら身体能力の一部を強化できるタイプみたいですね。男は……、エクセッサーではありません。ただの一般人です」
 長い黒髪を秋風に揺らす少女。同じエクセッサーとはいえ、目に映る人間の余剰能力を調べることができるという彼女の能力はあまり戦闘向きではないため、いざというときのため護身用に真剣を携帯させている。立場上、戦闘を行う可能性も低くはないからだ。
「ほう。珍しい組み合わせだな。こんな時間に逢い引きか?」
 一般人はエクセッサーのことを恐れ嫌う傾向がある。そして遠目に見える冴えない少年の表情は、まさに目の前の少女を恐れるよう歪んでいた。
「……この距離で名前はわかるか?」
 今度は別の少女に話しかける。まだ中学生の少女で、ポニーテールがトレードマークである彼女の能力は、相手の顔を見ただけでその者の名前を把握できることである。
 感情の薄い表情でそっと目を細め、少女が教室の男女を見つめる。
「女は遠藤梓。男は、天川翔というようです」
「よし。葉月、お前はEC対策部隊のデータベースにハッキングをしかけてあの男女の名前がないか調べろ」
 髪の長い少女にそう言い渡すと、葉月は少し怪訝そうな表情を浮かべてこちらを見つめ返してきた。突然EC対策部隊の名前を出したため不思議に思っているのだろう。
「……彼女がEC対策部隊の人間であると?」
「可能性は高いだろう。俺達と同類の匂いはしないからな」
「確かにそうですが、それだけではEC対策部隊の人間であるかどうかは判断できません。ハッキングにはリスクも伴うため、もっと情報を――」
「情報は鮮度が命。ここで見た情報をいかに早く処理するかが重要だ。ローリスクではハイリターンは期待出来ん」
 少し語尾を強めながらそう言うと、葉月は眉を寄せながらコクンと頷いた。そして真剣を携えたままスッとその場を後にする。
「瑞希、俺達も一度支部へ戻ろう」
「はい」
 ポニーテールの少女、瑞希に語りかけてその場を離れる。
 何か面白いことが起きる。そんな漠然とした予感が体の内から溢れてきた。


(俺が……エクセッサーになる素質を持っている?)
 遠藤梓と名乗った少女が今し方口にした言葉を頭の中で反芻しながら、翔はもう一歩、梓から身を引いた。
 今朝の階段大転倒で翔の頭がイカレてしまっていなければ、梓は翔がエクセッサーになる能力があるが今はまだ能力者ではないという意味合いで先程の言葉を口にしたはずだ。
「な、何でそんなことがわかる! 俺はエクセッサーじゃない! 何で俺にエクセッサーになる素質があるだなんてわかるんだっ!」
「あらまあ、そう熱くならず落ち着いて聞いて下さい」
 無様に取り乱す翔に対し、梓の落ち着きは水泳部の生徒がカナヅチの生徒を見つめるくらい余裕に満ちていた。その瞳に情けない男をみるような色を見てしまうのは、こちらの被害妄想だろうか。
「先に結果をお伝えしたまでです。では、今度は順をおって説明しますね」
 少しずれた眼鏡を直しながら、梓は笑みを崩さず明朗に言葉を紡ぐ。
「公にはされていませんが、すでにエクセッサー能力の一部が解明されつつあります。そして研究の結果、余剰能力を発現させる人間を事前に予知することが可能となりました」
「な、何だって……?」
「現時点の研究結果で、誰が何の能力を開花させるかを予測することができるのです。これは百パーセントです。ただし何の能力であるのか特定できるのは、データベースに登録されているものに限りますが」
 昼時に紀之が見せてくれた余剰能力一覧。あそこに登録されているものならば特定できると言うことなのだろうか。そして口外に、未知の能力は特定できないと言っているのだろうか。
「ただ、現時点ではいつ余剰能力が開花するかまでは解析できていません。ただ素質を持っているということだけが解明できるだけで、もしかしたら素質を持っていても一生開花せずに終わる可能性もあります」
 梓は嘘をついているような素振りは全く見せない。先に手渡された名刺が本物で、梓が本当にEC対策部隊のメンバーであるならば、梓が言っていることは真実なのだろう。
(じゃあ、俺は本当に、余剰能力を発現させる素質があるということなのか?)
 漠然とした不安が翔の体を突き抜ける。何が本当で何が嘘なのかは全くわかっていない。なのに何故か、すでに梓が口にしたことを事実として認め、それに恐怖する自分がいる。
「えっと、これはあくまで仮説なんですけど……」
 黙りこくっている翔に多少は気を遣っているのか、うまく間を置きながら梓は淀みなく説明を続ける。
「エクセッサーになる素質を持った者がその能力を開花させる条件は、精神的な面が大きく作用していると考えられています。能力を発現させる者に若者が多いのは、精神的な揺れ幅が大きいからだというのです。希に中年や壮年で能力を開花させる者も居ますが、その殆どが、離婚や子供に先立たれたなどと精神的な大きな揺れを感じた方達です」
 仮説だと断ったわりには、もはや確立された理論を整然と話しているような饒舌ぶりを発揮する梓。格好が翔の学校とは違うもののセーラー服ということもあり、おそらくは年齢もさほど変わらないはずだが、見た目の童顔とは正反対に実に大人びた物腰だ。
「まあ、その辺りの話は今はいいですね。重要なのは、余剰能力を発現させる素質を持った人間を特定できること。そして、あなたはその素質を持っているということです。ここまでは理解できましたか?」
「……ああ」
 久しぶりに翔の口から零れたのは確認の呼応だけ。だが一方的にこんな話をされて黙っているほど、翔は大人しい性格じゃない。
「一つ聞いていいか? 余剰能力を開花させるヤツは、新聞で読んだ限り、月に百人近く居るんだろう?」
「ええ、そうですよ」
「発現させるヤツが百人ってことは、発現するかもしれないヤツはもっともっと多いんだろう? あんたの言う、素質を持っているってヤツは」
「はい。その通りです」
「そんな数多居る素質を持った連中全員に、EC対策部隊はこうやって接触するのか? 実に非効率的な話じゃないか?」
 さっき梓が言った話だ。一生能力を開花させない者も居ると。あくまで素質があるというだけで、本当に発現するという保証は何処にもない。
「……天川さんのおっしゃるとおりです。私達もそんな非効率的なことはしていません。それに、現行の余剰能力者特別処置法では“予定者”に対する法的な措置は取れません。ですから、予定者だとわかっても普通、監視や接触を行いません」
(じゃあ、何で俺には接触してきたんだ?)
 当然その疑問が残る。わざとはぐらかしているのか、梓の瞳には依然、笑みが浮かんでいる。どうも手の平で踊らされているような気がしてならない。
「矛盾してますね。何で予定者である自分の所に来たのか、そう怪訝に思われているはずです」
「ああ」
「ではお答えしましょう。それはあなたに発現する余剰能力が、未知のものだからです」
「……は?」
 至極あっさりと梓が言った言葉。そこに含まれている意味に気づくまで、今の翔の思考能力では数秒のラグが発生した。
 そして何度も梓の言葉を脳内で繰り返し、ようやく理解を得られた時、
「んなっ!」
 翔の口から驚きの声が勝手に零れた。
(未知の能力って……、お、俺が……?)
 エクセッサーの素質があるということだけも驚きなのに、それに加えてその能力が未知のものだとしたら、驚きは二倍どころか二乗だ。
「先程も申しました通り、私達はすべての予定者に接触しているわけではありません。ですが、危険な能力を発現させる素質を持つ者、そして未知の能力を発現させる素質を持つ者には、監視、接触を試みています」
「それは、もし発現したときにその能力でどんな事件が起こるか想定できないからか?」
「そうです。すでにデータベースに登録され、研究の進んだ能力でしたら、その能力を使った犯罪などのパターンもほぼ完全にモデル化されています。ですがモデル化できても防ぐ手段のない危険な力や、あなたのように未知の力の場合はどんな犯罪と結びつくか想定できません」
 少しだけ表情を引き締めた梓が、眼鏡の奥にあるくりっとした瞳で翔をジッと見つめてくる。品定めするような、矯めつ眇めつ鑑定するような目。何となく、計算高い女というイメージと結びついてしまう。
「……俺を、拘束するのか?」
 今までの話の流れを考えれば自然と結論はそこへ行き着いてしまう。未知の余剰能力を発現させる可能性がある翔。だからこそEC対策部隊は翔に目を付けた。
 どうしたら不確定要素を取り除くことができるか。簡単だ。翔を拘束して軍の監視下に置けばいいだけの話である。
「それができればいいのですが、先程申しました通り現行の法では予定者に対する拘束力がありません。ですから、あくまで天川さんの意志を尊重する形になります」
「俺に、選択権があるということか?」
「そうです。私としては是非軍の監視下に入ることをお勧めします。どうですか? 私達と一緒に来ませんか?」
 スッと、梓が翔へ右手を伸ばしてきた。白くて小さな少女の手。だがそれを翔が握り替えした瞬間、翔の人生は大きく変わることになってしまう。
(俺は……。俺は!)
「断る。……さっきあんたが言ったように、予定者とは言え必ずエクセッサーになるわけじゃないんだろう? だったら、俺がEC対策部隊に入る理由はない」
「わかりました。では、今日の所はこれで失礼します」
「……ずいぶんあっさり引き下がるんだな」
「はい。先程申しましたとおり、今の法律では過多な干渉はできませんから」
 梓は伸ばしていた手を引き、壁にもたれ掛かっていた体を持ち直した。そして翔の脇を抜け、教室の扉に手を添えてそっとこちらを振り返る。
「でも、一つだけ忠告しておきますね。……情報とは遅かれ早かれ漏れるものです。そして、EC対策部隊以外にも危険な能力や未知の能力に興味を持っている人達は居ます。ですから――……、気をつけて下さいね」
 後味の悪い飲み物みたく、不穏な言葉を残して梓は教室を出て行った。言葉と共に不敵で優雅な笑みをも残して。
(気をつけろって……、一体どういう意味だ?)
 開けっ放しの扉を呆然と見つめながら、翔は誰も居ない教室に立ちつくしていた。
 用務員のおじさんに声を掛けられて我に返り、すっかり暗くなった校舎を後にした時、時計の針はすでに午後七時を回っていた。


 とある高校の正門前。すっかり陽が落ちて辺りは暗く、正門から出てくる生徒は完全に途切れていた。
 正門脇にある木にもたれて煙草を吹かしていると、一人の少年が高校から飛び出し、校門をくぐって駅のある方角へ走っていった。見た目はパッとしないが、決して顔の造形は悪くない少年。その表情はどこか思い詰めたような、知りたくなかった事実を知ってしまい困惑している、迷える子羊のような顔をしていた。
 短くなった煙草を落として靴の踵で踏みつけたとき、上着のポケットに収めていた携帯電話が振動した。着信相手を確認し、すぐに出る。
『EC対策部隊のデータベースに遠藤梓のデータがありました。関東支部第十七小隊所属で、能力名は“猫目”です。身体能力上昇系で、能力を発動させると動体視力が格段に向上するようです』
「なるほど、やはりEC対策部隊の人間だったか」
『はい。ですが天川翔はやはりエクセッサーではないようです』
「葉月の“見た”通りだったな。ならば、天川というあの少年は予定者である可能性が高いな」
 予定者。それはエクセッサーになる素質を有しているが、まだその能力に目覚めていない者を指す。どうして発現するのかがまだ不確定な余剰能力である故、一生発現しない可能性も考えられる。
「EC対策部隊の人間は必ずエンゲージド・ペアで行動する。どこかに“猫目”のペアが居るはずだ。ペアの能力は調べられたか?」
『いいえ。個人個人のデータはありましたが、エンゲージに関する項目はありませんでした』
 その辺りは徹底している。単体では無力な能力者でも、ペアを得ることで強大な力を手に入れることだってあるのだ。そしてその情報は、こちらのようにEC対策部隊と敵対する組織には絶対知られたくない情報だろう。
「わかった。ご苦労だったな」
『いえ』
 素っ気ない一言で葉月側から電話は切られた。見た目は美少女と言って遜色ないのだが、どうも好かれていないのか、態度があまり友好的ではない。
「ま、俺はどっちかと言えば葉月よりも瑞希ちゃんの方が好みだけどな」
 そんな独り言をもらしながら携帯をしまい、もたれていた木から離れて夜道を歩き始める。すでにあの少年の背中は遙か遠く、見えないに位置に行ってしまった。
「さて。しばらくは様子を見るとするか」
 すぐに行動を起こしてEC対策部隊に気取られるのはまずい。いくら下っ端の隊員とはいえ、それを消してしまったら事後処理が厄介だ。
「何の能力の予定者かは知らないが……。彼も災難だな」
 他人の不幸を鼻で笑いながら、闇夜に紛れてその場を後にした。


 帰宅した後、母さんに「今日はいつも以上に遅かったわね」と心配されたが、「部活が長引いた」という嘘を簡単に信じてくれたお陰でそれ以上追求されたりはしなかった。
 翔が夕食を食べている間、先に夕食を取り終えた母さんと千紗はソファーにもたれてテレビを見ていた。
「ああそう。今日、父さんから電話があったわ」
「……久しぶりだな。元気にしてるって?」
「ええ。向こうはもう随分朝晩冷え込むらしいわ。体には気をつけて欲しいわね」
 単身赴任で北海道の北端へ飛ばされた父さんのことを心配しているのか、母さんは小さくため息を漏らした。今年で赴任三年目。寂しくないわけがないだろう。
 しばらく無言の空間にテレビの音と翔が食を進める食器の音だけが響いていた。
「ご馳走様」
 食事を終え、食器を流しに運んでから翔はそそくさと二階の自室へ引き上げる。いつもは母さん達と揃ってダラダラとバラエティー番組を見ていたりするのだが、今日はそんな気分じゃない。
「はあ―――っ」
 部屋に戻るや否やベッドへ大の字に倒れ込み、翔は天井を見上げて大きく息を吐いた。
(頭がぐるぐるしてるな)
 つまりは少し混乱している。いや、あんな話を聞かされた後にしてはむしろ落ち着いている方ではないだろうか。パニックにならなかった自分を褒めてあげたいくらいだ。
(俺に……エクセッサーの素質がある……。しかも……、未知の能力……)
 眼鏡の女、遠藤梓はそう言っていた。あれが真実だという保証など何処にもないのだが、今の翔にはそれを偽りだと思うことのほうが難しかった。つまり半分以上受け入れている。
(まあ、なんだ……。ふざけるな、って話だよな)
 沸々と湧いてくるやり場のない怒り。あの時は混乱していて梓に何も言い返せなかったが、帰宅して夕飯を食べて少し落ち着いてきた今はあの理不尽な物言いに怒りを覚えるくらいできる。
 もし仮に翔に未知の余剰能力を発現させる素質があることは事実としても、それが本当に発現するかどうかはわからないと梓も言っていた。そんな不確定な要因でEC対策部隊に入隊させられるなんてごめんだ。親元から、今の友人らから引き離され、世間一般から忌み嫌われるエクセッサーに混じって生活するなど、考えるだけで腹立たしい。
「母さん達は、もし俺がエクセッサーになったらどう思うんだろうな……」
 今一番怖いのはそれだ。今まで当たり前だった生活が崩れ、当たり前だった人間関係が何処へ行ってしまうのか。
「…………」
 ふと、今朝の慎司の表情が脳裏をよぎる。本当の兄のように慕っていた従兄の彰をEC対策部隊に連れて行かれた慎司は、やり場のない怒りに打ち震えていた。それが肉親というものなのだろう。
 もし翔がEC対策部隊に無理矢理連行されていったら、母さんは悲しむだろうか。千紗は泣くだろうか。赴任先でそれを知った父さんは憤るだろうか。
 今までエクセッサーのことを否定的に考えていた翔だが、今はエクセッサーよりもむしろEC対策部隊を憎む気持ちが強くなっていた。対照的にに、エクセッサーに対しては同情に近い気持ちを抱くようになっていた。
 それはすでに自分がエクセッサーになる素質を持っていると認めているからか。
(俺は……エクセッサーになるのか? ならないのか?)
 可能性がある予定者。そんな曖昧な立場が一層、翔の困惑を加速させる。明確な答えが何処にあるのかわからいないから不安に恐怖する。
 結局その晩、翔はほぼ一睡もできず夜を明かした。


 どんなに異様な昨日があっても今日という朝は至極普通に訪れる。
 カーテンの合間から差し込む朝日に眉をしかめながら、翔はベッドから起きあがって窓を開く。ほんのり冷たくなってきた空気が肌に当たり、眩しい日光が街を照らしていた。
 睡眠不足のため、おそらく今の翔は犯罪者と間違われてもおかしくないくらい酷い顔をしているだろう。気を張って階段を下りないと、今日も昨日の二の舞を演じることになる。いや、下手したら今度こそクリティカルヒットだ。
「…………」
 のそりのそりと部屋を出て、ゆっくり階段を下りていく。居間へたどり着くと、昨日と何の変化もない朝、母さんが朝食の準備をしていた。
「おはよう」
「あら、今日は早いわね」
 フライパンを振りながら笑みを浮かべる母さん。翔がもしエクセッサーになったら、あの笑顔は悲しみに染まるのだろうか。
 そう考えるだけで気持ちが悪くなってくる。何とも言えない罪悪感を覚えてしまう。
「どうしたの? どこか調子悪い?」
「いや、ちょっと寝付きが悪くて寝足りないだけ」
 そう言いながら翔は席について朝食を食べ始める。しばらくして千紗も顔を出し、家族三人揃って朝食を取り終えた後、翔は逃げるように家を出た。
 いつも通りの朝が怖かった。いつも通りの笑みを浮かべる母さんと千紗が怖かった。
 その笑みを壊してしまうことが怖かった。だから、早くに家を出た。
(くそっ……。まだ、まだ何も事実だってわかったわけじゃねーのに! それに本当だとしても、発現するかどうかなんてわからねーのにっ!)
 自転車をこぎながら、翔は内にあるモヤモヤの吐き出し場所を模索する。だが結局いい解消法を見いだすことができず、それは中に蓄積する一方だった。
 早めに駅に着いた後、いつも乗る電車の時間まで構内の売店で立ち読みしながら時間をつぶしていると、いつも同じ電車に乗る慎司が顔を出す。特に連絡がなければ、いつもこうして一緒に登校している。
「珍しいな。売店で立ち読みなんて」
「少し早く来すぎただけだって」
 翔は雑誌を棚に戻し、床に置いてある鞄を持ち上げて慎司と共にホームへと移動した。
「……で、結局の所どうしたんだ?」
「何が」
「その仏頂面の理由だよ。まあ、もともとお前はいっつもシケた面してるけどな。もとは悪くねぇんだし、もっとキリッとしてりゃあモテるだろうに」
「うるせぇ。……別に、昨日の夜もよく寝れなかっただけだ」
 二日続けて睡眠不足。今朝に限っては徹夜したといってもいいぐらい、睡眠が不足している。親しい友人であれば、犯罪者予備軍みたいな表情や痴呆老人みたいな反応速度の遅さで容易にわかってしまうだろう。
「楚良ちゃんか? ……若いからって、学校のある平日に二晩続けては辛くねぇか?」
「……悪い、冗談に付き合えるほど元気ない」
「重症だな」
「お前はどうなんだよ。……彰さんのこと、一晩過ぎてちったぁ落ち着いたのか?」
 到着した電車に乗り込み、混み合った車内で押しくらまんじゅうをしながら尋ねる。死にかけの魚みたいな顔をしている翔と違い、慎司は昨日と打って変わって元気そうだった。いや、それが表情通りの元気なのか、友人である翔とはいえ判断しづらいのだが。
(でも、何となく空元気ではないような気がするな……)
「うーん……、まあ、……そうだなぁ」
 二人揃って高校の最寄り駅から校舎を目指してスロープを上り始めた時になって、慎司はようやく口を開いた。電車の中は人が多いから避けたかったのだろう。
「歯切れ悪いな」
「まあ、そうそう公に大声で言える内容じゃないから」
(んだよ、それ)
 翔は慎司に、彰のことはもう吹っ切れたのかと尋ねただけだ。昨日と同じ表現を使えば、長い間付き合った彼女と別れたことに対して踏ん切りは付いたのかと尋ねただけ。なのに慎司の答えは、公には口に出来ない内容だという。
「実は、さ……。兄貴の奴、護送途中に逃げた、らしい……」
「は……?」
「逃げたんだよ。護送のエクセッサーに自分のタレントで攻撃して、相手が怯んだ隙に逃げたらしいんだ」
「んなっ!?」
 翔は思わず口を思いっきり開いて固まってしまった。あまりの驚きように、慎司がこちらを見て引きつった苦笑を浮かべ、「あまり大声出すなって」と翔をたしなめた。
(驚くに決まってんだろ! だって、EC対策部隊から逃げたってことは――)
「これで兄貴も晴れてEC犯罪者だな。まだ捕まったってニュースは聞かないし、どっかで元気に逃げ回ってんだろ」
 慎司の言葉はまるで彰の行為を正当評価しているような感じだった。野球をしていて近所の家の窓硝子を割ったとき、自分はあそこのジジイが嫌いだからといって割った少年を褒めているような、そんなニュアンスが慎司の言葉には含まれている。
「で、でも、万が一捕まったら、今度は監獄みたいなEC対策部隊じゃなくてマジに監獄入れられるんだぜ?」
「兄貴はどっちも同じだと考えたんじゃねぇかな。どちらにせよ自由に行動できなくなるわけで、色々と制約が付くわけだろ? だから一か八かで自由を目指して逃走を図った。……俺は、兄貴の行動は至極普通のもんだと思うぜ」
「そりゃあ無理矢理連れて行かれるのが嫌なのもわかる。でも、だけど……」
(自分一人ならそれでいいかもしれない。でも、それで家族や友人にまで迷惑を掛けることになったら……)
 煮え切らない。翔だってエクセッサーになるかもしれない身だ。彰の考えだってまったく共感できないわけじゃない。いやむしろ、そうしたい気持ちは痛いほどわかる。
 だが、もし自分が我が身可愛さのために軽率な行動を取ったとき、その被害を被るのは誰だろうか。慎司は彰の行動に共感しているようだが、彰の両親はどうだろう。彰の友人らはどうなのだろう。彰を匿ってないかと、EC対策部隊の執拗な監視を受けたりするのではないだろうか。
「ま、これで捕まって監獄行きになったとしても、兄貴だって吹っ切れるだろ。今度は本当に悪いことしたから捕まるわけだしな」
 慎司の笑顔は何処までも晴れ晴れとしていた。だから翔は結局自分の中にある否定的な想いを口にすることはできず、また親友だと思っている慎司に対して自分が予定者であることを打ち明けられずに昇降口で慎司と別れた。


 正門から校舎へ消えていった標的を遠目に見送って小さく安堵の息を漏らすと、ふとバッグの中で携帯電話のバイブレーションが鳴っていることに気づいた。
 定期連絡の時間には少し早い。けれど取りだした携帯電話の液晶ディスプレイに表示された名前は、ペアを組んでしばらくになる彼女だった。
(はて。拉致集団や向こうさんに何か動きがあったのかしら……)
 梓はずれていた眼鏡を直して受信、電話を耳に押し当てる。
「どうしました?」
『……まだ駄目なの?』
 質問したのはこちらなのに、向こうの返答もまた、こちらに対する質問だった。お皿にドッグフードを注がれた後、かれこれ一時間近く待てを言い渡された犬みたいな顔をしているのが容易に想像できる。何とも元気のない声だ。
「駄目ったら駄目ですよ。……それより、何か動きがありましたの?」
『ぶぅ。梓ってホント意地悪よね』
「そうかしら? これでも親切聖母の二つ名で通ってる梓ちゃんですよ?」
『……そんな二つ名聞いたことがないって。――ふぅ、まあいいわ』
 電話越しの少女の小さなため息が漏れ聞こえる。
『昨日十九時二分。独立機関余剰能力者犯罪対策部隊の中央データベースが何者かにハッキングされたわ。ハッキングエージェントはすぐにセキュリティ対策班が掃討したけど、その作業の間に敵方は関東支部のデータベースにアクセス。そして梓の個人情報が不正アクセスを受けたわ』
「あらまあ。どこかで見初められてしまったのかしら?」
 結構深刻な問題に冗談っぽい返事を送ると、電話越しの相手がしかめっ面をした空気が伝わってきた。きっと彼女の口は今、への字に曲がっていることだろう。
『……それとハッキング側の検索履歴に、“天川翔”という名前が残っていたわ』
「うーん。昨日の接触をどこかの組織に目撃されてしまったのかしら? もうっ、覗きは趣味悪いですわ」
『私に言わないでよ。……とにかく、そう言うことだから』
 連絡事項はそれでお終い。でも電話越しの彼女は通話を切ることなく、ジッと何か期待したような空気を漂わせつつ梓の言葉を待っていた。フリスビーを投げてくれという犬みたいな感じ。
(あらあらもう。ホント、あの子はジッとしているのが苦手ね)
 歳はたった一つしか違わないのに、どうしても随分年下の妹を見るような目でペアを見てしまう。
「確かに情報が漏洩してしまった以上、一刻の猶予もありませんが……、駄目ですよ?」
『むぐぅ』
 釘を刺して見ると、案の定不満げな唸り声が響く。
「私達はあくまで法に則り、相手の意志を尊重した上での同行を望んでいるんですから」
『相手がエクセッサーになれば特別法が適用されるじゃん。そうすればこんな回りくどいやり方しなくたっていいじゃん』
「彼はまだ予定者です。現行の法では彼をどうこうできません。……まあ、いずれ国会を通過して予定者にも何かしら拘束力のある法が整備されるでしょうけど」
(でもそれはあくまで未来の話。今は現行の法の範囲内で行動するしかないですわね)
『むぅー、梓の意地悪ぅ。……私はこんなところで燻ってるわけにはいかないのに』
「…………」
 こちらへ対する非難に混じる彼女の本意。何が彼女をああも先走らせようとしているのか、彼女のエンゲージド・ペアである梓は一応心得ているつもり。
 エンゲージド・ペアとは直訳すれば約束された関係。エクセッサーにとってエンゲージド・ペアとはとても強い意味を持つ。
 不可思議な力を扱える余剰能力。その特別な能力の一つに、余剰能力を有するエクセッサー同士がエンゲージすることで、互いの能力を共有することができることが挙げられる。例えそれ単独では役に立たない余剰能力でも、ペアを組んで別の余剰能力と組み合わさることでとても強い力に変わるものもある。
(相性次第ってことですわね)
 そのためエクセッサーはペアを組む。より強い力を得るために。そして多くの場合、ペアは異性同士、恋人同士などで組むことが多いため、呼び名もエンゲージド・ペア、つまり婚約関係にあるペアと称されるようになったわけだ。
「……あの子が相手なら私は全然構いませんけど、あの子は怜治さんに一途ですから」
『は? 何か言った? それと今、怜治さんの名前を呼ばなかった?』
「いえいえ、こちらの話ですよ。……取りあえずじゃあ、私は一旦支部に戻って不正アクセスの詳細を調べてきますわね」
『……!』
 彼女の顔が輝いていく様子が容易に想像できる。
「再三にわたって忠告しますけど、……駄目ですからね?」
『ぶぅー』
 まるで子豚のように「ぶぅ」だの「むぅ」だのと唸る彼女に苦笑しつつ、梓は通話を切って携帯電話をバッグに収めた。
 不正アクセスを仕掛けてきたのは、昨日あの子から忠告のあったこの辺りに逃げ込んだという海外の拉致集団か。それともEC対策部隊と敵対する向こうさんなのか。
(騒々しくなりそうですね。あの子は喜ぶかもしれませんが、私としてはもっと穏やかで退屈な任務だけで十分ですのに)
 ため息を小さく一つ吐き、梓は踵を返して標的の入っていった校舎に背を向けた。


 教室に足を踏み入れると、翔の席には昨日と同じく隆介が腰を下ろし、すぐ側に美由紀の姿があった。今日も相変わらず目に入れても痛くないくらい可愛い美由紀と、そんな美由紀と仲良く二人きりで談笑している隆介。憎いと思わない男子生徒はいないだろう。
「おはよう草尾さん。おら藪、どけっ」
「わっと! だから鞄で殴るなって!」
 美由紀に笑顔で挨拶し、同時に隆介を椅子から追い出す。
「おはよう天川君。……何か顔色悪いけど、何かあったの?」
「え? あ、いや、ちょっと寝付きが悪くて寝不足気味なだけだって」
 そんなにも露骨に、犯罪者予備軍みたいな顔をしているのだろうか。美由紀が小鳥のように首を傾げて顔色をのぞき込んでくるので、翔は視線を泳がせつつ作り笑顔を繕う。
「んだよ。テスト前でも無いのに夜更かしか?」
「……だから、単に寝付きが悪かっただけだっつっただろ」
「でも、それだけじゃないように見えるよ? 何か今日の天川君、苛々してるっていうか、ちょっとその、怒ってるように見える」
 美由紀はジッと、まるでイタズラした子供に自白を迫る母親みたいな表情で翔を見つめてくる。色素の薄い髪が窓から流れる風で揺れ、桃のようなシャンプーの香りが鼻孔を甘い空気でくすぐってくる。
(苛々してる……か……)
 翔は美由紀がそのビスクドールみたく愛らしい顔を近づけてくるのから逃げ、腰を引きながら愛想笑いを続ける。
 ただ単に睡眠不足だといっても聞かない美由紀。隆介はまったく気づく素振りも見せない友人甲斐のない奴だが、打って変わって美由紀は翔の微少な変化に気づいてくれた。それを嬉しいと感じつつも、その気持ちとは別に体の中で蠢く感情がある。
(もし俺が予定者からエクセッサーになったら……)
 今の関係。客観的に見ても決して仲が悪いようには見えないだろう関係は、一体どうなってしまうのだろうか。こうして毎朝、美由紀と談笑する隆介を、まるで一番の親友だと思っている相手が別の友人と仲良く談笑している様を見て若干の嫉妬を覚えるような、そんな歯がゆい気持ちを覚えつつ席から追い出し、そして学園アイドルの美由紀を交えて朝の短い時間を共有する今の関係。
 翔がエクセッサーになってしまった場合、この関係は儚くも水疱のように割れて消えゆくのだろうか。
(何で……。何で俺なんだよ。それに、予定者って何だよ予定者って)
「天川君大丈夫? もし調子悪いなら、保健室へ行った方がいいよ?」
「……あ、いや。ホント大丈夫だから。心配してくれてありがとう」
「…………」
 眉を顰め、困った子を見るような目で翔を射抜く美由紀に苦笑を送りつつ、翔は冷静を装う。
 もし今ここで翔が予定者であることを皆に告げた場合はどうなるだろう。考えるまでもなく、きっと今の関係は崩れ去ってしまうだろう。いくら成るのか成らないのはハッキリしない予定者といえ、周囲の目は確実にエクセッサーに対する目と同等になる。そんなこと、火を見るよりも明らかなことだ。
「まあ、話したくないことを無理矢理聞き出そうとは思わないけど、でもそうやって隠し事されるのは正直ちょっと寂しいな」
「……草尾さん」
「友達だし、もうちょっと頼ってくれてもいいのになぁ」
 そう言いながら美由紀は優しく微笑み、向こうから「美由紀ちゃーん」とクラスメイトの女子に呼ばれて「あ、おはよー」と透き通る美声を響かせつつこの場を去っていった。
 残された翔は、隆介の顔を見ずに何も乗っていない机の上をジッと見つめていた。
 いつでも相談に乗ってくれる。学園きっての美少女にそう言われていい気にならない男子はいないだろう。でも今の翔はそのマイノリティの一人であり、むしろ友人達に優しくされればされるほど、喉に刺さった魚の小骨がより深く潜り込んでくるような気がした。
(俺以外にも、こうやって予定者と言われて思い悩んでいる奴は居るのか……?)
 目の前でアレコレと一人で話題提起して一人で盛り上がる隆介に適当な相づちを打ちつつ、翔は窓の外に広がる秋晴れの空を見つめていた。


 昨日に続き今日も秋晴れの良い天気が頭上には広がっている。今の状況を考えれば、不穏な空気が漂うような曇天が似つかわしいと思われるが、天候はこちらの都合などを考慮してくれたりはしない。
(まるで自分達が悪役だって自覚しているみたいだな……)
 自分達が悪役だとは微塵にも思っていない。それどころか正反対に位置しているとすら思っているはずなのに、どうにも心の奥底では自分達が悪役であると思っている節があるらしい。
(まあ、世間的に見ればの話か……)
 自分の思考に苦笑しながら窓の外に広がる空を見上げていると、ふいに部屋のドアが開いて二人の少女がカツカツと足音を響かせながら踏み入ってきた。切れ長の瞳を怜悧に研ぎ澄まし、長い黒髪を優雅に揺らす葉月と、色素の薄い髪をポニーテールに結う小柄な瑞希だ。
「伝令です。本部が掴んだ情報に寄りますと、諸外国のエクセッサー拉致集団がこの地域に紛れ込んだ模様です」
 相手の顔を見るだけでその能力を特定する“審眼”というタレントを持つ葉月が抑揚のない声で告げ、静かに腰に携える真剣の鞘の角度を直した。戦闘向けでない能力者には、上から武器の携帯が許可されている。
「……また厄介な連中が出てきたな。EC対策部隊の連中だけでも面倒だというのに、拉致集団の奴らまで出てこられては……」
「どうします? ……天川翔に接触しますか?」
「いや待て。昨日支部から連絡があってな。もうじきいいカードが届くはずだ」
「カード?」
 葉月の隣で小首を傾げながらリピートする瑞希。瑞希のタレントは相手の顔を見てその真名を特定する“鑑眼”。葉月と同じく戦闘向きの能力ではないため、瑞希は腰のホルスターに自動小銃を携帯している。
(悪役じゃなければ銃刀法違反で捕まっているか……?)
 先程の自問を再び回帰させつつ瑞希に歩み寄って、ポンと自分の胸の位置くらいにある瑞希の頭に手を乗せる。
「カードって言ってもトランプのことじゃない。使えそうな人材が手に入ったんだ」
「……それは先日加わったばかりだという、あの男のこと?」
「そうだ。なかなか面白いことがわかってな」
「あの天道という男。私はあまり信用できない」
 葉月がその場に居ない男に対して、まるでソリの合わないバイト先の同僚を思う時のような顔を浮かべてみせる。葉月はどうも生真面目すぎるところがあるのが難点だ。
「あたしは別に嫌いじゃない。別に好きでもないけど」
 そう言って無関心そうにポニーテールをいじる瑞希。あっちはあっちで喜怒哀楽が乏しくて扱いづらいが、それはそれで需要のある属性だと思う。
(普段の無表情さと笑ったときの愛らしさ。そのギャップが萌えの大事な要素だな)
 そんなくだらないことを考えながらも、ちゃんと次の手を考える。この辺りに居る支部のメンバーは多くない。特に戦闘型は少なく、“猫目”のペアの余剰能力が知れない以上、迂闊にこちらから手を出すことはできない。
「カードが届くまでは待機だ。カードが届き次第、予定者の少年に接触する」
「……それまでEC対策部隊の連中が黙っているでしょうか? 現に昨日も接触を試みていたようですし」
 葉月の不満そうな声。予定者の監視などということに無為に時間を割きたくないのだろう。鞘を握る手に力が入っているのか、鞘と鍔がぶつかってカチカチと音が零れ出ている。
(確かに俺達の組織全体から見れば、予定者の監視など些末な任務に過ぎない。今のパワーバランスを崩壊させるほどのタレントを発現させる可能性があるヤツならともかく、発現するかどうかも疑わしいという予定者を監視するなど、葉月にとってみれば理系院卒のOLが上司にお茶くみを強制させられているような気分なんだろうな)
「……明日の昼には届くはずだ。それまでこちらから手は出さない。いいな?」
「わかりました」
 少し語尾を強めながら告げると、葉月は納得いかない顔つきのまま了承した。瑞希も葉月の隣でコクンと頷き、二人は姉妹のように揃って部屋を去っていく。
「葉月と瑞希のお見合いをするためだけにこっちの支部へ出張ってきたというのに、なかなか面白いことになってきたな」
 独り言を呟きながら再び視線を窓の外へ向ける。
 本当ならこちらの支部のメンバーと合流し、葉月と瑞希のペアとなる相手を探すために本部から出張ってきただけだった。それがEC対策部隊の連中を目撃し、さらに予定者と思われる少年を見つけたことで事は思わぬ方へ転がり始めた。
(面白くなるのは大歓迎だ。そろそろ、俺達はもっと表に出て行くべきなんだよ)
 世間的には悪役だと見なされるだろう。だが自分達が悪役だとは思っていない。だから迷うことなど無いはず。表舞台に立つ日は、そう遠くないはずだ。


 午前中の授業を一睡もせず耐えきったのは奇跡に等しかった。それは北海道で偶然旅行者のカバンに紛れ込んで九州へ来てしまったミツバチが、帰巣本能だけで北海道の巣へ舞い戻るくらいの奇跡だった。
 そんな壮絶な旅路を終えて巣に戻った翔だが、昼食時にはもう食事が喉を通らないほど憔悴しきっていた。
「…………う」
 箸から掴んだ卵焼きが落ちる。辛うじてもう一度掴むが、クレーンゲームのように掴んでも投入口へ運ぶ前に落ちてしまう。
「どうした? 何かすごく顔色悪いよ?」
 ノートPCをカタカタとタイプしながら紀之が怪訝そうにこちらを窺ってくる。モニタばかりを見つめているため、本当に翔の顔色が悪いのかを確認したのかと問いつめたい。
「大丈夫……だ」
「全然大丈夫そうに見えないよ?」
「今日も寝不足なんだってさ」
 隆介が弁当をがっつきながら紀之に簡素な説明をする。確かにその通りなのだが、理由をすべて脇に置いたまま単に寝不足だと称されると、そこはかとない怒りを覚える。
(ああダメだ……。マジでキツい……)
 もう頭の中はぐぁんぐぁん回っている。うまくいけば狭間の世界の妖精さんとの邂逅を遂げられそうなくらい、翔の意識は朦朧としていた。
「今日は何のページ見てんだ? ……ニュース?」
 隆介が何やら紀之のPCをのぞき込んでいる。
「ああ、そうだよ。今日のエクセッサー関連記事」
「ふーん……。“富山の余剰能力者犯罪対策部隊の隊員が拉致”? ああ、またエクセッサーの拉致問題か」
「そうだね」
 翔は二人の会話を鈍化した頭で何とか理解しようと努める。
 エクセッサーの拉致問題とは、その名前の通り、諸外国がエクセッサーを拉致して自国へ連れ帰り、様々な研究のモルモットにすることを意味する。現在エクセッサーは日本人にしか確認されていないため、諸外国は軍事転用も可能な余剰能力に対して危機感を強めているからだ。
「やっぱアレかな。拉致された人はあーんな実験やこーんな実験の被験者にさせられるのかなぁ。うう、想像するとマジ怖ぇ……」
「そうだね。非人道的な扱いを受けるっていう、海外の記事を読んだこともあるよ」
 それだけ余剰能力が恐れられているのだろう。科学社会の現代に於いて、理屈の通用しない余剰能力など脅威以外の何物でもないはずだ。
(あ、やべぇ……。本格的にやばい……)
 二人の会話すら頭に入ってこなくなる。これは本格的にキている。回転する椅子に腰を下ろしたまま、そろそろ回転数が三桁に届こうとしている時みたいに全身が警告信号を発している。
「天川? お、おい! 天川っ!」
 隆介の声が遠くに響く。視界が暗転し、世界を闇が覆い尽くす。
 翔はガタンと椅子を鳴らし、そのまま力なく床に倒れ伏せた。


“気をつけて下さいね”
 甘くふわふわしたトーンの声が脳内で木霊し、翔はハッと目を開いた。視界に映るのは、何の変哲もない真っ白な天井。
(ここは……? 俺はどうして……)
「気が付いた?」
 ふと側面から大人びた女性の声が響いてくる。自分が横たわっていることを認識し、翔は上半身を起こして声のした方へ顔を向けた。
 白衣を身につけたショートカットの女性。両手を白衣のポケットに収めているのは、男子生徒から熱烈な人気を集める美人保険医こと保科清花先生だった。噂によると三年の男子生徒と付き合っているとかいないとか。
「あ、はい。……えっと、俺は……?」
「お昼時間に倒れたみたいね。クラスメイトの二人がここまであなたを運んできてくれたわ。明日にでもお礼を言っておきなさい」
 保科先生が気怠そうに言う。ふと窓を覆うカーテンを見れば、すでに外は陽が落ちたのだろう、カーテンの外から差し込む光はない。
(睡眠不足が祟って倒れたわけか。しかも午後の授業全部フケちまった)
 朝や昼に比べ睡眠をちゃんととったせいか、今は随分頭がクリアになっていた。狭間の世界で邂逅を遂げそうになった妖精さん達はもう姿形もない。
「単に寝不足だっただけなんでしょう? さ、起きたのならチャッチャと動く。もう下校時間はとっくにすぎてるわよ」
「あ、はい。すいません、ご迷惑おかけしました」
 翔はベッドから這い出て軽く体を動かしてみる。特に痛むところなどもないので、そのまま保科先生に「失礼します」と告げてから保健室を後にした。
 もうすっかり陽が落ち、廊下には一人も生徒の姿は確認できなかった。斜陽どころか完全に落陽しているため、まさに学校の怪談の舞台となりそうな空気が廊下中に漂っている。
(母さんも心配するだろうし、さっさと荷物を引き上げて帰るか)
 誰も居ない廊下を早足で淡々と進み、途中で見回りの用務員のおじさんに会い、「またお前か」と苦笑された。昨日と同じ人だったため顔を覚えていたのだろう。
(そう言えば、昨日は人気が引いた教室であの遠藤梓って女に会ったんだっけ)
 ふと教室の手前で立ち止まり、昨日会った少女のことを考える。EC対策部隊の人間だと名乗った梓。梓のせいで翔は非生産的な思考の悪循環にとらわれ、こうして睡眠不足の結果それを補うためにこの時間まで保健室でおネンネする羽目になったのだ。
 教室の扉に手を添え、大きく深呼吸する。出来ればもう二度と梓には会いたくない。これ以上、今まで普通だった生活を壊されたくない。
 そう思いながら意を決して戸を開いた時だった。
「やっと来たわね」
 中から梓とは違う少女の声が響いてきた。その瞬間、別に窓が開いていて冷えた秋風が入ってきたわけでもないのに、翔は全身が冷たい空気に晒されているような寒気を覚える。
 声のした方を確認する。まるで壊れたブリキ人形のようにカクカクとした動きで首を回すと、翔の席に腰を下ろしている一人の少女が翔の瞳に飛び込んできた。
 美しい少女だった。これが斜陽の差し込む教室内で少女が物憂げな表情で夕陽を見つめていたのなら、思わず息を飲んで少女の美貌に目を奪われるところだろう。だが実際は違う。少女はダイヤモンドカッターのように鋭く怜悧に研ぎ澄ました切れ長の瞳で翔を射抜き、その表情にはおよそ友好的な色は浮かんでいない。
(んなっ……。な、何だよ……)
 腰まで伸びた長い黒髪を靡かせながら少女が立ち上がった。少女はこの学校の制服とは違うセーラー服を身につけていた。そして手には、何やら湾曲した細長い代物が握られている。
「……だっ、誰だお前」
「そんなことどうでもいいわ」
 少女が鬱陶しそうに言う。昨日会った梓も一風変わった空気を纏っているような気がしたが、梓の風はまだ友好的だった。
 しかし今目の前にいる少女の瞳には、憎悪にも似た翔に対する敵意が籠もっている。
(何だよ、何なんだよ!)
 翔は恐怖のあまり後ずさる。その間にも少女はゆったりと翔へ近寄ってきた。近づけば近づくほど、少女の美貌がより鮮明に浮かび上がる。
「精神的な大きな揺れが予定者を開花させてエクセッサーにするって言われてるけど、実際はどうなのかしらね。試してみる価値はあると思わない?」
「な、何を言って……。――っ!?」
 いきなりクスッと微笑んだ少女。翔がその笑みに息を飲んだ瞬間、少女が一瞬にして間合いを詰め、手に持っていた細長いモノを翔目掛けて振り払ってきた。
「ぐあああっ!」
 痛みが全身を駆け抜け、思わず翔は叫んでいた。思考の追いつかない頭で現状把握を努めると、翔の肩口から胸の辺りまでに大きな裂傷が浮かび上がっており、裂けた制服の下で鮮血が滴り落ちていた。
 混乱する頭を制しながら少女の手に握られた物を確認すると、それは三日月のように湾曲した鋭利な刀だった。翔の血が刃に付着しており、薄暗い教室内でうっすらと朱色に染まっている。
「うわ、ああ……。な、何なんだよお前っ!」
「足りない? 命の危機に立たされれば、きっと大きく精神面は揺れ動くでしょう?」
 まるで憂さ晴らしにホームレスをなぶる不良のごとく、少女の表情からは日頃の鬱憤を晴らせる喜びが満ちているようにも見えた。
(こ、こんな気違いに殺されてたまるかよ!)
 翔は必死に逃げた。教室を飛び出し、廊下で転びそうになりながらも必死に少女の側から離れようとした。肩口や胸元からあふれ出す血が体を伝って足下まで伸び、上履きの裏まで真っ赤に染める。自分の血に足を取られそうになりながらも翔は必死に廊下を走った。
 自分の心臓の音と息づかいしか聞こえない。少女が追ってきてるのかどうか、その足音に耳を傾ける余裕すら今の翔にはなかった。
 職員室にまで行けばきっと誰かいる。そう考えながら翔が走っていた時だった。
「――っ! ぐあああっ!」
 突如背後から強烈な衝撃を受け、翔は前のめりに廊下へ倒れ込んでしまった。直後に背中から焼けるような痛みがこみ上げてくる。
「面倒かけさせないで。発現させるならさっさと発現させて」
 少女の冷たい言葉が鼓膜を揺らす。背中からこみ上げる痛みを堪えながら振り返り、翔は自分の目を疑った。
 少女の持つ刀が、ゆらゆらと揺らめく朱色の炎に包まれていた。
(エ、エクセッサー……)
 炎が巻き起こす風が少女の長い黒髪を揺らしている。それはあまりに非現実的な光景だった。同時にそれは翔にとってあまりに絶望的な状況だった。
 理由はわからないがエクセッサーの少女が翔を殺そうとしている。そして今の翔に、少女に対抗しうる力はない。
「上からの命令はただの監視だけど、そんな退屈なのは嫌なの。私は、こんなところで燻っているわけにはいかないから」
「何を……言って……。――かはっ!」
 一足飛びで間合いを詰めてきた少女が炎を纏う刀で翔を斬りつける。裂傷と共にブレザーが灼き焦げ、縮れた繊維が廊下にフワリと落ちる。
「あ、ああああ……。あぐううう……」
 痛みが全身の神経を灼き、今まで味わったことがないくらいの痛みで今にも意識が飛びそうになる。それを必死に堪えながら、翔は力ない目で少女を見据えた。
「情けない男ね。ほら、死にたくないならさっさと発現させれば?」
 少女が剣先を翔の喉元に突き立てる。その表情には同情や憐れみなど一切無く、ただただ鬱陶しそうに眉を顰めて面倒くさそうにこちらを見下している。
(だ、駄目だ……。殺される……)
 背後に迫る絶対の死。それをヒシヒシと実感しつつ、翔は浮世離れした美貌を携える少女を見上げた。
 見下す少女と見上げる翔。昨日の梓との出会いは事前設定に過ぎず、もしかしたら目の前に凛然と立つ少女と出会ったことこそが、翔のこれから始まる物語のプロローグなのかもしれないと、翔は混濁する意識の中で思った。
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