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プロローグ 夜の帳が降りて静寂と暗闇が世界を覆う中、視界に映った自分の身体から流れ出る真っ赤な液体を見つめながら、天川翔は恐怖のあまり声にならない声を漏らした。 ゆらゆらと揺らめく炎のために視界は割と明るい。その光が鮮血の朱を如実に浮かび上がらせていた。 学校指定のブレザーは見る影もないくらいに引き裂けて焼き焦げている。元は紺色だったはずが、今では炭化したパンのように真っ黒だ。ついでにズボンも本来の灰色ではなく黒く焼き焦げていた。 「あ……、う、あ……」 恐怖と驚きのあまり腰が抜け、翔は逃げることすらできない。何で自分がこんな目にあってるのかと、何度この不条理で理不尽な状況を呪ったことだろう。 (くそ……。何だ、こいつ……) そう思いながら、翔は力ない瞳で目の前に仁王立ちする少女を見つめた。 翔の前には銃刀法に違反する刃渡り一メートルはあるであろう刀を手にした少女が立っている。夜空に浮かぶ三日月のように鋭利で湾曲した刀から翔の血が滴り、緩んだ蛇口からこぼれ落ちる水道水のようにぴちゃぴちゃと音を立てて廊下へこぼれ落ちていた。 見慣れた学校の廊下が今では全く見たこともない地獄と化している。そしてその中心にいるのが翔であり、その目の前に立っているのはとても精巧な顔つきの少女だった。 「……まだ、足りないの?」 切れ長の瞳を怜悧に細め、長い黒髪が夜風と少女の握る刀を包む炎が巻き起こす風で揺れていた。男子高校生の平均的な身長である翔より頭一つ分くらい小さいが、小顔のせいか手足が長く見える。年の頃は翔と大差ないであろう少女が不相応な刀を手に佇んでいた。 単純に美少女だった。状況が状況なら目を奪われて息を飲むところだろう。だがそんな気にさせないほど、少女と翔を取り巻く環境は著しく現実味に欠けていた。 炎が揺らめいている。少女の持つ刀を紅蓮の炎が覆っている。 翔は瀕死の重傷を負っている。全身を覆う裂傷は同時に重度の火傷を伴っていた。 「ぐ……、はあ……」 呼吸するたびに肺が悲鳴を上げ、体の内から起こる壮絶な痛みが脳の神経を焼いた。口からは血の塊が溢れ、廊下を血の池が浸食していく。 (何だ、何なんだよこれは……) 数分前、問答無用で襲ってきた少女に翔は抵抗する間もなく致命傷を刻み込まれた。朱色に染まる、炎を纏った刀で。筆舌にし難い衝撃が全身を駆け抜け、初撃を受けただけで失神してしまいそうだったのを何とか未だに堪えている。 「……て、てめぇ……、一体……」 「意外とタフね。それだけ血を流してまだ発現しないなんて、放っておいても一生発現しないんじゃないかしら」 両膝を廊下につき、もはや身動き一つろくに取れない翔を少女が鬱陶しそうな表情で見下ろしてくる。その瞳には翔を斬りつけることに罪悪感など微塵も感じていないように見えた。 (く、くそ……、瞼が、重く、なって、きやがった……) すでに致死量に近い血を流し、全身に重度の火傷を負った翔の意識は混濁していた。辛うじて意識をつなぎ止めているものの、いつ途切れてもおかしくない。 それでも翔は必死に意識をつなぎ止めた。こんなところで死にたくなんかない。こんなところで理不尽に殺されてたまるものか、まだ死んでたまるかという、生への強い執着心のみで苦痛を押し殺す。 「はあ……、はあ……。ぐっ……!」 少しでも少女から離れようと全身が鉛のように重い体を引きずる。だが今の体力では緩慢な動きで数センチ移動するのがやっとだった。 「何で私がこんな奴を……」 翔が必死に空けた数センチの間を少女がたった一歩で埋めてくる。不機嫌そうに眉根を寄せ、吐き捨てるように何かを呟きながら。 (なん、で……。何で、こんな、ことに……) 朦朧とする意識の中、翔は少女を睨め付けながらこうなってしまった理由を考える。 何で自分が見も知らぬ少女に襲われなければならないのか。一昨日の翔なら全く心当たりがなかったはずだ。だが、今は一つだけ思い当たる節がある。 (気をつけろって……、こういう、こと、だったのか……) 翔の脳裏に昨日翔に接触してきた一人の少女の姿が浮かぶ。彼女は言っていた。「気をつけて下さい」と。だがその時の翔にはその意味するところ理解できずにいた。 今ならわかる。あの時、あの少女はこのことを言っていたのだと。しかし、わかったところで今の翔には何も出来ない。 普通の、今はまだ普通の人間である翔には、今目の前に立つ少女のような普通ではない人間に太刀打ちできるはずがない。 「どう? そろそろ絶望した? ……それともまだ足りない?」 (くそ……。何で、俺が……。何で……、俺なんだ……) 絶望的な状況の中、翔は昨日の出来事を思い起こす。 まだ翔が至って普通の世界に埋もれていた頃。普通の高校生として普通に学校へ通い、普通に友人達とダベっていた頃。 それが一昨日まで翔が居た世界だ。いや、正確には昨日の夕方くらいまで翔が過ごした世界だ。たった三十時間程度前の話。なのに果てしなく遠い日のような気がした。それだけ、今の状況が現実離れしている。 (何で……、俺なんだ……) 心の中でそう呟き、翔は昨日の出来事へ意識を馳せた。 |
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