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第一章 分岐未来から来た少女 * 5−1 * 目の前には楚々とお茶をすする一人の少女が佇んでいる。紺色の紐で艶やかな黒髪を結い上げ、鼻筋はとても整っている。肌はきめ細かくて磁器のように白く、クリッとした瞳は別世界の住人を思わすくらい可愛い。 僕の名前は麻生令。これといって特徴がなく、高校受験の面接で述べる長所を何にしようかが目下一番の悩みどころである。 そんな僕に自室へ女の子を連れ込んだことなどあるはずもなく、健全な男子を集めたら誰もが美少女と称するような子が目の前にいるこの空間が自分の部屋だとは未だに信じられない。いや、まあ、正確には妹の利香や幼馴染みの奈美恵、このは姉を自室に招待したことはあるが、それももう随分昔の話である。 「えっと……、それで、君は誰なの?」 僕は目の前で至極落ち着いた美少女に尋ねた。実はまだ、僕は少女の名前すら知らない。八月に入って第一週の日曜日、今日は進学を希望している高校の体験入学のため奈美恵と揃って出かけていった。そして帰宅した時、僕の部屋にその美少女はいた。 「何度同じ事を言わせるつもり? あたしは、あなたの娘よ」 部屋に入った僕が真っ先に尋ねた質問をそっくりもう一度尋ねると、彼女は先ほどとまったく同じ回答をよこした。これでもう七回、同じやりとりをしている。 いきなり部屋に不審者が居たら誰だって動揺するものだ。もちろん僕も例に漏れず、僕の部屋で悠々くつろいでいた少女に、誰だと問いただした。そして彼女が口にした答え、それが先ほどから延々繰り返している押し問答の答えであり、 “あたしは分岐未来から来た、あなたの娘よ” である。聞き間違えたのかと思ってもう一度尋ね、意味がわからずもう一度尋ね、やっぱり理解できずもう一度尋ね、それでも意味不明でもう一度尋ね、何とか自分自身を納得させようともう一度尋ねたが、結局少女から聞き出せたのはそれだけだった。 「えっと……、な、名前は?」 「それは制約条件に引っかかるので言えないわ。いくらあたしでも、完全に因果律を操作することなんかできないもの」 「はあ……」 僕は相づちを打つしかできず、呆然と少女を見つめていた。こちらが唖然としていることに気付いたのか、少女は面倒くさそうに口を開き、淡々とした口調で語り出した。 「未来っていうのはね、無限の可能性を持っているの。無数の分岐の先に、それぞれ別の分岐未来が存在している」 何となくSFじみたことを語り出した少女に、僕はただただ黙って耳を傾けた。もしかしたらかなり電波な少女なのかもしれない。下手に関わるより、黙っていた方がいいと直感した。 「でも、どの分岐未来が選ばれるかというのは完全なランダムではないの。それぞれの分岐未来にはその未来がどれほど価値があるかというエネルギーを持っていて、因果律を操作するユグドラシルシステムは現在から見て一番価値が高い分岐未来を選択するようになっているわけ。そうすれば、最適未来に到達できると考えられるからね」 真面目な口調で話す少女を、可愛い顔なのに勿体ないと思いながら僕は目を細めた。 「でも、ユグドラシルシステムは現時点で見える範囲でしか最適未来を探索できないの。別の分岐未来の先にもっと最適な未来があったとしても、現時点での情報でしか判断できない。簡単にいうと、最も高い山に登りたいんだけど、霧の濃い山脈ではどれが一番高いかわからないの。だから、取りあえず現時点から見て傾斜が急な方へ登ろうとする」 一体どんな本から得た知識なのだろう。きっと、この子の部屋には電波な本がゴロゴロしてるんだろうな。まだ若い身空で、可哀想に。 「そんな不完全な探索のせいで、世界はしばしば局所最適な未来にたどり着くことがある。最適とはいえ、それはあくまで局所的に見た場合の話だから、そんな未来にたどり着いた場合、ユグドラシルシステムは間違いを是正して探索をやり直そうとするわ。いえ、正確には経路の修正だけど、まあ、やり直すと考えても遜色ないわね」 よくネタが尽きないなぁと、僕は感心すると同時に呆れていた。 「けれど、どうしても抜け出せない局所最適未来がある。それが自閉未来。もしそんな未来に世界がたどり着いた場合、世界は二度とその極地から抜け出すことはできないわ。そうなれば世界の成長は止まり、それ以上の進歩が見込めない世界となってしまう」 可愛い女の子と二人きり。本当ならもうちょっとドキドキとかあってもいいんだろうけど、そんなドキドキなど皆無だ。そろそろ寝てもいいかな? 「ユグドラシルシステムとて馬鹿ではない。そんな自閉未来に導くよう因果律を操作したりはしないわ。けれど――」 少女はそこで一旦言葉を切り、大きく息を吐いた。真面目に聞いていたわけではないので、“けれど”に続く言葉に何も思い当たらない。 「あたしが存在する分岐未来、それは自閉未来なの。決して世界がそれ以上進歩することのない世界」 少女がどうだと言わんばかりに僕の方を見た。僕は目を白黒させながら、 「はあ……」 と適当な相づちを打つ。何を言ってるかサッパリわからない以上、それ以外に答えようがなかった。 「今、この世界は本来選択されるはずのないあたしの存在がある分岐未来、自閉未来を選択しようとしている。だからあたしはここに来た。因果律に干渉して」 「えっと、……ぐ、具体的に何をしに来たの?」 結局の所少女は何が言いたいのだろう。新手の宗教勧誘か、近所の怪しいサークルの勧誘か、はたまた誰でも良いから自分の作り話を聞いてほしいだけなのか。 困惑する僕の手前で、少女はハッキリと自分の目的を明かした。まったくもって意味がわからない、リアクションの取りようもない目的を。 「あたしは、あたしの存在を消しに来たの!」 * 1 * 中学最後の夏。担任から無謀と言われているにも関わらず、僕の、自宅から歩いて五分の位置にある県立高校を受験する意志は固かった。 内申点で言えば九は足りない。それは確かに、先生の言うとおり無謀だった。だが、僕の脳裏に、そこを受験する以外の選択肢はまったくない。 県立豊浜高等学校は全校生徒八百人弱の普通科高校で、豊かな自然に囲まれた穏やかな高校である。 そんな高校を僕が選んだ理由は、至極単純な動機だった。 憧れの人がいる。ただ、それだけだ。 僕が今住んでいる辺りに引っ越してきた頃から親しくしている、一つ年上の女性。昔から弟のように可愛がってくれたその人に対する気持ちが、実の姉のように慕う気持ちから一人の異性としての好きに変わったのがいつなのか覚えていない。 けれど、これだけは確かだ。僕はこのは姉が、流鏑馬このはが好きなのだ。 「……暑いなぁ」 豊浜高校に続く小道は、勾配の急な坂となっている。校舎が小高い丘の上にあるため、通う生徒にとっては登校するだけで体の鍛練になりそうだ。 僕は額の汗を拭いながら目陰を差し、陽炎の上るアスファルトにウンザリしながら歩を刻み続ける。 世間の学生達が夏休みを謳歌している八月、受験生である僕は、本来ならばクーラーの効いていない学校で補習を受けていなければならない。しかし今日は進学を希望する豊浜高校の体験入学日なので、むせ返るような暑さの中こうして丘の上の校舎を目指している。 「ホント、暑いよね」 僕の隣で日傘を差しながら白いハンカチで額を拭うのは、幼馴染みで同じく豊浜高校への進学を希望する少女、橋倉奈美恵。男子生徒の平均的な身長である僕よりも頭一つ分小さい奈美恵は、中学の制服である半袖のブラウスに紺色のスカートを身につけている。当然、僕も半袖開襟シャツに紺のスラックスという中学指定の制服だ。 「気温もそうだけど、湿度がキツイよね」 「昨日の雨のせいだ。……こんな蒸し暑い中、あちこち見て回るのか」 今日の見学コースには部活動見学も含まれていた。僕は中一から続けているテニスを高校でも続けようと思っているし、奈美恵は手芸部に入ると決めているようだ。 「令ちゃんはテニス部も見学してくるんだよね?」 「うん、一応そのつもりなんだけど……」 こう暑いと、運動部を見て回る気が削がれる。熱射病で倒れないようにと母さんが持たせてくれた地元球団の野球帽を鞄から取り出し、すっぽり頭を収める。 ちなみに令ちゃんとは僕のことだ。友達からは名字で呼び捨てされることが多いが、このは姉は令君、奈美恵は令ちゃんと下の名前で呼ぶ。 「あーあ……、折角だからこのは姉も一緒に来てくれればよかったのにぃ」 「仕方ないよ。このはお姉ちゃんは弓道部の大会なんだし。……それに、私は……二人きりの方が…………ぃぃ……」 「ん? 何か言った?」 「あっ、ううん、何でもないよー」 奈美恵が手をブンブン振りながら必死に笑顔を繕っていた。少し顔が赤いような気もする。あまり体の強くない文化部系の奈美恵だから、軽い熱射病を起こしてるのかもしれない。急いだ方がよさそうだ。 「辛くなったら言ってね。時間に余裕を持って出たから、そんなに急ぐ必要もないし」 「うん」 僕は目に付いた自販機でオレンジジュースを買い、ぽーんと奈美恵に投げた。放物線を描いた缶が奈美恵の手におさまり、奈美恵がキョトンと僕を見つめる。 「夏場は水分不足に気をつけろって母さんが言ってた」 「えっ、でも、令ちゃんは?」 「僕は水筒持ってきた。部活に行く前に、利香が僕の分も用意してくれたみたい」 「そっか。じゃあ遠慮無く貰っちゃうね」 奈美恵は顔をほころばせながらプシュッと缶を開け、歩きながらゴクゴクと飲み始めた。それを横目で見つめながら、僕も水筒をラッパ飲みする。 ちなみに利香とは、一つ年下の僕の妹である。実際戸籍上そうなってはいるが、血は継ながっていない。実の母はまだ僕が幼い頃に他界し、父さんは五年くらい前に今の母さんと再婚した。その連れ子が利香だ。 「……ぷはっ。美味しい」 「ジュース一本でそんな笑顔を浮かべてくれるんだから、奈美恵って安上がりだよね」 「えー、そんなことないもん!」 そう言いながらもゴキュゴキュとオレンジジュースを飲み、愛らしく笑みを浮かべる奈美恵を見つめていると、こちらまで穏やかな気分になってくる。昔から、危なっかしかったり妙にほんわかしていたりと、猫のような性格の持ち主だ。 やっとのことで坂を登り切った僕たちは、校内の案内板に従って体育館へと移動した。体育館の中は冷房こそ効いてはいないが、風通しが良く、何と言っても直射日光が届かない分涼しかった。 靴を袋に入れ、スリッパに履き替えてから、僕は野球帽を鞄に収めた。保護者同伴や学校単位で見学に来ている生徒が多い中、僕と奈美恵は案内プリントを入口で受け取って、ご自由におかけ下さいと書かれた鉄パイプの椅子に揃って腰を下ろす。 「教頭先生の説明会が二時からあるみたいだけど、あまり聞く気はしないなぁ」 「でも、部活動見学は三時からだから、まだ結構時間あるよ?」 「うーん。どっかで時間つぶせないかなぁ」 「令ちゃん、長い話嫌いだもんね」 嫌いも何も、好きこのんで長話を聞きたいヤツなどいないと思うのだが。 「奈美恵は聞くの?」 「うん。お母さんがちゃんと聞いてきなさいって」 相変わらず真面目なことで、奈美恵はあからさまにつまらなそうな教頭の説明とやらを聞く気満々だ。同伴者として一緒に聞くべきかとも一瞬悩んだが、どうせ寝て寝汗をかくだけだろうからやめておくことにした。 「じゃあ僕は適当に時間つぶして、そのまま部活動見学に出るよ」 「うん。……でも、帰りはどうするの? 私、携帯持ってないよ?」 僕も奈美恵も携帯電話は持ち合わせていない。高校に上がったら持ってもいいと母さんに言われているため、今はまだ我慢の段階だ。 「……落ち合うのも面倒だし、バラバラに帰る?」 「えー……。一緒に帰ろうよぉ」 うーんと唸りながら考えていると、ぞろぞろと入口から保護者やら学生やらが入ってきて席に腰を下ろしていく。どうやらそろそろ教頭の話が始まるようだ。 「えっと、じゃあ見学が終わったらテニスコートまで来て」 「うん、わかった」 奈美恵の承諾を確認してから、僕はそそくさと体育館を後にした。 * 5−2 * 「存在を……消しに来た?」 僕は今し方少女が口にした言葉を反芻した。今まで少女が口にしてきた言葉はすべて意味不明で電波な言葉ばかりだったが、中でも最後の言葉は僕の頭によく響いた。 “あたしは、あたしの存在を消しに来たの” まさかとは思うが、少女は自殺願望の持ち主なのだろうか。電波でキてる少女だとは思ったが、まさかこれほどとは思わなかった。やばい、止めた方がいいだろうか。 「だ、駄目だよ! まだ若いんだし、そんなことしたら親御さんだって悲しむよ! 人生は何度でもやり直しがきく! 早まっちゃ駄目だ!」 僕はいつの間にか少女の肩を掴んで一気にまくし立てていた。少女がポカンとこちらを見つめ、その後ため息と共に僕の腕を肩から引き離した。 「あたしは死なない、いえ、死ねないわ。だってあたしはまだ存在が確定したわけではないもの。言ったでしょ? あたしは分岐未来から来たって。分岐未来はこの世界が因果律によって導かれる未来の可能性の一つ。だから、あたしの存在も可能性でしかないのよ」 あきれ顔でさらに電波なことを言い続ける少女。まったくもって意味不明だけど、取りあえず死ぬ気はない……らしい。ひとまず安心……なのだろうか。 「あたしが存在する分岐未来に世界を導かない。そのためには未来が現在、そして過去として確定する前に、選択される分岐未来を変えることが必要なの。それはすなわち、あたしの存在する分岐未来が存在する可能性を断つことであり、同時にあたしの存在を消すことでもあるわ」 いい加減聞きっぱなしでいるのも何なので、僕も足りないSF知識を総動員しながら少女の電波話に対抗することにした。 「えっとさ、でも、未来から来た人が過去を変えても、その、タイムパラドックスが発生して結局意味がないんじゃ?」 「それは未来から来た人間が過去を変え、それにより未来の人間が過去を変える必要がなくなって起こるパラドックスでしょう? でも、あたしは違う。あたしの存在は可能性であり、選択される未来が変わろうとも、今この時点で存在する無数の可能性、つまり無数の分岐未来にはあたしの存在する分岐未来が存在しているのだもの。可能性が潰えた時点であたしの存在する分岐未来は消滅するけど、過去の時点でその可能性があったという事実は変わらない。だからパラドックスは発生しないわ」 えっと、はい、適当に突いてみましたけど、何を言ってるのかサッパリわからない論述で言いくるめられてしまいました。うーん、手強い電波少女だ。 「えーっと、じゃ、じゃあ、君の言っていることを真実だと仮定して考えると、まさか未来を変えるために自分の存在を消すってことの意味は、ぼ、僕を殺しに来たってこと?」 少女は僕の娘だと名乗っている。ならば、自分の存在を消すということは親であるという設定の僕を殺すということではないだろうか。もしかして、このまま退っ引きならない電波娘に僕は殺されてしまうのだろうか。そして精神鑑定の結果精神に異常が見られるということで彼女は無罪、僕は無駄死にとなってしまうのだろうか。それは嫌だ。 動揺する僕の前で、少女は落ち着き払った様子で口を開いた。 「それは出来ないわ。可能性の存在でしかないあたしは、いくら因果律に干渉できるとはいえ多くの制約条件を帯びている。直接あなたを殺せないのも、自分の真名を名乗れないのも、母親の名を口に出来ないのもそのためだもの」 殺さないって言ったよね? 取りあえず、殺されるっていうオチはなしだよね? 僕は胸をなで下ろしながら、自分のために用意した麦茶を飲み干した。少女の電波な話はかなり心臓に悪い。早々に帰って欲しいのだが、少女はまだまだ帰る気はないご様子。 「……信じていない顔ね?」 小さくため息を漏らした僕に、少女がその愛らしい顔をさらに華やかに和らげて白百合のような笑みを浮かべた。こんな美少女が僕の娘だというのが、少女の話を嘘だと証明する一番の根拠ではないだろうか。 「こんなこと、いきなり信じろっていうほうが無理じゃない?」 君の頭を疑う方が当たり前だよ、とは流石に言えない。 「それもそうよね。よかったわ、あたしのお父さんが至って普通の反応をする、普通の何処にでもいるような人で。もしあたしの話を鵜呑みにするような、頭のネジが数本抜けているような人だったらどうしようって思ってたもの」 「よくわからないけど、未来から来てるんだから僕の未来の姿を知ってるんでしょ?」 「そうね。けれど、あくまで可能性の未来だから、あたしの知ってるお父さんと本当のあなたとは少なからず誤差が生じているわ」 少女が矯めつ眇めつ僕の顔をのぞき込んでくるので、僕は気恥ずかしくなって視線を泳がせた。 「あたしが未来から来たっていうことを証明してあげるわ。……利香ちゃんを呼んで」 「え? どうして利香のことを……?」 「いいから。先に言っておくけど、利香ちゃんはサクラじゃないからね」 僕はよくわからないまま自室を追い出され、向かいの部屋の隣にある、利香の部屋のドアをノックした。 「んー、兄貴、どうしたの?」 利香は暑いせいか薄いキャミソールにパンツだけという半裸の姿で部屋から顔を出し、僕が視線のやり場に困っているのに気付いて一旦部屋の中へ戻った。次に出てきた時は、クラック入りのハーフジーンズを穿いていた。 「えっと……、ちょっと僕の部屋に来てくれる?」 「どうして? ……もしかして暑さで妹に欲情しちゃった?」 「違うから安心して。ちょっと珍客があって、そいつが利香を呼ぶよう言ってるんだよ」 「珍客ぅ? まさかと思うけど、麗奈ちゃんのこと言ってるの?」 利香の言葉に僕は言葉を失ってしまった。一体、利香は誰のことを言っているのだろう。麗奈って、一体誰のことだ? 僕が固まっていると、僕の部屋から先ほどの少女が顔を出した。それに気付いた利香が廊下に飛び出し、少女の方へゆっくりと歩み寄っていく。 「どうしたの、麗奈ちゃん。私に何か用? あ、もしかして兄貴に襲われそうだった?」 あろうことか、利香はごく平然と少女に話しかけていた。親しげに、まるで昔馴染みに向けるような笑顔を浮かべて。 「え……? ど、どうして? 利香、お前その子知ってるの?」 僕はただ動揺するしかなかった。少女が先ほど言った、利香がサクラであるという可能性も考えたが、少なくとも利香はそこまで演技がうまくない。あの笑顔は、どう見ても親愛の情のが籠もったものだ。 そんな僕を、呆れたような、キョトンとした顔で見つめる利香。そして利香は、あっさりととんでもないことを言った。 「知ってるも何も、麗奈ちゃんは私らのイトコじゃん」 僕は愕然とした表情で麗奈と呼ばれた少女を見た。少女は、晴れやかで眩しい笑みを浮かべていた。 * 2 * 教頭の長い話など聞く気にならず体育館の外に出ると、僕の同じような考えをしたのであろう、体験入学の生徒達が数名、部活動見学までどうしようか、などと話し込んでいた。 集団の脇を通り抜け、僕は袋から靴を取り出して校庭を散策し始める。 校舎は大きく分けて南館と北館からなっており、その間には花壇や銀杏並木の小道が続く中庭があった。夏休み、さらには休日である今日はほとんど人の姿はなく、時折中学生らしき生徒とすれ違う程度で、僕は静かに散策を続けた。 小道は端でぐるっと迂回しており、そのままグラウンドと南館の間にある、正門から続く道へと繋がっていた。僕は校門越しに奈美恵と一緒に上ってきた坂を見下ろし、合格する前から、あんな坂を毎日上って登校するのかと少し憂鬱な気分になった。 「……ん?」 踵を返し、南館の昇降口辺りに体を向けた時、ふいに一人の少女が僕の視界に飛び込んできた。豊浜高校指定の制服を身につけているわけでもなく、奈美恵と同じ制服でもないことから、きっと別の中学から見学に来たのだろうと推測できる。 けれど、何でその女生徒が気になったかというと、 「……白」 思わず口に出してしまう。少女は自販機の前にうずくまり、何やらゴソゴソと蠢いていた。制服改造を行っているせいかスカートの丈は短く、僕の立っている位置からその中身が労せずとも飛び込んでくるからだった。 「ああっ! もう、どうしてよぉ〜」 ふと、少女が周囲に聞こえるくらいの声量を漏らす。熱射病か何かでうずくまってるかと心配したが、どうやらそうではないらしい。 「うぅ、家出る前に財布の中身確認してくればよかった……。くぅ……、最後の百円だったのにぃ」 僕は恐る恐る少女の方へと歩み寄った。見れば、木の枝を握りしめて自販機とアスファルトの間のわずかな隙間をゴソゴソと探っている。もしかして、落とした硬貨が合間に転がっていったのだろうか。 少女が何を落胆し、何を困っているのか確証は持てないが、その、惜しげもなくと言う表現はおかしいかもしれないけど、これ見よがしに披露しているモノについて一言注意というか、気付かせてあげた方がいいと思って、僕は思いきって口を開いた。 「あ、あの……」 「えっ? ……な、何よ? あたしに何か用?」 僕の目が、憐れむような目だったせいか、少女が不機嫌を貼り付けたような顔でこちらを睨んできた。振り返った少女は、色素の薄い髪が特徴的で、黒曜石のような切れ長の瞳に鼻筋の通った美少女だった。思わず、僕は息を飲んで瞬きを繰り返す。 「ちょっと! 何の用って聞いてるんだけど?」 「え、ああ、ごめん。……えっと、その、言いにくいんだけど」 少女はキリキリと眉をつり上げ、鬱陶しそうに僕を見つめる。額に浮かんだ汗や、首筋にしっとりと張り付く髪が、少女らしからぬ色気を演出していた。 「し、下着……、見えてるよ?」 「は……? …………。――っ!?」 忠告して二秒後、ようやく事態を把握したのか、少女はいきなり立ち上がって僕の方を見つめたまま一歩後方に後ずさった。本当ならもっと後ずさりたかったのだろうか、自販機に背中をぶつけてオロオロとしている。 「ご、ごめん! でも、僕が気付いた後は誰もここを通ってないから、きっと大丈夫」 自分でも何が大丈夫なのかよくわからずに言うと、少女の眉がますますつり上がっていった。さほど身長の変わらない少女が、下唇を噛みながらもの凄い形相でこちらを睨んでくるのは、恐怖に近い感情を覚える。 「言っておくけど、堂々と見せてたのはそっちだからね。……怒らないでよ?」 「むーっ!」 少女は頬をリスみたいに膨らませて唸っていた。たぶん、自分に非があるとわかっていても認めたくない、やり場のない怒りをすべて目の前にいる僕にぶつけようとしているのだろう。ああ、やっぱり話しかけなければよかったかな。 「……あなたは、見たのね?」 「えっと……。……うん」 下手に嘘をついてそれがバレたりしたら、そっちの方が恐ろしいので、僕は正直に答えた。少女は眉をヒクヒクさせながら、 「そ、そう……。じゃあ!」 そう言ってバッと手を振り上げた。瞬間的に殴られると思った僕は、肩をビクっと震わせて瞳を閉じた。しかし予想した平手は飛んでこず、恐る恐る目を開くと、すぐ目の前に少女の掌があった。 「ジュース代ちょうだい。最後の百円玉、落っことしちゃったの」 「……は? な、何で?」 「汗で手が滑ったのよ。しかも昨日、友達と服を買いに行ったせいで財布の中に――」 「そうじゃなくて、何で僕が君にジュースをおごらなきゃいけないのかって聞いてるんだけど?」 今度は僕は一歩後ろ足を退いて後ずさりながら尋ねる。少女は面倒くさそうに、けれどどこか気恥ずかしそうに髪を掻き上げながらジッとこちらを睨んでくる。 「見物料よ、当然でしょう? あなた、あたしのパンツ見たんでしょ?」 「け、見物料って……。そっちが勝手に見せびらかしてたんだろ!」 「み、見せびらかしてなんかないわよっ!」 少女がムムムと唸りながら僕を睨む。けれど、そう易々と、はいそうですかと納得できるような人間じゃない、と自負しているので、僕も負けじと少女を睨み返した。 睨み合ってどれくらい経つだろう。一向に引く様子の無い少女に、僕は徐々に気圧されていった。もともとあまり気が強い方ではないし、少女とはいえ、目の前にいる子は奈美恵やこのは姉と同性と思えないほど覇気がある。 「はあぁ」 数秒後に迫った敗北をひしひしと感じ始め、僕がとうとう観念して視線を逸らそうとした時、意外にも、少女の方が先に負けを認めるに等しいため息を漏らした。 「……もう、いいわ。……さっさと、あっち、行って……」 少女は気怠そうに、スカートから取り出したハンカチで額の汗を拭った。いや、拭おうとしたのだろうが、力が入らなかったらしく、ハンカチがヒラヒラと舞ってアスファルトの上に舞い落ちた。 「ど、どうしたの?」 とっさに駆け寄ると、少女の体がグラッと傾き、僕の体に倒れ込んできた。慌てて少女の体を抱き止め、何度も呼びかけるが、反応はない。 「はあ……はあ……」 すぐ側で聞こえる少女荒い息づかい。さっきまであんなにかいていた汗が引いており、顔色も悪い。僕は脱水症状か熱射病だと思い、少女を担いで保健室へ向かうことにした。幸い、保健室は正門から入って体育館へ続く道沿いにあったため場所を覚えていた。 保健室に入ると、若い女性の保健医が暇そうに漫画を読んでいた。夏休み、部活動などでいつ患者が来てもいいように待機しているのだろうが、それにしてはあまりにだらけた態度だ。 僕が事情を説明すると、先生は少女をベッドに寝かして検診を始めた。僕はカーテンを挟んだ先にある保健室の椅子に腰を下ろし、先生の検診結果を待つ。 「大丈夫、軽い熱射病よ。もともとあまり体が強い子じゃないみたいね。少し休めばすぐに良くなると思うわ」 「そうですか。……よかった」 先生の話を聞いてとりあえず一安心した僕は、ベッドで静かに寝息を立てる少女を一瞥した後、ハッとして腕時計を確認した。時計はすでに、二時五十分を指し示していた。 「あ、そろそろ部活動見学の時間だ……」 五分前には集合場所に行こうと思っているため、もうあまり時間がなかった。でも、見ず知らずとはいえあの少女をそのままここに置いていくのも少し気が引ける。 僕のそんな心情を察してか、 「この子のことは心配ないわ。私がちゃんと看てるから、あなたは見学に行ってらっしゃい」 と、先生が優しい声音で背中を後押ししてくれた。僕はもう一度少女の寝顔を一瞥してから、先生に首肯で応じて保健室を出ようとした。 「あっ!」 その時ふと僕はあることを思いついて思わず声を漏らした。先生がどうしたの、といった顔でこちらを見つめてくるので、少し待っていて下さいと断ってから保健室を飛び出す。 向かったのは自販機。見物料、もとい病人への見舞いということで、僕は少女にジュースをおごってやることにした。せっかく利香が気を利かしてお茶を用意してくれたのに、何で奈美恵や見知らぬ少女のため、自分の財布を軽くする必要があるのかと少しだけ思ったが、まあ、いいや。 あの少女が何を飲みたかったかなどわかる由もないので、僕は生ぬるくなってもおいしさが変わらなさそうなもの、リンゴジュースを買って保健室に戻った。イチゴオレとか、ミルク飲料は生暖かくなってしまったら超絶まずいから。 「先生、これ、この子が目を覚ましたら渡して下さい」 「優しいのね。……わかったわ」 保健室で、何故か笑いを堪えているような先生にジュースを渡し、今度こそ僕は部活動見学の集合場所、テニスコートへと向かうことにした。 * 5−3 * 変な兄貴、の一言で片づけられ、利香は少女に笑みを残して自室へ引き上げていった。僕は意味がわからず、その場にうずくまって唸りたかったところを何とか自室まで体を引きずり込み、ベッドの上に倒れ込んだ。 「少しは納得してくれた?」 隣で華やかに微笑む少女。僕はいまいち合点がいかず、取りあえず利香が呼んだのと少しイントネーションを変えて少女のことをレナと呼ぶことにした。本当に微々たる反抗心だ。情けない。 「ほんの少しだけね。……本当は微塵も納得してないけど」 母さんが居れば母さんにも話を聞きたいところだったけど、母さんは夕飯の支度を終えてすぐに父さんの赴任先へ飛んでいってしまったため、今この家には僕と利香、そしてレナの三人しかいない。 「でも、一体どういう……ことなんだ?」 「この世界の情報はすべてユグドラシルシステムが管理してるわ。あたしはそれに干渉して、可能性でしかないあたしの存在をこの世界に擦り込ませたの。あなたの従妹で同い年である麻生麗奈として。ああ、もちろん偽名よ」 あまりに現実離れし過ぎて理解が追いつかない。もし今レナが言っていることを真実とするならば、今までレナが言ってきたことも真実ということになる。つまり―― 「じゃあ、ホントに、レナは僕の娘……なのか?」 「レナ? ……そう。生まれた年は言えないけど、歳は今のあなたと同じ十四歳よ」 ベッドに横たわったまま顔を上げると、勉強机の椅子に腰掛けて背もたれに両肘を乗せながらレナが優雅に微笑んでいた。納得し掛かっている今だからかもしれないが、どういう訳か自分に全く似ていないと思った美少女の顔にどことなく毎朝鏡で見る面影を見た気がした。 「信じてくれたのなら、要望があればお父さんって呼んでもいいけど?」 「いや、この年でお父さんって呼ばれるのは勘弁してくれ」 僕はげんなりしながらかぶりを振った。レナは楽しそうに、「そう?」と微笑んでいる。 もしレナの話を鵜呑みにするのであれば、先ほどまで延々と繰り返されてきた電波話をまとめる必要がある。 確か、可能性の一つである分岐未来から来て、その未来が何だかよくわからないけど自閉未来とかいうマズイ未来であると。そして本来何とかシステムがそんな未来を選択することはないはずなのに、何故かその未来が選択されそうになっていると。そしてそして何故かその未来を選択させないためには、その分岐未来から来たレナの存在が消えればいいと。 全く持って意味がわからん。 「えっと……。そもそも、何でレナの存在が消えればその自閉未来とかいうのにならずに済むんだよ」 「簡単な話よ。分岐未来は無数にあるけれど、いくつかの分岐未来は同じような特徴を持っていて微小に異なっているだけなの。似たような分岐未来のグループをクラスターと呼ぶのだけれど、あたしが存在するという分岐未来クラスターだけが自閉未来に繋がっているわけ。あたしが存在しない分岐未来は自閉未来になったりしない。つまり、あたしが生まれなければいいの」 「じゃ、じゃあ何でレナの存在が自閉未来を導くんだよ」 僕は至って普通の人間だ。そんな普通の人間の娘が、世界をよくわからないけど悪い方へ導くような存在になることなどありえるのだろうか。 「あなたは知ってる? 人間のDNAで、個体を特徴付ける情報が含まれているのはおよそ七割。残りの三割には全く役に立たない情報が刻まれているのよ?」 そう言えば、昔テレビか本で見知った気がする。 「そこにはね、ユグドラシルシステムが初めて人間を作った時に、その進化や挙動にミスはないかと調べるためのデバッグ情報が組み込まれていたのよ。ある程度人間が完成し始めた頃にユグドラシルシステムはその情報を消したのだけれど、すでに固定されたDNAの塩基配列長は変えられなかった」 一体、DNA云々の話と何故レナが自閉未来を導くのかという疑問がどう繋がっていくか全く見えなかった。結局今まで通りの電波めいた話になってきたわけだが、僕は反論する気もなくただただレナの話に耳を傾けた。 「けれど、ユグドラシルシステムが行ったデバッグ情報の削除は完全ではなかった。個体のいくつかには情報の欠片が残ってしまったの」 レナはくるくると回転椅子を回す。僕も時折ああやって気持ち悪くなったものだ。 「欠片だけじゃまったく意味をなさない情報だったけど、世代を重ね、互いの情報を交配させていくことである日、完全な情報を持った個体が生まれた」 「まさかって、言うまでもない?」 「そう。それがあたし。完全なデバッグ情報を持つあたしが生まれたため、大きな情報のエクスプロージョンが起こり、結果、あたしが存在する分岐未来は自閉未来となった」 レナはふと回転を止め、俯いて少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。僕が怪訝に思っていると、すぐに意志の強い眼差しに戻って口を開く。 「あたしのような存在が生まれるなんて、それこそ天文学的な数字以上の数字を分母に持つ確率なんだ。DNAに含まれるデバッグ情報も、次世代で必ず発現するとは限らないし、ましてやそんな欠片が集いに集って一つの個体に集約されるなんて考えられない。けれど、結果から言えばそれは起こってしまった」 「……えっと、よくわからないんだけど、そのデバッグ情報ってのはすごいの?」 僕の質問に、レナがあからさまに呆れた顔つきで僕を見た。何だかわからないけどすごいってのは感じとして掴んだけど、じゃあ具体的にどう凄いんだって言われてもちんぷんかんぷん。それを聞いただけなんだけど、何でそんな顔してるのさ。 「お父さんって、やっぱり頭良くないのね」 「な、何をぉ! っていうか、お父さんとか呼ぶな!」 何平然と言ってるんだレナは。まだ認めたわけじゃないというのに。 「ふう。……デバッグって知らない? コンピュータでソフトウェアを開発する時とか、何かしらバグが無いかを調べる作業のこと」 「それくらいは知ってるさ」 「じゃあ話は簡単。デバッグの時は様々な状況を想定してテストするから、デバッグモードでは普段使えないような特殊コマンドが使えるものでしょ? 変数の動きを追ったり、ブレークを挟んで変数の値を変更したり」 「……そう、なの?」 それくらい知ってるとか言っておいて、実はあまり詳しくなかったりする。でもまあ、何となく言いたいことはわかった。 「じゃあ、えっと、もしかしてレナはデバッグ情報ってのを持ってるから特殊な、魔法みたいなものが使えるってこと?」 「魔法とは違うわ。あたしが出来るのは、ユグドラシルシステムに干渉すること」 「あっ! だからこの時代に来られたってわけ?」 「そうよ」 僕の質問に今度は微笑みながら頷くレナ。実際の所よくわかっていないのだけれど、何となく数学で、意味はわからないけど公式は覚えたって感じくらいには納得できた。 「あたしはあたしの存在を消し、自閉未来に世界が陥らないようにこの時代に来た」 レナが、僕が初めて彼女に目的を聞いた時と同じ事を声高に言った。 「えっと、ぐ、具体的にどうするつもり……なの?」 僕は拳をグッと握りしめるレナに恐る恐る尋ねた。僕を殺すつもりはないと言っていたけど、じゃあ一体、どうやって世界を変えるつもりなのだろう。 「DNAに含まれるデバッグ情報の欠片が揃わなければ、あたしが存在する自閉未来にはたどり着かない。つまり、そういうことよ」 「つまり、……どういうこと?」 困惑する僕に、レナは今度こそ明瞭でわかりやすい回答をくれた。 「お父さんが誰とも結婚しない。もしくはあたしのお母さんとは違う女性と恋仲になる。そうすれば自閉未来に導かれることはないわ! それがあたしの目的よっ!」 ハッキリとしてわかりやすい回答に困惑する傍ら、僕は心の中でお父さんって呼ぶなと連呼していた。 * 3 * 気の強い美少女を保健室の先生に任せて外に出ると、相変わらず太陽が燦々と灼熱ビームを放っていた。何も体験入学の日にこんな快晴にならなくとも良いだろうに。まあ、世間では一般的に出かけの日は快晴が望まれるものだが。 灼熱地獄の屋外。とりわけテニスコートはすぐ隣にプールがあるせいか、一層湿度が高かった。昨日降った雨のせいか、見学が始まる直前までずっと、部員と思われる生徒がローラー掛けやトンボ掛けを延々繰り返していた。 コートは六面。グリーンサンドが敷かれ、テニスコートのさらに奥にはバレーボールコートが三面あった。都心から少し離れた場所にある高校なので、土地だけは有り余っているようだ。 「テニス部の部活動見学を希望する方はこちらに集合して下さい」 拡声器で声を張り上げる男子高校生の指示に従い、僕は受付で名前と中学校名を記載する。男女合同の見学で、参加するのは僕を含めて十五人。その内男子が十人だ。 「じゃあ男子は五人ずつコートに入って。女子は全員向こうのコートに」 この場の責任者と思われる学生が出した指示に大人しく従い、僕は貸し与えられた備品のラケットを手にコートに入った。まだ若干足場が緩いため、きっと部活動見学の後にここの部員達がヒィヒィ言いながら整備するんだろうな、と思った。 見学というより体験入部と言った方が正確で、この熱い中実際にラケットを持って素振りをさせられたり、サーブのフォームなどを丁寧に指導してくれた。素人ならそれで満足だろうが、僕はテニス部で慣れているため正直かったるい内容だった。 僕のそんな気怠そうな態度が目に付いたのだろうか、一人の男子生徒が僕の方へ歩み寄り、睨むように僕を凝視してきた。 「あ、あの……。何か変ですか?」 素振りを繰り返しながら尋ねる僕。男子生徒は目を細めながら口を開いた。 「お前、経験者だろ。素振りも様になってるし、嫌々素振りやってる感じだ」 「……えっと、ええ、まあ」 体育会系の部活において上下関係は主従関係に等しい。あからさまに億劫な顔していたのはまずかったかな、と後悔する。 「よーし。じゃあ俺とちょっとゲームしねぇか? ああ、あんま時間無いから、一ゲームだけタイブレーク方式で」 「え……? い、いいんですか?」 男子生徒の申し出は正直嬉しかった。中学と高校、どれくらいレベルに差があるのか知りたいと思っていたし、それなりに自信のある腕前がどれくらい通用するのか試してみたかった。 「乗り気じゃねぇか、面白い。……先輩、三番コート使ってもいいですか?」 「……後でちゃんと整備しとけよ」 「わかってますよ」 僕は男子生徒に追従してコートを移動した。他の男子生徒やら見学者やらが僕の方をチラチラと覗っており、少し恥ずかしかった。 「お兄ちゃーんっ! 頑張ってぇーっ!」 ふいに、女子が素振りをしている奥のコートから黄色い声援が届いた。顔を上げて見つめると、ショートヘアの似合う可愛い少女が手を振っていた。小麦色に焼けた肌が健康的で、向日葵のようにランランとした笑顔を浮かべる少女に、僕は思わず見入ってしまう。 「おー! しっかり見てろよぉっ!」 ネットを挟んだ対角線上で、男子生徒が少女に向けて力一杯手を振っている。どうやら兄妹らしい。まあ自分たちのことを棚において言うのも何だが、公衆の面前でよくあんなに仲睦まじい兄妹をやっていられるな、と感心してしまう。 「へへっ。晶の前だ、格好良いこと見せてやんねーとなっ!」 男子生徒が待ったなしでサービスのモーションに入る。次の瞬間、僕の懐を抉るような強烈なサーブが炸裂し、少女が黄色い歓声を上げる。 「くっ!」 僕は辛うじてリターンする。するとボールはシングルスのコートギリギリに跳ね返り、不意を突かれたという顔で男子生徒が為す術もなくボールの行方を追っていた。 今度は周囲の目が僕に向く。何せあのサーブをリターンエースしてしまったのだ。実際は対角にリターンするつもりが差し込まれて振り遅れ、たまたまストレートにぎりぎりライン内を通っただけなのだが。 「や、やるじゃねぇか……」 「え、あ、あはは……」 そして僕のリターンは男子生徒の闘志に火を付けてしまったようで、彼の燃えるような瞳が僕を捉えたままたぎっている。うーん、どうしよう。 今度は僕のサーブ。足場が悪いのが災いし、威力のないサーブとなってしまい、あっさり返されたボールを何とか拾ったが、ふわりと浮いたボールを男子生徒は容赦なくネットにつめてスマッシュしてきた。年下相手にムキにならないでほしい。 四−二でコートチェンジをした時、 「すごいねー、君。お兄ちゃんと良い勝負してるじゃん!」 後方から、先ほどから男子生徒に声援を送っている少女が僕に話しかけてきた。僕が振り返って曖昧な笑みを浮かべると、少女はニコニコと眩しい笑顔を返してくれた。 「こらテメェッ! 晶となにニコニコ談笑してやがるっ!」 ネットの向こうから響く怒声に慌てて振り返ると、男子生徒が眉毛をつり上げてこちらを睨んでいた。これは俗に言う、シスコンってヤツじゃなかろうか。ちょっと話していただけで目の敵にされては困る。 「……君のお兄さん、すんごく怒ってるみたいなんですけど」 「うふふ。ああなったお兄ちゃんは手に負えないよー」 背後から響く少女の声はとても楽しそうだ。ふいに、「あ、そうだ」と、何か思いついたように少女が声を漏らした。僕は振り向いてまた男子生徒の反感を買うのも嫌だったので、テニスボールを手首で大地に打ち付けながらサーブを打つ精神を整える。 その時だった。 「頑張ってねぇ♪ お兄ちゃんに勝ったらデートしてあげるっ」 少女の聞こえよがしに響いた甘い声に周囲の空気が凍り付いた。いや、正確には凍り付いたのは僕と、向かいに立つ男子生徒だけなのだが。 「な、何言って……」 「ほう……。そいつは聞き捨てならねぇな」 腹の底から響くような重低音に、鳥肌が立つような殺気。やばい、ネット際につめたりしたら思いっきり正面からぶち当てられそうだ。 僕は喉を鳴らしながら冷や汗を拭い、もう一度サーブのモーションを整えた。男子生徒はまだかまだかと僕のサーブを待ちかまえているし、時間を掛けるとまた後ろの少女が何を言い出すかわからない。 「はあっ!」 全体重を乗せて渾身のサーブを放つと、男子生徒があっさりとコートの反対側にリターンしてくる。走り込み、バックハンドでロブを放つと、男子生徒がもの凄い形相でグランドスマッシュを繰り出してきた。 「うわっ……」 何とかボールを拾ったもののボールに勢いはなかった。しかし、それが功を奏してボールはネットギリギリ、相手のコートにぽとりと落ちた。男子生徒はそれに追いつけず、わなわなと地団駄踏んでいる。これ以上怒らせるわけにはいかないのに、せこい点の取り方をしてしまった。 「頑張ってぇ〜。お兄ちゃんなんかやっつけちゃえ〜」 「お、おい晶ぁ……」 向こうでお兄ちゃんこと男子生徒が項垂れるようガックリと肩を落とした。そして直ぐさまガバッと顔を持ち上げ、もはや形容の言葉もないような顔でこちらを睨む。 「このやろおおおおっ!」 咆吼と共に男子生徒が弾丸のようなサーブを繰り出し、僕は為す術もなく、サービスエースを献上した。あんなの、取れるわけがない。新幹線かよ。 結局、終わってみれば七−三で僕はやぶれた。しかもまぐれで取ったリターンエースとまぐれのドロップショットが各一点で、自力でもぎ取ったのは一点だけだ。妹が何処の馬の骨とも知らぬ男とデートせずに済んだためか、男子生徒はニヘラとした笑みを浮かべていた。 「お前なかなか筋がいいな。受かったら絶対テニス部に入れよ」 「は、はい……」 笑顔で握手を求めてきたので、僕は恐る恐る手を伸ばした。その瞬間、男子生徒は笑顔を浮かべたまま僕の手をまるで握りつぶそうとするくらい強く掴んだ。 「いっ!」 「言っておくがな、晶にちょっかい出すようなら容赦はしねぇぞ。わかったか?」 「は、はいぃぃ」 僕の答えを聞いて、男子生徒はニカッと笑いながら去っていった。握られた手を反対の手でさすりながら見つめていると、男子生徒はラケットをコート脇に置いてテニスコートを出て行った。たぶん、トイレにでも向かったのだろう。 「うふふ。頑張ったのに惜しかったねーっ」 突然背後から響いた声に、僕はビクッと肩を震わせながら飛び退いた。 「何驚いてるのぉ?」 振り返った先に映ったのは男子生徒の妹であるショートヘアの少女だった。まずい、万が一この子と話しているところをまた目撃されたら、次は何をされるかわかったもんじゃない。 「あ、あのっ……、失礼しますっ!」 僕は冷や汗をタラタラ流しながら、脱兎のごとく駆け出した。ラケットを受付に返し、テニスコートを振り返らず一目散に退散する。するとタイミング良く、昇降口付近に奈美恵の姿を発見した。 「おーい、奈美恵ーっ!」 「あっ、令ちゃん……えっ?」 「話は後。早く帰ろう!」 「え? あ、えっと……、ま、待ってぇ〜」 僕は奈美恵の脇をすり抜けて一気に校門まで突っ走った。お陰で背中は汗ぐっしょりで、追ってきた奈美恵も随分疲れた様子で額をハンカチで拭っていた。 進学したら絶対に入ろうと思っていたテニス部。少しだけ、その決意が揺らいだ。 * 5−4 * 「僕が誰とも結婚しない……? それか、君の母親以外と恋仲にさせる?」 レナの言葉を反芻しながら、僕はベッドから上半身を起こしてレナを見つめた。 「そ。あたしの持つデバッグ情報は、あなたとあたしのお母さんのDNAが揃って初めて発現するわけ。あなたが子供作らないもしくは、別の女と結婚して出来た子供なら、完全なデバッグ情報を持つ人間は生まれない」 「えっと……、結局のところレナは何をするの? 具体的に言って」 「あなたが女の子とイチャイチャするのをすべて阻止する。ただそれだけよ」 サラリと今、とんでもないことを言わなかったか? ただそれだけっていうか、何でそんな結論になるんだよ。 「ど、どうしてっ! その、君のお母さんと僕が出会わないようにするとか、それくらいでいいじゃないか! 何ですべて阻止とか言ってるんだよ!」 「それが出来ないからすべて阻止するんじゃない。さっきも言ったけど、あたしはこの世界ではまだ可能性でしかないため、多くの制約条件を帯びてここにいるの。あなたを殺して世界を変えるという選択ができないのも、あなたも利香ちゃんみたいにあたしの存在に何の違和感も感じないようにすることができないのも、ぜーんぶ制約条件のせい」 言われてみれば確かに、僕の記憶をいじって利香みたいに昔馴染みにしてしまえば操作は楽のはず。むしろ記憶が操作できたりするのなら、僕の気持ちを操作して自分の母親以外の女性に親愛の情を向けることだってできるのではないだろうか。 「可能性の存在でしかないあたしが、この世界で何かことを成すには必ず制約条件が発生する。それは行動価値が高ければ高いほど厳しい条件となるの。この世界に存在するために自分の真名を名乗ることができなくなったり、あなたの行動に干渉するためにあなたの精神には干渉できなくなる。逆に、もしあなたの精神を干渉できるようにしたのであれば、あなたの行動に干渉できないという制約条件が発生するわけ」 「何だかよくわかんないけど、何かを犠牲にしないと何かができないってこと?」 「そうよ。そして、制約条件の一つに、あなたにあたしの母親が誰かを悟られてはならないという条件がある」 レナは凛とした面持ちで僕を見つめる。僕は返す言葉が思いつかないので、とりあえず黙っていることにした。 「あなたが特定の女の子とイチャイチャしている時だけ邪魔をして、それ以外は不干渉だとしたら、あなたはその子があたしの母親に当たる人だって勘づくでしょう? そういう、あなたに誰が母親かを悟られるような行動はとれないの。だから、どんな女の子とイチャイチャしている時でも邪魔をするということになったわけ。これなら、誰が母親かわからないでしょう?」 「えっと……、まあ、そうだけど……。じゃなくて! じゃあレナは僕に女の子と一切関わるなって言ってるわけ?」 「そうよ」 断言しやがった。健全なティーンである僕に、一切女子に関わるなと言うのか。 「じょ……、冗談じゃない! 誰かそんな理不尽なこと許すもんかっ!」 僕には憧れの人がいる。ずっと前から好きで、今はその人と同じ高校に合格できるよう頑張っている。そして合格できた暁には、きっと胸躍らせるような高校生活が待っているのだと淡い期待を抱いているわけだが、それをいきなり現れて電波なことばかり叫く少女によってぶち壊されてたまるもんか。 「別に一生童貞貫けって言ってるわけじゃないわよ。あたしが生まれるはずの年を越えれば、自然とあたしが生まれる可能性が潰える。そうなればあたしの存在は消えるから、後はすきにやってちょうだい」 「どっ……。そうじゃなくてっ! ――ああ、もういいよっ!」 もう何を言い返す気にならず、僕は立ち上がって部屋を出た。 何が未来から来た娘だ。何が女の子と一切関わるなだ。ふざけるな! 僕はドスドスと階段を下り、キッチンに移動して冷蔵庫から麦茶を取り出した。容器に入ったままのお茶をラッパ飲みし、冷蔵庫に戻した後、乱暴にドアを閉める。物に当たるのはよくないのだが、今だけは許してほしい。 「ったく、何なんだよ、もう……」 居間のテレビを付け、適当にチャンネルを変えながら僕は独り言ちた。 落ち着け。落ち着いて考えろ。 もしかしたらレナは、利香の従姉に当たる僕が知らない本当の従妹で、だから利香は知っていたのではないだろうか。たまたま僕とは会ったことのない、両親の再婚によってできた相手方の電波な従妹。ただ、それだけじゃなかろうか。 「そうだ、きっとそうだよ!」 さっきはレナの電波に冒されそうになっていたけど、よくよく考えてみればあんな非現実な馬鹿話を信じる理由など何処にもないじゃないか。 『トゥルルルル……』 僕は勢いよく立ち上がった時だ。居間の電話が鳴り響き、僕は慌てて駆け寄って受話器を手に取った。 『あ、令?』 「母さんか。……父さんの容態は?」 『うん、しばらく入院が必要みたい。退院後もリハビリしなきゃ駄目みたいだし、三ヶ月くらいはかかりそう』 「そうなんだ……」 『それでね、今さっき孝道さんと話し合ったんだけど、その、私もこっちに住むことにしたの』 電話越しで、母さんが申し訳なさそうに顔を曇らせているような気がした。子供二人を残して家を空けるということに、親として無責任ではないかと思い詰めているようだ。 「そっか。うん、僕と利香なら大丈夫だよ。もともと、利香が中学を卒業したら母さんは父さんの赴任先に移る予定だったでしょ? それが一年半、早まったと思えば大したことないよ」 それは前々から決定していた内容で、本当なら一年前に家族揃って父さんの赴任先に引っ越すつもりだったのを、僕と利香が地元の友達と別れたくないという思いで拒否し、今のように父さんが単身赴任するという形になった。でも仕事は出来るが家事は絶望という父さんが心配と言うことで、話し合った結果、利香が高校に進学したら母さんは父さんのもとへ行くということになっていたのだ。家は引き払わず、その後は僕と利香の二人でここに残る予定だった。 『そう。ごめんね、急な話で』 「大丈夫。利香は家事一通りこなせるし、僕もちゃんと手伝うから。それに、いざとなったら小春さんに相談するから」 小春さんとは奈美恵の母さんであり、昔から色々世話になっている人だ。 『うん……。じゃあ、明日一度荷物を取りに戻るわ。詳しい話はその時にね』 「わかった」 僕がハッキリ答えた時、 『ああ、そうそう……』 母さんが、何か思い出したように呟いた。そして、それに続く言葉に僕は絶句することになる。 『麗奈ちゃんとも仲良くね。聞いてると思うけど、しばらくウチで預かることになったわけだし、孝道さんに聞いた限り、あの子は昔から令になついていたんでしょう?』 受話器を落としそうになった。 * 4 * 行きと同じ豊浜高校から伸びるスロープを行きとは逆に下りながら、僕は空を仰いで目を細めた。 ふと脳裏に思い浮かぶのは、偶然パンツを目撃してしまった気の強い少女と、部活動見学で弄ばれた天真爛漫な少女。豊浜高校に見事合格できれば、もしかしたらまた彼女らに会えるかもしれない。 って、何だ、僕は。別に会えるからといって何なんだ。僕はこのは姉一筋であって、別の女の子に興味なんて…… 「興味なんて……」 「え? どうしたの、令ちゃん?」 「あ、いや……、何でもないよ」 思わず口から出た独り言に、隣を歩く奈美恵がキョトンとした顔で見つめてくる。 まあ正直言えば、僕は結構優柔不断なところがある。そりゃあこのは姉が好きな気持ちは正真正銘血統書付きのものだけど、だからといって別の美少女に興味はないかと言われたら答えに詰まる。そういうもんでしょ、男って。 頭の上に疑問符を浮かべながらこちらを見つめる奈美恵に作り笑顔で応じ、僕は前を向いて歩を進めた。 しばらく道なりにスロープを下った時だった。前の方から制服で身を包んだ女子高生の集団が坂を登ってきて、僕と奈美恵が道の脇によって彼女らとすれ違う時、 「あら、令君に奈美恵ちゃん」 集団の中から、聞き覚えのある美声が響いた。振り返った僕の視界に映ったのは、神がこの世に遣わした極上の天使、このは姉こと流鏑馬このはだった。 「このは姉っ!」「このはお姉ちゃんっ」 このは姉はどうやら大会の帰りらしく、大きなバッグを背負っていた。きっとあの中に弓矢が入っているのだろう。 他の部員達に、先に学校に戻ってと言伝し、このは姉は僕たちの方に近寄ってきた。駅から歩いてきたのだろう。このは姉の米神に浮かぶ真珠のような汗が、青少年を惑わす色香を漂わせていた。ああ、相変わらずお美しい。 「そう言えば今日だったわね、体験入学の日。……どうだった?」 「よかったよ! 僕、絶対豊浜高校に進学する!」 「あらあら、まあ」 一体今日見学したことで何がよかったのか僕自身よくわからないが、見学しようがしまいが、このは姉が居るという時点で豊浜高校への進学は決定事項であるため、絶対に進学するという言葉に嘘はない。もちろん、受かればの話。 「大会どうだったの?」 「残念。三回戦敗退よ」 「そうなんだ。僕も、体験入学の日と重なってなければ応援に行けたのに」 ホントはそうしようとしたんだけど半泣きで一緒に行こうと言う奈美恵に押し切られたわけだけど。 「うふふ、ありがと。じゃあ、来週の個人戦は応援に来てくれる?」 「もちろんっ!」 女神がごとく美しい笑みを携えるこのは姉に、僕は拳を握りしめながら断言した。すると、 「何よぅ、令ちゃん。このはお姉ちゃんの前だからってそんなに張りきって」 このは姉に尻尾を振っている僕に、何故か奈美恵が文句ありげな目で見つめてくる。好きな人の前で舞い上がって何が悪いんだよ。 「うふふ。二人とも、気をつけて帰るのよ? 令君、ちゃんと奈美恵ちゃんを家まで送っていくように」 「隣同士なんだから当たり前だよ。このは姉も、帰りは気をつけて」 「ええ。それじゃあね」 手を振りながら去っていくこのは姉を背中が見えなくなるまで見つめていた後、振り返って奈美恵の方を見つめると、何やらブスくれて頬を膨らませていた。靴の紐でも切れたのか? 「さて、寄り道すると母さんが五月蠅いし、さっさと帰ろうか」 「……うん」 まだ四時過ぎだから、多少なら寄り道していったもよかったのだが、あまりお金も無い上、こう暑くては何処かに行こうなんて気にもならない。さっさと帰ってクーラーの効いた部屋で横になりたい。 その後どういう訳か奈美恵は機嫌が悪く、話しかけてもいまいち反応が悪かった。まあ猫みたいにのほほんとした奈美恵でも、こう暑くては機嫌の一つも悪くなるもんだろうと思い、僕は執拗に話しかけたりしなかった。 奈美恵の家の玄関先で別れ、僕は駆け足で隣にある自宅へと駆け込む。すると丁度母さんが出かける間際だったらしく、靴の踵をコツコツとついているところだった。 「ただいまー。あれ? 母さん何処か出かけるの?」 「ああ、令っ!」 母さんの様子がおかしいのは見てすぐにわかった。かなり鬼気迫る感じで焦っているのが肉親でなくとも感じ取れるだろう。まあ、実際母さんとは血は継ながってないんだけど。 「どうしたの、そんな慌てて」 「実は、赴任先で孝道さんが階段から転げ落ちて両足骨折したみたいなの」 孝道さんとは僕の父親で、つまりは母さんの再婚相手だ。 「ええっ!?」 「それで今から私は孝道さんのところ行ってくるから、夕飯は適当に済ませて!」 「よ、容態はどうなの?」 「本人は至って元気だという話だけど、怪我の方はまだよくわからないわ」 母さんの顔に疲れの色が浮かぶ。父さんにしろ母さんにしろ、過去に大切な人を失っている身だ。きっと人一倍、そう言うことに敏感になってるのかもしれない。僕は小さかったから、覚えてないけど。 「わかった。家のことは僕に任せて。母さんは父さんのことをお願い」 「ええ」 母さんは大きな鞄を持って家を飛び出していった。玄関先にタクシーが止まるのを見て、僕は玄関の戸を閉める。 「兄貴帰ったの?」 靴を脱いで中に上がると、二階から利香が下りてきた。手には漫画が握られている。 「なんだ利香、居たのか」 「うん。……お母さん、すっごい慌ててた」 そりゃそうだろう。利香だって、よくみれば普段より落ち着き無く見える。 「まあ、取りあえず元気みたいだし、僕たちが心配しても仕方ないよね」 「……うん。あ、お母さんが夕飯は適当に冷蔵庫にあるもの使ってって」 「わかった。利香の方が料理上手いんだから、手伝えよ?」 「おうよー。兄貴に任せるとギャグみたいなモンが出てきそうだからね」 失敬な。僕はこれでも土日の夕飯当番で母さんに色々仕込まれているんだぞ。まあ利香の方が格段に腕が立つのは歴とした事実なんだけど。 利香は空元気なのかもしれないけど、とにかくニコニコと笑いながら自分の部屋へ戻っていった。妹が気丈に振る舞ってるんだから、僕が動揺してちゃ格好が付かない。 僕は流しで顔を洗って居間で制服を脱ぎ捨て、洗面所に置いてある風呂上がり用のTシャツとハーフパンツに着替えてから制服を持って二階の自室へと移動した。 両親が共に出払っている今こそ、兄として男としてしっかりしなければならない。電話の応対に強引な押し売りの撃退など、冷静に物事を取り仕切る必要がある。 よしっと、気を入れながらドアノブを回した時だった。 「こんにちは、麻生令くん?」 冷静であるはずの僕の思考は一瞬にして凍り付いた。僕の部屋で平然とくつろぐ、見覚えのない美少女のせいで。 * 5−5 * 重たい気持ちもを引きずりながら、僕は階段を登って自分の部屋まで帰ってきた。今まで見聞きしたものはすべて悪い夢であるというのであれば、ドアの向こう、自分の部屋はただ今無人のはずである。 僕は呼吸を整えてドアノブを回した。そして夢であったらいいなぁという幻想はあっけなく崩れ去り、利香と母さんが麗奈と呼び、小さな反抗心から僕がレナと呼称する少女が僕のベッドに横になって漫画を読みふけっていた。完全にまったりくつろいでやがる。 「ねえ、令」 しかもすでに呼び捨て。この傍若無人が、真面目が取り柄な僕の娘だというのか。僕とこのは姉の娘ならこんながさつに育つわけがない。だからコイツはやっぱりただの従妹モドキ。そうに違いない。 それ以外の選択肢? それはない。僕のお嫁さんはこのは姉以外に考えられない。 「何ブツブツ言ってるの? まあいいや、あたしお腹空いたんだけど、夕飯まだ?」 「なっ……、夕飯食ってくつもりなの?」 「は? 何言ってんのよ。今日からあたしはここに住むのよ? 夕飯食べるに決まってるじゃない。お父さんってやっぱり馬鹿?」 「だからお父さんとか呼ぶなっ!」 いきなり呼び捨てというのも少し腹立たしいが、それ以上にお父さんなどと呼ばれてはいくら穏和な僕でもカチンとくる。まだ十四歳の少年を捕まえて何がお父さんだ。いい年こいてママゴトでもしてるつもりか? 考え出したらキリがなく、レナに対する怒りは収まる気がしない。僕はため息を残して自室を後に、廊下に出た。 廊下に出ると丁度利香が顔を出し、兄妹揃って階段を下りて共にキッチンに並んだ。そう言えば食事当番は利香に任したんだったと思い出しながら、じゃあ出来上がるまで自室で電波娘と一緒に居るかという選択肢は選ぶはずもなく、出来る範囲で利香の手伝いをすることにした。 「……兄貴、いくら麗奈ちゃんが可愛いからって、……手ぇ出しちゃ駄目だよ?」 「ぶっ! いきなり何言ってんだよ!」 「だって、これからずっと麗奈ちゃんも一緒に暮らすんだよ? 同性の目から見ても麗奈ちゃんって可愛いもん。兄貴だって正常な男子でしょ? だからさ、こう、ムラムラっと欲情しちゃったりとか……」 「しないよ!」 始終こんな感じで小悪魔的な笑みを浮かべる利香と共に夕食の支度を終え、僕は嫌々レナを呼びに行った。 「あはっ! 美味しそーっ! いただきまーすっ♪」 普段なら母さんが座る所にレナがどんと腰を据え、まるでここにいるのが当たり前と言わんばかりの横柄な態度で茶碗一杯に白米を盛り、中華皿に乗った餃子も次から次へと平らげていく。僕と利香は口をあんぐりと開いてそんなレナを見つめていた。 なんて図々しいやつだ。親の顔が見てみたい。 「……僕じゃないぞ、絶対……」 「んー? 令、食べないの? だったらそれ、あたしが食べてあげるっ」 「あーっ! 最後に食べようと思ってとっておいた肉団子っ!」 注意する間すらなく、レナは瞬く間に僕の皿から肉団子を箸でさらい、自分の口へと運び込んだ。 何度でも言う。断じて、決して、絶対、こいつは僕の娘なんかじゃない。 |
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