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プロローグ

 ジリリリと鳴り響く目覚まし時計を手探りで引き寄せ、目を閉じたまま裏面のスイッチをオフにした。カーテンの合間から差し込む強烈な日光に一瞬だけ顔を顰め、寝返りを打って窓に背を向け、もう後五分だけという気分で枕を抱きしめる。
「兄貴ぃーっ! 早く起きないと遅刻するよーっ!」
「ぐぅ」
「起っきろーっ!」
 朝っぱらから騒々しい声に、枕を顔にかぶせて耳を塞ぐ。しかし直ぐさまズカズカと階段を大股で上がっているであろう音が耳に木霊し、次の瞬間、バンと乱暴に部屋のドアが開いた。
「すぅー…… 起きろーっ!」
「どああああっ」
 いきなり枕元で鳴り響いた目覚まし時計以上に目覚まし効果のある妹の爆声に、思わずベッドから転げ落ちて盛大に頭をぶつけた。お陰ですっかり眠気は払拭されたが、これ以上馬鹿にならないかと本気で危惧する。
「利香、起こす時はもう少し優しく頼むよ」
 半袖セーラー服の上にエプロンを身につけ、髪留めで前髪をわけて綺麗なおでこをまざまざと見せつけてくる利香は、あれを叩こうとでも思っていたのだろうか、手にはフライパンとフライ返しを握っている。
「優しく? ……うーん、じゃあ、……お兄ちゃぁん、起・き・てぇん。とか?」
「……いや、やっぱり今まで通りでいいです」
 上半身を起こし、ボサボサの頭を掻きながらそう答え、着替えをするからと言って利香を部屋から追い出す。甘い声で起こされるのも魅力的だが、それで万が一妹に欲情するようなことになったらまずい。利香はそんじょそこらの女子よりよほど可愛いから。まあ、その前にアイツが止めるだろうが。
「麗奈ちゃーん、朝だよーっ!」
 廊下で、利香がそのアイツを呼ぶ声が響いた。
「ふにゃ、おはよぉ」
「おはよう」
 着替えを終えて部屋を出ると、レナが眠そうな顔で目を擦りながら自室から出てきた。肩口に触れるくらいの髪は跳ねてボサボサ。パジャマの第一と第二ボタンが外れており、健全な男子としてはあまり直視できない胸のラインが浮き彫りになっていた。
 形式上、従妹ということになっているレナとこうして一つ屋根の下寝食を共にするようになって久しい。
「今日で一学期終わりだね」
「……えぇ、そおだっけぇ? ああ、うん、そうだったような気もする」
 まだ脳が半分寝ているようで、レナの反応は遅い。学生にとって重要な夏休み目前だというのに、全然舞い上がっていない。まあ、レナには別に重要な目的があるから仕方ないと言えば仕方ないのだが。
「はいはい、二人とも。早くご飯食べてね。じゃないと食器片づかないから。……ああ、それと兄貴はサッサと洗濯を済ませて」
「わかってるよ。朝食食べたらする」
 二階の自室から一階の居間に降りてくると、すでに利香が朝食の準備を終え、さらに自分の分はすでに腹の中に収めていた。食べ終わったのなら洗濯もついでにやってくれればいいのにと思ったが、作業は分担、自分の仕事はきっちりこなす。これがこの家の信条、というより、利香と一緒にやってきた信条だ。かれこれ五年は居座っている。
「そう言えば、兄貴は夏休みに何か予定ないの? 彼女作ってデートするとか」
「ぶっ! ちょ、ちょっと利香! 朝っぱらからそんなこと言わない!」
 利香の言葉に反応して噴き出したのはレナ。見事に舞ったコーヒーが床に飛来している。頼むから掃除は自分でやってくれ。
「んもう! 麗奈ちゃんはどーしていつもいっつも兄貴が他の女の子と一緒になることを拒むのぉ? 兄貴だって思春期なんだしぃ、女の子と一緒に居たって全然おかしくないじゃん」
「それは……、その……。……とにかく、駄目なモノは駄目なの!」
「ブラコン? あ、いや、麗奈ちゃんは従妹だから、カズコン?」
「違ーうっ」
 レナはブスッと膨れたままトーストにバターを塗って口元に運ぶ。利香がやれやれと頭を振りながら立ち上がり、自分の食器を流しに運んで洗い始めた。
 横でブツブツ不満を吐露するレナを後目に、さっさと朝食を喉に流し込み、食器を流しに運んで居間を後にする。いつ、不満の矛先がこちらに向くかわからない以上、触らぬ神に祟り無しってやつだ。
 洗濯を終え、自室で制服に着替えてから洗面台へと向かう。少し伸びてきた髪を適当にセットしてから玄関に赴くと、レナが両手で鞄を持って手持ちぶさたにブスくれていた。
 ボサボサだった髪を紺色の紐でポニーテールに結い上げ、身には白の半袖ブラウスにチェック柄のプリーツスカートを着ている。ブラウスの胸元には緋色のリボンが結われており、右胸のポケットにはサーモンピンクの薔薇を模したパッチが縫い込んであった。
「遅いぃ」
「ごめん。思ったより洗濯に時間かかった」
 レナの文句を一通り聞いてから玄関の戸を開くと、強烈な殺人光線、もとい夏の日光が容赦なく降り注いできた。昨日の雨が災いして、湿度が異様に高い上にこの気温。今日も暑くて過ごしにくい日になりそうだ。
 歩いて玄関先の小道に出ると、少し進んだ電信柱のところに佇む一人の少女と目があった。二人を待っていたように、可憐な鈴蘭のように微笑んだ少女は、そそくさと二人に駆け寄ってくる。
「おはよう」
 ショートボブを揺らしながら笑顔で挨拶する少女。幼稚園の頃に引っ越してきて以来のお隣さん、つまりは幼なじみで、名前は橋倉奈美恵という。気弱な猫みたいな性格で、いつもオドオドしている上、天才的なドジ。見てて危なっかしいというか、他者をハラハラさせるという能力の持ち主だ。
「さあ、遅刻しないよう急ごっ」
 三人揃って歩き出そうとした瞬間、脇を歩いていたレナが飛び出し、いきなり奈美恵の手首を掴んだ。まあ、いつものことだ。
「……え、あ、あの、麗奈ちゃん?」
「早く早くっ!」
「えっと、あ……。れ…………ちゃーん……」
 レナが奈美恵の手を取って引っ張っていき、みるみる二人の背中が小さくなっていく。おろおろと為す術もなくレナに引きずられていく奈美恵は、時折こちらを覗いながら、強制的に連行されていった。少しは反抗するとか覚えればいいのだが、奈美恵にそれを言ったところで無駄であることは重々わかっているつもりだ。
「ったく」
 独り言を呟いて、学校に向けて歩を刻む。路面にできた水たまりに気をつけ、さらに自動車が飛ばす水しぶきにも注意を払いながら進んでいくと、青い空の下、小高い丘の上に目的の県立高校の校舎が見えてきた。
 校庭の木々は青々と茂り、その新緑と真っ青の青空が美しいコントラストを演出している。耳障りな蝉の大合唱と共に、雲を引きながら天の海を駆ける飛行機を視界に入れて、昇降口へと赴く。上履きに履き替えて教室に移動すると、クラスメイト達があちこちで会話に花を咲かせていた。無理もない、何と言っても明日から夏休みだ。
「あたし絶対彼氏作る! それで、一緒に海行くんだー」
「マジで? わたしは家の手伝いだよぉ」
「カレが出来たら友達紹介するよう頼んでよぉ」
 などなど、みな浮き足だった会話を繰り広げている。高校に入学して最初の夏だから、舞い上がっていても仕方ない。
「馬っ鹿みたい。まだ居ない彼氏の話なんかしちゃって」
 席に着いた瞬間、後ろの席から響いた不機嫌そうなアルト。声量は大きくないため、どう考えてもこちらに話しているのだろう。
 振り返って後ろの座席に腰掛けている女生徒を見つめると、共に学級委員を務める天野聡美が、頬杖ついてムスッとした表情を浮かべながら睨むようこちらを見つめていた。
 色素の薄いセミロングの茶髪を窓から流れ込む風に揺らし、額にパールのような汗を滲ませて整った顔立ちを歪めている聡美は、キャッキャと黄色い声を漏らす女生徒達を睨みながら眉を顰めている。聡美が機嫌悪いのは決してクラスにとけ込めない孤立した少女というわけではなく、単純に暑さが苦手でイライラしているだけだ。普段は仲の良い友達と談笑する普通の少女、だと思う。まあ、少々態度が悪いのは目を瞑るしかない。
「……暑い。扇いで」
「僕が? 聡美を? 何で?」
「言ったでしょ、暑いって」
「……だから?」
「あーもう! 暑いんだからサッサと扇ぎなさいよっ! ……あうぅ、声出すと余計暑くなる」
 共に名簿番号が一番若かったからという理由で学級委員にされ、一学期の間は何かと一緒に行動することが多かった聡美。いつも無駄に元気で高圧的な態度ばかりをとっていた聡美が、こうして暑さでへばっている姿は正直少し可哀想に思え、鞄から取り出した下敷きでパタパタと気持ち程度の風を送ってやった。
「うぅ、熱風しか来ないわ……」
「じゃあ扇ぐの止める?」
「…………。扇ぎなさい」
「はいはい……」
 グタッと机に突っ伏す聡美に風を送り続ける。チラッと様子を窺うと、髪がしっとりと首筋に張り付き、額に汗を滲ませて少し呼吸を荒らげている聡美は、その整った顔立ちも加わってとても色っぽく見えた。汗で制服が透け、肩口のブラが透けて見えるのを、必死に視線を逸らして見ないよう心がける。
「そう言えば、夏休み中の注意事項が書かれたプリントを昼休みに生徒会室へ取りに行けって言われてたね。……動くの辛そうだから、僕が取ってこようか?」
「んー」
 おそらく頼む、というより、行けと言った方が正しいだろうが、とにかく一人で行ってこいと言ってることに変わりはないだろう。
 まあいつもの事だと、別段腹立たしく思うこともなく、昼休みは一人で生徒会室へ向かうことにした。
 午前中に終業式と大掃除を終え、昼休みを挟んでLTを行うというのが夏休み前最後の登校日である。この後渡されるであろう通知票に内心ビクビクしながら、今はその事は頭の脇に置き去りにして取りあえず生徒会室へと足を運ぶ。
 教室のある南館と渡り廊下で結ばれた北館の二階、その東端にある生徒会室のドアを開いて中に踏み入ると、良く見知った顔があった。
「あら? 天野さんは、今日はお休みなの?」
 枝毛の一本もない艶やかなロングヘアに女神のような微笑。スラリと伸びた四肢に、ふくよかな胸。全校生徒、とりわけ男子生徒の憧れの的である美少女は、親しみの籠もった声音を漏らす。本当に女神がいるようだ。
「いや、暑いから動きたくないってさ。どうせプリントを貰うだけだし、それなら僕一人でも十分だと思ったから」
「あらあら。相変わらず優しいのね。……じゃあこれ」
 学園一の美少女、生徒会副会長の流鏑馬このはに微笑みかけられて緊張しない生徒などいないだろう。奈美恵同様、幼馴染みであるのだが、一つ学年が上で幼少時より憧れの対象であったこのは姉を前にすると、今でも動悸が早くなってしまう。
 思えばこの高校に進学したのもこのは姉が居るという安直な理由が大きかった。中学の頃の成績ではこの高校のレベルは担任にも厳しいと言われていたが、憧れのこのは姉と一緒の高校に通いたいという一心で中三の夏は勉学に勤しみ、結果見事合格して再びこのは姉と同じ学舎に通うことが出来るようになった。
「このは姉一人なの? 他の生徒会役員は?」
「もともとプリントを配るのは副会長の仕事なのよ。それに、大勢居たって、特にすることもないでしょう?」
「そっか」
 謀らずしてこのは姉と二人きりになれたことに、心の中でガッツポーズを取る。まだ昼休みは五分ほど残っているので、しばしこのは姉と一緒に談笑するのもいいな、と思いつつ生徒会室にある椅子に腰を下ろした時――
「あっ! 居たーっ!」
 乱暴に生徒会室の扉を開き、勢いよく駆け込んできたレナが柳眉を逆立てて睨みつけてきた。今一番危惧していたこと、レナに邪魔されないだろうかという不安はものの見事に的中したようだ。一体、何処でここにいるという情報を手に入れたのやら。
「あらあら、麗奈ちゃんも学級委員だったわね。じゃあはい、これ。麗奈ちゃんのクラスの分よ」
 何の前触れもなく喧噪と共に現れたレナに、このは姉は至極落ち着いた口調でプリントを手渡す。ああ、そう言えばレナも従妹ということで同じ名字、つまり出席番号が一番若くて学級委員をやらされているんだった。昼休みも半ば過ぎなので、これ以上誰も来ないかなって甘い考えをしていたことを後悔する。
 憮然とした面持ちでプリントを受け取ったレナは、しばし口をパクパクさせながらこのは姉を睨み、その後、キッとこちらを見つめて乱暴に腕を掴んできた。
「うわっ、レナッ!」
「うるさいっ! 黙ってて!」
 そのまま問答無用で生徒会室を引きずられていき、抵抗がてら生徒会室のドアにしがみついてみたところ、
「あらまあ。相変わらず仲がいいのね」
 このは姉の言葉に気落ちして、ドアを掴んでいた手をあっさり離してしまった。投げかけられた言葉もそうだが、それ以上にこのは姉の何とも言えない視線が悲しかった。あれは絶対、何か勘ぐっている、というか、勘違いしている。
「ちょ、離してよ!」
「むっ!」
 廊下に連れ出され、捕まれていた腕を振りほどくと、レナはムスッといた面持ちでこちらを睨んだ。毎度毎度のことだが、だからといって慣れることでも許せることでもない。
「もう! あたしの居ないところで女の子とイチャイチャしちゃ駄目だって、何度言ったらわかるの!」
「知るか! 僕が誰と一緒に居ようがレナには関係ない! いや、まあ、あるのかもしれないけど、だからといって毎回女の子と一緒にいる時間を邪魔されて心中穏やかなほど、僕は出来た人間じゃない!」
 ムムムと唸りながらお互い顔を近づけ、見えない火花を散らす。目の前で頬を膨らますレナは、異性から見れば思わず見とれてしまうくらい可愛い。これが本当に、……なのだろうかと、疑わずにはいられない。
 結局にらみ合いに敗れ、視線を逸らすと同時に廊下を歩き出す。後ろではブツブツと不満を口に出すレナを従え、南館に戻った所で各々の教室へと別れた。さすがに教室までやってきて、女の子と一緒にいないかチェックすることはできない。
「勘弁して欲しいよ。ホントに……」
 このは姉と一緒にいられるはずだった時間を失い、大きく肩を落として教室へ戻った。また機会はきっとあるさ、と空元気を振り絞って。
 LTの最中、担任が夏休み中の注意事項を延々繰り返している間は、ずっと渡された通知票と睨めっこしながらため息を繰り返していた。ギリギリ合格の高校、これくらいの成績は覚悟していたが、やはり実際目の当たりにするとため息が漏れる。
「はあ……」
 後ろの席からも重たいため息が響き、その生暖かい吐息が首筋に何度も当たった。ただでさえ暑いんだから、そんな吐息をぶつけないで欲しい。
「……何よ」
「別に。……どうだったの?」
「最悪……。あうぅ、お小遣い減らされちゃうよぉ……」
 担任の長い話も終わり、LTが終わった後、生徒達が歓声と共に来たる輝かしい夏休みに胸躍らす最中、机に伏せて重たいため息をもらす聡美。漫画と買い食いぐらいにしか使わない男子高生と違い、女子高生にとってお小遣いの額は死活問題だろう。可愛い服や化粧品、アクセサリに携帯料金。毎月一体、どれくらい使ってるのやら。怖くて利香にも聞いたことがない。
「ん……」
 ふと、顔を持ち上げた聡美が微妙な表情を浮かべて教室の戸を見つめた。そして今度はそのまま視線をこちらにスライドしてくる。
「まったく、どいつもこいつも」
「は?」
「さっさと行きなさいよ、カノジョが待ってるわよ?」
 目を細めて不機嫌そうにこちらを見つめる聡美。振り返って聡美の視線の先を確認すると、廊下から半身だけ教室に覗かせて申し訳なさそうにこちらを見つめる奈美恵と目が合った。
「べ、別に、奈美恵とは付き合ってるわけでも何でもないって!」
「あっそ。あーんな可愛い幼なじみが居るっていうのに、心はあの美人副会長さんに向いてるのかしら? ああ、それとも従妹の麗奈ちゃん? いやいや、晶ちゃんかしら?」
 指を折りながら次々と自分の口から漏れる女子の名前に聡美自身何か気に食わない様子で、いきなり拳をグッと握りしめたかと思うと、ジトッと蛇のように目を細めてこちらを睨んできた。一体、何をそんなに怒っているんだか。
「ほら、女の子待たせる男なんてサイテーよ」
「……わかったよ。じゃあ、また二学期に」
「…………行っちゃえ」
 挨拶は返ってこなかった。代わりにごにょごにょと何やら文句を垂れ、同時に冷めた視線で射抜いてくる。仕方なく一つため息を吐いてから席を立ち、不機嫌を前面に押し出して窓の外へ視線を向けている聡美を一瞥し、奈美恵の元へと歩いていった。
「どうした?」
「えっと……、今日は部活お休みだから、その、よかったら一緒に帰ろうと思って」
 奈美恵は顔を俯けながら上目遣いにチラチラとこちらを覗っている。控えめな胸の前で両手の人差し指をこねくり回しながら少し頬を赤くする奈美恵に、思わずこちらも赤面してしまい視線を泳がせながら後頭部を掻く。いくら幼馴染みで昔から知っているとはいえ、流石に高校生ともなると男女を意識せずにはいられない。その上例の一件があったせいか、近距離ではなかなか奈美恵の顔を直視できなくなってしまった。
「あー……っと、ごめん、今日は大会の打ち合わせがあって、補欠を含めてレギュラーは全員参加しなきゃいけないんだ」
「そう……なの?」
 恥ずかしそうにはにかんでいた奈美恵の顔が一瞬にして曇り、瞳を潤ませて顔を上げた。クリッとした大きな瞳が何かを訴え、小さくも柔らかそうな唇が半開きのまま何か告げようとパクパク動く。愛らしい奈美恵を前にして加速する心臓の音を必死に堪え、辛うじて笑顔を繕う。
「う、うん。そんなに時間かからないと思うけど、待たせちゃ悪いからレナと一緒に先に帰ってて」
「…………。じゃあ図書館で待ってるから、打ち合わせが終わったら一緒に帰ろ?」
「え? いや、でも……」
「図書館はクーラー効いてるし、夏休みの間に何冊か本を読みたいから、ゆっくり選んでる。ね?」
 真っ直ぐな笑顔でそう言われては返す言葉もなく、あやふやに頷くと、奈美恵は朝顔のように微笑んで鞄を抱きしめながら廊下を駆けていった。以前はあんなに積極的に自分から行動するタイプじゃなかったのに。
「よかったわねぇ、可愛い幼馴染みと一緒に下校だなんて」
「なっ! そ、そんなんじゃないって!」
 不意に後方から聡美の声が響き、振り返ると何やら冷笑を浮かべて鞄を背中に担いでいた。さっきから何なんだ、あの顔は。
「はいはい。……じゃああたしは独り寂しく帰るとしますか」
「だからっ!」
「じゃあね〜」
 手をヒラヒラさせながら、こちらの言い分など全く聞く耳持たずで聡美が去っていく。しばらくその場に佇み、大きくため息をもらしてから、鞄を握りしめてテニスコートへと急いだ。
 前日の雨のせいでコートには大きな水たまりがあちこちに浮かび、とてもではないが整備しないで練習できるような状態じゃなかった。まあ、今日は打ち合わせだけで練習はないため、使えなくとも問題はない。
「ああ、やっと来たぁ。遅いぞー」
 コートにたどり着くと、少女の声でお咎めの言葉が響いた。顔を上げて確認すると、すでに今度の大会に出る全レギュラー部員が揃っており、顧問の先生もコート端にあるベンチに腰を下ろしていた。
 そんな部員達の前でこちらに向いて仁王立ちする少女は、テニス部のマネージャーで現部長の妹である一年の天童晶。スポーティなショートヘアに、アク無く整った顔立ち。健康的な小麦色の肌が印象的な少女だ。
「先輩達を待たせるなんて、駄目な後輩ね」
 晶がカラカラと笑いながら大口を開く。返す言葉もないので、ピシッと両足を揃えて先輩達に体を向け、カクッと頭を下げる。
「すいません」
 もちろんながら謝ったのは晶に対してではなく、先輩達や先生に対してだ。
「全員揃ったな。じゃあ来週末の大会だが……」
 先輩達の影に隠れるよう、先生から一番遠い位置に身を潜め、大きくため息を漏らすと、隣に寄ってきた晶がニヤニヤと蠱惑的な笑みを浮かべてこちらをのぞき込んできた。
「……なに?」
 周囲に聞こえぬよう、かつ先生の話を聞き逃さないよう注意を払いながら尋ねると、晶は一層輝かしい笑みを浮かべて口を開いた。
「さっきお兄ちゃんに聞いたんだけど、また一緒だって」
「……一緒って、僕と天童先輩の試合会場?」
「そ。もちろん、あたしはお兄ちゃんの行く会場に応援に行くよ」
 マネージャーとはいえ、実際の所晶は天童先輩の専属みたいなものだ。いや、天童先輩がかなりのシスコン入った人だから、下手に他の部員が近づけないだけなのだが。
「あたしの分も合わせて、三人分お弁当作っていくから。期待しててね」
「……ありがと」
 来週末の大会はシングルスの地区予選。各個人でそれぞれの会場に赴くため、同じ高校の部員全員が同じ会場とは限らない。どうやら前の新人戦同様、天童先輩と同じ会場のようだ。
「……それでぇ、試合は土曜日でしょう? で、その次の日曜日のことだけどぉ」
「うぐっ」
 急に声音を変えて耳元で囁いた晶に、思わず喉元から奇声が漏れた。瞬間、先輩達が眉を顰めてこちらを睨みつけてくる。
「静かに聞け」
「す、すいません……」
 先生にも注意され、へこへこしながら目を側めて晶を覗うと、晶はニンマリと小悪魔的な笑みでこちらを見つめていた。毎度毎度いいようにからかわれているような気がする。
「先生の話は静かに聞きましょうねぇ」
「くそっ……」
 前の新人戦後にあった一件以来、晶の些細な言動にビクついている。何か、弱みを握られている気分だ。おそらく、晶もこちらが苦手意識を持ってることを知っててからかっているに違いない。
「今度は麗奈ちゃんにばれないようにしないとね、うふふっ」
「…………」
 結局、晶の邪魔があって先生の話がろくに入ってこなかったため、後で先輩にあれこれ聞く羽目になった。始終晶と一緒にいたため、天童先輩の視線が微妙に痛かったのは気のせいじゃないだろう。
 予定時間を大きくオーバーし、奈美恵が待ってる図書館へ向かう途中、偶然このは姉と廊下ですれ違った。学年が違うこのは姉とは一日にそう何度も会えるものではないので、まるで犬がごとく、尻尾を振りながら駆け寄っていく。
「あら、もしかしてこれから図書館?」
「え? どうしてわかったの?」
 こちらから話しかけようとした矢先、このは姉が穏やかな笑みを浮かべてこちらの行動を先読みしてきた。一体何故、これから図書館へ向かうというのがばれたのだろう。
「ふふっ。奈美恵ちゃんが手持ちぶさたに図書館でボンヤリしてたからね。待たせてるんでしょう?」
「え……、あ、まあ……」
「女の子待たせちゃ駄目よ?」
 またもあの笑顔だ。そりゃあ、弟みたいに思われていることくらい重々承知しているつもりだが、面と向かって、まるで興味なしみたいな笑顔を浮かべられては、やはり傷つくものがある。かといって別の女の子に会うのを嫉妬するこのは姉など、想像もつかないのだが。
「じゃあ、私はお母さんに頼まれていることがあるから先に帰るわね」
「あ……」
 もう少しくらい話し込みたかったが、このは姉は手をヒラヒラさせながら優雅に去っていってしまった。確かに人を待たせてる身なので急がなければいけないわけだが、このは姉と二人で居られる時間が確保できるならば他のすべてをなげうってでもそうしたいと本心では思っていたため、少々、いやかなり残念だった。
「はあ……」
 初恋は叶わないと言うけれど、1%でも可能性が残っている限りは諦めないのが信条。重たい気持ちはため息と一緒にすべて吐き出し、気を取り直して廊下を進む。
 その時だった。ふいに、窓の外にレナの後ろ姿を見つけ、思わず窓に張り付いてその後を目で追った。どういう訳か体育館裏の職員駐車場の方へと続く石造りの階段を駆け上がっている。あそこは生徒とは無縁で、人気のほとんどない場所なのだが。
「……あっ!」
 レナが駆け上がっている階段の先、駐車場の中央には、レナを待っているかのように佇む三人の少女達がいた。これはまずい。アイツら、また学校でやらかす気だ。
 一瞬、図書館に居る奈美恵に声を掛けてからにしようと思ったが、すぐにその考えを投げ捨てて踵を返して体育館へ続く渡り廊下に出る。そして上履きのまま屋外に飛び出し、先ほどレナが駆け上がっていった階段を一気に上っていく。
「ここで会ったが百年目。今日こそ決着をつけてやるわっ!」
 階段を駆け上がる最中、凛としたレナの声が風に乗って響いてくる。一体何処でそんな言葉覚えたのやら。
「あら、わたくしとあなたの分岐未来の時間を固定して、この時間軸状から考えたとしても百年には届きませんわ。ですから、ここであったがマイナス二十数年と表現するのが正しいのではなくて?」
 レナの言葉に対するは、フルートの音色のような美声ながらも意味不明な理屈でとんちんかんな事を言う少女の声。
「あははー! やっぱりレナは馬鹿だーっ!」
「馬鹿。阿呆。間抜け」
 とんちんかんな言葉に追従する、甲高いハスキーボイスに、何処か陰鬱な空気を漂わせる幼さの残る声。
「そう言う意味で言ったんじゃないわよ! そういう決まり文句なのっ!」
 レナと漫才を繰り広げる三つの声は、どう聞いてもアイツらだ。
「はあっ……はあっ……」
 階段を駆け上がった時、視界に映ったのはレナの背中と、その先に佇む三人の少女だった。三人ともレナと同じくこの高校の制服で身を包んでいる。
 横一列に並んだ少女達の真ん中、一番背の高いブローヘアの少女の名前は藍。泣きほくろが印象的で、美少女と称すより、美人と称した方がいいくらい、整った顔立ちに大人びた空気を漂わせている。
 そして藍の両脇に立つのが、初と唯。左右の髪を三つ編みで結い、そばかすが目立つ少女が初で、まるで小学生のように背が低くて童顔の、されど表情が硬い少女が唯。藍だけが二年で、初と唯はレナと同じ一年である。
「行きますわよ!」
 藍が手に持っていた扇子をバッと開き、高らかとそれを掲げた。初は両手に折り紙で折った手裏剣を握り、唯はシャボン液とストローを取り出す。まずい、こんな所であの力を使ったら、爆発騒動どころじゃすまない。
「待てーっ! お前達、こんな所で戦うのはやめろーっ!」
 すでに攻撃態勢に移ろうとしていたレナが、驚いた様子でこちらを振り返った。藍達も、それぞれ武器を身構えたままではあるが、ピタッと動きを止める。
「まったく、毎度毎度……。前にも言っただろ? 戦っちゃ駄目だって!」
「それは無理よ。あたし達の思想は違うし、望む結末も違う。どちらかが諦めるまで、戦いを止めることはできない!」
 真剣な眼差しでレナが言う。普段の、女の子と一緒にいるところを邪魔しに来る時みたいな怒った表情ではなく、決意に満ちた、真摯な瞳でこちらを見つめてくる。
「それはこちらも同じことです。わたくし達が望む未来を、あなたに改変させるわけにはいきませんわ!」
「そーだ、そーだ!」
「違うっ! 未来はまだ固定されていないっ! 勝手に自分たちの分岐未来をさも因果律の導く真の未来のように言わないでっ!」
「最適な未来。選択されるは必然」
「だーもうっ! あんな分岐未来、最適未来なんかじゃないわっ! あたしは絶対認めない。あんな自閉未来なんかに、世界を導かせるわけにはいかないのっ!」
 レナが半分癇癪を起こしたように声を張り上げ、スカートのポケットから一本の果物ナイフを取り出した。いや、アレはただの果物ナイフなんかではない。
「レナッ!」
 制止も聞かず、レナが大地を蹴って凄まじい勢いで藍に迫る。そして手に持った果物ナイフ、通称“天叢雲剣”を藍目掛けて突き立てる。瞬間、藍は開いた扇子で天叢雲剣を受け止め、周囲に甲高い衝撃音が広がった。
「やめろーっ!」
 まったく、藍達が出てきたら問答無用で斬りかかるというのもホント困ったモノだ。まあ向こうにも非があると言えばあるのだが、言ったところで聞きはしないだろう。
「えっ? あっ……、ちょっと、やめ……、離しなさいよっ!」
 後ろからレナを羽交い締めにし、その身を藍から引っぺがすと、レナはジタバタと両手両足を動かしながらギャアギャア叫く。
「……藍、初、唯。さっさとどっか行ってくれ。それに、前も言ったけど、馬鹿な真似はしないでくれ」
「それに対しては前にもちゃんとお答えしました。わたくし達の目的は自分たちの分岐未来を固定させること。それを阻止するレナは、わたくし達の敵。敵は排除するものです」
「敵は倒せーっ! 敵はやっつけろーっ!」
「相容れぬ存在。殺し合うが運命」
「……いいから、今日は行ってくれ」
 納得いかない様子の藍達。もちろん、腕の中ではレナが離せ離せと連呼しながら暴れ狂っている。
「……わかりました。今日はあなたに免じて退散するとしましょう」
「ばいばーいっ」
「失礼します」
 このままヒュッと瞬間移動で消えたらそれはそれで見物だが、藍達はいつも通り歩いてその場を去っていった。常人離れしたところもあるが、基本的に普通の人間だ。いや、普通と言っていいのか迷う部分も多いのだが。
「ああーっ! もうっ! 逃げられちゃったじゃない!」
「うるさいなぁ。いい加減さあ、藍達と争うのはよしなって」
「何言ってるのよ! アイツらは自ら自閉未来を望むアンポンタンよ! 絶対、ぜぇったい認めないわっ!」
「……自分が存在したいって望むのは決して悪いことじゃないよ」
 レナをなだめながらも、本心は藍達の方に共感しているとは口に出さない。誰が望んで自分の存在を消そうとするだろう。そんな自己犠牲的なレナに比べたら、藍達の方がよほど人間くさいというか、それが人間ってもんだろう。
「あたしは……。あたしはっ!」
 藍達が去ってしばらくして、レナは捕まれていた腕を乱暴に振りほどき、俯きながら唇を噛みしめていた。小さく肩を震わせながら、拳をギュッと握りしめている。
 出会ってからもうじき一年が過ぎようとしている。けれど、レナの気持ちはあの時とまったく変わっていない。それは変わろうと、変えようとしてないだけなのだろうか。


 あの日、僕、麻生令は出会った。
 未来から来た、僕の娘だと名乗る少女に。
 未来を変えようと、自分自身の存在を消すためにやってきた少女に。
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