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第一章 少年は少女と出会う 無重力状態を体感しながら、天地翔は眼下に広がる広大な緑の大地を見つめた。 自分の体がビョウビョウと風を切り、耳には轟音が響いていた。少し長くなってきた黒髪が根本から引っ張られるような感じを覚え、毛根に軽い痛みが走る。瞳を辛うじて半分だけ開きながら、翔は空高くから大地へ向けて一直線に落下していた。 (俺、何でスカイダイビングしてんだ?) 妙に落ち着いた頭で経緯を整理してみる。白のカッターシャツに黒の学生ズボンを身につけていることから、登校途中だったことを思い出し、さらに首を捻る。 (そう、大会が近いから今日は部活の朝練があって、それで早めに家を出たんだ) 今年から県立豊浜高校の二年になった翔は、硬式テニス部に所属している。実家が剣術道場で、父さんには剣道をやるよう何度も言われていたが、高校に入って始めたのはテニスだ。何故って、剣道は防具が汗くさくて嫌だったから。 (……それで、通学途中にクラッと目眩がして) そこで記憶が途切れている。気が付いたら空中をダイブしていて、眼下に広がる世界はモンゴルか何処かみたいに一面平野が広がっていた。 いや、ジッと目を凝らしてみると、街のようなものが随所に見られる。まだ高度が高いせいか、ハッキリとは確認できないが、緑の大地の一角に、石で出来た建造物が建ち並ぶ街のようなものがある。遠くにもいくつか街や集落のような物が確認できた。 (白昼夢……じゃねえな) 翔は空気抵抗を思いっきり感じながら、右手を頬の辺りへ運んでいき、抓ってみた。間違いなく、痛かった。 どうやら現実であるという事を認識し、翔は徐々に迫りつつある大地を見つめた。 このまま行けば間違いなく死ぬだろう。だが、いまいち現実味にかけているせいか、不思議と恐怖心がない。と言うより、頬を抓った後だというのにまだ夢でないかと疑っている自分がいた。 (おいおい、夢なんだろ? さっさと起きようぜ……) もう一度頬をつねる。しかしやはり痛かった。つまりこれはもう、現実以外の何物でもないわけだ。 (お、おいおい、嘘だろ、おい……) 徐々に恐怖がこみ上げてくる。動悸が激しくなり、呼吸が乱れ始め、全身の汗腺から汗が噴き出す。 「うわあああああああああああ」 大地が迫る。もう駄目だと、翔はギュッと両目を閉じ、唇を噛みしめた。 (死ぬ!) 翔が迫り来る死を実感した次の瞬間、体中に凄まじい衝撃が走った。激しい衝撃と、皮膚を裂かれるような傷みが、繰り返し繰り返し何度も翔の身に襲いかかる。 そっと瞳を開いて状況を確認すると、バサバサと新緑の葉が宙に舞っていくのが見えた。 (あ……。木にぶつかったのか……) 翔の体は次々と枝を折りながら地面へ迫っていく。自然落下で空気抵抗と釣り合うまで加速していた翔だが、大きな木の枝を百本近く折った頃にはかなり減速しており、ついには枝の弾性に押し負けて落下が止まった。 「……痛ぇ」 あんな高さから落下したというのに、翔の体は至って無事だった。木の枝でカッターシャツやズボンはボロボロに引き裂かれ、体中にひっかき傷や擦り傷が出来ていたが、それで済んだのだから相当運が良い。 「どうなったんだ? ……っていうか、ここは何処だ?」 翔は枝の上で上体を起こし、周囲を覗った。 まず翔の瞳に映ったのは、石造りの立派な建物だった。三階建てで、窓枠からテラスの装飾に至るまですべて灰色の石で出来ており、まるで中世ヨーロッパの建造物を彷彿とさせる。横に長く、端から端まで二百メートルくらいはありそうだ。 次に目を引くのが、大きな聖堂だった。様式は先に目についた建物とほぼ同じだが、白い外壁と外からでもハッキリと見える美しいステンドグラスが、まるでキリスト教系の聖堂のようだ。 「んあ? ヨーロッパか、ここは。あーマジで意味わかんね。何で俺はこんな所に……」 夢じゃないことはすでに実証済みだが、現実にしてはおかしいところが多い。夢遊病にかかって、登校途中にヨーロッパ行ってスカイダイビングでもしたのだろうか。いや、パスポートの発行には多少なりとも時間がかかるはずだ。 (うーん、不正入国か?) 死を目前にパニックを起こしていた時に比べ、いくらか冴えてきた頭で考えてみるが、答えが出るはずもなかった。まあここが何処にしろ、辛うじて生き延びたのだから日本大使館か何処かに駆け込んで事情を話し、保護してもらおう。 そんなことを考えていると、辛うじて翔の全体重を支えていた枝がバキバキと嫌な音を立て始めた。「あ」と思った瞬間にはもう遅く、再び無重力感覚が翔の身を襲った。 「うわあああっ!」 「きゃああっ!」 今回の落下は長くなかった。ものの一秒足らず。すぐに翔の体は大地に落下……しなかった。枝が折れた直後、翔の視界に人影が映り、それと同時に翔の体とその人影がぶつかって落下が止まったのだ。 先の悲鳴が翔。後の悲鳴が、翔の下にいた人物のもの。甲高い、少女の悲鳴だった。 「…………――っ!?」 頭を打ったせいか、しばらく翔の思考は止まっていた。そして徐々に落ち着いてきた頭で状況を確認した瞬間、パラシュート無しでスカイダイビングしていた時以上の動揺が翔の全身を駆け抜けた。 自分の体の下に少女の体がある。顔は近すぎて確認できない。ただわかるのは、その少女の唇がとても柔らかいのと、翔の左手がまだ成長しきってない少女の胸を掴んでいることだった。 「……はうあっ!」 翔は奇声を発しながら飛び退いた。そのまま後方に尻餅をつき、目を見開いて相手の容姿を凝視する。 (な、なななっ!) 「……ったぁー」 動揺する翔の前で、少女がむくっと上半身を起こした。その瞬間、翔は影をくないで刺されたように身動きが取れなくなってしまう。瞳が少女の姿を捉えたまま瞬きを忘れ、喉から生唾を飲み込む音がもれた。 (か、可愛い……) 少女は、日本人とはかけ離れた顔つきをしていたが、もの凄く可愛かった。少なくとも翔の好みど真ん中である。 サラサラとした金髪は腰の辺りまで伸び、気の強そうな瞳はパッチリと大きくて澄んだコバルトブルーをしている。今し方自分のそれと触れあっていた唇は艶やかで、長い睫はまるで人形のようだ。 服飾は学校の制服だろうか、赤いワンピースドレスに、白いカラーがついている。胸元に緑色のリボンが結ばれ、袖口とスカートの裾には桃色の生地が縫いつけられていた。 「く、黒い髪……? あ、あんた誰よ! 何で木の上から……。――あっ!」 (うお、日本語喋りやがった!) 少女が翔を睨め付けながら、後頭部をさする。どうやら頭を打ったようだが、さすっている内に何かを思い出したのか、両手を口元に当てて硬直する。 (あ、やべっ) 翔の米神を冷や汗が流れる。目の前の少女が何故日本語を話しているのかという問題は全く見当付かないが、何故口元を押さえて頬を紅潮させながら、すごい形相で翔を睨むのかはすぐに思いついたからだ。 「……じ、事故だ。別に狙ってやったわけじゃ……」 言われる前に翔は謝った。しかし動揺してるせいか、声が小さく震えてしまう。 「うるさいっ!」 少女がそう叫んだ瞬間、翔の頬を何かがかすめ飛んでいった。一瞬だったのでよく確認できなかったが、赤くて実体のない、メラメラとしたものだった。 (え……? あ……?) タンパク質が焦げる異臭が翔の鼻を突く。どうやら翔の髪が一部焼き焦げたようだ。頬にも軽い火傷を負ったらしく、ヒリヒリと痛みがこみ上げてきた。 「な、なんだ?」 何だ今のは。火が、目の前の少女の両手から出た……ような気がする。ライターやスプレー缶のようなものは持っていない。何処から火を出したのだろうか。 「殺す! 殺してやるぅっ!」 再度、翔の脇を炎が駆け抜けた。思わず飛び上がり、翔は本能の赴くまま走り出した。 「な、何なんだよ! 一体どうなってんだ!」 間違いなく、炎は少女の両手から発せられていた。しかし、この世界の何処に手から炎を出す少女がいるんだろうか。漫画やアニメ以外で聞いたこと無いぞ。 (これは、ホントに白昼夢じゃないのかよ!) 「はあっ、はあっ!」 「待ちなさいっ! このあたしから逃げられると思ってるの!」 必死に逃げる翔の背後から、先ほどの少女の怒声が響く。それと同時に、翔の脇を次から次へと火の玉が追い抜いていった。あんなのに当たったら、重度の火傷は免れない。死ぬのが怖いとか、怖くないとか、もはや別次元の話だ。意味がわからない。 「ど、どうなってるんだよ! どんな手品だ!」 取りあえず、目の前に見える三階建ての建物を目指した。チラッと後方を振り返ると、少女は相変わらずその愛らしい顔を歪めて翔を睨みつつ追いかけていた。 「うわっ」 次の瞬間、ドンと何かにぶつかった翔は、一瞬体勢を崩した。確認すると、自分とさほど年の変わらない少年が呆然と立っており、驚いたように翔を見つめていた。 少年も後方の少女同様、日本人ではなさそうであるため、外見だけで同世代かどうかは判断しにくい。ただ髪や瞳の色はともかく、顔つきはどことなく日本人に似ているため、それほど年が離れてはいないだろうと判断できた。服装はこの学校の男子制服だろうか、緑色のブレザーの下に白のシャツ。ズボンは灰色で、ネクタイは濃い赤だった。 その、茶色の髪にエメラルドグリーンの瞳をした少年が、物言いたげに口を半分だけ開く。しかし、背後から意味不明な炎を飛ばしてくる少女が居るため、翔は少年を押して道を空け、その脇を走り去ろうとした。 「ちょっとグラッティ! その男を捕まえなさい!」 「……え? で、でも……」 「いいから捕まえなさい! あたしの言うことが聞けないって言うの!」 翔を追いかける少女が声を張り上げて少年に命令する。グラッティと呼ばれた少年は、オロオロしながら、「わかった」と小声でつぶやいた。 「お、おい! やめろ、うわっ!」 走り去ろうとした翔の腕を掴み、グラッティが全体重をかけて引っ張った。翔の上体がのけぞり、無様にその場で仰向けに倒れてしまった。 「痛ぇ……」 「うふふ」 足音が迫る。同時に、不気味に響く少女の笑い声が聞こえた。恐る恐る瞳を開くと、視線の先で少女が仁王立ちして勝利の笑みを浮かべていた。寝そべって見上げているため、スカートの中身がハッキリ見えていたが、今はそれを喜ぶ余裕はない。 (う、笑顔だけ見ていたらすごく可愛いのに……) 「言ったでしょう、あたしからは逃げられないって! このあたしを誰だと思ってるのよ」 「知るか! っていうかここは何処だ! フランスか? イギリスか? それと、さっきの炎は何だ! どんな手品だよ、危ないだろーが! あと、何で日本語……」 「うるさいわね!」 翔の質問に何一つ答えず、少女の右手から炎が放たれ、翔の頭のすぐ脇の草を焼いた。ジュッという音に続き、白い煙が宙へ上る。 「フ、フリル、人に向けて魔法使っちゃ駄目だよ」 気弱そうなグラッティが、少女の脇でオロオロしている。フリルと呼ばれた少女はグラッティをキッと一瞥して黙らせ、再び翔へ視線を移した。 「あなた、名前とクラスを言いなさい」 「は? そんなこと聞いてどーすんだよ」 再び草が焼ける音。悪態をつくと、どうやら癇に障るらしい。 翔は大きく息をついた。意味不明な力を使う以上、常識的な対応でどこまで通用するかわからないが、それでもそうしないことには非常識な力でどうにかされそうだ。 「天地翔。豊浜高校二年C組。出席番号は二十一」 「……はあ?」 予想外の答えだったのか、フリルが顔を歪めた。そもそも、こいつらが日本語を話しているとはいえ、ここは間違いなく翔の通う豊浜高校ではない。クラスを聞いたところで、意味はないだろうに。 「俺からも質問させろ。ここは何処だ」 「何言ってるのよ。あんた頭おかしいんじゃない? 見たことない黒い髪といい、あんた何者よ!」 「お前こそ、変な力使いやがって。ホントに人間か?」 今度は草と共に髪の一部を焼かれた。翔は目を細めて口をつぐむ。 「変な奴ね。他国のスパイかしら? ……まあいいわ」 フリルが両手を翔へかざす。翔は思わず息を飲んだ。この女、間違いなく本気でやるつもりだ。意味不明な力で、翔を北京ダックにするつもりだ。 「フリル! ま、まずいよ!」 グラッティがフリルの肩を掴んだが、フリルは鬱陶しそうにそれを払いのけた。 何時の間にか周囲を大勢の人間が取り囲んでいることに翔は気づいた。みな、フリルやグラッティと同じく制服を身につけている。しかし誰一人、黒髪の日本人らしき人間はいない。って言うか、誰も翔を助けようとしない。 「おい、何をするつもりだ?」 「決まってるでしょ? このあたしにあんな破廉恥なことしておいて、タダで済むと思ってるわけ?」 優雅に微笑むフリル。妙な力でヤバイことをされそうだと言うのに、思わず見とれてしまいそうになるくらい、やはり可愛い。 「事故だって言ってるだろ!」 「うるさい!」 フリルの両手の先に、巨大な火の玉が具現化していく。野球のボールくらいから、それは徐々にハンドボール、サッカーボール、そして大玉転がしの大玉くらいでかくなった。こんなの喰らったら、マジで死ぬ。 周囲の気温がぐんぐん上昇していく中、翔とフリルは睨み合ったまま黙っていた。周囲の人間も至って静かだ。 「待ちなさい! ラファードさん!」 静寂を破ったのは凛と響く女性の声だった。途端にフリルの両手の前にあった炎が空気中に消え去り、周囲の気温が元通りになる。 「ルーレシア先生……」 フリルが下唇を噛みながら翔の後方を見つめる。翔は地べたに腰を落としたまま、上半身を起こしてフリルの視線の先を確認した。 立っていたのは二十代半ばくらいの女性だった。金髪を髪飾りで結い上げ、栗色の瞳は切れ長で鋭い。スラッと背が高く、タイトスカートの裾から覗く足は長くて白かった。 「学園内で攻撃魔法を使用することは魔法の授業以外禁止ですよ? しかも人に向けて使うなど、言語道断です」 「す、すいません……。け、けど、こいつ怪しい奴で、その、痴漢で他国のスパイなんです!」 「誰が痴漢だ! それにスパイでもねぇっ!」 「うるさい!」 「ラファードさん、あなたは黙ってなさい」 「……うぅ、はぃ」 生徒が教師に対して頭が上がらないというのは世界共通だったようだ。フリルはスカートの裾をギュッと握り、下唇を噛みながら地面を見つめていた。 (ああ、そういう仕草は可愛いんだけどな……) 翔は横目で悔しげに歯がみしているフリルを一瞥し、その後ルーレシアと呼ばれた女性を見つめた。 「……あなた、名前は?」 「天地翔……です」 「テンチカケル? ……変わった名前ね、何処出身?」 「日本の、埼玉県です」 「ニホン? サイタマケン? ……何処です、それは?」 「ユーラシア大陸の端、太平洋側にある列島国です」 「…………」 どうやら全然通じてないらしい。何となく予感はあったが、どうやらここは翔の知っている世界ではないようだ。フリルの意味不明な力、グラッティが魔法と呼んでいたが、あれを見た時点から薄々そう思っていた。 (ってーと、つまり、まあ、そう言うことか……) これが夢だったら実にわかりやすいのだが、夢オチでないことはわかっている。要はあれだ、気が付いたら異世界ってやつ。 (はあ……。マジですか……) 「……どうやらあなたはこの世界の人間ではないようですね」 「そのようです」 ルーレシア先生は実に物わかりがよかった。普通、こういう場合は相手の頭を疑う所だろうが、あっさり別世界とか言ってる。ここが翔の知っている世界だったら、馬鹿扱いされること間違い無しだろう。 「別世界ぃ? せ、先生何言ってるんですか! そんなのあるわけないじゃないですか!こいつが言ってる事なんて全部デタラメ、嘘ですよ、嘘! こいつはただの痴漢で、変態で、どっかの国のスパイなんですって!」 その点、フリルの反応は実に正しい。ただ、痴漢と変態っていうのは誤解も良いところだ。いい加減訂正しろと言いたい。 「……さっきから痴漢痴漢って、あなたこの少年に何をされたの?」 「あ、う……、そ、それは……」 ルーレシア先生に睨まれ、フリルが肩を縮めて両手の人差し指を胸の前でこねくり回す。頬を赤くするフリルを見て、翔は後頭部を掻きながら同じように赤くなる。 「ともかく。学園長に話をしてみましょう。……えっと、カケル君、着いてきて」 「……はい」 翔は大人しくルーレシア先生に従った。周囲の好奇の目から逃れ、凄まじい殺気を発するフリルから逃れるためにも、ここは先生について行ったほうが得策だろう。 建物の中に入る前、チラッと振り返ってフリルを一瞥すると、フリルは納得いってない顔で、翔を睨んでいた。 * * * 「どういう事だ?」 黒衣で身を包む男達が、薄暗い部屋に蝋燭を片手に持って立っていた。床には何やら魔法陣らしき六芒星が描かれている。 「……召喚は成功したはずだ。聖書にある、世界の終焉を回避する《異世界の焔》を!」 「だが姿形もないとはどういう事だ! やはり失敗ではないのか!」 男達が騒々しく声を張り上げている中、奥の椅子に腰掛けた十歳くらいの少女は黙ってその様子を見守っていた。 桃色の髪に金の髪飾りをつけ、銀色の瞳には感情という趣が感じられない。 少女はふと立ち上がり、六芒星の中心へ歩み出た。それを見た男達が途端に黙り込み、ジッと少女を見つめる。 「《金色の果てに世界は終焉を迎える。序曲を謳いし妖精が東方より舞い、終曲は西方に落つる太陽が奏でるだろう。曲を惑わす不協和音は、虚数の彼方より灯りし漆黒の炎。世界を終焉の縁より救いし者、それを異世界の焔という》」 透き通るような幼い少女の声が響いた。少女はスッと瞳を閉じ、祈るようにその場に座り込んだ。 「……遠方、シュベリアの地に、異なる風を纏いし少年の姿が見える」 「おお! 巫女アーリアよ、見えるのだな!」 「はい」 少女が小さく頷くと、男達の瞳に生気が宿る。騒々しい間を、少女は音もなく去っていった。 「早く……、貴公に逢いたい……」 少女はつぶやき、暗闇に消えた。 * * * 翔が通された立派な建造物の中は、外見のそれに等しく、石の廊下が続く薄暗い感じがする場所だった。窓硝子は仄かに曇っており、所々にシャルトルブルーを思わせる濃いブルーのステンドグラスが埋め込まれている。 ルーレシア先生に連れられ、翔は学園長室へと案内された。紅い絨毯の敷かれた部屋の中央に木で出来た机があり、その先には椅子に腰掛けた年老いた男の姿がある。 白髪頭は、頂上付近は地肌が露出し、髪は女性のように長い。口の周りを髭が囲い、顎髭は喉を越えて首元まで伸びている。瞳の色は鳶色。表情は、とても穏やかだ。 「ほうほう、別世界から来た少年とな。それはまた興味深いのう」 学園長……というより、ジジイと称した方がわかりやすいが、ジジイは顎髭をなでながら楽しそうに笑っていた。何でまあ、別世界とか簡単に信じてしまうのだろうか。 「それで、どうするんですか、学園長?」 ジジイの脇には、三十代に見える男が立っていた。フード付きの茶色いローブを着て、手には樫の杖らしき物を握っている。ここが翔の世界なら単なるコスプレに思われるだろうが、不思議とここでは違和感を感じさせない。というより、この世界その物がおかしく感じるため、むしろそっちが正しく思えてくる。 男は燃えるような真っ赤な髪を流しながら、そっと金色の瞳を細めて面白そうに翔を見つめた。その整った容姿に、何故か無性に腹が立つ。 (こいつも先生なのか? ……フン、女生徒に人気ありそうな面だな) 内心そんな事を考えつつ、翔はジジイを凝視した。何やら考え事をしているらしく、髭をなでながら唸っている。しかし表情は楽しそうだ。何か、むかつく。 「別世界の存在は証明されていませんし、生徒が言っていたように他国のスパイであるという可能性もゼロではないと思います」 「ルーレシア先生、黒髪の人間なんて大陸中捜したって見つかりませんよ」 「確かにそうですが……。じゃあアッシュ先生もカケル君は別世界の人間だと思っているのですか?」 アッシュと呼ばれたキザっぽい男は、肩を竦めるポーズでルーレシア先生に応じた。 (んなことより、まずはここが何処か教えてくれよ) 翔は嘆息しながら床へ視線を落とした。建物の形状や、同じ言語を話す人間が居る以上、まったくの異世界って感じはしない。だが、やはり翔が元居た世界とは違うというのは間違いない。 「あの……、質問、いいですか?」 「おお、すまんすまん、こちらばかりで話を進めておったのう」 「いえ。……まず、ここは何処ですか? それと、さっきの女の子が使っていた不思議な力……、魔法……と呼んでいましたが、あれは何です?」 魔法と言えば、翔にとってもゲームやアニメでお馴染みだ。それでも、確認しないことにはいられない。取りあえず普通であると自負する翔にとって、それらが現実の物理法則やらその他云々に反するものであることは重々わかっているつもりだから。 「ここは聖バートリアム王国にある、王立高位魔術士養成アカデミー。まあ、簡単に言えば貴族の子供が通う魔法学校じゃ」 「ま、魔法学校……。じゃあやっぱりさっきのは、魔法……なんですか」 「なんじゃ、魔法を知らぬのか?」 「は、はい。俺の居た世界では、魔法は空想上の力でしかなくて、その、根本的に世界の法則に反した力ですから」 翔の思う魔法と、この変な世界でごく普通に扱われている魔法が同等のものかわからないが、先ほどのフリルとかいう少女が使っていた力は、タネでも無い限り、翔の世界での常識に反している。 「魔法がない! それでは人々は大変不便な生活を送っているのではないかね?」 「い、いえ、そうでもありません。現代は科学技術が随分発達してますから……」 「カガクギジュツ?」 科学が通用しない。これは世界のありかたが根本的に違うのかもしれない。だが、人間の形状は同じだし、思考もそれほど違っているようには感じない。ほんのわずか、しかしとてつもなく大きなピースが入れ代わってしまった世界のようだ。 翔は拙い言葉で科学が何なのか、翔の世界がどんなかを説明した。半分以上の単語についてジジイやルーレシア先生、アッシュは首を捻っていたため、おそらく殆ど理解できていないだろう。 「……ふーむ、ますますお前さんが別世界から来たというのが現実味を帯びてきたのう」 「はあ。……俺自身、この世界が今まで俺が居た世界とは全く違ってると思います」 「どうやってこの世界へ来たんじゃ?」 「記憶にありません。朝、学校へ行く途中でいきなり気が遠くなって、それで、気づいたらスカイダイビングしてました。真っ逆さまに、空から」 「ええっ! カケル君、よくそれで無事だったわね。まさかカガクってのを使ったの?」 「……違います。あの、窓の外にある凄く大きな木にぶつかって、枝がクッションになってくれたお陰で助かりました」 「ははっ! そいつは大した運だ。もし少しでもずれていたら、君はここが自分の居た世界じゃないと認識する前に死んでいたわけか。こっちとしても、いきなり身元不明の黒髪少年の死体と面合わせする羽目になっていただろうし」 アッシュがカラカラと笑う。笑い事じゃないのに、相手が生きてるからだろうか、質の悪い話だ。 (だが、俺はどうやってこの世界へ? ……まあ、考えて答えが出るようには思えんが) 翔は顎に手を添えて考え込む。何故か今更になってフリルのパンツが脳裏をよぎったが、今はそんなこと考えている場合じゃない。馬鹿か。 「で、結局どうしますか?」 「ふーむ。王立の研究所へ連れて行って詳しい調査を行った方がいいかもしれんのう」 「いえ、別世界から来たなどと聞いたら、あそこの研究員は何するかわかりませんよ? 私も先月ここに転任する前は、あそこに居たんですから」 アッシュが他人事のように笑う。平然と笑顔で、「あそこに行ったら、その少年はハムスターのモルモットと同じですよ」と言いやがった。翔は拳を握り、アッシュの横顔を睨め付ける。 「そうじゃのう。……さて、どうしたものか」 「しばらく学園で身柄を預かってはどうでしょう。彼の正体がハッキリするまでは、うかつに外へ出さない方が賢明だと思います」 ルーレシア先生がそう言いながら翔を見た。そしてフッと優しい笑みを浮かべる。まるで、元の世界に居る姉さんのような、暖かな笑顔だ。 (よく見ると美人だよな。……こっちは男子生徒に人気ありそうだ) 「手続きは儂が簡単に誤魔化せるが……。カケルとやら、そなた自身はどうじゃ?」 「俺は……。正直まだ現実だって認識が曖昧で、あんましっかり考えることができないんですけど、その、取りあえず生活する場所が必要だとは思ってます」 素面の時だってあまりしっかり考えて行動するタイプではないが、ここではそんな細かいことを言っても仕方ない。 「ここが何処で、何で俺はここに居るのか。それを自分自身で確かめていきたいと思ってますが、この世界のことをまだ理解できていないので、その、よろしければここに居させてもらい、色々と教えて頂きたいと思ってます」 翔はハッキリとそう言った。こう言う時、ヘンに尻すぼみせず、堂々としていられることに一番驚いているのは、何を隠そう翔自身だ。まあ、後にも先にもこんな変な体験はこれっきり……だろうか。後のことはまだよくわからない。 「わかった。なら、君を特別に我が校の仮生徒とし、しばらく籍を置くとしよう」 「ありがとうございます」 「えっとテンチカケル君だったな。テンチがファミリーネーム……と。歳は?」 「先月十七になりました」 「ほう、ならば二年という扱いになるかのう」 仮入学の手続きをするためという事でジジイに渡された書類をジッと凝視した翔だったが、会話はちゃんと成立しているにもかかわらず、書類に書いてある文字は全く読めなかった。 (日本語じゃねーな、こりゃ……) 社会の教科書に出てきた何処かの国の何とかという言語に似て無くもないが、恐らく別物だろう。駄目だ、さっぱり理解できない。 「すいません、何て書いてあるかわかりません。その、数字は何となく俺の居た世界と同じでわかるんですけど、文章はちんぷんかんぷん」 「何? 儂らの言っていることは理解できるのに文字は読めんのか? うーむ、君の居る世界では文字という物がないのか?」 「いえ、あります。けど、全く形が異なっています」 試しに翔は自分の名前を漢字で紙の端に書いて見せた。ジジイが糸のように細い目でそれを見つめたが、何と書いてあるか理解できなかったようだ。 (会話は通じるのに文字は別物。ふう、ますます意味不明だな) 翔は肩を落として大きく息を吐いた。結局、書類は翔が口で言いながら、ルーレシア先生がそれを文字にして記してくれた。これから先、色々と面倒が多そうだ。 * * * 「あうぅ、だ、駄目ですぅ」 漆黒の空間で、あどけない少女の声が響く。白いワンピースで身を包み、背中から白鳥のような純白の翼が生えている。髪は銀色で、頭の上には輝く輪っかが浮かんでいた。 ルビーのような赤い瞳には涙が浮かび、少女以外に人影の無い空間で何度も独り言を続けていた。 「うー、バグ取りだけでも忙しいのにぃ、もーやんなっちゃうですぅー」 サラサラとした銀髪を乱暴に掻きむしりながら少女がわんわん泣き言をもらす。恨めしそうに漆黒の床にボンヤリと浮かんだ青白い線を見つめ、そっと膝を折って指先で線をなぞる。 「無理矢理存在アドレスを変更された少年は気の毒ですぅ。面倒だけど、早くどうにかしないと可哀想なのでぇ、頑張るですぅ!」 少女がムンと立ち上がり、両手を頭上に掲げた。瞳を閉じ、ブツブツと呪文のような言葉を紡いでいく。 「うぅ、時間かかりそうですぅ……」 呪文と共に、時折泣き言がその小さな口から零れていた。 * * * (はあ、何でこうも都合良くできてるんだよ、この世界は……) 翔は大きくため息をつきながら、ルーレシア先生に案内された、翔と同い年の子供達が学ぶ二年生の部屋の片隅で、ジッと翔を睨め付ける少女を見やった。 腰まで伸びた金髪は、窓から注ぐ太陽……のような明るい恒星の光を浴びてキラキラと輝いている。気の強そうな瞳は、この世界に在るかどうかわからないが、サファイアのそれに匹敵するくらい綺麗な蒼。すらりとした鼻筋に長い睫。艶やかな唇に、透き通るような白い肌。翔の好みど真ん中の少女フリルは、柳眉を逆立てて殺気を全身から迸らせている。 「今日から皆さんの同級生となるテンチカケル君です」 ルーレシア先生が、翔にわからない文字で黒板らしき深緑色のボードにチョークらしき白い棒で書き記した。以降、物にらしきを付けるのはやめる。そう見える物は、そう呼ぶことにする。と言うわけでさっきの話だが、空から大地を照らしてる恒星は太陽だ。 (っていうか、紹介終わりかよ) ルーレシア先生は前置きも何も無しに翔の名前だけ生徒達に告げ、後はずっと口をつぐんでいた。よって当然、皆の視線は翔に向いており、何か喋らなきゃまずい空気が漂っていた。 「……初めまして、天地翔です。えーっと、事故で頭を打って以来記憶が曖昧で、常識的なことでも忘れてしまっているものが多いので、色々と教えて頂けると嬉しいです」 廊下を歩いてる途中、ルーレシア先生と打ち合わせしておいた嘘だ。この世界では魔法が当たり前で、黒髪の人間はゼロで、その他諸々翔の居た世界と異なっていることがある。変にあれこれ詮索されるより、ピエロを演じてる方が楽だろう。 「えっと、その事故のせいで魔法の使い方を綺麗さっぱり忘れてしまったため、思い出すきっかけにと、この学園に編入することになりました。それと、えー……、あ、髪は事故のショックでこうなってしまったみたいで、生まれつき黒かったわけじゃありません」 嘘だろうと、堂々としていれば案外怪しまれないものだ。様々な髪の色をした生徒達は、「そんなこともあるのか」などと翔の嘘を簡単に信じている。 ただ、ほんの一握りの人間はそうではなかった。フリルと、その部下……のように見えた少年グラッティだ。 (うわ。あの女、すっげー睨んでやがる) タイプの子に睨まれるのは正直快くない。しかしまあ、そうされる理由もあるわけだから嘆息するしかなく、今後もあまり近づかないよう心がけた方が良さそうだ。 「ではカケル君の席はラファードさんの隣ね」 「はい。……ええっ!」 心がけようと決めた瞬間これだ。良くできた世界である。 「じゃあ三限目始めるわよ」 戸惑う翔を追い払うと、ルーレシア先生は翔の名前を書いた文字を消して、黒板に意味不明な文章を書き始める。いつまでも教卓の付近でアホみたいに立っているわけにもいかず、翔は恐る恐るフリルの隣の席へ腰を下ろした。 教室中の生徒が、黒板と翔を交互に見つめる。その殆どが、興味半分と言った感じで別段敵意を含んでいるものではないが、すぐ隣から浴びせられる皮膚に突き刺さってくるように視線には、敵意以上の殺気が籠もっている。 「……ねえ痴漢。さっきのあれ、嘘でしょ」 「…………」 小声で話しかけてくるフリル。一瞬ピクリと体が反応してしまったが、痴漢などと呼ばれて振り向いてやるかという気持ちから、翔は無視して黒板を眺める。突き刺さる殺気が、勢いを増したような感じがした。 「痴漢、このあたしを無視するなんて、いい根性してるじゃない。このあたしを誰だと思ってるのよ」 (知るか。転校生だっつってんだろ。まるで世界中の人間すべてが自分のことを知っているような言い方してんじゃねぇよ) もしかしたら超有名人で、この世界に住まう者なら誰しもフリルのことを知っているのかもしれない。しかし仮にそうだとしても、事故で記憶喪失なのだからで言い訳できる。 「痴漢、変態、スケベ、キス魔!」 徐々にフリルの罵声がエスカレートしていく。声も徐々に大きくなっていき、いい加減ルーレシア先生の耳にも届きそうだ。 (はあ……、勝手に言ってろよ) 翔が大きくため息をついた瞬間―― 「痛ぇっ! おい、てめぇ何しやがる!」 翔はもみ上げに痛みを感じ、同時に髪を焼く臭いがしたことから、大声と共に立ち上がってキッとフリルを睨みつけた。フリルの指先が翔を向いて輝いたが、表情は飄々としている。隠す気もないらしい。 「どうしたのカケル君?」 「…………。いえ、すいません。何でもありません」 ここでルーレシア先生に泣きつくのは少々情けなく感じ、翔は力なく椅子に座り直した。そして横目でフリルを睨みつけながら、口を小さく開く。 「何するんだ」 「はっ! このあたしを無視したからよ」 「……このアマァ」 「うるさい痴漢。そんなことよりあんた、さっきの話嘘なんでしょう?」 「何のことだ」 「記憶が曖昧とか、もとは黒髪じゃないとか」 フリルがジッと翔を見つめる。正直、睨まれるとはいえ近距離で見つめられると心臓の鼓動が早くなってしまう。 (くそ、やっぱ可愛いなこいつ……) 「答えなさいよ」 可愛い外見とは正反対に、言葉は威圧的で容赦ない。まだ少ししか話していないが、傲慢で高飛車で我が侭な女というイメージが翔の中で出来つつあった。 「嘘じゃねーよ。この世界に黒髪の人間がいない事は知ってんだろ」 「でも、さっきルーレシア先生と別世界から来たとか……」 「…………。お前さ、本気で別世界とか信じてるの? ガキじゃあるまいし、そんなおとぎ話みたいなこと信じてんじゃねーよ。馬鹿らしい」 何故かフリルの前では普段以上に悪態をついてしまう。相手の態度に呼応してるだけなのか、そうでないのかよくわからないが、自然と悪口をもらしてしまう。 そして案の定、フリルの右手が輝いた。翔は反射的に体を逸らし、目の前を小さな火の玉が通過していった。 「あ、あちーっ!」 通過した火の玉は、翔の逆隣りの席に座る蒼髪の少年にヒットした。頬に赤い火傷の痕ができ、目に涙を浮かべてさすっている。 「ど、どうしたのヴァイル君! ああ、ほっぺが真っ赤だよ!」 「ラファードさん! あなたまた人に向けて攻撃魔法を使いましたね!」 ルーレシア先生の怒声に気圧されたのか、フリルがしゅんと肩をすぼめる。 「だ、だってこの痴漢がよけるから……」 「今度人に向けて攻撃魔法を使ったら、あなたのご両親へ報告しますからね!」 「あっ! そ、それだけは……」 (お? 何だ、実は親の前では良い子なのか?) さっきまでの勢いは何処へやら、おろおろと落ち着き無いフリルは、外見のそれに釣り合っていてとても可愛かった。しかし考えようによっては、大人の前では良い子ぶろうとする性悪であるとも考えられるため、素直に可愛いと見とれるわけにもいかない。 「いいですね。……では授業の続きをします」 ルーレシア先生が再び意味不明な文字を羅列し始める。数字の類が時折見えることから、数学か何かのようである。 そっと横目でヴァイルと呼ばれた、翔の身代わりとなって犠牲になった少年を見やると、半泣きで未だに頬をさすっている。可哀想だが、悪いのは翔ではない。 そして今後は逆サイドへ目を側める。見るまでもなく殺気を浴びていたが、フリルはやはり鋭い視線で翔を睨んでいた。瞳が潤み、こちらもヴァイル同様半泣きであったが、頬を膨らませて睨め付けているという点で異なっている。 「あなたのせいで怒られたじゃない」 「知るか。お前のせいだろ」 「くー!」 「今度使ったら親にチクられるぞ」 よほど親が怖いのか、フリルはわなわなと拳を握りしめるだけで炎を飛ばしてはこなかった。翔だったら教師が親に何を言おうが構わないが、フリルにとってはそうでないらしい。どの世界にも怖い親というのはいるようだ。 (はあ……。どうなるんだろうな、俺……) 大きくため息をつき、翔はルーレシア先生の言葉に耳を傾けた。文字は読めなくとも話す言葉は理解できる。どうやらやはり、この授業は数学のようだ。だが、そう理解すると同時に睡魔が襲ってきた。 (昨日の晩、遅くまで漫画読んでたからな……。あ、今日はマガヅンの発売日……って、この世界にいる限り関係ないか……) うとうととそんな事を考えながら、翔は頬杖を着いたままゆっくり瞳を閉じていく。 (親にチクられるの怖がってるから、まあ、隣で寝ても大丈夫だろ……) そう思って翔の瞼が完全に閉じた瞬間、左からではなく前方から衝撃を受け、翔は「うげっ」と声をもらしながらのけぞってしまった。 「痛ぇ……」 「カケル君。編入初日から居眠りなんて、いい度胸してるじゃない?」 「……す、すいません」 床に転がったチョークを見つめ、次にルーレシア先生へ視線を切り替える。チョークを投げる先生なんて、翔の居た世界ではすでに絶滅した存在だ。やはりここは異世界なのだと、再度納得する。 (って言われても、何て書いてあるかわかんねーし) 「じゃあカケル君。この問題を解いてみなさい」 ルーレシア先生は新しいチョークで黒板をコンコンと叩く。どうやら図形の面積か辺の長さを求める問題らしいが、数字以外の文字は全く意味がわからない。 「先生、俺……」 「ああ。カケル君はリンドブール語は読めなかったわね。えっと、この図形の、この部分の面積を求めて」 赤いチョークで斜線を引き、図形の一部を指すルーレシア先生。翔は椅子に腰掛けたまま、 「えっと、十四です」 実に簡単な問題だった。二辺の長さと、その間の角度から三角形の面積を求める問題だったのだ。ただそれだけの問題のはずなのに、ごちゃごちゃと補助線やら外接円やら色々付いていたのは何故だろうか。 さも当然のように答えたが、何故か周囲の翔を見る目がおかしい。もう一度頭の中で計算してみるが、正弦定理を用いれば間違えようのない簡単な式だ。検算しても値は同じだった。 「あ……。えっと、式は?」 ようやく沈黙破ってルーレシア先生が口を開いた。そうか、式を待っていたのか。 「二分の一かける七かける八かける二分の一です」 「え? ……あの、どうしてその式が?」 ルーレシア先生の目が不思議そうに翔を見つめる。 「どうしてって、正弦定理を使う問題ですよね? だったらそうなると思うんですけど」 これだけ変な目で見られているせいか、どんどん自分が出した答えに自信が無くなっていく。間違ってないと思うが、間違っている気がしてきてしまう。 「せ、正弦定理って、大学の理学系の人間が習う内容よ! ど、どうして知ってるの?」 ルーレシア先生が驚いた顔で翔を見つめる。その言葉を聞いた生徒達も、がやがやと騒がしくなった。 (あー……。この世界じゃ高校一年レベルの数学が大学レベルなのかよ。非科学的な魔法が当たり前の世界だからか?) ふと見ると、フリルも驚いた様子で翔を見つめていた。口を半分開いて、大きな瞳をぱちくりしている。 「いや、その、す、数学が好きなので自分で勉強したんです」 数学は嫌いな教科ナンバーワンだったが、今は何でも良いから誤魔化すしかない。別世界から来たことは、取りあえず生徒の耳に入れないようにと言われているし、翔としてもあれこれ変な詮索をされるのは面倒だから。 「そうなの? じゃあ居眠りしていた罰にならないわね。……まあいいわ。知ってる内容かもしれないけど、ちゃんと起きて聞いてなさいね」 「はい。すいませんでした」 翔は座ったまま頭を下げる。ルーレシア先生は何事もなかったように授業を再開し、生徒達も翔から視線を外して熱心にノートを取り始めた。 「痴漢、あんた頭良いの?」 しばらくして、フリルが小さな声で話しかけてきた。相変わらず翔の呼び名は痴漢だが、いい加減腹も立たなくなってきた。 「……俺は痴漢じゃねー。……前にいた学校では、中の上くらいだった」 「何よ、馬鹿じゃん」 「普通って言えよ」 頬杖を付いたまま見つめると、フリルは熱心にノートを取りながら、時折翔をチラチラ覗っていた。先ほど翔をおちょくっていた時の分も、ちゃんとノートがとってある。翔に魔法を浴びせながらもちゃんとノートも取っていたとは、結構な根性だ。 (しかし、意外と真面目なんだな。真面目な顔も、様になってるし) おそらく成績は親に筒抜けだからだろう。真面目というより、親を恐れてそうしているという感じだ。それでも、真剣な眼差しで黒板を見つめる線の細い横顔は、とても整っていて絵になっている。 「もったいねぇ」 「何か言った?」 「別に……」 翔は大きくため息をつく。 (これで性格良かったら言うことないんだけどな……) * * * 授業後、職員室へ呼び出された翔は、そこでルーレシア先生からネックレスタイプのお守りを受け取った。赤いビー玉見たいのがリングに繋がっており、暖かな光を放っている。 「これは防魔の宝珠。一度だけ攻撃魔法を無効化し、その時受けた魔法を記憶するものなの。本来はモンスターが使ってくる特殊魔法を記憶させて研究に利用するものなんだけどね」 (あっさりモンスターとか言ってるし……) 翔は嘆息する。実にわかりやすく、実に変な世界だ。ゲームの世界に飛び込んだと考えれば容易に理解できるが、それではあまりに非現実的すぎる。誰か夢だと言ってくれ。 「あなた、ラファードさんに何か怒らせるようなことしたんでしょ?」 「……事故です」 「そうなの? ……まあでも、あの子は生まれが生まれなだけに、自尊心が高すぎて周囲に迷惑をかけることも多いから」 「はあ……」 「だからコレ。もしラファードさんに魔法で攻撃されそうになったらおどしに使って」 「……お前の魔法を記憶させて先生に言うぞ、と?」 「そうね。正確にはご両親に報告しますって。あの子、親には頭上がらないから」 ルーレシア先生は肩を震わせてクスクスと笑った。翔の表情も自然と緩む。フリルの弱みを握ったという、妙な勝利感が芽生えたのだ。 (……でも、余計に嫌われそうだけどな……) 単純に喜べない、何か喉に詰まったような気持ちで翔は職員室を去り、今度はジジイの部屋へと赴く。そこで生活に必要な最低限のものを受け取り、さらにアカデミーの敷地内にあるという寮の鍵を受け取った。 「家具や大きな荷物は先に部屋へ運んでおいたわい。フォッフォッフォッ、気にするでないぞ、全部経費で買ってやったから儂の財布は痛くないのでな」 「ありがとうございます」 「この学園の制服は後日届くじゃろう。しかし、生活費に関してはどうしようかのう」 ジジイが長い髭をさすりながら唸り、翔も腕を組んで考え込む。この世界でも金は世間の回りものらしい。どうにかして稼ぐ必要はあるだろう。変なところで翔の居た世界と同じで困ったものだ。 「何かバイトとかできるところありますか?」 バイトで通じるかという疑念があったが、ジジイはごく自然に、「そうじゃ、それがいい」と納得した様子だった。やはり変なところで翔の世界と同じ。絶対変だ、この世界。 「儂が色々当たるとしよう。何分君の存在は極秘事項じゃからのう、少々時間がかかるやもしれん。それまでは我慢してくれ。……寮の食堂にはタダで食べられるように儂から話を通しておこう」 「ありがとうございます」 翔は一礼して部屋を去る。廊下に出ると、太陽が西の地平線に半分消えて空が真っ赤に染まっていた。島国の日本では見られない、地平線に消える夕陽だ。 「モンゴルじゃねーかな、ここ」 もうここが別世界だと信じ切っているにもかからわず、それを何処かで否定する自分が居る。自分の知っている世界の何処かと結びつけて、現実から目を逸らそうとしてしまう。 (はあ……。とりあえず寮へ行くか……) 翔は歩き出し、校舎を出る。 中世ヨーロッパのゴシック文化を彷彿とさせる校舎が建ち並ぶ場所から寮へは、広場を通じて細い小道で繋がっていた。学園の敷地自体はとても広大で、敷地内に多くの一軒家も建っているという。貴族が通うだけあって、金のある貴族の生徒は寮ではなく学園敷地内に建てた屋敷で生活しているらしい。贅沢この上ない。 寮に向かう途中、今日翔が天から落ちてきて、それを受け止めてくれた巨大な木がある広場を抜ける必要がある。その広場へたどり着いた時、翔を待っていたかのように広場の真ん中に佇む少女の姿があった。 (まあ、予想通りって言えば予想通りか……) 授業後は妙に大人しかったため、引っかかっていたのだ。絶対、遅からず向こうから仕掛けてくると警戒していたから。 「遅かったわね!」 毅然と立つ少女、フリルがビッと翔を人差し指でさした。不敵な笑みはとても可愛らしく、夕陽で紅く染まる頬はとてもキメが細かい。 「何の用だ?」 「決まってるでしょ? ふふふ……」 優雅な笑い声をこぼしながら、フリルの両手が翔へ向けられる。そして、両手が夕陽に照らされた他の皮膚以上に紅く染まっていった。 「泣いて謝るのなら許してあげなくもないわよ? 土下座して、あたしに忠誠を誓いなさい」 「……お前、そんな性格してたら男できねーぞ?」 「――っ!?」 翔の脇を火の玉が駆け抜けた。相変わらずキレやすい。振り返ると、広場の草がメラメラと燃えている。周囲に引火しそうなものはないので、火事になることはないだろう。 「危ねーだろ」 翔は淡々とした態度でフリルに言う。そろそろ慣れてきたというか、こっちはルーレシア先生から受け取ったものがあるため、恐れる必要はない。 「うるさいわね! さっさと土下座しなさいよ!」 「やなこった。……それより、これが何だがわかるか?」 「あっ!」 翔は胸元からネックレスを引きずり出す。それを見たフリルが、驚いた様子で顔を歪めた。 「どうやら知ってるみたいだな。ルーレシア先生が言ってたが、俺に何かあったらお前の親にチクるってよ」 「う、うーっ!」 フリルは頬を木の実を詰め込んだリスみたいに膨らませて唸りだした。両目にうっすらと涙が滲み、まるで翔がいじめているようだ。 (な、何だよ。俺が悪者みてーじゃねーか……) 姉や妹を含め、翔は生まれてこの方、女を泣かせたことなど一度もない。人畜無害の少年を続けてきたが、今まさに目の前の少女は泣き出しそうだった。 「ひっく……。何よ、あたしの、……ァースト……ス、奪って、おいて。ひっく……」 「ああああ、泣くな泣くな! お、俺が悪かっ――」 「絶対……、絶っっっっっ対に許さないんだから!」 なだめる前に、フリルは鬼のような形相で翔を一瞥した後、制服の袖口で目の辺りを擦りながら走り去ってしまった。 走り去るフリルの背中が見えなくなるまで、ずっと翔はフリルを目で追っていた。 (……くそ、何だこの後味の悪さは) 早くこんな世界から、元居た世界に戻りたい。そう考えながら、翔は重い足取りで寮へ向かっていった。 * * * 薄暗い部屋の中、椅子に腰を下ろす一人の男が居た。目の前では、直方体の光り輝く硝子のようなものが机上の数センチ上にふわふわと浮かんでいた。 「アーリアの言っていた通りだな。……監視を怠るな。おって指示を送る」 男が嗄れた声で直方体に話しかけた。すると直方体の光が緑から蒼に変化し、 『はい。わかりました』 直方体から別の男の声が響いた。再び直方体は緑色に変わる。 「何か変化があったら逐次連絡しろ。それと、本来の任務も忘れるな」 男がそう言った後、直方体の色は蒼に染まり、『了解』という言葉の後、無色になり輝きを失った。 真っ暗になった部屋。男はのっそりと立ち上がり、カーテンをサッと開いた。窓から月光の光が差し込み、男の輪郭を浮かび上がらせる。 枯れ木のような髪に、傷だらけの頬。えんじ色の瞳は鋭く、深い皺が歳を感じさせる。 「ククク……。《漆黒の炎》、《異世界の焔》……。俺にもツキが回ってきたか」 不敵な笑い声をもらしながら、男は瞳を閉じた。 「ルナティス、セフィリア」 「はっ! ここに」 男がつぶやくと、いつの間にか背後に二つの影が控えていた。月光の当たらぬ場所のため、脚の白さ以外には何も見えない。 「お前達は現地へ赴き、身を潜めていろ」 「かしこまりました」 気配が消え、部屋を静寂が包む。男は何時までも、空に浮かぶ輝く割れた半円を見つめていた。 * * * 寮についた翔は、言われた部屋へ行き、鍵を開けた。中は十畳ほどでさほど広くなく、ジジイが言っていた家具やら大きな荷物やらが適当に置かれていた。 (ベッドはある。トイレは……なし。風呂も部屋にはないのか……) どうやら風呂トイレ共同の寮らしい。元居た世界なら、場所にもよるが家賃三万といったところだろうか。貴族の通う学校の寮にしては、ちょっと貧相な感じがする。 翔はベッドの上に無造作に転がされている衣類を手に取ってみた。どうやらジジイが気を利かせてくれたらしい。今着ている服以外に持ち合わせがない上、落下の衝撃であちこち傷んでしまっている。明日からの服をどうしようと悩んでいたが、その問題は払拭された。 (取りあえず着替えるか) 破れた服を脱ぎ捨て、適当に選んだ服を着る。肌触りが若干がさがさするズボンの丈はぴったりだったが、Tシャツのような上着は少し小さかった。 適当に荷物を漁っていると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。まさかフリルではないだろうなと疑いつつ、翔はドアノブに手を伸ばす。 「やあ。カケル君」 「こ、こんばんは」 扉の向こうに立っていたのは二人の少年だった。馴れ馴れしく挨拶してきたのが、授業中に翔の身代わりとなってフリルの魔法を喰らった憐れな少年、ヴァイル。隣の目に覇気がない、女のような顔つきの少年は、グラッティだったはず。 「……何か?」 「そんな硬くならなくても。クラスメイトになったわけだし、仲良くしようよ。ね?」 翔が怪訝な顔つきで見つめていると、ヴァイルが屈託のない笑顔で握手を求めてきた。取っつきやすい、明朗な奴だ。 軽くシェイクして、今度はグラッティと握手をかわす。ヴァイルとは正反対に、グラッティはおどおどと落ち着きが無く、まるで翔を怖がっているようだった。そこまで人相が悪い自覚はないが。 (……でも、こいつら見てると豊浜高校のダチとあんま変わんねーよな) ヴァイルは、実は泣き虫である昔なじみの悪友に似てるし、グラッティは同じ部活に所属している気弱な友人に似ている。そのせいか、まだ会ったばかりだというのにうち解けて話せそうだ。 「僕はヴァイル=スベイン。王国西のパートマル領の貴族さ。こっちはグランティオーズ=マルクムート。みんなにはグラッティって呼ばれてる。グラッティの父さんが治めるメルボーグ領はパートマルのすぐ隣で、昔から仲がいいんだ」 「よ、よろしくね。……その、カケル君はどこ出身なの?」 「俺は……。えーっと、その、東の果てにあるサイタマっていう小さな街から」 「サイタマ? 聞いたことないな」 「すごく小さな街だからな、知らなくて当然だ」 適当な嘘を鵜呑みにする二人を前に、翔は少しばかり良心の呵責に苛まれていた。フリルのような高慢ちきな奴はともかく、この二人のようにまるで人を疑うといった行為から無縁そうな人間に嘘をつくのは、やはり心苦しいものがある。 「しかし、編入初日からあのフリルにとってかかるなんて、すごいよ君は」 ヴァイルが楽しそうに笑った。頬に火傷の痕がくっきり残っており、それが九割以上フリルのせいであるが、ほんの少し翔のせいであるにも関わらず、気にしている様子はない。 「ほんと。広場で最初に見た時も、フリルのフレイムバーストを目の前に逃げ出さなかったし」 (……あの大きな火の玉か? っていうか、単に腰を抜かしていただけ……) 思い出すとゾッとする。もしあの時あれをまともに喰らっていたら、今頃翔はこの場にいないだろう。 「なあ、あのフリルって女は何者だ? あの傍若無人ぶり、ちょっと度が過ぎるぜ?」 「そっか、フリルのこと知らないんだね。……まあ、じゃないとあんな風にやり合うなんてしないだろうけど」 「フリルは国王の弟に当たるラファード卿の娘だよ。その上優秀な魔導師で、成績もトップのエリート」 「……だからあんなにプライド高いのか」 「そうだね。それに、その……、フリルはか、可愛いでしょ? 自分の容姿にも自信があるから……」 自分が可愛いことを自覚している女は質が悪いと相場は決まっている。元居た世界にも何人か心当たりがあるが、フリルの容姿はそいつらの比ではない。反則的だ。 「グラッティは、あいつの彼氏なのか? 昼間、ずっと側にいたみたいだが」 「ち、違うよ。僕なんかがフリルと付き合えるわけない。……フリルに近寄ってくる男は多いけど、多分誰も付き合えるなんて思ってないよ」 「……同じ貴族だろ?」 「同じじゃないんだ。僕やグラッティは、寮で生活してるような落ちぶれ貴族。フリルはアカデミーの敷地内に一番大きな屋敷を構える特上貴族さ」 (特上ねぇ、あいつが……) 確かに顔は特上だが、性格は最悪だ。胸だって、掴んだ感じあまり大きくなかった。元居た世界に残してきた、今年十二になる妹のほうが大きいかもしれない。何で兄貴が知っているかは秘密だ。 「みんなフリルに憧れてるけど、近寄ると燃やされるし……。だから、遠巻きに見つめるアイドル的な存在って感じかな」 「確かに。顔は可愛いけど、性格がアレじゃあ引くよな。まあ見てる分には申し分ないってわけか」 「そういうこと。でもカケル君も災難だね。もうしっかり目を付けられてるから」 ヴァイルは実に楽しそうだ。でも、それでいて何処か羨ましそうな目で翔を見つめてくる。自分が惚れた女が他人の事を気にかけているという状況を、表面上楽しんでいるように見せかけて実は内心複雑という感じに見える。こいつもグラッティ同様、フリルに気があるようだ。 「それに、性格だって言うほど悪くないんだよ? 親に恥をかかせないよう必死に勉強してるし」 「親の前だけは猫被ってるってことだろ? むしろ質悪いんじゃね?」 「……そ、そんなことないよ」 グラッティがつぶやくように言った。やはり惚れた女の悪口はそうそう言えないってことらしい。わからなくもない。 「まあいい。……自己紹介の時にも言ったが、俺は、その、何かと忘れちまったことが多い。色々聞くことになるかもしれないから、よろしくな」 「ああ。こっちこそ」 「うん」 こうして翔は異世界の友人を二人ゲットした。随分適応能力が高いことに翔自身一番驚いている。この調子じゃ、数日後には完全にこの世界に馴染んでるかも知れない。 二人が去った後、荷物整理をしながら翔はカーテンを開く。完全に日は沈み、空には明るい光を放つ大きな半円がぽっかり浮いていた。 「月もあるんだな……」 ぼそりと呟き、しばらく月光を全身に浴びていた。 |
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