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第二章 少年は少女と戦う

 アカデミーに通う生徒達が、みな同じ制服で身を包む中、翔だけが異なっていた。制服が届くのにはもうしばらく時間がかかるとのことで、仕方なく、ジジイが用意した服の中で地味で目立たないものを選択した。
 昨日の晩の食堂、今朝の食堂、そして寮から校舎への登校時。翔を見つめる目は好奇に満ちていた。何せ黒髪の人間ゼロの世界で、かつ制服でないのだから。
(まるで珍獣扱いだな……)
「たった一日で、すっかり有名人だね」
「ほんと。二年生だけじゃなく、他の学年にも噂が広がってるみたいだよ」
 翔の両脇にはヴァイルとグラッティの姿がある。同じ寮生ということもあって、こうして一緒に登校することにしたのだ。
「そんなに黒髪が珍しいかねぇ。ま、早いところ飽きられて気にされなくなるよう祈るだけさ」
「そうそう。そのうちみんな慣れてくるよ」
 ヴァイルがポンと翔の肩を叩く。良い奴だ。
「それより、ちょっと急がない? 今日は中間考査だし、僕、ちょっと復習したいから」
「え? 中間考査……?」
 翔が尋ねると、グラッティがコクンと頷く。ヴァイルが、「うわ、忘れてた!」と大声を張り上げた。
「ちょ、ちょっと待て。俺、そんな話聞いてないぞ」
「そうなの? ……でも、カケル君はリンドブール語読めないから、テスト受けなくてもいいんじゃないかな?」
「おいおい、何処の世界にテスト受けなくて良い学生がいるんだよ」
 グラッティのありがたい希望を、ヴァイルが一瞬にして砕く。仮とはいえ、このアカデミーに在籍している限り、やはりテストは受けなくてはならないのだろうか。
(ルーレシア先生、何も言ってなかったな……。はあ、どうすんだ……?)
 翔がそんなことを考えている時だった、急に周囲を歩く生徒達がざわざわと騒がしくなり、翔に向いていた好奇の視線が逸れていった。
「何だ?」
「……フリルだよ」
 ヴァイルの言葉を聞いて、勝手に首が動く。振り向いた先には、生徒達の視線を一身に浴びる、西洋人形のような金髪の少女が、凛とした態度で優雅に歩を刻んでいた。
(堂々としてるな……)
 まるでハリウッド女優だ。ファッションショーのモデルだ。太陽の光を浴びなくとも、自身で輝きを放っているようなオーラがある。だが同時に、他者を寄せ付けない空気も漂わせている。
 ふと、フリルと目があった。そして昨日同様、キッと睨め付けられ、翔が睨み返す前にフリルは目の前を過ぎ去っていった。
「……ったく、何だよ……」
 翔は顔をしかめたまま、フリルの流れるような金髪を見つめていた。

* * *

 何と、グラッティのありがたい希望的発言は現実のものとなった。この世界に翔が飛ばされたことを現実とすれば、現実となるという表現も間違ってはないだろう。まだ少し、夢じゃないかと疑ってはいるが。
 それはともかく、翔はこの世界の言語が読めないという理由から、テストを受けなくていいということになった。ただし――
「私のテストだけはやってみてね。文章題は無理でも、それ以外はわかりやすく作ったつもりだから」
 と、ルーレシア先生に言われていた。まあ、嫌いとはいえ簡単な数学なので、それまで拒否するほど面倒くさがりではないつもりだ。
(しかし……。暇だな……)
 翔は頬杖をつきながら、ボーッと黒板を眺めていた。テストは全部で四科目。国語、社会、魔学とかいう意味不明な科目、そして数学だ。最後の数学までの時間、翔は暇を持て余していた。答案用紙と問題用紙は取りあえず受け取ったが、案の定何が書いてあるかさっぱり読めない。
 今は魔学のテストらしいが、国語や社会と全く同じに見える。どれもこれも意味不明。
 チラッと横目でフリルを見つめてみると、フリルは真剣な眼差しで問題用紙を見つめていた。フリルの横顔は線が細く、まつげの長さが改めて確認できる。少し困ったような表情が、とても可愛い。
 そのまま見とれてしまいそうな所を何とか自制し、今度は反対側へ視線を送る。ヴァイルはお手上げなのか、口を半分開いたまま眉を顰めて固まっていた。全くペンを動かす気配がない。
(鉛筆じゃねーから、転がすのは無理か……)
 使っている羽根ペンのような筆記具では、運頼りの奥義は使えない。まあ、マークシート形式じゃないから、そもそも使えないか。
 次にグラッティの姿を捜す。翔の斜め前方にその背中を見つけ、ジッと目を細めて凝視する。ヴァイルと違ってしきりにペンを動かしているようだ。ただ緊張してるのか、翔が見ている間だけで二回もペンを床に落としていた。
(国語と社会の間に寝たからなぁ……。もう全然眠くねぇ。……暇だ)
 翔は問題用紙をひっくり返し、真っ白な紙にペン先を当てた。ちなみに問題用紙や答案用紙に用いられている印刷技術は、翔のわかる限り、活版印刷か何かのようだ。
 左手で頬杖をついたまま、右手に持ったペンを走らせる。視線はフリルに釘付けで、その愛らしい横顔をジッと見つめる。
(鼻はもっと高いか……。前髪はこんなもんで……)
 暇にかまけて人物デッサンを始めた。もともと美術は得意で、豊浜高校では文化部と運動部が兼部できるため、翔はテニス部と美術部の双方に所属している。雨の降った日などは美術室で写生を楽しんでいた。
 性格が表れない絵では、フリルはいいモデルだ。特に試験中の横顔は、その高飛車で我が侭で高慢ちきな所を微塵も感じさせない、正当な美少女だ。自然とペンも動く。
 テスト終了のチャイムが鳴ると同時に、作品は完成した。口元が実物と違って優しげに微笑んでいるのは、そうあって欲しいという妄想かもしれない。まあ、ありえないだろうけど。
「痴漢。あんた試験中、ずっとあたしを見つめてたわね」
 答案用紙が回収され、生徒達が一斉に騒ぎ出した時、フリルが小さくつぶやいた。他の誰でもなく、翔を向いて。
「さあ。そうだったかもな……」
 とぼけてみる。回収されなかった問題用紙は、机の中にしまい込んだ。
「嘘よ。やらしい視線を感じたわ。その黒い目であたしを見ないで。汚れるわ」
「そりゃあ悪かったな」
 実物はこれだ。絵中のフリルは、すごく可愛らしく、翔の好みど真ん中である少女を美化して描画できたが、それはこの世の何処にもいない存在である。
「いいわね。試験受けなくていいなんて」
「あ?」
「……成績がつくこともない。誰かと比べられることもない」
 最初、翔に対して話しているかと思ったが、どうやら違うようだ。声に出している自覚のない、独り言のようである。
(そう言えば……、こいつの回りには誰も寄って来ないな……)
 ふと、周囲を見渡してみる。みな、親しげな友人達と、「今のテストどうだった?」などと話し込んでいる。翔の居た世界でもお馴染みの光景だ。ヴァイルも、グラッティの所で今のテストについてあれこれ話しているようだった。
 でもフリルは一人だった。アカデミー中の人間に名が知れ、多くの男共を魅了しておきながらも、休憩の時間にフリルの元へ駆け寄ってくる者はいない。
 ちょっとヴァイル達の所へ行って手応えを聞こうかと思っていたが、何となく立つ気になれず、翔は両手をぶらんと下げて座ったまま天井を見上げた。
(あんな性格だから、友達いねーのか?)
 ボーッとそんなことを考えながら、時折フリルの横顔を見つめる。数学のノートを開いて真剣な目で復習するフリルは、やはりとても、可愛かった。

* * *

「はうあ〜」
 迷路のような、青白い線が縦横無尽に駆けめぐっている絵の上で奇声を発する少女。銀色の髪、赤い瞳。天使を思わせる純白の翼をシュンとたらし、頭上の輪っかが切れかかりの電灯のように点滅している。
 漆黒の空間で、床に描かれた直径三メートルくらいの、正方形をした迷路。青白い壁で囲まれた迷路内を、無数の光の球が駆け回っている。少女はおろおろしながら迷路の上を走り回り、ビー玉くらいの光を捕まえては何やら呪文を吹き込んでいった。
「ううー、管理もしなきゃ駄目、バグ取りもしなきゃ駄目、その上エラー処理もしなきゃ駄目。……あうぅ、身が保たないですぅ」
 その時、少女の足下に描かれている迷路を駆けめぐっていた一つの光球が、突如黒くて六本の脚を持つ昆虫へと変化した。長い触覚、長い足。別名、コックローチ。
「わひゃあ! まだバグですぅ! あひー、もうやんなっちゃうですぅ……」
 昆虫が迷路を駆け回り始め、その道筋が蒼から赤に変化していく。少女が慌てて昆虫を追いかけ、迷路の上を移動する。
 昆虫を捕まえた少女が呪文を唱えると、昆虫はもとの光球に戻り、少女はそれを再び迷路の道へ放つ。そして紅く染まった道を指先でそっとなぞると、道は青白い光に戻っていった。
「うう、こんなことしてたらいつまでたっても気の毒な少年のアドレス修正ができないですぅ。うえ〜ん」
 忙しく迷路の上を駆け回る少女。足音と泣き言が、繰り返し繰り返し響いていた。

* * *

 ルーレシア先生の言っていた通り、数学のテストは文字が読めない翔でもある程度解くことができた。簡単な分数の四則演算や、図形の問題。最後の少しだけ、変数を用いた二元一次方程式があったが、ごくごく簡単なものだった。文章題以外は完璧の自信がある。
「ホントに? すごいねカケル君。僕、数学は全然駄目で……」
「僕もさ。あー、魔学もできなかったし、今回はちょっとヤバイかもなぁ」
 翔の机に寄ってきたヴァイルとグラッティは、顔に曇った表情を貼り付けている。手応えはイマイチのようだ。
「俺の場合、数学できたからって他の教科受けてないんだからな。結局の所成績なんてつかないだろーよ」
「そうだね。もったいないなー」
「ホントホント。数学だけさ、僕の答案用紙と交換してよ」
 ヴァイルが冗談交じりに言うと、グラッティがクスクスと肩を震わせる。翔も一緒になって笑っていた。
「なーに笑ってるのん?」
 ふいに、グラッティの背後から黄色い声が響いてきた。グラッティが慌てた様子で飛び退くと、その後ろから若葉のような色をした髪を短く切りそろえた少女が、優しげな笑みを浮かべて立っていた。その隣には、蜜柑のようなオレンジ色の髪をポニーテールにしている小柄な少女の姿もある。
(普通っぽい女の子も居るんだな……)
「やほーい。私らも話に混ぜてよん。私らさー、ちょ〜っとばかしカケル君に興味あるんだー」
 黄緑色の髪をした少女が、翔の机に左手を置き、のぞき込むように翔の顔へアク無く整った顔を近寄せてくる。
「……えっと。悪い。俺、まだ全然クラスメイトの名前覚えて無くて……」
「ええっ、ショック〜。こんなに可愛い私を一番に覚えてくれないなんて〜」
「……フリルの方が可愛い」
 両手を頬に添えてキュンキュン腰を振る少女に、ポニーテールの少女が小さくツッコミを入れた。翔はヴァイルやグラッティと一緒に、口を開いたまま呆然と二人の少女を見つめていた。
(前言撤回。……顔は可愛いけど、こいつらも変だ)
「私はシェミニ=レドアーン。ヨ〜ロシクね、テンチカケル君」
「……ハルル=フィルガント。……よろしく」
「よ、よろしく」
 シェミニと名乗った少女は、少し変わった喋り方だが、髪の色そのままに爽やかなイメージの少女だった。瞳は紫色でぱっちりとしており、なかなか可愛い。タッパもあり、締まった体つきから運動神経も良さそうである。翔が元居た世界なら、バスケ部に一人は居そうな少女だ。
 対照的に、ハルルと名乗った少女は爽やかと言うより、何処か闇を連れている感じがあった。明るい髪の色に対し、灰色の濁った瞳は感情がうまく読み取れず、瞬きの回数が異様に少ない気がする。
「とっころでさー、カケル君、魔法使えないって言ってたけど、本当なのん?」
「……ああ、事故ですっかり使い方を忘れたらしい」
 後頭部を掻きながら、例の嘘をつく。魔法を使うという感覚自体わからないため、それが果たして忘れることができるものなのかすらわからない。まあ、ルーレシア先生が思いついた嘘なのだから、そこまでいい加減じゃないと思いたい。
「うっそー、ホントだったんだー。じゃーさじゃーさ、明後日の武術大会、出場しないのーん?」
「……武術大会?」
 翔が首を捻ってみせると、隣にいたヴァイルが思い出しように、「そうだった! すっかり忘れてた!」と大声を上げた。今朝、グラッティに言われるまでテストのことを忘れていたように、あまり物覚えはよくないらしい。まあ、人のこと言えないが。
「武術大会。クラス対抗で、ポイントを競う。三人一組。二勝先取」
「は?」
「ハルル、それじゃわかんないよ」
 ブツブツとつぶやくハルルの言葉を受けて、グラッティがため息混じりに頭を振った。
「武術大会っていうのはね、実戦演習テストのことで、生徒同士で魔法を使った試合を行うんだ。三人一組のチームを作って、学年別トーナメントの勝ち抜き戦を行うんだよ。それで、一回戦勝つと一点、二回戦勝つと二点といった具合に加点されていって、クラスメイトが所属するチームの合計点が一番多かったクラスが優勝。あと、優勝したクラスにはなんと国王様直々に勲章が与えられるんだ」
「決勝まで行くと、えーっと、一+二+三+四点だから、えーっと、十点もらえるんだ」
「等差数列の和ってことか」
 各クラス十五名くらい生徒がいて、それが三クラスあるから、チーム数は約十五。計算は間違っていないだろう。
「決勝だけは別だけど、基本的には先に二勝したチームが勝ち。一日で全試合やるからね、うまく魔法力を温存していくのも大切なんだ」
「へぇ、面白そうだな。……まあ、俺は出られないだろうから、遠くでお前らの応援してるよ」
「ぼ、僕弱いからすぐ負けちゃうよ」
 グラッティは両手をブンブンと左右に振って見せた。よほど自信がないのか、試合前から負けたような表情を浮かべている。これじゃあ、勝てる試合も勝てなくなるだろうに。
「そうそう。泣き虫グラッティだもんねーん。ヴァイルも、攻撃魔法はからっきしだから、すぐに負けちゃうでしょーね」
「う、うるさいな! 僕だって、本気を出せばシェミニにだって勝てるさ!」
「無理。不可能。絶望的」
(ひでぇ言われようだ……)
 あっさり言い切られたヴァイルは、唇を噛みしめて半泣きになっていた。その程度でそうなっちゃあ、男としてどうなんだ。しっかりしろ、ヴァイル。
「ハ、ハルルだって攻撃魔法使えないじゃないか!」
「補助魔法使える。……ヴァイルなら、拳で黙らせられる」
 ハルルがぐっと拳を振り上げるのを見て、ヴァイルが「ひぃっ」と両手で頭を抱えながら飛び退いた。シェミニはカラカラとその様子を見て笑っている。駄目だ、情けなさ過ぎる。
「まあ、大怪我しない程度にせいぜい頑張ってこい。……骨くらい拾ってやる」
「カ、カケル君ひどいよー」
「そうだ! 友達は大事にするもんだぞ!」
 このときの翔は、他人事のように二人のことを憐れみながらも楽しんでいた。魔法が使えない自分には関係ない、蚊帳の外のイベントだとばかり、思っていた。

* * *

 次の日。フリルの機嫌は誰が見ても明らかなほど良かった。昨日行われたテストの返還が行われ、多くの生徒が悲鳴に近い声を漏らす中、フリルは教卓の前で受け取った答案用紙を、無言のまま自分の机まで運んでいき、椅子に腰を下ろした後、フッと柔らかな笑みを浮かべるのだ。
 それは周囲の人間を馬鹿にし、自分の秀才さに自惚れてるという感じではない。本当に心の底からホッとしたような、安堵を伴った笑顔であったため、その横顔は反則的に可愛らしい。
(成績良ければ、親に恥をかかすこともないからか……?)
 ボーッとそんな風に考えながら、翔はチラチラと横目で嬉しそうに答案の点数に見入るフリルを見つめた。すでに数学以外の三教科が返ってきた時点で、逆隣りのヴァイルは死んだように目が据わっていた。
「フッフフーン♪」
 終いには鼻歌まで歌い出す始末で、とにかく今日のフリルは機嫌がいい。いつもこうだったのなら、間違いなく彼女にしたい女子ナンバーワンだろうに。いや、実際の所、性格の悪さをも超越して容姿がいいため、今のままでも彼女にした女子ナンバーワンなのだろうが。
「はーい、席についてー。今から数学の答案用紙返すわよー」
 騒がしい教室内に、ルーレシア先生が入ってくる。手には紙の束が握られており、赤いマルやペケが遠目にも確認できる。
「今回はちょっと難しかったかしら。先に言っておくと、平均点は三十二点です」
(おいおい、あれで三十二点か? 無茶苦茶簡単だったぞ?)
 配点がわからないため、正確な点数はわからないが、おそらく文章題を抜いても八十点近く取れた感じはあった。あのテストでこの平均点じゃ、この世界に置いて翔は数学者とタメ張れるかもしれない。
「いつも通り、一番良かった人と、悪かった人だけ発表しますね。一番はフリル=レン=ラファードさん、七十八点!」
 教室内がどよめく。「やっぱり」とか、「すげー」といった言葉が飛び交っていた。チラリとフリルの顔を覗うと、勝ち誇ったような眩しい笑顔を浮かべていた。
「一番悪かったのはヴァイル=スベイン君。四点」
「ぐはー」
 隣のヴァイルが奇声を発して机に突っ伏した。おいおいヴァイル、何だ四点って。
 ルーレシア先生は二人の点数を発表した後、一人ずつ名前を呼んで答案用紙を返却し始めた。受け取って歓喜する者、落ち込む者、別段表情を変えない者、様々だ。ちなみに前者がフリル。中者がグラッティとヴァイルとシェミニ。後者がハルル。
「……やっぱりすごいわね、カケル君」
 ルーレシア先生は小声でそう言いながら、翔に答案用紙を渡す。答案用紙にはペケが一つもなく、回答欄に答えが書いてある欄はすべてマルがうってあった。文章題の所は空欄になっているため、マルもペケも付いていない。点数は、八十三点と記されていた。
(フリルより点数高いじゃねーか。……まあ、俺は対象外だから除外したのか)
 別段表情を変えず、翔は答案用紙を持って席に戻った。何となくフリルに見られては一騒動起きそうな気がして、答案用紙はすぐに机の中へ押し込んだ。
「じゃあ、このままホームルーム始めるわよー」
「……カケル君」
 ルーレシア先生が黒板に意味不明な文字の羅列を始めた時、隣のヴァイルがコンコンと翔の机をペンで叩いた。
「……何だ?」
「……数学どうだった? 見せてくれよ」
(んー……。ま、いっか……)
 翔はルーレシア先生を一瞥し、こちらに背を向けていることを確認してから、そっと机から答案用紙を取り出してヴァイルに手渡した。あんまりひけらかすのは好きじゃないが、この世界なら翔はちょっとした秀才なのだ。少しくらい自慢したって許されるはず。
 そんな軽い気持ちからヴァイルに答案用紙を手渡したことに、翔が後悔したのはほんの二秒後。
「す、すごい! 八十三点! どうして? カケル君、リンドブール語読めないって……。ああっ! 文章題は一問も解いてないんだ! それなのに他全問正解で……。凄すぎるよ!」
 ヴァイルは大声で、しかも丁寧な説明を付けて翔の点数をクラス中に知らしめてくれた。当然それは、隣の席で幸せそうに自分の答案用紙に見とれていた少女にも届いたはず。
(……うわ、すげー嫌な予感がする)
 確認することすら恐ろしかったが、翔はチラリとフリルの様子を窺った。途端にガチッと目が合い、鋭い視線で射抜かれてしまう。先ほどの笑みは何処へやら。
「本当、先生も驚いたわ」
 追い打ちをかけるようにルーレシア先生がヴァイルの意見に賛同する。そこは勝手に他事やっていた生徒を叱る場面でしょうに。
「別に、そんなすごいことじゃないです。俺が前にいた場所では、このくらいガキでも全問正解できますから」
 翔も翔だ。あっさりとそんなことを言ってしまう。これじゃあ火に油。言ってる内に、フリルの眉がどんどんつり上がっていくのがわかった。
(やべー、もう手がつけられねーな)
 しかし爆発はしなかった。フリルは先ほどまで満足げに見つめていた答案用紙を、今度は忌々しい表情で睨め付けており、答案用紙を握る手に力が籠もっていた。ああ、今にも真っ二つに裂けてしまいそうだ。怒りの矛先は、どうやら翔へではなく自分の答案用紙へと向けられたようである。
「では、明日の実戦演習のチームを決めたいと思います。このクラスは十四人……あ、カケル君が加わったから十五ね。……でも、カケル君は魔法使えないから、四チーム作って、カケル君と別に二人は補欠ということで……」
 ルーレシア先生が先ほどから黒板に書いていたのは、どうやら明日行われるという武術大会のことらしい。
(二人補欠ができるのなら、ヴァイルとグラッティは是非とも志願するべきじゃないのか? それで成績がどうなるかわからないが……)
 などと翔が考えていた時だった。突如、ガタンという物音と共に、隣の席のフリルが両手を机について立ち上がった。その目が、メラメラと燃えている。何か、嫌な予感がする。
「待って下さい先生! 実技演習はクラス対抗で行われるもの。優勝クラスには叔父……いえ、国王様より栄誉ある勲章を授与されるのですよ? 一チームでも多い方がいいに決まってるじゃないですか!」
 嫌な予感が加速する。
「この痴漢……いえ、彼にも微力ながら参加してもらい、少しでも多くの点数を取る方がいいと思います! 彼が参加すれば、ちょうど五チーム作れて、余りもでませんし」
「確かにそうかもしれないわね。……カケル君、どう?」
「え……?」
 ルーレシア先生がジッと翔を見つめる。何となく、ハッキリ嫌だと言えないのは、隣から痛いほど肌に突き刺さってくる殺気のせいだろう。それに――
(俺自身、いつまでもフリルに睨め付けられるのは嫌だしな……)
 きっとフリルは、翔が武術大会に参加すれば満足なのだろう。翔が情けなく魔法使い相手にやられるところを見て、笑い転げればきっと満足するのだろう。
「……わかりました。参加します。……その代わりというか、まだ親しい友人が少ないので、ヴァイル、グラッティと一緒にチーム組んでもいいですか?」
「二人が良いって言うなら……」
 ルーレシア先生がヴァイルとグラッティを交互に見つめる。グラッティが後ろを向いてヴァイルを見つめると、ヴァイルはチラッとカケルを見てから、コクンと頷いた。それを見たグラッティが、「はい」とルーレシア先生に答える。
 ここに最弱チームが結成された。弱虫ヴァイルと泣き虫グラッティ。そして魔法の使えない凡人、翔。
(少しでも多くの点数取るためっていうか、最初っから捨て駒同然じゃねーか)
 しかし負けるのが任務なのだから仕方ない。無様に負けるところを見せれば、数学で良い点を取ってしまったことは許してくれるだろう。誰って、フリルが。

* * *

 深い森の中、メラメラと燃える火の前で、石の上に腰を下ろす二人の女が居る。
 紫色の長い髪をした二十歳前後の女は、黒い三角帽子に黒マントを羽織っている。黒マントの女より若干年下に見える、抹茶色の髪をツインテールに分けた女も、全身を黒い服で覆っていた。フリルやレースをふんだんにあしらった、ごてごてしたドレス。
「……司祭様からの連絡は?」
 黒マントの女が尋ねると、ツインテールの女は鞄からゴソゴソと硝子出来ているような半透明の直方体を取り出し、ジッとそれを凝視する。
「反応無いわね」
「……向こうは?」
「あっちはお昼に連絡があったわ。明日、大がかりな演習がアカデミーで行われるらしいから、その機に侵入して来いって」
「了解。それ以外は?」
「後は、直接会って話すそうよ」
 そう言いながら、ツインテールの女は直方体を鞄に戻した。再び静寂が森に舞い降り、パチパチと木が燃える音だけが夜の森に響いていた。

* * *

 寮の食堂。翔はグラッティ、ヴァイルと共に食事を取っていた。本来、寮に入る際に年額の食費を払うものらしいが、ジジイがうまいこと誤魔化してくれたらしい。
(改めて考えると、俺が思ってた貴族ってイメージと違うよな……)
 あまりに普通すぎる、というより、元居た世界と何ら変化がなかったため気にしなかったが、グラッティにしろヴァイルにしろ貴族なのだ。こんな、何処ぞの全寮制高校みたいな寮の食堂で、スパゲティを食べてるなど、本当に貴族なのかと疑いたくなる。
「なあ……。お前ら貴族なんだよな。何か、俺が持っていた貴族のイメージと全然違うんだが」
「はえ? ふぉーふぃたの?」
 食べながら話すな。マナーが悪いぞヴァイル。
「貴族って、もっと丁寧な言葉遣いで、自尊心の塊みたいな奴で、優雅で堂々としてるもんだとばかり思っていたんだが」
「ああ、それは中世の貴族だよ」
 グラッティが答える。アカデミーの建物や、生徒達の普段着を見る限り、今がその中世と呼ばれる時代じゃないのかと言いたくなるが、どうやら今を近代とした場合に中世と呼ばれる時代があったらしい。
「今は聖バートリアム王国も、王政を続けているとは言え四民平等を謳ってるし、王様も貴族も平民も、法の上では平等なんだ。だから、貴族って言っても実際はただの地主の子供で、ただのお金持ちっていうのが大半なんだ」
「そんなことも忘れてるのか? 大変だなぁ」
「…………」
「ついでに説明しておくと、このアカデミーは貴族ばかり居るってイメージがあるけど、実際は平民の子も結構いるんだ。親が交易を営んでいてお金持ちの子とかね」
「ハルルがそうさ。あいつは平民なのに、学園敷地に一軒家を持ってる金持ちさ。俺たち落ちぶれ貴族より、よっぽど金を持ってる」
 自分で落ちぶれとか言ってる、この卑屈根性は情けなさを通り越して同情する。フリルは過剰すぎるが、こいつらはもう少しプライドを持った方がいい。
「フリルは特別だけど、ほとんどの生徒は自分をお金持ちの子供程度にしか思ってないから、個人差もあるけど、あまりプライド高い子はいないよ」
「そうそう。すごく成績いい奴はそれを鼻にかけたり、すごく魔法力が高い奴は変に自意識過剰だったりするけど、中世の頃の貴族に比べたら可愛いものさ」
「……そうなのか。悪いな、作戦会議中に変なこと聞いて」
 翔はそう断って、スパゲティの麺を口へ運ぶ。ミートソースが口の周りに付かないよう気をつけて食べ、コーンポタージュをスプーンで掬って飲む。
 目の前のヴァイルは口の周りが真っ赤だ。グラッティは首に白いナプキンを巻いているおり、童顔が加わって子供っぽさ三割増に見えた。やっぱり、貴族って雰囲気じゃない。
「じゃあ話を戻すね。……えっと、やっぱり僕たちじゃどう考えても初戦突破すら難しいと思うんだ」
「同感だ。まあ、早々に棄権して怪我しないようにするのが得策だろう」
「……く、悔しいけど、僕の攻撃魔法じゃあ虫すら殺せないし、グラッティは風属性が得意だけど、真空刃ほど威力のあるものはできないもんな」
 魔法の話はからきしわからないが、こいつらが強くないということだけはわかった。翔は強い弱い以前の問題なのだが。
「カケル君は魔法使えないから大将に据えて、僕とヴァイルで先鋒中堅を務めるよ。僕らが負ければ、その時点でチームの負けが決まるから、カケル君は戦わなくて済む」
 グラッティの提案に、ヴァイルも同意するよう首を縦に振った。確かにそれはありがたいが、翔がぼろくそに負けるところを見なきゃフリルは満足しないのではないだろうか。
(まあ、負けは負けか……)
 翔も首を縦に振り、作戦会議は終了した。最初から一回戦敗退を想定した何とも情けない作戦だが、このメンツではそれ以外どうしようもないだろう。
 会議は閉廷し、三人は食堂から各自の部屋へ戻っていく。そして翔は直ぐさま、歯磨きをしてベッドに横たわる。明日の、情けない敗退に備えて休養を取るために。

* * *

 シンと静まりかえった夜の校舎。その廊下に、カツカツと足音を響かせながら歩く一つの影。影はある教室の前で立ち止まり、おもむろにその扉を開いて中へ踏み入った。
「揃ってるわね」
 影が部屋を見渡して満足そうにつぶやいた。部屋の中には、月光に照らされて姿が浮かび上がっている少年少女が数人、少々怯えた顔つきで影を見つめていた。その数はざっと十五人以上。
「すでに連絡は行ってると思うけど、明日の実戦演習で、あたしはどうしてもしなければならないことがあるの」
「…………」
 影以外の人間は、誰一人として口を開こうとしない。困惑したように眉を顰め、口を固く結んだまま無言を貫く。
「それにはどうしてもあなた達の協力が必要なわけ。……いいわね?」
 影の言葉には逆らえない威圧感がある。困った顔のまま、一同はコクンと首肯で応じた。
「うふ、ありがとう」
 優雅な笑い声をもらすと、影の主が窓辺にそっと歩み寄って窓を開き、夜空に浮かぶ月を見上げた。
 長い金髪が、窓から流れ込む夜風になびき、月光を受けてキラキラと煌めいてる。その小さな口をニンマリと緩め、
「待ってなさいよ、痴漢。明日があんたの命日よ!」
 少女の覇気の籠もった声が教室に響いた。

* * *

 武術大会当日、翔達は教室ではなく闘技場と呼ばれる学園敷地内のとある建物に集まっていた。昨日はここで一年が、明日は三年が、そして今日は二年が、ここで魔法を使った模擬戦を行うらしい。
 別に魔法を使わなければいけないというルールはない。この世界の人間は等しく皆魔法を使えるが、それが実戦向きでない人間も多々いるらしい。そう言う場合、武器の使用が認められていた。とは言っても、木刀とグラブの二種類しか選択できないが。
「すげぇ熱気だな」
「攻撃魔法が得意な奴は、それを人に向けて使いたくてしょうがないんだ。だから、それを堂々と行える武術大会が待ち遠しかったんだろうね」
「……僕は、こういうのあまり好きじゃないけど、参加しなきゃ成績つかないから」
 闘技場は円形のドームで、野球場より二回りほど小さい。周囲に観客席のような石造りの椅子が沢山用意されており、椅子に囲まれた中央がリングのようである。ドームと言っても天井はなく、見上げれば澄んだ青空と眩しい太陽が浮かんでいる。
 リングの脇には衛生兵じゃないだろうけど、いかにも保険医といった感じの白衣で身を包んだ女性と、数名の女生徒が待機している。また、彼女らがいるテントの脇にもう一つテントが張ってあり、そこにはジジイとルーレシア先生を含む数名の教師達が腰を下ろしていた。
 闘技場の壁の一箇所に大きな黒板があり、そこにはトーナメント表が大きく描かれていた。取りあえず知っている名前を捜すと、フリルチームが右端から三番目、翔チームが左端から二番目。知ってる名前、少ないな。
「そう言えばフリルは誰と組んだんだ? あいつは優勝候補なんだろ?」
「ああ、フリルはシェミニ、ハルルと一緒だよ。あまり仲が良いって話は聞かないけど、フリルが誰でもいいって言ったら、シェミニが誘ったらしい」
(シェミニも結構な性格してたからな。まあ、意外と合ってるかもしれない)
 何はともあれ、トーナメント表のほぼ両端に対峙するフリルと翔が戦うことはまずありえない。何故か少し残念な気もするが、ここは安堵する場面だろう。
「じゃあ一回戦を始めます!」
 ルーレシア先生の一声で、闘技場内のボルテージが上がる。やっぱり何処の世界でもこういったお祭りイベントは盛り上がるようだ。
 闘技場には二つのリングがある。よって試合は、先鋒と中堅が同時に試合開始することになる。そして一勝一敗になったときは大将戦が行われるという方式らしい。
 試合に参加する選手は闘技場、次の試合に出るチームは控え室で待機、その他の生徒は自分の番が来るまで客席で試合の様子を見守る。
 翔達は大会開始二番目の試合に参加するため、控え室で待機していた。待機室からは外の様子が確認できず、翔は武術大会がどのような感じかまったく把握できない。
「……騒がしいな、外」
「もう一回戦始まってるからね。きっと盛り上がってるんだよ」
「うう、うう……」
 控え室の片隅でヴァイルが震えている。普段はグラッティよりヴァイルの方が威勢良いくせに、今はグラッティの方がよほど落ち着いている。へたれだな、ヴァイル。
「ヴァイル、どーせさっさと負けるつもりなんだから、そんな怖がる必要ないだろ」
「わ、わかってるよ! でも、で、でもぉ……」
「……はあ。……グラッティは随分落ち着いてるな」
「そうかな? まあ、試合に勝つとか負けるとかじゃなくて、一生懸命やることが大事だと思ってるからかな? だって、これもテストの一種なんだし」
 学力試験では無茶苦茶緊張してたくせに、今は随分落ち着いてやがる。そう言えば学力試験の時も、当日の朝はケロッとしてたくせに、いざ試験が始まったらカチカチに緊張してたな。
(ある意味グラッティの方がやばいかもしれない)
 危機感がないといった方がいいのか、グラッティは意外と楽天家だ。それでもって、いざ実際にその局面を迎えると急に駄目になるタイプ。最初から震えているヴァイルも困ったものだが、グラッティもグラッティで質が悪い。
「まあ、さっさと負けてくれよ。万が一どっちかが勝ったら、俺が試合出る羽目になるんだからな」
「それなら任せて。負けるのは得意だから」
(威張るなそんなこと)
 翔が嘆息した時、キィッと木の扉が開き、運営委員という腕章を着けた少女が控え室に入ってきた。どうやら、番が回ってきたようである。
「B組の第五チームのみなさん、リングへ移動して下さい」
「……行くか」
 翔に続いてグラッティがのっそりと立ち上がり、震えていたヴァイルがよろよろと歩き出す。三人がリングに姿を見せると、闘技場内の歓声が一段と大きくなった。
 何処からともなく、「黒髪頑張れ」だの、「泣き虫グラッティ、意地見せろ」だの、「ちびるなよ、ヴァイル!」だのと声援なのかヤジなのかわからない声が届いた。
 そんな声を無視し、ジッと反対側の控え室から相手のチームが出てくるのを待つ三人。一回戦は同級生同士戦うことはないので、必ず別クラスの生徒になるはずだ。
 しかし、いくら待っても向こうの控え室から誰か出てくる気配がない。トイレにでも行ってるのだろうか。
「……遅いね」
「ぼ、僕たちに恐れをなして逃げ出したとか?」
 ハハハと空元気で笑顔を装うヴァイル。そう言う台詞はピシッと立って言え。足が震えてるぞ。
 しばらく待っていると、運営委員の少女が三人の元に駆け寄ってきた。一体いつまで待たせるんだと問おうとしたら、向こうから、
「相手チームは全員腹痛で棄権するそうです。よって、B組第五チームの不戦勝です」
 と答えた。
「嘘っ! やった、僕たち一回戦突破だよ!」
「やりー、運がいいな僕たち! これで十分クラスに貢献できたんじゃない?」
 不戦勝で喜ぶなと言ってやりたかったが、クラスに貢献できたというヴァイルの言葉を受けて、翔は口をつぐんだ。そういう喜び方なら、別に口出ししなくてもいいだろう。
「……じゃあ客席で次の試合を待つか」
 翔は抑揚無くそう言い、リングを後にした。客席から大量のブーイングが降ってきたが、そんなの全部無視だ。
 観客席に移動すると、まだしっかり名前を覚えていないクラスメイト達が三人を褒め称えた。何もしてないのだが、一点を取ったということで十分クラスに貢献できたようだ。
 ただ、フリルが大人しいのがすごく気になった。翔の無様な負け具合を見られなかったことで機嫌悪く眉を顰めているかと思いきや、意外にも周囲のクラスメイト同様、笑顔で三人を迎え入れたのだ。しかし、どこか引っかかる笑顔だった。
 ようやく翔は武術大会の有り様を目視できた。まさにアニメや漫画の世界だ。閃光が迸り、炎が舞い踊る。雷が轟音を響かせ、凍てつく冷気がリングを凍らせる。魔法が魔法を弾き、もはや形容の言葉が見つからない。
 ただ、そんな激しいバトルを繰り広げているにもかかわらず、周囲にその余波が広がることはなかった。リングの回りを何か障壁のようなものが覆っており、魔法の類はその障壁にぶち当たるや否や消し飛んでしまうのだ。
(魔法の使えない俺が、こんな意味不明な試合で何をしろって言うんだ)
 今更ながら、参加するなどとほざいたことを後悔する。馬鹿なこと言った。
「次はフリルのチームだね。……うわ、すごい歓声!」
 急に五月蠅くなったかと思えば、その歓声を一身に浴びるのは小柄で色白な少女だ。雷鳴のような歓声を浴びながら堂々とリングの中央に歩み寄り、自分が主役だと言わんばかりにフリルは片手をスッと挙げた。シェミニとハルルもその後方にいるのだが、全く注目されていない。
「さすがだなーフリルは」
「……何でまあ、この学校の男共は揃いも揃ってあの傲慢女が好きなのかねぇ」
「そ、そりゃあカケル君、何たってフリルは超が付くほどの美少女だから」
「それは確かに、認めても良いが……。それにしても、な」
 試合が始まる。フリルは大将のようで、腕を組んだままシェミニとハルルの戦いぶりを静かに見つめていた。これでシェミニ達が揃って負けるようなことになれば、あれだけ堂々と出てきたくせに戦わずして去る羽目になる。少しだけ、期待した。
 しかしシェミニとハルルは共に勝利した。シェミニは次々と雷撃を迸らせて相手をK.O.し、ハルルは自身に何やら変な魔法を施して、グラブを両手に肉弾戦で相手を打ちのめしたのだ。おっかない話である。
「あいつらも強いんだな」
「……シェ、シェミニは有名な魔導軍師の娘だからね。ハルルは、……よくわからない」
 ヴァイルが複雑な面持ちでそう言った。やっぱり、男として自分の弱さを認めるのが嫌なのだろうか。まざまざとシェミニたちの実力を目の当たりにして、沈んでいるように見える。
「さて、もうすぐ二回戦始まるね。準備しておこうか」
「そうだな」
 今度こそ敗戦する準備を。大番狂わせで一点もぎ取ったのだ。もはや誰が敗戦を咎めたりするだろうか。
(さっさと負けて、あとはゆっくり観客席でフリルの試合でも見てるかな……)
 その時翔は、まさかあのフリルと戦う羽目になるとは、夢にも思っていなかった。

* * *

「来たか……」
 男の声が響く。王立高位魔導師養成アカデミーの一角で、赤い髪を風になびかせる中年の男。その背後には、二人の女がピシッと立っていた。
「はっ。司祭様より、現地ではあなたの命令を受けるよう仰せつかっております」
「そう硬い言い方するな、ルナティス」
 赤い髪の男が大きく息を吐きながら、紫色の長い髪をした女を見つめる。ルナティスと呼ばれた女は、特に反応を示さず、ジッと黄土色の瞳で男を見つめ返していた。
「……ふう。セフィリア、街に何人潜ませている?」
「五十一名です」
 抹茶色の髪をツインテールにした女が、男の質問に答える。事務的で、表情一つ変えずに答える女を見て、男はまたも嘆息する。
「もっと色気のある女を送って来いよな、シュヴァイツァー司祭も」
「…………」
「まあいい。お前達はアカデミー内で待機、街に居る部下達にも、いつでも動けるよう通達しておけ」
「はっ!」
 男の指示を受けて二人の女は音もなく姿を消した。
「……《異世界の焔》の前に、まずは本来の任務をしっかりこなさいと、な」

* * *

「ど、どどどうしよう!」
(それはこっちの話だ)
「な、なななんでこうなっちゃったの?」
(知るか。俺が聞きたいくらいだ)
 ここは控え室である。そして翔達が次に向かうのは、武術大会決勝戦である。
 経緯を簡単に説明すると、まずは二回戦。相手は無茶苦茶弱かった。ヴァイルやグラッティ以下の奴が居たとは、正直驚きだった。聞けばその相手も、一回戦は不戦勝で勝ち上がったらしい。
 そして三回戦。武術大会では、魔法具とかいうアイテムの使用や、補助魔法を試合前に使っておくのは反則らしい。相手チームの一人が、試合前から自分に補助魔法を使っていたと指摘されて反則負けとなり、別の一人が魔法具を携帯していたということで反則負け。よってまたも不戦勝となったわけだ。
 この辺りから何やら嫌な空気を感じだしていた。陰謀めいた、きな臭い空気を。
 準決勝は、さすがにここまで勝ち上がってきただけあって見た目からしても凄い手練れだとわかる面々だった。しかし、翔は全く戦っていない。何故ならヴァイルとグラッティが共に勝ったからだ。
 相手は確かに強そうだった。いや、実際強いのだろう。だが、翔達と当たるまでに幾多の激戦を乗り越えてきたようで、立ってるのが精一杯といった感じだったのだ。その点翔達はぴんぴんしている。
 虫も殺せないヴァイルの水鉄砲で相手はリング上に倒れ、そのままテンカウント負け。あまり威力がないと言われていたグラッティのウインドなる風魔法を受けた相手も、紙切れのようにハサリと倒れ伏せた。二人はそれで大喜びであった。
 昼食の時は元気だった二人。しかし、サンドイッチを食べ終えてから徐々に元気をなくしていった。それもそうだ、決勝の相手はあのフリルチームなのだから。
(……やられた。あいつ、絶対裏で糸引いてるな)
 気づいたが、時すでに遅し。昨日のチーム決めの時、すぐにフリルの意図を見抜いていれば、こんなことにはならなかっただろう。
「どうしようよ、決勝戦だから棄権とか無理だよね?」
「だろうな」
「昼休み挟んだから、シェミニ達も魔力回復しちゃってるよね?」
「だろうな」
「お、同じクラスなんだから、入る点数は一緒でしょ? わざわざ戦わなくたって……」
「…………」
 控え室は重い空気に覆われている。ヴァイルなんて今にも泣き出しそうだ。
(決勝戦ってことは、俺も戦う羽目になるんだよな……)
 間違いなく、向こうはフリルを大将に据えてくるだろう。試合毎に順序は入れ替えてもいいので、翔を先鋒にしてシェミニなりハルルなりにぶつけることも可能だ。しかし、もうここまで来たら後に退けないというか、男としての何かがたぎる。
「……折角決勝まで来たんだ。せいぜい無様に負けてやろうぜ」
 自分に言い聞かせるよう呟き、翔は立ち上がった。同時に運営委員の女子が扉を開けて入ってくる。
 リングに出た三人の耳に、凄まじい歓声が押し寄せてくる。今までの比じゃない。グルッと見渡して見ると、他のクラスの生徒達もが立ち上がって試合を見つめていた。
 学園一の美少女フリルVS謎の黒髪転校生翔。悪くないキャッチコピーだ。
「う、うあああ、す、すごい歓声だ」
「どどど、どうすればいいのかな……」
 ゴクリと、二人が生唾を飲む音が聞こえた。翔は向こうの扉から堂々と姿を見せるフリルを、キッと睨む。フリルは極上の笑みで翔を見つめていた。
「負ければいい。それだけだ。……行くぞ」
 中央に向かって歩き出す。お互い握手を交わし、礼をする。
「……今日こそあんたの息の根、止めてやるわ!」
「凝った舞台を用意しやがって」
「うふふ。今日はあのペンダントもないし、思う存分あんたにあたしの魔法を味わってもらうわ」
「ふう。……お前もしつこいな」
 不敵な笑みを残してフリルが翔に背を向けて去っていく。翔も闘技場の壁にもたれ掛かり、二つのリングに歩み寄るヴァイルとグラッティを見つめた。
 右のリングではグラッティとハルルが。左のリングではヴァイルとシェミニが対峙している。元気に観客へ笑顔をばらまくシェミニに対し、ハルルはジッとグラッティを見つめたまま微動だにしない。
 ヴァイルとグラッティは、言うまでもなくガクガクと震えている。戦う前から気絶しそうだ。
「決勝戦、第一第二試合、始めっ!」
 ルーレシア先生の声が開始のゴングとなり、決勝戦が幕を開ける。
 まず右のリングで、ハルルが自身に何やら補助魔法を施した。全身を朱色のオーラが包み、両手につけたグラブをバンッと胸の前で叩き合わせる。
「泣き虫グラッティ。瞬殺」
「な、泣き虫なんかじゃない!」
 ハルルがどすどすとリングの上を走り、グラッティに迫る。グラッティは両手を迫るハルルへかざし、小さく呪文の詠唱を始めた。そして次の瞬間、輝くグラッティの両手から暴風が吹き荒れた。夏場には扇風機代わりになりそうだ。
 しかし真正面からグラッティの風を受けても、ハルルはビクともしなかった。瞳を少しだけ細めてそのまま突き進み、一気にグラッティの懐に潜り込む。そして、
(……見事なアッパーだ)
 グラッティの体が宙に舞った。鼻血が吹き出ている。
「うぐぅっ」
 リングに倒れるグラッティ。その口から苦痛のうめきが漏れた。
「寝てればテンカウント負け。大人しくしてて」
 ハルルが、鼻を押さえながら仰向けに倒れているグラッティに歩み寄った。全く表情を変化させず、冷めた目つきでグラッティを見下ろしている。
「ぼ、僕は泣き虫じゃない!」
「――っ!」
 グラッティが立ち上がった。同時にハルルへ足蹴りをかけ、さらに呪文の詠唱を素早く終えて突風をハルル目掛けて吹き放つ。
(よく立った! やるじゃねーか!)
 翔は心底グラッティを見直した。男だ、お前は。
 グラッティの風魔法を喰らい、ハルルのポニーテールがバサバサと揺れる。白い制服のカラーがなびき、ワンピースのスカートがふわりと舞って下着が一瞬チラッと見えた。
「うわあああああっ!」
「……遅い」
 咆えながら、拳を振り上げてハルルに迫るグラッティ。しかしその拳がハルルを打つことはなく、スッと膝を折ったハルルが、グラッティの懐に強烈な一発を決めてK.O.。グラッティは気を失って、ハルルの小柄な体に倒れ込んでいった。
 最後はあっけなかったが、グラッティは十分頑張った。クラスメイト達も、泣き虫グラッティの勇姿に拍手を送っていた。
 さて、相方のグラッティが頑張ったのだがヴァイルはというと、まだ戦いを続けていた。それほど接戦で凄まじいバトルを繰り広げているのかと言えば、そうではない。
「ほぉらほぉら、止まってると黒こげよん」
「どわあああ」
 次々と迸る雷撃。ヴァイルが泣きながらリング上を駆け回っている。こっちはもはや情けないと言う以上に滑稽だ。客席の奴らと一緒に笑ってやりたい。
「うーん。向こうの試合は終わっちゃったみたいだしぃ、そろそろトドメ行く?」
「う、ううううう」
 シェミニが見事なウインクをヴァイルへ送る。ヴァイルは後ずさりながらシェミニの笑顔を力なく見つめていた。そろそろ後ろがないぞ、ヴァイル。
(グラッティは最後に頑張った。お前も何かして見せろ)
 翔がそう思った瞬間だった。ヴァイルが意を決した面持ちでシェミニ目掛けて突っ込んでいった。あまりに無防備で何の策も感じられない、無謀としか思えない突貫だ。
「だあああああああああ!」
「あらあら、やんちゃね♪」
 シェミニの両手がヴァイルへ向けられる。そして閃光が走った瞬間、
「どおっ!」
 ヴァイルが飛んだ。見事な横っ飛びで雷撃をかわし、止まらずに受け身を取って立ち上がると、勢いよくシェミニへ迫る。
「往生際が悪いわよん!」
 すぐさまシェミニが次の詠唱に移る。その間に、ヴァイルはどんどんシェミニに迫っていた。魔法使わないのか、お前は。
「どおおおおお!」
「な、何よ? こ、来ないでぇっ!」
 ヴァイルの目は完全に血走っていた。それを見たシェミニが、身の危険を感じたのか表情を引きつらせて腰を引く。ヴァイルが左手を伸ばし、その手がシェミニの体に迫っていく。まさか、大衆の面前でやらしいことをする気かこいつ。恐怖でおかしくなっちまったのか、ヴァイル。
「いやああああっ!」
 シェミニが瞳を閉じながら絶叫する。同時にその両手が眩く輝きだした。このままじゃ、間違いなくヴァイルは黒こげだ。もう、見ていられない。
「……掴んだ!」
 ヴァイルの声が響く。それと同時に、リングの中央で凄まじい雷光が輝いた。バチバチという音に混じって、シューッという無声音が闘技場内に広がる。
 雷光の後、リング上を白い靄が覆っていた。そして徐々に靄が晴れていき、そこにはヴァイルが肩で息をしながら辛うじて立っていた。
「……ヴァ、ヴァイル? シェミニは……」
 シェミニは瞳を閉じたままぐったりとしていた。ヴァイルが気を失ったシェミニを抱きかかえており、二人とも全身火傷だらけだ。
「ど、どうなったんだ?」
「……やるわね、ヴァイルも」
 いつの間にか、翔のすぐ隣にフリルの姿があった。フリルは不敵な笑みを浮かべたまま、保険医の居るテントへシェミニを運んでいくヴァイルを見つめていた。
「おい、今何が起こったんだ?」
「ヴァイルが得意の水魔法を使ったのよ。シェミニの両手を掴んだままね。水は電気を通すって一年の魔学で習ったでしょう? だから二人ともシェミニの雷魔法を受けたのね」
(なるほど、通電か)
 となると、ヴァイルの作戦は自滅覚悟の自爆技だったようだ。シェミニが倒れてヴァイルだけが立っていられたのは、単に体の丈夫さが違うからだろう。
 観客席からヴァイルコールが沸いた。グラッティに負けず、ヴァイルも頑張ったじゃないか。それどころか、これで一勝一敗。舞台を盛り上げるのにも一役買っている。
「さて、やっとあたし達の番ね」
 フリルが優雅にリングへ向かっていった。その後ろ姿を、翔はじっと見つめる。よく見れば腰なんか翔の太ももより細そうだし、腕や足なんか簡単に折れそうだ。魔法などという意味不明な力さえなければ、絶対に喧嘩で負けるような相手ではない。
(くそっ)
「カケル君? 早くリングへ行きなさい」
「はい」
 ルーレシア先生に押され、翔はリングの中央に歩み寄る。改めて真正面から対峙するフリルは可愛かった。今から翔を思う存分痛めつけられると思ってるのか、その笑顔は眩しいくらい輝いていた。サドか、こいつ。
(……負けたく……、ねぇ……)
 どう転んでも、魔法が使えない翔が勝てる相手ではない。一応武器として木刀を担いでいるものの、あの火の玉を弾こうものなら一瞬にして炭になってしまうだろう。
 しかし、負けたくないという気持ちが沸々とこみ上げてくる。今の今まで、さっさと負けてさっさと終わりにしようとばかり考えていたが、グラッティとヴァイルの頑張りを目の当たりにしたせいか、どうしても力が入る。
 しかも相手はフリルだ。あの高慢ちきな女だ。でも無茶苦茶可愛い女だ。
(負けたくねぇ! 俺は、俺はっ!)
「決勝第三回戦、始めっ!」
「あはっ! 行くわよっ!」
 開始直後、フリルが短い詠唱をつぶやき、巨大な火の玉を創りだした。問答無用で翔目掛けてそれを投げつけてくる。挨拶代わりだと言わんばかりの攻撃を左へかわし、翔は大地を蹴ってフリル目掛けて間合いを詰めた。
「そっちから向かってくるなんて、いい度胸してるじゃない!」
「こっちは遠距離攻撃できねーんだよ!」
 翔は木刀を握る手に力を込める。しかし、踏み込んで間合いを詰めようものなら、あっさりあの炎を喰らって木刀は燃やされてしまうだろう。一定以上は迂闊に近寄れない。
「このあたしにっ!」
 炎が翔の真横を通過する。
「あんな破廉恥な真似しといてっ!」
 今度は火の玉ではなく火の壁が前方より迫る。回避が無理だと判断し、出来る限り後方へ身を引いてから自分から炎へ突っ込む。炎と触れている時間を短くするためだ。
「無事に済むとっ!」
 さらに空中に無数の炎を放つフリル。ふわふわと空中を漂う炎が、フリルのウインクに反応して一斉に翔へ襲いかかる。
「思ってないでしょうね!」
 頭上より迫る無数の炎。さらにフリルが前方から炎の壁を繰り出し、逃げ場は何処にもない。
(くそ、こいつ……っ!)
 ジジイに貰った服が燃える。全身に火傷を負い、木刀の一部が黒く変色する。何とか直撃は避けたものの、こんなんじゃ長くはもたない。
「あははっ、いい様ね痴漢! 今なら土下座して命乞いすれば許してあげるわ!」
「……確かに事故とはいえ、あんなコトしたのは悪かったと思ってる。……だが……」
 翔はヒリヒリする火傷を我慢し、痛みや苦しさなどおくびにも出さずに木刀を構え直した。
「……何よ」
 忌々しそうに翔を見つめるフリル。翔はぐったりしているグラッティとヴァイルを横目で見つめ、無意識のうちに微笑んでいた。
「お前に負けるのは我慢ならねぇ。……ただ、それだけだ」
「っ!」
 翔が一気に間合いを詰める。こうなったら意地でも一発殴らなければ気が済まない。あの可愛い顔を殴るのは少々気が重いが、もはや場所なんか選んでられない。打てるところを打つ。
「はああっ!」
「馬鹿ねっ! そんな棒きれ、灰にしてやるわ!」
 フリルの炎が翔に迫る。確実にこのままでは直撃だ。しかし、もはや避けるのも面倒。
「そんな、意味不明な力にぃっ!」
 翔は力任せに木刀を振り下ろす。一瞬、木刀が仄かに光ったような錯覚を覚え、次の瞬間、フリルの放った炎が翔の木刀によって霧散した。
「な、なんでっ!」
「知るかっ!」
 よくわからないが、フリルの炎は木刀でかき消せた。それを何故かと自問するのは不毛だ。この世界自体、意味不明な力で満ちあふれている。この木刀が実は世界樹の魔力を帯びているとか言っても、別段驚いたりしない。
(いけるっ)
 押せ押せだったフリルだが、いきなり自慢の炎をかき消されたせいか、呆然と立ち尽くしている。今なら容易に、剣術の射程内まで迫ることができそうだった。
「はああっ」
 こう見えても翔は剣術道場を営む父さんに昔からしごかれてきた。一般的な剣道ではないが、天地流剣術の腕はそれなりだと自負している。
 一瞬にして翔とフリルの距離が縮まった。目と鼻の先に、フリルの綺麗な顔がある。
「あ……ああ……」
 フリルが力ない目で翔を見つめた。この距離ならフリルが両手を振り上げるより早く木刀を振り下ろせる。しかしフリルの目を見た瞬間、翔の動きがピタッと止まった。
(そんな目で見るなよ……)
 恐怖に歪んだフリルの顔。さっきまでの覇気は微塵も感じられず、追いつめられたウサギのように弱々しい。こんな少女に、木刀で斬りつけることなどできるだろうか。
「……反則だろ」
 小さく独り言をつぶやく。こんな顔で見られたら、男として戸惑わないわけがない。最後まで傲慢な態度を貫いてくれれば躊躇いなく木刀で殴りつけてやるのに、泣きそうな顔で震えられては、どうすることもできないではないか。
「くそっ」
 翔は大きくため息をつき、ゆっくりフリルに近寄る。もう、互いの距離は二十センチくらいしかない。
「お前の勝ちだ。……俺は、攻撃できねぇからな」
「え?」
 驚いたようにフリルが翔の顔を見つめる。困惑した顔も、反則的に可愛らしかった。
 翔はフリルの右手首を掴み、そっと自分の胸の前へ押しつけた。フリルは困惑した表情のまま、捕まれている手と翔の顔を交互に見つめていた。
「好きにぶっ放せ。……手加減してくれたら嬉しいが、あまり期待していない」
「な、何よっ! こんなことしなくたって、あんたなんかあたしの実力で十分倒せるわよ! それに、な、何で一度も攻撃しようとしないのよ!」
「攻撃したらしたで怒るくせに何言ってやがる」
「……う、うー!」
「それに、どのみち俺じゃあお前を攻撃できねえ。……お前、反則だよ」
「何言ってるのよ! あたしは何も不正なんかしてないわ!」
 それ以上は何も言わない。翔は口をつぐんだまま、ジッとフリルの目を見つめた。パッチリとした蒼い瞳は、泣きそうなほど弱々しくとも、その奥には自尊心と不屈の根性が見え隠れしている。事故で奪ってしまったピンクの唇はキュッと結ばれ、すらりとした鼻筋は他者に比較を許さない美しさを誇っていた。
「反則だな、まったく……。――ほら、さっさとしろよ。一発喰らったらテンカウントまで寝てるからな、俺への恨みは一発に籠めろ」
「ば、馬鹿じゃないのあんた!」
「否定しないさ」
 高慢ちきで鼻持ちならない女だってわかってるくせに手があげられないようじゃ、やはり翔も他の男子生徒同様、ただの馬鹿に違いない。
 翔が瞳を閉じてフリルの魔法を待つ。静かに時間が流れていった。
 どれほど待っただろうか。ずっと左手からフリルの熱を感じつつ、翔は微動だにしなかった。
「……あんた、変な奴」
 フリルの口からその言葉がもれた後、フリルは乱暴に翔の手を振りほどいた。さて来るか、と身構えた翔だったが、何秒待っても焼けるような衝撃は来なかった。
 恐る恐る瞳を開いてみる。すると目の前にフリルの姿はなく、フリルは本部のテントへカツカツと歩み寄っていた。
「棄権します」
 一言、フリルはルーレシア先生に小さく言い残して控え室へ下がっていった。その後をシェミニとハルルが追いかけていった。
(どうしたんだ、一体……)
 何故フリルは魔法を使わなかったのだろうか。翔への憎い気持ちをはらすため、盛大に翔をぶっとばすと思っていたが、罵声の一つも無しに去っていった。
 翔はやりきれない想いでフリル達が消えた控え室の扉を見つめる。客席から聞こえる歓声も、ルーレシア先生のお褒めの言葉も、今は耳から耳へ抜けていった。
(何か……、煮え切らねぇな……)
 駆け寄ってきたグラッティとヴァイルに笑顔を見せながらも、翔はずっと、拳を硬く握りしめたままだった。
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