トップ  目次  前へ  次へ 

第三章 少年は少女のもとで働く

 馬鹿みたいにはしゃぎまくった武術大会から一夜明け、アカデミーは何事もなかったように通常の授業を開始する。ちなみに昨日受けた傷は、保険医の先生らが使うこれまた意味不明な力によって完全に回復していた。RPGにはつきものの回復魔法ってやつだ。
 編入二日目にテスト、三日目にテスト返却、四日目に武術大会と、普通の授業をほとんど受けることなく怒濤の三日間を過ごしてきたわけだが、今日からはおそらく元居た世界とさほど変わらない、平凡で何の変哲もない日々が始まるのだろう。
 翔がグラッティ、ヴァイルを引き連れて王立高位魔導師養成アカデミーの第二学年Bクラスの教室へ登校してくると、クラスメイト達が三人に爽やかな挨拶を送ってくる。昨日の一件で、三人はすっかりクラスの人気者だ。
(人気者……か?)
 少し違う気もするが、取りあえずそういうことにしておく。
「おはよーん、優勝トリオ」
「…………おはよう」
 他のクラスメイトを押しのけて、翔達に歩み寄ってくるのは若葉色の髪をした少女と、蜜柑色の髪をした少女。何故朝からそんなにテンション高いのかわからないシェミニと、何でいつもそんなにテンション低いのかわからないハルルだ。
「昨日は、なんと、なななんと、弱虫ヴァイルに負けちゃったのよねーこのシェミニ様ともあろうものが。超ショック〜。マジへこむ〜」
「感電。気絶。……お姫様抱っこで医務テント。ヴァイルに密着」
「あひゃー! 言わないでぇーっ!」
「な、何だよ! 運んであげたのにそんな言い方しなくてもいいだろう!」
 ヴァイルが視線を泳がせながら不機嫌そうに言った。シェミニは口を尖らせて気怠そうに立っており、何故かハルルが背伸びをしてシェミニの頭を良い子良い子していた。
「僕はあっけなくハルルにやられちゃったからなぁ。ホント、情けないよね」
「そうか? 俺はお前がテンカウント待たずに突っ込んでいった姿見て、見直したぜ?」
「……泣き虫が泣かなかった。偉い、と思う」
 翔だけではなくハルルにまでそう言われて、グラッティは後頭部を掻きながら力なく笑っていた。どうやら、二人の言葉は元気づけるどころか逆に落ち込ませてしまったようだ。見直したとか、泣かなかったから偉いとか言われ、今までどう見られていたかが丸わかりだからか。
「そーれにしても、一番頑張ったのはカケル君ね。なんたって、あのフリルに勝っちゃったんだもん! もー、すごすぎー!」
「……いや、負けだよ。俺は、一発もアイツを殴ってねーんだ」
「ええっ! カケル君フリルを殴るつもりだったの? 怖っ!」
「鬼畜」
 翔は嘆息し、自分の席に腰を下ろした。グラッティが自分の席へ歩いて行き、ヴァイルも自分の席に腰を下ろす。
「でも、あのフリル相手に退くところか向かっていくなんて、やっぱカケル君はすごいよ! それに最後のあれ、格好良かった! 好きにぶっ飛ばせなんて、あのフリル相手に絶対言えないよ!」
「……あんなの、ただの馬鹿がすることだ」
「そうよそうよ。フリルの本気の一発喰らったら、一週間はベッドの上確実なんだから。あんなことするなんて、カケル君馬鹿すぎー」
「過度の馬鹿。馬鹿すぎ」
 シェミニとハルルは言いたいだけ言って去っていった。確かに馬鹿だと自覚はあるが、他人にぼろくそ言われて気分いいわけがない。あいつらもいっぺん殴りたい。
(……フリルの奴、やっぱ怒ってるかなぁ)
 今更ながら、馬鹿なことをしたなと思い始めていた。あの時は何となく勢いであんなことしてしまったが、よく考えれば自尊心の塊みたいなフリルにとって、翔の取った行動がどれほどその自尊心を傷つけるものだったが、火を見るより明らかじゃないか。
「はあ……」
 自然とため息が零れる。チラッと横目でフリルの机を見つめるが、まだフリルの姿はない。もうすぐ予鈴が鳴るというのに、どうしたろうだろう。
「ヴァイル、フリルって遅刻や欠席多いのか?」
「まさか。フリルは真面目な子だよ? 去年は無遅刻無欠席だし、今年だってまだ一度も休んだり遅刻したりしてないよ」
「真面目……か……」
 ふと翔の脳裏に、テストの休み時間にノートを必死に見直すフリルの横顔を浮かんだ。確かに、高飛車で傲慢に振る舞っている印象ばかり強いが、授業中などは真面目にノートを取っているし先生の話もちゃんと聞いているようだった。生徒としては、優等生といえるのかもしれない。
 しかし、その日フリルは欠席した。ルーレシア先生が言うには体調不良なのらしいが、翔にはどうしてもフリルが欠席した理由が自分ではないのかと思ってしまう。
(俺が……、昨日あんな真似したから自信なくしたんじゃねーだろうな……)
 意味のわからない文字が羅列される黒板など見る気もせず、内容は聞く限り小学生レベルなので大したことないためつまらず、翔はボーッと横目で空いたフリルの席を見つめながら考えていた。
 フリルは強い。そして過剰すぎるほど高いプライドを持っている。翔はそんなフリルに対し、魔法のペンダントで弱みを握り、数学のテストで勝ち、そして武術大会であんな真似をしてしまったのだ。フリルのプライドをずたぼろにしてしまった。
(泣いてねーだろうな……。変に落ち込んでねーだろうな……)
 受けた辱めを、すべて翔に対する憎しみへ転化させれば問題ない。今までそうだったように、目が合えば睨め付け、隙あらば後ろから蹴飛ばそうと企んでいるくらい強気な態度を取っているのがフリルだ。
 しかし、あの手の奴はひとたびプライドを引き裂かれると案外脆いことが多い。フリルもそうなのかはわからないが、あいつだってまだ十六歳の少女だ。その可能性だってあるだろう。
「どうしたらいい?」
 声に出して自問する。どうすれば、いいのだろうか。
(俺は、どうなりたいんだ? フリルと喧嘩したいのか? ……それとも……)
 やはりあの可愛さは質が悪い。会ってまだ五日だというのに、フリルは翔の心をこうもかき乱す。翔はこのアカデミーに通う男共と全く同じ、馬鹿だ。大馬鹿者だ。
 どうすればいいのかなど、答えなど出るはずもなく、翔は日がな一日ボーッとフリルの机を見つめていた。

* * *

 翔は放課後ジジイに呼び出しを喰らい、学園長室へと足を運んだ。ノックしてジジイの許可が聞こえた後、「失礼します」と断って中へ踏み入る。日本式の作法だが、別段ジジイは気にした様子はない。
 部屋にはいると、ジジイの手前に一人の女性が立っていた。年の頃は翔より少し上だろうか、すらっとした体躯に豊満な胸の持ち主だった。
(……でかいな)
 思わず目が一点に釘付けしそうな所を自制し、翔は女性の顔へ視線をスライドさせた。女性はセミロングの髪は山吹色で、少し垂れ目気味で瞳の色は茶色。右目の下にある泣きほくろがとても色っぽい。
 服は何故か黒と白の布を縫い合わせたエプロンドレスを身に纏っており、頭にはフリルの付いたヘッドドレスも身につけている。何処ぞのメイドだろうか。
「フォッフォッフォ、元気か少年」
「はい、問題ありません」
「そりゃあよかった。元気じゃないとこの仕事は勤まらんからのう」
「……仕事?」
「前に言ったじゃろう、バイトじゃよ、バイト」
 ジジイがカラカラ笑いながら一枚の紙切れをヒラヒラと翔へ見せた。翔は机に歩み寄り、ジジイから一枚の紙を受け取る。言うまでもなく、何が書いてあるかはサッパリわからない。
「どういう仕事なんですか?」
「うむ、詳しい話はそっちのお嬢さんに聞いとくれ」
 ジジイに言われ、翔は首をメイド女性へ切り替える。どうしても首より下に行きそうな視線を、辛うじて堪える。
「初めまして。わたくし、エリカ=フォミラテールと申します」
 メイド女性が、綺麗に腰を折って礼をする。斜めになって生まれた体と服の隙間から、目を引く曲線がわずかに見える。
「て、天地翔です。……あの、早速ですけど仕事の内容について教えて頂けますか?」
「はい。仕事はわたくしらと共にお屋敷の給仕をして頂きたいのです」
「お屋敷? 給仕?」
 翔が首を傾げると、ジジイが楽しそうに割り込んできた。
「フォッフォッフォッ、お主も知っておるじゃろう? この学園では敷地の一部を住居区として開放し、生徒の中にはそこに屋敷を構えて住んでいる者もいると」
 そう言えば、金持ち貴族はそうしてるって話を前に聞いた覚えがある。貴族に限らず金さえ積めば出来るらしく、ハルルだって平民だが一戸建てに住んでるという話だ。
「その一軒で、先月給仕同士が結婚して雇用契約の破棄を契約者が認めたからのう、新しい給仕を募集しておったそうなんじゃ」
「でも、俺は日中は授業が……」
「はい。ですからテンチさんは朝晩のみで結構です。朝に朝食の準備と洗濯を、夜には夕食の準備と風呂の用意をお願いしたいのです。あと、休日にもお掃除を手伝っていただきますけど」
 翔が戸惑っていると、エリカさんが柔らかな笑顔で答えてくれた。何か、すごく癒される笑顔だ。
「朝ですか……。屋敷が建ち並ぶ場所は寮から結構遠いですし、早起きはあまり得意ではないんですけど……」
「あら、申し遅れましたが、給仕として働いて頂くことになりましたら当然お屋敷に住み込みで働いて頂くことになりますよ? もちろん、朝晩は食事も出ます」
「えっ! 住み込み?」
「はい。狭いですけど、お屋敷の一室が分け与えられます」
(寝床に飯付きか。それはいいかもしれない)
 条件は悪くなかった。しかし、もしそこで働くことになるとすれば入寮早々退寮しなければならなくなり、荷物運びやら何やら大変だろう。また、異世界で初めて出来た友人らと寝食を共にすることも出来なくなる。まあ、まだ四日しか寝食を共にしてない上、同じクラスなので別に寂しくも何ともないから問題ないか。薄情ですまない、グラッティ、ヴァイル。
「……わかりました。それで、給料の話もさせて下さい」
 がめついと思われるかもしれないが、金の話は重要だ。特にここは元居た世界でない上、親という後ろ盾も居ない。
「詳細はそちらの書類に記載してありますけど?」
「ああ、その子はリンドブール語が読めんのじゃよ」
「……すいません」
 翔が申し訳なさそうに言うと、エリカさんは笑顔で丁寧に説明してくれた。お金の価値についても講じていただき、翔は納得してサインした。漢字で契約書にサインしてしまったため、ジジイがその横にリンドブール語で翔の名前を書き直してくれた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。じゃあ、さっそく明日の朝から働いてもらいますね。取りあえず、衣服とか簡単に運べる荷物だけ運んで、残りは休日に荷車を借りて運びましょうか」
「はい。そうします」
「じゃあ荷物を持って、広場に来て下さい。わたくしがご案内しますから」
 翔はエリカさんに一礼して学園長室を後にした。駆け足で校舎を飛び出し、寮を目指す。
 ふと、寮へ続く小道の手前にある広場で翔は足を止めた。何故そうしたのかよくわからないが、何となく足が止まってしまい、そっと広場の中央にある大きな木を見つめた。
(フリルの奴、明日はちゃんと授業に出るだろうか……)
 あの木の下ですべては始まった。そっと唇に指を添えると、微かに鼓動が早くなる。あまりに突然の事故で、ハッキリとは覚えていないあの感触を思い出そうとしても、それは叶わぬ事だ。
「っと、エリカさん待たせるわけにはいかねーな」
 翔は寮へ向かって駆け出す。寮へ入ると、何やら玄関先が騒がしかった。
「あっ、カケル君!」
 グラッティが駆け寄ってくる。困った顔を浮かべているが、そこまで深刻な様子は感じられない。
「どうした?」
「えっと、その、女子寮からシェミニが来てて、その、ヴァイルに……」
(……武術大会の恨みでも晴らしに来たのか?)
 翔が顔を持ち上げて階段手前にいる二人を見つめる。すると、予想に反してヴァイルがシェミニの両手首を掴んで壁に押しやっていった。端から見ると、痴情のもつれに見えなくもない。
「あっ、カケルくぅ〜ん! 助けてぇー、私、犯されるぅぅ〜」
「ひ、人聞き悪いこと言うなよ!」
「きゃうん!」
 ヴァイルがシェミニの腕を握る手に力を込めたのか、シェミニが妙な悲鳴と共に体をビクッと震わせる。どう見てもヴァイルが無理矢理迫っているようにしか見えないぞ。
「落ち着け二人とも。何があったんだ?」
「えっとね、シェミニがいきなり男子寮へやってきて、ヴァイルの部屋に無断で入ってきたんだよ。今から昨日のリベンジマッチをやるぞって」
「……なるほど。それで、どうしてああなってるんだ?」
 リベンジマッチなら屋外でやるもんだろう。なんで寮の廊下であんな不自然なにらみ合いをしているのだろうか。
「んーと、ヴァイルが断ったらシェミニが騒ぎ始めて、寮内でシェミニが魔法を使ったから寮長に怒られたんだよ。それでヴァイルが怒って、言い争いしてるところ」
「……はあ、子供かお前達は」
 翔は大きくため息を吐いて頭を押さえた。何となく翔とフリルの言い争いに近い気もする。客観的に見たら翔達もあのように醜い言い争いをしてるように見えるのだろうか。
「ヴァイル、男がそんな風に力で女を押しつけるな。シェミニも、いくら負けたからってそれをいつまでも根に持つなよ。復讐したかったら、何か別の方法で済ませ。暴れると周囲が困る」
 武術大会ではフリルをぶん殴ろうとしていた翔の言える台詞ではないが、取りあえずこの場を沈めるためだ。自分のことを棚に上げる必要はない。
「ぶぅー。なーによ、カケル君はヴァイルの味方なのん? うきゅー、意地悪ぅー」
 シェミニは不服そうだが、ヴァイルは翔に言われて自分でも今していることをまずいと思ったのか、サッと両手を離して二、三歩後ずさった。
「別に意地悪じゃねーだろ」
「むむむぅ〜。じゃーさ、別の方法で復讐しろって、一体全体どーしたらいいのよぅ! この小さな胸にたぎる復讐の炎を、どーしたら消せるって言うのよぅ!」
 フリルに比べたら十二分に大きいだろうというツッコミは心の中だけに留めておき、翔は面倒ながらも腕を組んで考え込んだ。
(他人に迷惑をかけず、かつシェミニの気持ちが存分に晴れる方法……ねぇ。そんな方法があったら俺がフリルに試してやりてーよ)
 その時、翔の脳裏に以前姉が実家で満足げに言っていた言葉がよぎった。かなり恥ずかしい台詞であるが、それを口にした時の姉は胡乱とした甘い目つきで、悦に入った面持ちを浮かべていた。
「恋愛は……愛された者が強い……」
「は?」
「前に俺の姉が言った言葉だ。つまり、ヴァイルがお前のこと好きになれば、ヴァイルはお前の言うことを何でも聞くだろうよ」
「な、なな何言ってるんだよカケル君! 僕がシェミニなんかを好きになるはずが……」
 火に油を注ぐような発言をするな、ヴァイル。
「私……なんかぁ?」
「うっ……」
「いいわよん! 決めた! ヴァイルを私の虜にしてみせるわん! もう私の愛無しでは生きていけないほどメロメロにしちゃって、それでそれで最後の最後に捨ててやるんだからっ!」
(最初から捨てるとか言ってるし……)
 翔は嘆息する。ようやくその時、広場にエリカさんを待たせていることを思い出した。
「うわ、やべっ!」
「どうしたの?」
「ああ、グラッティ、ヴァイル。俺さ、今日から貴族の屋敷で、住み込みで働くことになったんだ。だから荷物まとめて寮を出ることになった」
「ええっ! 寮を出る? 住み込みで働く?」
 グラッティがあんぐりと口を開けて翔を見つめる。ヴァイルも言葉を失ったまま翔を見つめていた。
「ああ。その、いろいろと金が必要でな」
「へぇー、カケル君って苦労人なんだぁ。うんうん、エライわん!」
 あれこれ騒がしい級友達の脇を駆け抜け、翔は部屋に戻ってすぐに必要最低限の荷物をまとめた。それらを大きな皮の鞄に詰め込み、足早に寮を飛び出した。
 広場に着くと、エリカさんは翔が遅れた理由を問うこともなく、「行きましょうか」と優しい笑顔を浮かべて歩き出す。少し、いや、かなり申し訳なかったが、翔は何も言い出せずシュンとしたままエリカさんの後に続いた。
「そう言えば、これから働く屋敷の主ってこの学園の生徒なんですよね? 何年生なんですか?」
 しばらく沈黙が続いた後、翔はふと思い立った質問をする。もしかしたら屋敷の主はクラスメイトかもしれない。それはちょっと、気が重い。
「二年B組に在籍中ですよ」
 ビンゴ。クラスメイト決定。そうなると、翔の頭に嫌な予感が走る。
(まさか、な。そんな偶然、あるわけないだろ)
 必死に心の中で否定する。翔は大きく深呼吸し、動揺を隠してエリカさんに尋ねた。
「その、生徒の名前――」
「ここですよ」
 翔の言葉を遮って、エリカさんがとある屋敷の前で立ち止まった。表札らしき物を見ても、この世界の文字が読めない翔には何と書いてある理解できない。
 屋敷の大きさは百坪くらいだった。小さなガーデンが玄関の脇にあり、屋敷は西洋的な石造りの建物。窓枠には木材が使われ、窓硝子は曇っていた。
 二階建てで、二階にはテラスのようなものも見える。貴族や大金持ちの屋敷にしては小さく見えるが、これは本家ではなくあくまでアカデミーに在籍している間の下宿みたいなものなのだ。贅沢この上ない。
「どうぞ」
 エリカさんが重そうな扉を開き、手招きする。翔が一歩中へ足を踏み入れると、煌びやかなシャンデリアが天井からぶら下がり、紅い絨毯が敷かれている玄関が眩しく見えた。
(……外装から予想できる内装の有り様だな……)
 予想通りだったためさほど驚きもせず、翔はエリカさんに言われるがまま屋敷の中を徘徊し始める。そして二階にある一室の前へ案内され、エリカさんがドアをノックした。
「お嬢様。前にお話しした新しい給仕の者、本日正式に契約をかわしたため、お連れしました」
(お嬢様……。女……か……)
 脳裏に流れるような金髪の映像が浮かんだ。翔は瞳を閉じて大きく深呼吸する。その時、ギィッと木の扉が軋む音を漏らしながらゆっくりと開いた。
「…………」
「…………」
 沈黙。目が合った瞬間、部屋から出てきた少女と翔は表情を歪めて黙り込んでしまった。
 部屋から出てきたのは見間違いようのない、金髪碧眼の美少女、フリルだった。不機嫌を絵に描いたような表情で翔をジッと睨め付け、口は固く結ばれている。白いネグリジェっぽい衣服を着ており、髪はボサボサと四方へ広がっている。寝起きのようだ。
「何であんたがここにいるのよ」
「……お前の家だったのか、ここ」
「表札出てるでしょう。……ああ、あんたはリンドブール語読めないんだったわね」
 フリルが相変わらず冷たい目で翔を見つめる。少しばかり頬が赤く、呼吸のテンポが上がっているように見えるため、どうやら欠席の理由が体調不良だというのはホントだったらしい。そのせいか、いつも以上に不機嫌に見えた。
「それで、エリカ。新しい給仕の人はどなた?」
 フリルが、ドアの手前できちんと直立しているエリカさんに尋ねた。エリカさんは人差し指を頬に添えて、キョトンとフリルを見つめ返す。
「どなたって、先ほどからお嬢様とお話なさってるじゃありませんか」
「えっ! ……ま、まさか、こいつ?」
(じゃなきゃ、俺がここにいるわけねーだろ)
 やれやれと大きなため息をつき、翔は踵を返して来た道を戻り始めた。主がフリルである以上、翔を雇うはずがないからだ。
「何処へ行かれるんですか?」
「……すいません。この話、なかったことにして下さい。俺、別のバイト探しますから」
 そう言い残して去るとしたら、エリカさんに左手首を捕まれて引っ張られた。意外と、腕力ある。
「何言ってるのよ、あんたホンット馬鹿ね」
「ああ?」
 腕を掴んでいるのはエリカさんだが、翔はそんなエリカさんに目もくれずフリルを睨め付けた。すると、先ほどまで冷淡だったフリルの表情が、驚くほど輝いている。多少、体調不良で辛そうな気配もあるが、表面を覆う別の感情がそれを感じさせない。
(笑ってる……。っていうか、喜んでる?)
「ここに来たってことは、あんたは雇用の契約書にサインしてやってきたんでしょ?」
「……まあな。だが、契約は破棄だ。別のバイトを探す」
「あははっ。そんなの、無理に決まってるじゃない。あんたちゃんと法律習った?」
 華やかに笑うフリル。翔の手首を掴んだままのエリカさんは、黙ってニッコリと微笑んでいる。何だ何だ、この世界にはどんな法律があるというんだ。
「契約書に契約期間が書いてあるでしょ? その間、雇われた人間は雇い主の許可がない限り途中退職できないのよ?」
「学園長のお話によるとテンチさんは事故で記憶障害を煩っていらっしゃるのよね? でしたらお忘れになっていても仕方ないことですが、法律ですので例外は認められません」
「だったら、さっさと許可をよこせ。お前だって、俺が同じ屋根の下に居るのは嫌なんだろう?」
 妙な法律があるもんだ。だがまあ、契約期間の間絶対にやめられないって話じゃないのだったら、さっさとフリルが退職の許可を下ろせばいい話だろう。
 しかし、フリルはニヤニヤ笑っているだけ何も口に出さない。その極上の笑みの向こうに、邪な考えが見え隠れしているような気がする。取り越し苦労だろうか。
「なーに言ってるのよ! 契約書にサインした時点であんたはあたしの給仕よ! 召使いよ! 奴隷よ!」
(……奴隷じゃねーだろ)
 フリルの笑みが眩しい。体調不良だったんだろ、お前。
「途中退職は認めないわ! 契約期間、しーっかりあたしに仕えることね! あはっ!」
「……断る」
「法律違反は死刑よ? わかってる?」
 この程度の法律を犯しただけで死刑になる国が何処にあるんだと言い返すことはできず、翔は口をつぐんでフリルの勝ち誇った笑みを見つめた。悔しいが、この世界の常識に疎い翔に法律云々で張り合う術はない。
「お前は俺が嫌いなんだろ? 自分の屋敷にそんな男を置いておくのは嫌じゃねーのかよ?」
「そうね、確かにあんたのことは嫌い。でも、雇用関係は雇った方が断然強いのよ? 主は従者にどんな命令でも下せるわ。つまり、あんたはもう絶対あたしに逆らえない」
 翔は嘆息する。そして、先ほどシェミニに言ってやった言葉が形を変えて自分の頭の中を駆けめぐっていることに気づく。
(恋愛は、愛された者が強い。雇用は、雇った者が強い……か……)
「いいこと? 今日からあんたはあたしの給仕よ! 召使いよ! 奴隷なのよ!」
 何度も同じ事を言うなと思ったが、もはや言い争う気力もない。繰り返し大きなため息をもらし、翔はそっとフリルの顔を見つめる。高飛車に笑いながらも、額にはパールのような汗が滲んでいる。頬だって、さっき以上に赤くなっている気がした。
「お前、具合悪いんだろ? そんな大声出してないで、部屋で大人しくしてろよ」
「なっ! 御主人様に向かってその言い方は何よ! 言葉遣いがなってないわ!」
「……はいはい。御主人様、欠席は成績に影響しますので、浅学ながら今日はお早めに休まれてお体を大事になされたほうがよろしいかと存じます。……これでいいか?」
「む、むぅーっ! なんか気に食わない言い方ね!」
 頬をプクーッと膨らませながらフリルが翔を睨め付ける。ため口だろうが丁寧語だろうが、結局どっちも気に入らないんだろう。まあ、尊敬語と謙譲語がごっちゃになってることに怒ってるわけじゃないと思う。
 翔がエリカさんをチラッと見つめると、エリカさんは笑顔で掴んでいた手首を離してくれた。そして促すように、首をクイッと動かしながらウインクする。
「……はあ。ほら、フリル。大人しくしてろ」
 多分、エリカさんはこうしろと目で言ったのだろう。
「えっ、あっ! きゃあっ! な、何するのよ!」
 翔はフリルの脇に腕を通して抱きかかえ、その軽い体を部屋の中へ持ち運んでいく。フリルの部屋は赤い絨毯が床に敷かれ、ベッドはシルクのようなカーテンで覆われている。洋服タンスが並び、机の脇には大きな本棚があってビッシリと本が並んでいた。
 何より目についたのは、ベッドの上にゴロゴロと転がっている、動物を模したぬいぐるみ軍団だった。こいつ、こんな趣味があったのかと、一瞬固まってしまった。
「きゃーっ! み、見てんじゃないわよーっ!」
 暴れ狂うフリル。全然元気じゃねえかと思ったが、魔法をぶっ放すことはしないし、暴れてはいるものの殴る手に力は籠もってないため、翔は無言で無視した。
 そのまま暴れ姫をベッドに寝かしつけ、翔はその額に手を添えた。少しだけ熱い。まあ、微熱程度だろう。大人しくしてればきっと明日には下がるはず。
「あ、あんた! 召使いの分際で御主人様の部屋に入るなんて、ゆ、許されると思ってるの!」
「大声出すな。……夕食はどうする? 食欲ないかもしれねーけど、何か喰っといた方がいいぜ?」
「う、うーっ!」
 喉に何か詰まったような声を漏らしつつ、相変わらずフリルは翔を睨んでいる。自分の召使いにしたはずの男が、タメ口でやたら馴れ馴れしいのが気に食わないのだろう。
「エリカさん、キッチン何処ですか? フリル……いえ、お嬢様の夕食を準備します」
「あらあら、お仕事は明日からでいいと言いましたのに……」
 翔はフリルを見つめる。フリルは何も言わず、ジッと翔を睨んでいた。
「いえ、その、キッチンの使い方とか、どんな食材があるのか知っておきたいので」
「あ、あんた、ちゃんと料理できるんでしょうね! 変なもの食べさせようとしたらただじゃおかないんだから!」
「……お嬢様は大人しく寝てなさい。準備ができましたら部屋へお運びします」
 上半身を起こして声を張り上げるフリルに、翔は笑顔を装いながら、フリルの額をグッと押して再び横たわらせる。
 自慢じゃないが、翔は家事全般において並の高校男児を凌駕している。父さんは道場の掃除以外家事をまったくせず、姉さんは彼氏の弁当以外料理をしない。妹はあれこれ手伝ってくれるのは嬉しいのだが、何と言っても家庭科1。母さんはキャリアウーマンで帰宅も遅いため、平日の夕食は毎日翔が用意するのだ。
 さらに言えば、部活を終え、へばって帰ってきた翔を待っているのは夕食の準備だけではない。洗濯物の取り込みとたたみ込み、風呂の用意。朝飯と洗濯だけは母さんがやってくれるため、朝が弱い翔にとってはありがたい。
 翔はエリカさんに連れられ、一階にあるキッチンへ移動した。予想通り、翔が見知ったガスコンロや電子レンジの類はない。どう見ても、そこにあるのはかまどのみだ。
(かまど……か……。はあ……)
 これは火を起こすことすら一苦労だ。フリルみたいに魔法が使えれば一発だが、そんな意味不明スキルを体得していないため、マッチと思われる発火源と炭を使うしかない。
 調理器具は見慣れたものが多く、鍋やパン、やかんにボールなど、一通り揃っている。
 次に冷蔵庫……とは言っても電源コードなどは見当たらないボックスの中を確認する。電源供給がないにも関わらず、中はヒンヤリしていた。きっと、これも魔法なのだろう。
 中には見覚えのある食材が所狭しと並んでいた。寮で出る食事やアカデミーの食堂を利用している時に時折感じていたが、どうやら野菜や肉、魚、調味料など、基本的に食の文化は元居た世界に……というより現代日本に近いようだ。都合いいな。
「どうですか?」
「ええ、何とかなると思います。……買い物とかは、どうしたらいいんですか?」
「隣町まで買いに行くのですが、その、学園長様のお話によると、テンチさんは学園敷地外には出られないそうなので……」
(そーいえば、すっかり忘れてたな)
「メモを残していただければ、わたくしが買い物へ行ってきます」
「……じゃあ食材名をリンドブール語で書けるようにしないとな」
 やることは山積み。金を稼ぐって、大変だ。
 翔は何度もため息をもらしながら夕食の準備をした。エリカさんの話によれば、屋敷の人間は翔を含め四人。フリルだけお粥を用意し、三人分のうどんを作っておき、翔は盆にお粥の入った小鍋と小皿、スプーンを乗せてフリルの部屋へ運んでいった。
「入るぞ」
 ノックして、許可を待たずにドアを開けて中へ踏み入ると、フリルはブスッと頬を膨らませてベッドに横たわっていた。年中そんな顔してたら、その内可愛くなくなるぞ。
「あんた、まだ召使いとしての自覚がないみたいね! あたしの部屋に許可無く入ってくるなんて、どういう神経してんのよ!」
「……お粥だ。熱いから気をつけて食べろ」
 フリルの言葉にいちいち反応していたらキリがない。翔は、上半身を起こしたフリルに盆を渡し、部屋を去ろうと踵を返した。
「待ちなさい!」
「……まだ何かご用ですか? お嬢様」
「そ、そのお嬢様はやめなさい! それと、変な丁寧語使わないで!」
「……お前がそうしろって言ったんだろーが」
「あんたの場合、タメ口より丁寧語の方がムカツクわ!」
 こいつと話していると、どうしてもため息の数が多くなる。元居た世界で、担任との進路面談後だって、こんなにため息つくことないのに。
「わかったよ。……で、用はそれだけか?」
「違う。……あんた、あの時に何したの?」
 フリルの顔が急に真面目になった。凛とした面持ちで、翔に詰問する。
「あの時?」
「武術大会の決勝戦。あんた、木刀であたしの炎を打ち消したでしょ? 普通に考えれば、そんなこと絶対にあり得ないのよ!」
「ああ、あの時か。……俺にもよくわからん。一瞬木刀が光った……ような気がして、気づいたらお前の炎が消えていた」
「木刀が……光った?」
 フリルが眉を顰めて復唱した。本当に光ったかどうかは記憶が曖昧だが、確かに一瞬ピカッと光ったような気がした。
「俺は魔法のことをさっぱり忘れちまったからわからねーけど、あれじゃねえか? 何か、世界樹とか、魔力を持った木を使って出来た木刀だったとか」
「世界樹なんておとぎ話じゃない。それに、魔法具が備品として置いてあるはずないでしょ!」
(……って言われてもな。俺にはそれ以外に皆目検討がつかねー)
 腕を組んで悩んでいると、話に飽きたのだろうか、フリルが、「まあいいわ」と勝手に話を打ち切ってお粥を食べ始めた。先に言い出したのはそっちだろ。
「……はあ。じゃあ、大人しくしてろよ。食器は明日の朝回収に来る」
 そう言って翔は踵を返す。今度は引き留められなかった。
 ドアノブを引いて扉を開け、部屋を出る。そしてなるべく音がしないよう気を遣いながら扉を閉める時、
「……美味しいじゃない」
 フリルの独り言が聞こえた。

* * *

 聖バートリアム王国の中央より少し北に位置するシュベリア地方。その大部分を占める王立高位魔導師養成アカデミーには、今はもう使われていない古い建物もいくつか存在していた。使われなくなって久しい建物もあるが、別段利用する予定のない土地であるため、取り壊しが行われぬまま放置されている。
 そんな廃屋の中、二人の女が輝く立方体を見つめながら腕を組んでいた。紫色のロングヘアーに、抹茶色のツインテール。
『予定通り、三日後に国王がこの学園に訪れる。その間、学園の人間はすべて東の集会所に集められる。……わかってるな?』
 ぷかぷかと浮かんでいる立方体が蒼色に輝き、そこから男の声が響く。そしてキューブは緑色へと変化し、「はい」と、紫色の髪をした女がキューブに語りかける。
『俺が合図をしたら、お前達は部下を引き連れ集会所を制圧しろ。その後は俺がやる』
「かしこまりました」
『抵抗する者はかまわん。……殺せ』
「御意」
 二人の女がそろってキューブの前で敬礼し、キューブは輝きを失って床へ落ちた。
 廃屋を静寂が包み、ゆっくりと夜の帳が迫っていた。

* * *

 次の日、翔は寮の一室ではなく、フリルの屋敷にある使用人の個室で目を覚ました。
 エリカさんは狭い個室が与えられると言っていたが、部屋は寮の一室より広く、学園の教室くらいだった。カーテンの模様は水玉で、床には花柄の絨毯が敷かれている。少々乙女チックな趣きではあるが、狭くて小汚い部屋を予想していたため、良い意味で予想が外れた。
 ベッドの上で目を覚ました翔は、すぐさま着替えて顔を洗い、そそくさと部屋を出てキッチンへ向かう。今日から正式にバイトがスタートし、その初仕事は朝食の用意だ。
「……あ。おはようございます」
 キッチンに足を踏み入れると、昨日見たエリカさんと同じメイド服に身を包まれた少女が一人、かまどの前に立っていた。エリカさんそっくりだが、身長が違うし、あの部分もかなり違う。
「あれ、男の人? ……あわわ、く、黒髪だぁ!」
 少女がビックリした様子で持っていたフライパンをぽーんと宙に放りだした。どうやら目玉焼きを作っていたらしく、落下してきた二眼の朝飯が少女の頭に乗っかった。
(……多分、この子が昨日見かけなかったもう一人の使用人だろう)
 エリカさんが言っていたが、フリル邸の給仕は翔を含めて三人いるらしい。昨日はエリカさんしか見なかったが、どうやら今目の前にいる少女がもう一人の給仕みたいだ。
 髪の色は山吹色で、鈴の付いたリボンで耳の横だけ編み込んでるショートヘア。瞳は茶色で、少し垂れ目気味だ。
「俺は天地翔。今日からこの屋敷で働くことになった。よろしくな」
 エリカさんとは違い、見た目が年下に映ったため、翔は丁寧語ではなくタメ口で話すことにした。おそらく三、四歳は年下だろう。
「え……、あっ! 昨日姉さんが言ってた人だっ! ……あわわ、え、えっとぉ、ユーちゃんは、ユリカ=フォミラテールです。よ、よろしくです」
「エリカさんの妹か。道理で似てると思った」
 見た目でピンときていたが、やはりエリカさんの妹のようだ。エリカさんをそのまま縮小コピーすれば、ユリカちゃんに……、いや、胸だけは比率が違うな。あっちはメロンでこっちはまな板だ。
「今日から朝食の準備と洗濯は俺が担当することになった。あと、夕食と風呂の準備も俺がやる」
「そ、そうなんですか? ……あわわ、ユーちゃんの仕事とられちゃった」
「そんなことないわよ」
 爽やかなフルートの美声と共に現れたのはエリカさんだった。こちらもすでにメイド服で臨戦モード全開だ。
「おはようございます」
「おはようございますテンチさん。そうそう、食事と洗濯、お風呂はテンチさんがやって下さるので、ユリカちゃんは先月までと同じお仕事に戻って頂戴ね」
「あ、はーい。わかりましたぁ」
 元気よく手を挙げて笑うユリカちゃんは、元居た世界に残してきた妹そっくりである。これで、実はドジで家庭科絶望だったらマジで妹とキャラが被る。
(こんな歳で、すでに働いてるんだな……)
 どの世界にも苦労人ってのは居るものだ。こんな子が頑張って働いているのだから、年上の翔が早々に仕事を放棄して逃げるわけにはいかない。法律のこともあるが、ここで大人しく働くしかなさそうだ。
「じゃあユーちゃんは窓ふきに行ってくるです! 朝ご飯出来たら呼んで欲しいです」
「はーい。頑張ってらっしゃいね」
 元気よく飛び出していったユリカちゃんを見送った後、翔は朝食の準備に取りかかった。フリルの好き嫌いなど知ったこっちゃないが、一応エリカさんに確認を入れた所、取りあえず食べられないものは無いそうだ。
 和食にしようかとも思ったが、その日はパンに紅茶、プレーンオムレツにウインナー、レタスというシンプルなものにした。用意が出来たところで、エリカさんがユリカちゃんを呼びに行き、翔は重い足取りでフリルの部屋へと向かう。
「フリルー、朝飯出来たぞー」
 ノックした後、何と声をかけようか一瞬迷ったが、変に丁寧語使ったりすると逆に怒られるので、堂々とタメ口をきく。すると、中からすでに制服で身を包んだフリルがスッと姿を現し、翔を軽く睨め付けてから昨日の食器をフンと突き出した。
「朝の挨拶はおはようでしょ!」
「おはようございますお嬢様」
「む、むぅーっ!」
 どすどすと廊下を歩き去っていくフリル。翔はやれやれと頭を振ってから、その後をおってダイニングへ向かった。
 フリル邸では、主と使用人が同時に食事をとることになっていた。どうせそれほど人数が多いわけでないため、十分ダイニングにおさまる。
 フリルは朝から不機嫌そうに食を進めていたが、飯に対する文句を口にすることはなく、黙って朝食を食べ終えると、洗面所へ消えていった。
(てっきり、あれこれ文句ばかりたれるかと思ってたけど、案外大人しかったな)
 そう思いながら、翔は朝食を終えた後、洗い物をユリカちゃんに任せて自身は洗濯の準備に取りかかった。
 まず風呂場においてある籠から洗濯物を取り出し、続いて裏庭に出て手洗いでそれらを洗う。そして洗ったものを表庭に運び、ハンガーにつるしてお日様に晒す。
 ちなみに、洗濯物は女物ばかりだったが、女姉妹に囲まれている翔にとって大して恥ずかしいことではなかった。元居た世界でも、母さんが朝から出て行く時は翔が洗濯していたのだから。
(大きいのがエリカさんの。小さいのがフリルの。ユリカちゃんは……、まだブラしてないのか……)
 そう考えながら洗濯物を干す。実にわかりやすくサイズの異なっている下着だ。
「あーっ! あ、あんた何してんのよっ!」
「は?」
 手際よく作業をしていると、突如後方からフリルの怒声が響いた。振り返って見つめると、フリルは頬を真っ赤にして柳眉を逆立てていた。
「何って、見ればわかるだろ? 洗濯だ」
「何であんたがあたしの下着まで洗濯してるのよ! ユリカはどうしたの!」
「さあ。俺はエリカさんに言われたとおりにやってるだけだ」
「……う、うー……、あたしの下着には触らないで変態!」
「別に構わないが、それじゃ洗濯できねーぜ? お前のだけ風呂場に放置しといてもいいのか?」
「ぐ、ぐぅ……」
(こいつにも恥じらいってものがあるんだな。まあ、当然と言えば当然か……)
 翔は本日一号のため息をつく。朝っぱらからこの調子じゃ、呼吸がすべてため息に変わってしまいそうだ。
「別にお前の下着なんか興味ねーから、安心しろって」
「――っ!? うぬぬぬぬ、あ、あたしの下着に変なことしないで! それと、さっさと終わらして早く制服に着替えなさい! それで玄関で待機してること! いいわね!」
 それだけ一気にまくし立てると、フリルはフンと鼻を鳴らして屋敷の中へ消えていった。本日二号のため息をもらしながら、翔は洗濯物を干し終え、籠を風呂場に戻してから自室へ戻る。
 昨日、翔が学園長室を去った後、ジジイのもとに届いていた翔の制服をエリカさんが受け取ってくれていた。翔はそれを昨日の晩にエリカさんから受け取り、今日初めて袖を通す。深緑色のブレザーに、灰色のズボン。下には白のカッターシャツと、赤いネクタイ。
 さらに、ジジイは翔のために教科書類も用意してくれていた。受け取っても何が書いてあるかサッパリなのだが、学生である以上、教科書無しに授業受けるのもどうかということで受け取っておいた。
 教科書類を手提げ鞄に詰め込み、筆記具を確認した後、翔は部屋を出て玄関口へ向かった。そこでは、不機嫌面のフリルが腕を組んだまま立っていた。
「遅い!」
「別に待ってる必要なんざねーだろ」
「何言ってるのよ、あんたあたしの召使いでしょうが!」
 そう言いながら、フリルが床に置いてある自分の鞄を持ち上げ、グッとそれを翔へ突き出した。これはあれか、持てって言ってるのか。
「何で俺が?」
「何度も言わせないで。あんたはあたしの召使い!」
「そんぐらい自分で持て」
「うるさいわね! つべこべ言ってないで持ちなさい!」
「てめぇ……」
「何よ、御主人様に刃向かう気? いいわよ、黒こげにされたいならね!」
(こいつ、完全にペンダントのこと忘れてやがるな……)
 カッターシャツの下には、ルーレシア先生から受け取ったペンダントが下がっている。しかし、その事を言ってしまえばフリルの不機嫌レベルが一気に三ぐらい上がるだろう。
「……ったく、わぁーったよ、持てばいいんだろ、持てば」
 翔は悪態を付きながらバッと乱暴にフリルの手から鞄を奪い取った。翔の態度に、一瞬表情を顰めたフリルだが、すぐにご機嫌な様子で玄関の戸を開け、校舎へ向かって意気揚々と歩き出した。現金な奴だ。
「じゃあ、行ってきます」
「言ってらっしゃい」
 翔は玄関で掃き掃除をしていたエリカさんに挨拶してフリル邸を後にし、フリルの少し後方をついて歩いた。
 アカデミーへ続く道、翔は今までと違う、好奇の目に晒されていた。今までは見慣れぬ黒髪が私服で登校しているという点で。そして今は、学園一の美少女フリルの召使いとして鞄を提げて歩いている点で。
「カ、カケル君、お、おはよう……。せ、制服届いたんだね」
「……おっす。ああ、まあな」
 昇降口でばったり会ったヴァイルとグラッティが、目を白黒させながら翔を見つめる。もちろん、服が制服になったからではない。
「住み込みで働くって……、フリルの家だったんだね」
「ああ。……契約書に書いてあったらしいが、生憎、文字が読めなかった」
「カケル君って、普段しっかりしてるのに妙なところで抜けてるね」
(お前に言われたくねー……)
「ちょっと召使い! さっさと教室へ行くわよ!」
 ヴァイル達と昇降口で話し込んでいると、フリルが両手を腰に当てて怒声を響かせた。翔は大きくため息をついてからフリルの元へ歩み寄る。背後からグラッティが、「頑張ってね」と、声援を送ってくれた。
「ホント、トロいわねあんた」
「…………」
「あらなぁに? 言いたいことがあるならハッキリ言いなさぁい?」
 フリルがニンマリと笑みを浮かべて翔の顔をのぞき込んでくる。強者の余裕というか、高いところから見下ろすような目だ。厄介なのは笑顔がマジで可愛いことだろう。
「……何もねーよ」
「ふふふん♪ あらそぉ?」
(くそ……)
 軽いステップで廊下を進み、フリルは堂々と教室へ足を踏み入れた。その後を、気怠い空気を全身から発しながら翔も続く。
 みな、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で翔を見つめてきた。フリルはそんな周囲の反応が楽しいのか、依然笑顔を浮かべたまま、自分の席へ歩み寄る。そして、
「ご苦労様。帰りもよろしくね」
 と、極上の笑顔と優しい口調で喋りながら、翔の腕から自分の鞄をさらっていった。ホント、いい根性してやがる。
「おっはよーん! カケル君っ! 今日も良い天気だねーん!」
「おはよう、フリルの愛の奴隷」
「誰が愛の奴隷だ!」
 席に腰を下ろした後、シェミニとハルルが翔の机へ寄ってきた。何がどう噂になってるのか知らないが、こいつらはすでに翔がフリルの家で働くことになったことを知っているようだ。
 続いてグラッティとヴァイルが教室へ入ってくる。グラッティは自分の机に鞄を置いた後、ヴァイルの机付近へ寄ってきた。
「でも、ホント驚いたよ。まさか、フリルの家の使用人だなんて」
 グラッティが、チラチラとフリルを見ながら話す。翔が横目で確認すると、フリルは上機嫌な様子で、別段こちらの話を聞いているような感じはない。
「リンドブール語が読めて、ちゃんと契約書を確認してたらサインしなかったさ。出来ることなら昨日の夕方に戻ってやり直したい」
「あっははーっ! そーね、そうしたいよねー。だってぇ、このままじゃあカケル君、フリルファンの男達全員を敵に回すことになっちゃうもんねーん!」
「……は?」
 シェミニがカラカラ笑いながらそう言うと、隣のハルルも無言で頷いていた。ヴァイルとグラッティが顔を見合わせ、その後、憐れむような目で翔を見つめる。
(何だ、おい。……そんな目で見るな)
「だって、カケル君。フリルと一緒に寝泊まりして、一緒にご飯たべて、一緒にお風呂入って――」
「入ってねーよ!」
「洗濯中にフリルの下着見てハァハァしてー」
「するか!」
「ムラムラして夜中にフリルの部屋へ忍び込んでー」
「……いい加減怒るぞ」
「眠ってるフリルにガバーッて野獣のごとく襲いかかるんだもん! そりゃーフリルファンに恨まれますってぇー」
「野獣。鬼畜」
「……てめぇら」
 シェミニは腰をキュンキュン振りながら、両手を頬に添えて楽しそうに翔を見つめていた。ハルルは、いつも通り表情をあまり変化させずに翔へ視線を送っていた。
「でも、確かに気をつけた方がいいかもよ。フリルは学年問わず人気があるから」
「……ったく、代わりてぇ奴がいるなら喜んで代わってやるよ」
「それは無理だね。契約書にサインしちゃった以上、雇用期間が過ぎるまでは法律上やめられないから」
 ヴァイルが他人事のように笑顔で言った。しかし、その笑顔の片隅に少しは羨望が含まれているに違いない。グラッティもそうだろうが、こいつらだってフリルの事が好きなのだ。翔がフリルの家で寝泊まりすることを、あまり良くは思ってないだろう。
(学園の男全員を敵に回す……か……。考えただけでも恐ろしいな……)
 すでに本日何度目になるかわからないため息をつき、翔はそっと横目でフリルへ目を遣る。
 フリルは頬杖をついて窓の外を眺めていたため、どんな表情をしているか確認できなかったが、口角はやんわりとつり上がっていた。
 きっと、笑っているのだろう。

* * *

「あひゃーっ! た、大変ですぅーっ!」
 漆黒の空間。青白く光る線で、床に描かれた迷路のような幾何学模様の上を駆け回る一人の少女が、今にも泣きそうな顔で頭を抱えていた。
 銀髪のセミロングはボサボサに掻き乱され、目の下には濃い隈がある。頭の上にはプカプカと金色の輪っかが浮いており、力なく点滅を繰り返していた。
「気の毒な少年のパラメータが別世界にアドジャストされていきますぅー。……このままじゃ、少年は元の世界に戻れなくなってしまいますぅ。あうぅ……、も、もしそんなことになったら……」
 頭の中で何か思いついたようで、少女がブルブルと体を震わせながら天を仰ぐ。
「い、急ぐです! すでにいくつかのパラメータが変化して、違う上位クラスの能力を継承し、それが混じり合って特異発現しつつあります。完全に発現する前に、何とかしないとまずいのです!」

* * *

 翔がフリルの召使いとなって三日。この意味不明な力が蔓延る世界は至って平和に時を刻んでいた。
 ここで、そんな平和で何の変哲もない翔の日常を少しだけ紹介しておく。
 朝――
「ちょっと! 今日のスープは塩気が強いわよ! それにパンが焦げてる! 前にも注意したはずよ!」
 フリルは初日こそ何も言わなかったものの、その後は毎日翔の作った朝食に対して文句をたれる。しかも普通に食べていれば気づかない程度のことを大にして怒るのだ。
「そりゃあ悪かったな」
 そんな理不尽な怒りなど、適当に流すに限る。毎日腹を立てていたら相当なエネルギーの無駄だ。
「…………。ファイアッ」
 当然フリルの怒りは増す。問答無用で魔法をぶっ放す。
「ぶぅーっ! ば、馬鹿っ! いきなり何しやがんだ! 食事ぐらい静かに食えっ!」
 大人しく謝っておけば済む話が、どうしても翔の口から謝罪の言葉は出ない。
「テラブレイクッ!」
 フリルの魔法攻撃の威力が増していく。凄まじい火炎が巻き起こり、エリカさんが結界魔法を使わなければ今頃ダイニングはズタボロだ。
「ぐあああああっ!」
「ははん! いい様ね!」
「……お嬢様、それにテンチさんも。食事中はお静かにと、何度も繰り返し注意してますでしょう?」
 エリカさんは柔らかな口調で型どおりの注意を一度だけする。
「お嬢サマも、カケルにーちゃんも行儀悪いーっ」
 ユリカちゃんはご飯を美味しそうに食べている。
 これが、平和で何の変哲もない朝だ。
 昼――
「ちょっとあんた! あたしはBランチを頼んだはずよ? これは何!」
 食堂で、召使いは御主人様の分も料理を運ばなければならない。まあ、それくらいは我慢できる。しかし、フリルはいつも曖昧な言葉でしかメニューを言わない。
「ああ? お前さっき、今日はAランチの気分だとか言ってたじゃねーか!」
「その後訂正したでしょ! さっさと取り替えてきなさい!」
 それで、もし翔が持ってきた料理が自分の思っていたのと違う場合、当然のごとく翔を叱責するのだ。
「……またあの行列の最後尾に並べっつーのか? ……Aランチで我慢しろ」
 昼の食堂は混む。これはこの世界でも常識らしい。
「ぬううううっ!」
「わかってるだろうが、今はペンダント付けてるぜ?」
 学校にいる間はこれが使えるため、魔法による怪我の心配はない。ただし、あまり使いすぎると帰ってからが怖いため、ほどほどにする必要がある。
「わかってるわよ! だから……」
「……だから?」
「殴るっ!」
「ぐはっ!」
 物理攻撃だろうが何でもあり。向こうは主、こっちは従者。圧倒的に不利だ。
 これが平和で何の変哲もない昼である。実に普通だ。
 夜――
「ちょっと召使い! お風呂のお湯がぬるいわよ!」
 魔法が使えない翔にとって、風呂を沸かすのは一苦労だ。屋敷の外で、風呂釜の下にあるスペースへ薪を投げ入れ、必死に風を送って火を起こし続ける。少し休むとすぐに火が弱まり、屋敷の中からフリルの怒声が飛んでくる。
「……はあ、はあ……。……くそっ、フゥーッ! フゥーッ!」
「ちょっと! ぬるいって言ってるでしょっ!」
 ガラガラガラと風呂場の窓が開き、目をつり上げたフリルが顔を出す。立ちこめる湯気の中、フリルの白い裸体がぼんやりと瞳に映り、この時ばかりは翔も動揺を隠せない。
「ば、馬鹿っ! 窓開けんなっ!」
「え……? あっ! きゃーっ! 痴漢! 変態!」
「お前が勝手に顔を出し――どああああっ!」
 そしてお決まりとばかりに魔法をぶっ放すフリル。網膜に焼き付けたはずの映像が一瞬で消え去ってしまうほどの痛みが全身を駆け抜け、気が付けばいつも、目の前でエリカさんが翔の体に包帯を巻いている。ホント、生傷が絶えない。ユリカちゃんが癒し魔法使えてよかった。
 これが平和で何の変哲もない夜。欠伸が出るほど退屈でつまらないものだ。
 余談。夕方──
「おい、お前! そう、お前だ!」
 翔がフリルの鞄を持って昇降口で待機していると、全く見覚えのない男子生徒にからまれる。元居た世界では絶対にお目にかかれない異様な髪の色をした、キザったらしいナルシストっぽい男。
「ああ? 何か用か?」
「黒髪で大した実力無いくせに、ラファードさんと一つ屋根の下寝食を共にするなど、言語道断! 僕と正々堂々勝負しろ!」
(意味わかんねー啖呵切ってんじゃねーよ)
 この世界に頭痛薬という物はないものかと嘆息する。男子はどいつもこいつもあの女に夢中の馬鹿ばかりだ。代われるもんなら代わってやると言ってるのに。
「はあ。勝負って、何するつもりだ?」
「決まってるだろ! 魔法で勝負だ!」
「俺が魔法使えないって知らないのか? そんな奴に勝っても逆に情けないだけだぜ?」
「ぐ、う……」
「俺はフリルの所で働いてるんだ。使用人としてな。勝負するなら料理洗濯風呂炊き、掃除だろう。……やるか?」
 フリルに惚れてるような馬鹿共は基本的に扱いやすい。単純というか、まあ、アホばかりなのだ。
「ぬぬぬぬぬ!」
「大体、俺が好きこのんであの生意気で傲慢でワガママなフリルの元で働いてると思ってるのか? 出来ることならさっさとやめちまいたいよ」
「ふーん、そう。あの生意気で傲慢でワガママなフリル……ね」
(あ……)
 いつもこんな感じである。ホント、タイミングばっちりで、フリルはいつも登場する。登場時の表情が素直な笑顔だった試しがない。いつもアレだ、睨むか冷めた目つき、または微妙に引きつった裏のある笑顔。
「御主人様に対する陰口、へぇー、良い度胸してるわね」
「…………」
「うふ。さあ召使い、早く屋敷へ戻りましょう。……わかってるわね?」
 帰った後何されるかは、容易に想像がつくだろう。これが平和で何の変哲もない夕方である。
 翔がフリルの家で働くようになっての日常。それは平和で何の変哲もない日々だ。少しばかり感覚がおかしくなりつつあるのは、繰り返しフリルの魔法を喰らったせいかもしれない。
(……って、俺、すっかりこの世界に馴染んでるな)
 考えてみれば、すでにこっちの世界に来て一週間以上過ぎている。元居た世界に帰る術など全く探しておらず、流れるまま今の世界に適応していった。
 しかし、一週間以上留守にしているということは、元居た世界で翔は行方不明扱いなのだろう。両親、姉や妹も心配してるかもしれない。学校の友人達も、きっと。
(警察沙汰になってるかな……。新聞に載ってたりしてな……)
 そう言うことを考えると、どうしても気分が沈んでくる。今のままでいいのだろうか。しかし、今を変えるにはどうしたらいいのだろうか。どうやってこの世界に来たかもわからないのに、どうやって元居た世界に帰るかなど、わかるはずもない。
「何ボーッとしてんのよ! 早くアカデミーに行くわよ! ほら、さっさと荷物持ちなさい!」
 翔には物思いにふける時間もない。何かと口うるさい主が、四六時中あれこれ翔に命令してくるから。
 翔は嘆息し、自分とフリルの鞄を担いで家を出る。今日も、きっと何の変哲もない一日となる。そう、考えながら。
トップ  目次  前へ  次へ