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第八章 少年は少女に別れを告げる

 小鳥の囀りが響く世界。翔はフリルの屋敷の庭で洗濯物を干していた。真っ青に染まる空に燦々と輝く太陽。今日は天気が良く、きっと洗濯物の乾きもいいだろう。
「おーい、カケルーっ! そろそろ学園へ行くわよー」
「わかった。もう少しだけ待ってくれ」
 こんなの、してもしなくても変わらないんじゃねぇかというサイズのブラを洗濯ばさみで吊し、翔は空になった籠を浴室へ戻してから玄関へ移動した。すでにフリルが学園指定の白いカラーの付いた赤いワンピースの制服で身を包み、手持ちぶさたに胸元で結われた緑色のリボンをいじっていた。
「遅いわ! 朝の洗濯くらい、ちゃっちゃとやりなさい!」
「うるせぇな。大体、何で毎朝洗濯してるのにお前の下着が何着もあるんだよ! お前、一体何度着替えしてんだ?」
「お、女の子には色々あるのよ!」
「……ったく。あんなブラ、してもしなくても大差ねーじゃねぇか」
 思わず本音が口を衝いて出てしまい、言った瞬間、翔はしまったと後悔した。
 目の前のフリルの表情がみるみる歪んでいく。ただでさえ洗濯で時間がかかったせいでご機嫌斜めだというのに、火に油を注ぐような発言はまずい。
「う、うふふふ……。そうね、確かにカケルの言うとおりだわ……。私の胸なんか、まだブラジャーを着ける必要なんてないわよね」
「あ……いや……。えっと、ほら、遅刻したらまずいだろ? 急ごうぜ?」
 米神に青筋を浮かべるフリル。爆発したら厄介なので、これ以上つつかないよう注意しながら、翔はフリルの鞄をサッと奪って玄関から駆け出した。
 憮然とした面持ちを浮かべたまま、フリルは爆発することなく仕方ないと言った感じで翔の後に続いた。そしてすぐに、従者の後ろというのが嫌なのだろう、フリルが翔を押しのけて先頭に立ち、翔はやれやれとため息をつきながらフリルの後をついて歩いた。
「おはよう、カケル君」
「おっすカケル」
 広場で元気よく挨拶してくるグラッティとヴァイル。気付けばヴァイルは翔を呼び捨てで呼んでいる。随分とフランクになったものだ。
「お、おはようフリル。きょ、今日も可愛いね」
(ぬお?)
 普段、翔には挨拶してきても、前方にいるフリルには決して挨拶しなかったグラッティが、今日に限って奇行に走った。しかも可愛いなんて平然と、いや、かなり緊張した面持ちだが、とにかく可愛いなんて言葉を公然と吐きやがった。
「……おはよう」
 フリルもフリルで、普段下僕か奴隷かその程度にしか見てないようなグラッティにちゃんと挨拶を返す。おいおい、一体何がどうなってんだ。
 翔が一人呆然としていると、ヴァイルがそそくさと翔の脇に歩み寄り、そっと耳元に小声で、
「カケルのお陰だよ。フリルにグラッティ、そして僕も変わることができたのは」
 と囁いてきた。翔が怪訝な顔つきで見つめ返すと、ヴァイルはニカッと晴れ晴れしい笑みを浮かべた。
「学園の危機を救っただけでなく、さらわれた王族の少女を助け出した英雄。みんな、カケルの勇気ある行動に突き動かされたってこと。グラッティなんか、《僕ももっと勇気ある人間になりたい》って、躍起になってるのさ」
「はは……。俺が知らねぇところで随分傅かれてるみてぇだな」
「それにフリルも……」
「は?」
「気付かない? フリル、丸くなったというか、角が取れたというか、その、柔らかくなったと思う」
 ヴァイルと一緒にフリルを見つめると、フリルは翔を見つめていたようで、目があった瞬間、怒ったよな顔でツンとこちらに背を向けた。丸くなった、ねぇ。
「ほらカケル! 遅刻したらみっともないでしょ!」
(変わったような、全く変わってないような……。まあ、よくわかんねぇや……)
 翔は小さく嘆息して、フリルの後を追った。グラッティとヴァイルも、翔達の後をつかず離れず追ってくる。
「やっほーん! おっはよーみんなぁー」
「おっはー」
(何だよ《おっはー》って……)
 教室の扉を開けた瞬間響いてくるシェミニの元気な声と、意味不明なハルルの挨拶。毎度お馴染みというか、いい加減こいつらのテンションにも慣れてきた。
「おはよう」
「――っ?」
「……? どうしたの、シェミニ?」
 開口一番、フリルが笑顔……とまではいかないにしろ、全く敵意のない表情で挨拶をすると、シェミニが呆けた顔であんぐりと口を開いていた。そんなシェミニの行動に、フリルが小首を傾げている。
 やはりフリルも変わったのかもしれない。ずっと一緒にいる翔にも、本人にも自覚はないようだが、周りの反応を見る限り、挨拶を返す時点で、すでに今までのフリルには見られなかった行動らしい。
「フリル、何かあった?」
 一人驚いた様子を見せないハルルも、平生自分から話しかけないフリルに面と向かって尋ねる。フリルは目をパチパチさせながら、「別に何もないけど?」と答える。
「そう……。ふーん……」
 ハルルは何を納得したのか、翔を見つめて頷いていた。一体何が言いたいんだ、あの目は。
 翔は嘆息しながら、好奇の視線を逃れつつ自分の席に着いた。
 これからまた、何の変哲もない日々が続く。そう、思いながら。

* * *

 ジジイに呼び出しを喰らって、翔は学園長室へと放課後移動した。ジジイが一番疑問そうに首を傾げていたのは、どうやってフリルが連れ去られたスペルゴッドとかいう聖バートリアムからかなり遠方に位置する国から戻ってきたのか、ということだった。
「何か、どっかの魔導師にワープ魔法を使って貰いました」
 と、適当な嘘をつきつつ翔は演技を続ける。自分では良いセンいってるような気もするが、端から見たらやはりダイコン役者なのだろうか、ジジイの表情は依然、怪訝に満ちている。
 実際の所、今の翔は自分が強く念じた事を起こせるという唐変木な力がある。魔法を信じて、強く思い描けば、どんな魔法だってお手の物だ。だから、本当はどっかの魔導師うんうんではなく、城を抜け出して森で一夜を明かす時、フリルが寝ている間に翔自身がワープ魔法を唱えて戻ってきたわけだ。
「うーむ。瞬間転移系の魔法は失われたと聞いておったが……。まあ、何はともあれ無事でよかったわい」
「はい。私も、二人揃って行方不明になった時は気が気じゃありませんでした」
 ジジイの隣で安堵の表情を浮かべているのはルーレシア先生。屋敷に戻った時、エリカさんとユリカちゃんも、今のルーレシア先生みたく優しい笑顔と元気いっぱいの笑顔で迎えてくれた。きっと、心配で泣き出しそうなのを堪えていたのだろう。
「詳しい話は後日聞くとして、今日はもう帰っていいわ」
「はい。では、失礼します」
 二人に一礼して翔が廊下に出ると、そこには見知らぬ生徒がまるで翔が学園長室から出てくるのを待っていたかのように、壁にもたれていた体を起こしてジッと翔を見つめた。
(何だ……? 知ってる……ような……)
 翔をジッと見つめるのは、学園の制服で身を包んだ一人の少女。見覚えがあるわけじゃないが、空気というか、雰囲気というか、身に纏っている風を何故か知っているような気がした。
「天地翔さん。ここでは何ですし、向こうで話しませんか?」
 少女はいきなりそう言うと、翔の返答を待たずに廊下を歩き出した。翔は意味もわからず、でも何故かついて行かねばならないような予感を覚えて後に続いた。
 人気のない校舎裏に連れて行かれ、少女がクルッと踵を返す。銀色の髪がまるでサラサラという音が聞こえてきそうなくらい艶やかに靡き、そのルビーのような瞳が翔を捉えて離さない。
「えっと、あの、どうして俺の名前を? それに、君は一体……」
「わかりませんか? 私の名前は、あなたにわかるよう発音すればシーカとなります」
「シーカ? ……っ!? ま、まさか、詩歌なのか?」
 翔の問いに、少女はコクンと頷いた。かなり雰囲気は異なるものの、目の前の少女は元居た世界で会った天使と名乗った詩歌に相違ないらしい。
「前回お会いした時と異なり、今の私は本体ではなく、あくまでメッセンジャー役を務めるだけのエージェントです。事務的な言葉遣いで申し訳ありません」
 前とイメージが違うな、などと考えていたら、すぐに詩歌は返答をよこした。本体じゃないとか言ってるけど、それでも相手の思考は読めるようだ。
「あなたに伝えるべき事柄があります」
「……なんだ?」
「この世界の時間軸上で、今日と明日が交わる時、あなたの存在はこの世界から元居た世界へ転移されます。また同時に、記憶修正プログラム、整合性管理機構の矛盾制御が実行され、あなたとあなたに関わった人物から一連の記憶が消去、修正されます」
「な――……」
 詩歌はあくまで事務的に淡々と話した。わからない言葉も多いが、簡潔に言ってしまえば、《今までのことが無かったことになる》、そう帰結できた。
「ど、どういうことだ!」
「世界の安定を維持するために必要な措置です。長期に別世界の人間であるあなたがこの世界に留まってしまうと、世界基盤に影響を与えます。私は管理者として、それを防ぐ責務があります」
「そんな……。でも、俺は……、俺はっ!」
「あなたの意志、願望は関係ありません。これはもう決定事項です」
 そう言い終わった瞬間、詩歌の体がボンヤリとぶれだして、向こうの景色が透けて見え始めた。
「ま、待てっ! 俺は嫌だ! こんなの、こんな結末はっ!」
 翔の言葉は虚空に消え、虚しく響き渡るだけだった。詩歌の姿は完全に消え、その場には翔が一人、ポツンと佇むだけだった。
「何だよ、いきなり……」
 頭の中が真っ白になる。ここまで来て今更、今までのことはすべてなかったことになるなどと言われて、しかも自分の力ではどうしようもないのでは、絶望するしかなかった。
 この世界なら翔は何でも出来る、そう思った。けれど、結局、翔は何も出来ない。
(俺は……)
 これが結末。そう、言い聞かせるしかないのか。
 ふと思い浮かぶフリルの顔。あの煌めく金髪に、透き通るようなブルーの瞳。翔が初めて心から可愛いと見とれた少女。
 ずっと、これからずっと、フリルに痴漢呼ばわりされて、徐々に大きくなっていくであろうフリルのブラを洗濯して、文句垂れながら翔の作った食事を食べるフリルを見つめていられると思っていた。
 それらが一瞬にして消え去った。だから、心に浮かぶのは絶望の二文字。
(いや……、本当にそうか?)
 絶望しているのなら、どうして翔は今、笑っているのだろうか。いや、表情が笑っているのではない。何だろう、晴れ晴れしい気持ちと、安堵感、そして焦燥と寂しさが同居しているような気持ち。
 翔がこの世界に戻った理由がフリル。フリルをアッシュから救い出せた時点で、当初の目的は達成されていた。だからだろうか。この、安堵感のようなものは。
 別れが迫り、それを拒みたい気持ちは強い。けれど、別れの時を迎えるまでにフリルを取り戻せた、救い出せたという安堵も今の翔の中にはあった。
(そうか……。俺は……)
 翔が空を見上げると、沈みかけた夕陽が世界を金色に染め上げていた。とても穏やかで、心安らぐ世界の風貌。
 翔は歩を刻む。フリルが腹を空かせて待っているだろう。エリカさんやユリカちゃんに余計な面倒を掛けさせるのも申し訳ない。急いだ方がいいだろう。
 翔は走った。フリルが待つ、あいつの屋敷に。

* * *

 時計の針はすでに十一時半を回っていた。エリカさんユリカちゃんはすでに割り当てられた部屋へ戻っており、フリルも風呂に入った後、自室へと引き上げていった。
 翔は一人食卓で頬杖をつきながら時計を見つめていた。
(あと、三十分か……)
 時計の針は無情に時を刻み続ける。だが、翔の心は自分でも驚くくらい穏やかだった。詩歌の話を聞いた直後に走った動揺も、今は何処か遠くへ行ってしまった。
 最後の晩餐、翔は至極普通に過ごした。フリルの文句にはいはいと返事をし、ユリカちゃんに好物の肉を自分の皿を減らして増量してあげた。エリカさんの豊満な体をチラチラとのぞき見し、それをフリルに咎められた。
(あと、十五分……)
 翔は立ち上がり、そっと居間を後にした。吹き抜けの廊下に出ると、すでに屋敷内はひっそりと静まりかえっていた。
 一瞬、フリルの寝顔でも最後に見て行こうかとも思ったが、すぐにその考えを払拭して、翔は玄関の戸を静かに開いて外に出た。
 月明かりで明るい小道を、学園へ歩き出す。こんな時間に出歩いているのは翔一人だ。後はコウモリが飛び交うくらいで、世界はとても静かだった。
 こつこつと歩みを続けると、寮から登校する生徒と合流する広場にたどり着いた。寮を見つめると、もう殆ど光は灯っていない。
 翔は広場の中心にある、一際大きな木に歩み寄った。すべての始まりの場所。ここで翔はフリルに出会った。
 キスをした。魔法を放たれた。ペンダントを見せて泣かした。
 そっと幹に手を添えて、翔は上を見上げる。何本か折れている枝は、翔がこの世界に来た時折ったものだ。
「色々あったな……。けど、それももう、終わりか……」
 翔がそう漏らしながら、そっと瞳を閉じようとした時――
「何が、《もう終わり》なのかしら?」
「え……?」
 突然響いた声に、翔は驚いて振り返った。
 そこには月光を全身で浴び、長い金髪をキラキラと輝かすフリルが立っていた。白いネグリジェ姿で、キッと翔を鋭い視線で見つめている。
「答えなさい! 何が《もう終わり》なの?」
 フリルの表情が少しだけ歪む。まるで、翔がこれから言う言葉を予期しているように見えた。
「……俺は、元居た世界に戻る」
 翔は冷静に、落ち着いた声音で言った。言った瞬間、フリルの眉がピクッと動いたが、翔が詩歌の話を聞いた時みたいに驚愕の表情を浮かべるということはなかった。
 静かに時間が流れる。屋敷を出てどれくらいたっただろう。もう、あまり時間は残されていないはずだ。
「どう、して……?」
 ようやく、フリルが絞り出すような声で言った。必死に強気な表情を維持しようとしているのか、小さく肩が震えていた。
「天使がそう言ったんだ。俺がこの世界にいると、世界そのものに悪影響があるって」
「…………」
「だから世界を安定させるため、俺を元居た世界に戻し、そして俺に関わった人間すべての記憶を消して、俺がこの世界に来たことは初めから無かったことになるらしい」
「記憶を……消す?」
「ああ。……だから、フリルも、あと少ししたら俺のことなんざ綺麗サッパリ忘れちまうらしい」
 その瞬間、辛うじて維持していたフリルの緊張が切れた。途端にフリルの目には大粒の涙が溢れ、みるみる表情が歪んでいく。
(……また、泣かせちまった)
 目の前で泣き崩れるフリルを、翔は静かに見つめた。どうしてフリルが泣いているのか、勝手な解釈をすれば、きっと――
「今まで、ありがとうフリル。俺、お前に会えてよかった」
 翔は自分の妄想だろうが、勝手な解釈だろうが、そんなことどうでもいいと思った。目の前のフリルは、翔と別れるのが辛い。だから泣いてる、と。
「一度、天使に元居た世界に戻された時、俺はそこで終わりだと思っていた。けれど、向こうの世界にいる人に言われて気付いたんだ」
 フリルは涙を零したまま、無言で翔を見つめていた。
「俺、フリルのことが好きなんだ……って。だから、どうしても護りたかったんだって。本当ならあのまま終わるはずだった結末を、ここまで引き延ばせた、お前を護ることが出来た。だから、もう――」
 翔の言葉を、校舎から響く時計台の鐘がかき消した。夜なので音量は落としてあるものの、翔の声はそれ以上に小さかった。
 翔の体を光が包みだした。それは月光ではなく、もっと強い光。
「時間……か。……じゃあな、フリル」
「カケルッ!」
 突然、フリルが大地を蹴って翔に抱きついてきた。嗚咽を漏らしながら、強く、強く翔の体にしがみついてくる。
「馬鹿! 御主人様を置いて勝手に居なくなる気? 法律違反は死刑なのよ!」
「……そう言えばそうだったな」
 翔を包む光が、淡くフリルの体も包み込む。二人の体が眩い光の中で密着し、フリルが泣いて歪んだ表情で翔を見つめる。
 今なら、許されるんじゃないか。翔はそう思った。
「フリル……」
 今なら、きっと。拒まれないんじゃないか。
「カケル……」
 光の中で、翔はフリルの唇を奪った。柔らかくて、瑞々しいフリルの唇。初めて会った時の記憶がフラッシュバックし、頭の中に鮮明な記憶として浮かび上がる。
 唇を通じて交わる想い。翔は強く強く、フリルの華奢で細い体を抱きしめながら唇を押し当て続けた。
 光量が増す。徐々に、目の前にあるフリルの顔すら見えなくなってくる。世界が真っ白に染まっていき、五感も喪失されていく。
「フリル」
 言葉は想いを乗せて光の中を彷徨い、唇だけが相手の存在を認識する手段。
「カケル」
 二人を分かつ光の壁。触れあう唇も、もう、感覚はなくなっていた。
 世界が変わる。翔の世界と、フリルの世界がずれる。
 
 
 光が虚空に消え去った時、広場には少女が一人、佇んでいた。
 虚ろな目で空を見上げる少女。夜空に浮かぶ、すべての者に等しく優しい光を降り注ぐ月が、少女の濡れた頬を静かに照らし続けていた。

FIN
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