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第一章 魔女と練水術師

 初秋のこの時期、農村ならば黄金色に輝く小麦畑が悠々と靡いているはずだった。
 しかし、荒んだ畑には黒ずんで穂の腐った麦しか見当たらず、麦を狙ってやってくる雀達の死骸が畑周辺に累々と積み重なり、それらが異臭とともに見た目の嫌悪感を誘発している。
 外壁のない、周囲を木の杭で囲まれただけの長閑で小さな農村。例年ならこの村も、例に漏れず小麦の収穫に追われているはずだった。
 だが、一歩村の中へ足を踏み入れれば、この村が他の農村と同じ例年の秋を迎えていないことなど一目瞭然だ。
 畑は荒れ放題。砂利道を行き交う人の姿もない。あるのは、何処からともなく響いてくるくぐもった呻き声のみ。
 それはまさに悪魔の仕業だと言えた。農村の平穏を崩し、多くの民を苦しめる悪魔がこの村を襲い、人々は悪魔がまき散らした呪いによって病の床に伏していた。
「はい、これでいいはずです」
 村にある小さな宿。本来この時期は小麦を買うために大きな街から行商人達が押し寄せ、宿は連日大盛況のはずだが、今は村の外から来た人間など殆どいない。
 そんな宿の一室で、村の外からやってきたウィスは、目の前で薄汚れたシーツの敷かれたベッドに横たわる老婆に木彫りのコップを手渡した。
 皺だらけの顔が過ごしてきた歳月と共に、その中に多くの苦難があったことを物語り、腫れ物でぶつぶつの手からは穢れた病の臭いがする。ボロ布をつなぎ合わせた三角頭巾で髪を隠しているが、確認しなくとも頭巾の下にあるのが艶のないごわごわとした白髪であることは推測できた。身を包む茶色のローブも穴だらけで、何度も補修したつぎはぎだらけの代物だ。見た目の風貌は、見捨てられた村に住まう人生の終点でうずくまる弱者でしかない。
「ゆっくりと、しとしとと喉を徐々に潤していくようにゆっくりと飲んで下さい」
 老婆の肩に手を添えながら上半身を支え、ウィスは出来るだけ穏やかに微笑んでみせる。線のように細い老婆の目に、栗色の髪をして鶯色の双眸を携えるウィスの顔がどう映っているのかわからないが、それでもウィスは品を売る商人のような笑みを崩さない。
 かたかたと震える手に握られた木のコップの中で水が揺れ、ぴちゃぴちゃという音共に淡い光が零れ出る。太陽の光を浴びているだけよりももっと柔らかな光が水面からあふれ出ていた。
 こくんこくんと、老婆が水を少しずつ喉を通す音が木霊する。口から溢れた水が老婆の顎を伝い、ぽたりと汚れたシーツへ染みいっていった。
「どうですか?」
 ウィスは空になったコップを老婆から受け取って優しい声音で尋ねる。水を飲み終えた後、しばらくの間くちゃくちゃと音を立てながら何度も口を開いたり閉じたりを繰り返していた老婆だったが、やがて何か体の中で変化が起きたように、すーっと線のように細かった目を見開いた。
 枯れたような松葉色の瞳に自分の姿が映ったのを確認して、ウィスは老婆に白い歯を見せた。それに呼応するかのように、老婆が今まで浮かべていた苦しげで絶望のどん底に落とされたような表情から年期を積んだ笑みに転じる。
「あー、あー、あ、あり……、ありが……と、う」
 老婆が瞳の端に涙を抱えて嗄れた声を漏らす。歯の抜け落ちてうまく発音できないせいか、老婆の口から零れるのはぎこちない感謝の言葉だった。
「いえ、礼には及びません。これは僕の使命ですから。では、お元気で」
 ウィスは老婆の手を握ってそう告げた。先程まであんなにできものでいびつだった老婆の手が、少しだけ柔らかで人間らしい手に戻っていた。
 立ち上がり、ウィスは首元の紅い紐で留めた熊の毛皮で出来た外套を翻して部屋を後にする。
 老婆の体からはもう呪いの気配はないから、心配はないだろう。
 そう思いながら、ウィスが二階の客室から一階の受付に降りていくと、ウィスを待っていたように一人の若者が近寄ってきた。先月十六になったばかりのウィスよりも二歳ほど年上だろうか。茶色の髪はボサボサで手入れされておらず、顎のまわりには無精髭が伸びていた。
「あ、あんたが聖水をただで配り歩いているっていう男か?」
 ウィスのもとへ駆け寄ってきた男は、まるで神にもすがるような表情でウィスを見つめてくる。ウィスが首肯すると、瞳の縁に涙を浮かべて腕をとった。
「助けて欲しい人が居るんだ! 頼む、聖水を分けてくれ!」
「わかりました。その人は、今どちらに?」
「俺の家だ! は、早く聖水を!」
「聖水の扱いはとても難しいものです。僕がやりますから、案内して下さい」
 焦る男に極力冷静な声音でそう告げ、ウィスは男に連れられて宿を後にする。
 今、この村を恐怖に貶めているもの。それが疫病という名の悪魔で、それは呪われた水を体内に取り込むことで発病してしまう典型的な呪いの一種だ。
 古来より疫病はたびたび人間に多大な被害をもたらしてきた。疫病は呪われた水により広まるため、その背後には魔女と呼ばれる呪詛を司るという存在が囁かれる。
 魔女が呪いの水を作り出し、魔女はそれを散布して呪いを振りまく。
 この世界に住まう者なら誰しもそんな話を聞いたことがあるだろう。
 だがそんな呪いを祓う術はある。それは神の祝福を受けた聖水と呼ばれる水を体内に取り込むことである。
 聖水は教会が管理し、教会が民を救うために配給している。しかし実際は高額な寄付金という名の布施を収めた者のみに支給されるものであり、この村のように貧しい農民では寄付金を収めることができず、教会から見放されることも少なくない。
 渾々と聖水が湧き出す聖泉と呼ばれる泉がある場所に教会は建てられ、教会は民の信仰と寄付金による収入を巧みに操って大きな権力を獲得している。
 つまり今の時代、教会の権力は大国の王に引けを取らないほど、強大なものとなっている。教会に逆らうことは、大国を敵に回すことに匹敵するのだ。
 教会に従うことは、教会が神と崇める唯一神を信仰することと同義であり、それに逆らうこととは異教の神を崇拝することを意味する。魔女とは、呪いの水を振りまく者という意味の他に異教の神を崇拝する異教徒という意味も内包している。
「ここです」
 ウィスが通されたのは、村の外れにある小さな農家だった。玄関から一歩中へ足を踏み入れた瞬間、ウィスには他者には感じることができぬ強烈な異臭を感じ取った。
 それはそなわち、呪いの臭いだった。
「……俺の、家内だ」
 一室に通されたウィスの目に映ったのは、まだ二十歳にもなっていないであろう若い女だった。だが女の肌には黒い斑点がぶつぶつと浮かび上がっており、開かれた瞳孔は焦点が定まらないまま虚空を見つめていた。
 眼球が乾ききってしまっているせいか白く濁っており、開けっ放しの口からは夥しい量の唾液が溢れだしている。げっそりと痩けた頬に骨が浮かび上がる腕。それはまさに、呪いに冒されて生気を抜かれた者の姿だった。
「…………」
 ウィスはそっと女のもとへ歩み寄り、その手首をとってみた。ウィスが触れても女は何の反応も示さず、ただ呆然としているだけだ。
 こんな人間をウィスは何人も見てきた。穢れた呪いを受け、それに苦しんだり、苦しむことすら出来なくなった人々の姿を。
 この世には呪いが満ちている。呪いを受けて苦しんでいる人々は、それこそごまんと居る。そして、たとえ呪いを受けても教会に高額な寄付金を収めることですぐに祓ってもらえる貴族達と違い、呪いを受けて長い年月を苦しみ続けるのは、農村や町の裏通りに住まう弱者ばかりだ。
 ウィスはこの世の不条理を頭の中で繰り返しながら、そっと外套の下に提げている皮のバッグから手のひらに収まるくらいの硝子の小瓶を取りだした。
 小瓶の中では無色透明の水が揺れている。呪いを与える毒でもあれば、呪いを払う薬でもある水。この小瓶に含まれている水がなんなのか、ウィスはもちろん把握している。
 コルクの栓に手を添え、ウィスはすっと瞳を閉じた。
 体の中で光を灯す。深い森の奥でひっそりと湧く泉をイメージしながら、深呼吸を繰り返す。
 そしてウィスがカッと瞳を開いた瞬間、ほんの一瞬だけポッとウィスの手が輝き、小瓶に含まれている水に変化が訪れた。
 小瓶の水が光り輝き、水から溢れた光が硝子の瓶にあたって乱反射を起こし、まるで虹のような七色の光が小瓶から雪崩のように零れ出す。
「そ、それが聖水ですか……?」
「はい。これを飲ませれば、この方はきっとよくなります」
 神の福音とも言われる聖水を目の当たりにしてか、男が畏怖の眼差しで小瓶を見つめている。それが本当に聖水なのかどうかを知っているウィスは別段表情を変化させず、視線を男から女へ移し、その肩に手を添えた。
 女に反応がないことを再度確認して、ウィスは瓶の栓を外して無理矢理女の口へ瓶の中の水を流し込んだ。途端に咳き込む女の口を手で押さえ、水の逆流を遮る。
 強引なのは百も承知だ。これでもし水が気管支に入ったりしたら肺炎を起こす可能性もある。だが、それはあくまで普通の水や呪いを帯びた水の話であり、今飲ませた水においてはそんな心配は要らない。
 しばらく暴れていた女が、急に大人しくなる。ウィスはそっと女の口元に当てていた手を離し、女の顔色を窺いながら様子を見る。
 心配そうに寄ってきた男が女の手を取ると、女がぴくっと反応を示した。たちまち女の肌から黒い斑点が薄れていき、ぱさぱさに乾いていた髪に水気が浮かぶ。
「ヘレナ! ヘレナッ!」
 女の反応に男が嗚咽混じりの歓喜の声を漏らす。くすんだ灰色の瞳に生気が戻り、女が瞬きを繰り返すと、乾いて濁っていた瞳が潤んで涙が浮かんだ。
 焦点の合った目で自分を見つめる女に、男がひっしと抱きつく様を見届けてから、ウィスは無言のままその部屋を後にした。
 男の家を出て、天高い秋の青空を仰ぐと、ウィスの頭上を数多の鳥たちが通り過ぎていった。
 疫病が蔓延した村はしばしば神に見捨てられた村と称され、人だけでなく動物たちすら近寄ることを拒むと言うが、こうして鳥たちが村の上空を飛んでいく景色が見られるのならば、もう大丈夫だろう。
「ふぅ」
 小さく息を吐いたつもりがため息になっていたことに少しだけ苦笑し、ウィスは宿に続く帰路へつく。
 立場上あまりこの村に長居するのはまずい。修道士でもない旅人が、偽善者を装って聖水をただで配り歩いているという噂が教会の耳に入れば、教会の連中が黙っているはずがない。瞬く間に教会騎士団を派遣して偽善者を縛り上げるだろう。
 それは面倒だ。ほぼ呪いで苦しんでいた村人達の解呪は終わったことだし、後は宿の主に先程使ったのと同じ小瓶を数本渡しておけばいいだろう。
 そう思いながら、ウィスは歩きながらバッグを漁って小瓶を取り出す。
 小瓶の中に入ってるのは、今はまだ普通の真水だ。しかし、
「……っ!」
 ウィスは瓶の栓に手を添えながら息を吐いた。頭の中に荘厳なイメージを抱き、心に光を灯すという抽象的で他者に説明しにくい感覚を研ぎ澄ませる。
 すると小瓶の中の真水が眩い光を帯び、瓶から虹が零れ始めた。ただの真水が、キラキラという擬音を本当に発していそうな神々しい水へと変化した証だ。
 ウィスの持つ特別な力。それは教会が金の成る木として独占している聖泉から湧き出す聖水と同じものを、普通の真水から精錬すること。
 聖水と同じく呪いを祓う力をもった水。ウィスはそれを聖水と区別して練水と呼び、自らを練水術師と自称していた。
 自称したところで名乗ったことなど一度もないのだが、それは些末な問題である。
 練水術師。ウィス=ド=ホーランベルグ。
 そんな肩書きも悪くないと思いつつ、ウィスは次から次へと小瓶を取りだして真水を練水へと変えていく。
 人知を超えた能力は公に晒せば例外なく教会より異端の烙印を押され、魔女狩りと同様に処刑されるだろう。だが現実として、ウィスのような異能の持ち主が教会に捕まったという話はない。ウィスは自分以外に練水術を扱える人間を見聞きしたことはない。
「ふう。これだけ練水しておけばいいか」
 十本の小瓶に含まれる水をすべて練水し終え、ウィスは大きく肩を上下させる。
 これらを宿屋の主に渡し、今夜にはこの村を出よう。
 ウィスはそう思いながら宿へ向けて歩を刻み続けた。


 空は澄んだ青から茜色に染まり、何時の間にか亜麻色に変わっていた。
 星々が煌めく夜空をそっと仰ぎながら、ウィスは少しばかり獣臭のする毛布で体を包んで身震いした。
 まだ初秋とはいえ、北の地方の朝晩は結構冷える。もっと南の地方出身である寒がりのウィスとしては、火でも起こしてその前に両手をかざしたいところだ。
「しっかし、神に見捨てられた村を訪れては聖水を配ってまわるとは、なんとも立派な修道士様だな」
 火を起こして暖を取りたいのは山々だが、今は馬車に揺られる身なのでそれは不可能。
「いえ、そんなことありません。僕なんかまだまだ駆け出しの見習いです」
「しかし、ただで聖水を飲ませてくれるなんて聞いたことないぜ。お前さんには悪いが、教会の連中といえば表向き民のためにとか言ってやがるが、結局は金のあるヤツにしか聖水を渡してくれねぇからな」
「そうですね。ですが、私に聖水を渡して下さった司祭様は違います。お金のある貴族からは高い布施を巻き上げ、お金のない弱者のところへは、私のような見習いの修道士を派遣してこっそりと無料で聖水を飲ませて差し上げるのです」
 適当な嘘をつきつつ、ウィスは馬車馬の手綱を握る男と会話を続ける。
 疫病という名の悪魔に襲われた村から出る際に、宿で偶然その村を通り抜ける途中だった行商と出会い、ウィスは隣町まで乗せていってもらうことにした。男は毎年その村に小麦を買いに来ていたらしいが、今年は疫病が蔓延したせいで小麦が収穫できなかったことを知り、たいそう肩を落としていた。
 がたいのいい、ウィスよりも十歳は年上であろう大男が肩を落としている様は正直情けなかったが、男は宿屋の主からウィスの話を聞き、空元気を奮ってウィスを隣町まで乗せてくれると申し出てくれた。ウィスは、心の中で男に情けないと思ったことを詫びながら同乗させてもらうことにした。
 男にはウィスが教会の修道士であると言っているが、それは嘘である。ウィスは自称練水術師として村から村へ旅を続ける旅人である。自称が他称に変わることはないだろう。
「世の中には立派な司祭様も居るんだな。少しは旅の安全を祈願する時に教会へ足を運ぼうという気になったぜ」
 逞しい腕で手綱を強く引きながら男がカラカラと笑った。
 教会の陰口など、本当の修道士に聞かれたら間違いなく通報されて男は拘束されてしまう。行商は幾多の苦難を乗り越えてきた屈強な人間が多く、事ある度に神頼みをしたり、不運な時には神を呪ったりする人種だ。
「もうすぐエングローベの町並みが見えてくるだろう。俺も今日はそこで宿を取るつもりだ。よかったら一緒に酒場でも行かないか? 今日は俺のおごりだ」
「よろしいのですか?」
「おうよ。カルサックで小麦を買えなかったのは痛いが、前に寄った村で質の良いライ麦を大量に安く購入できたからな。それをエングローベで売れば、それなりの稼ぎにはなるだろう。それに、カルサックの宿屋の親父には昔から交友があってな。その親父がお前さんのことをたいそう買っていたんだ。親父にとっての友は、俺にとっても友ってことさ」
 口ひげを生やした厳つい男がニカリと笑うのは正直恐怖を他者に与えるが、ウィスは努めて冷静を装い、「ではお言葉に甘えて」と社交的な笑みを浮かべた。
 路銀が心許ない身としては、甘えられるところでは甘えたい。それが本音だった。
 二人を乗せる馬車はとろとろと砂利道を進む。
 既に陽が落ちて漆黒の闇が覆う夜道を全力疾走するのは得策ではないし、蝋燭も松明も灯さずに進んでいる故、いくら夜目が利く行商が手綱を握っているとはいえ、さほど先まで見渡せるわけではないだろう。エングローベの町までそれほど距離はないということなので、別段焦る必要はない。
 馬車は一頭の馬車馬に引かれる小さなもので、二人乗りの乗車席と動物の皮をつなぎ合わせた母衣で覆われた小さな荷台があるだけだ。
 乗り込む前にちらっと窺ったが、荷台に載っているのは皮の袋が数袋と、木樽と木箱が一個ずつだった。皮の袋に入っているのが、先程話に出たライ麦だろう。そしてその前に聞いた話によれば、木樽に入っているのが葡萄酒、木箱に入っているのが干し肉や干し芋といった乾物と、腐りにくくて堅い黒パンだという。町から町へ渡り歩く行商の常備食料としてはよく聞く代物だ。
 何故木樽に入っているのが真水ではなく葡萄酒かというと、まず第一に真水のままでは保存が難しいという点がある。そのため、腐りにくいビールや葡萄酒が旅の水分確保に用いられる。そしてもう一つ、真水は純粋であるが故に呪いに弱い。もし呪いを受けてしまい、呪いの水を行商が土地から土地へ運んでしまった場合、その罪は極刑に値する。それを恐れて、呪いに強いとされる酒を旅の供とするのだと言われる。
 もっとも、単純に行商は孤独な職種であるため、その寂しさを紛らわせるために酒へ逃げるという説もある。酔いで孤独を紛らわせながら道を進むという。
「そう言えばまだ名乗ってなかったな。俺はゴーン。ゴーン=ライバスだ」
 孤独な行商が歯を剥いて名乗る。ウィスは伸ばされてきた手を握り、
「ウィス=ド=ホーランベルグです」
 まったく悪意のないゴーンの笑みに社交的な笑みで応じた。


 ゴーンと名乗った行商と共に、ウィスはすっかり夜の帳が降りてそろそろ日付が変わろうかという頃合いにエングローベという町へたどり着いた。カルサック村と打って変わり、町の周囲には獣や盗賊から町を守るための立派な石造りの外壁がある。
 カルサック方面から伸びている砂利道の公道はエングローベの東門に行き当たり、真夜中とはいえ、いやむしろ真夜中だからこそかもしれないが、三人の衛兵がキリッとした表情で門の前に佇んでいた。
 槍を構えてウィス達の乗っている馬を止め、二人の衛兵が積み荷のチェックを行う。町には町の産業を守るために持ち込みが出来ない品物や、巨額な関税が掛かる宝石の類は厳しいチェックが入るらしい。ウィスは行商人ではないから詳しく把握していないが、以前聞いた話で、外から町に持ち込んでは行けないものが他にも沢山あるらしい。
 その一つにウィスにもなじみ深いものがある。水だ。
 衛兵は積み荷の確認を終えた後、最後にウィスとゴーンの衣類の中に水を含むものがないかをチェックした。道中でウィスはすべての小瓶を空にしておいたので、ゴーンが衛兵に町への入町税を支払うとことなく町の中へ入ることができた。
 水はどの町でも必ず危険視される。飲み水を町へ持ち込んでいいのは、王の許可を得た正規の水商人だけだ。それ以外の行商や旅人は、例え自分が飲むためのものであっても、町へ踏み入る前にすべて廃棄しなければならない。これも、先程木樽の中身が水ではなく酒であると言った理由の一つである。
 門を越えて町の中へ入ると、すでに多くの民家はランプの灯を消しているせいか、町の中だというのに外道と変わらぬほど薄暗かった。ゴーンがゆったりと馬を進め、まだ光の見える町の中心部へと向かう。
 エングローベは比較的大きな町で、ここで暮らす人口も少なくない。この地方を治めるトルトリア王国の中でも一番西に位置し、西に延びるリベール登山道を越えれば隣国のレベルトール公国にたどり着くことができる。リベール登山道の中腹には両国を分かつ関所があり、レベルトールからトルトリアへ訪れる行商や旅人の多くは、このエングローベで一泊した後に各地へ進むケースが多い。
 北にはこの地方で一番大きなサン・ゴスペル教会があるため、年中を通して巡礼者は後を絶たず、東にはカルサック村を始めとする小さな農村が点在し、いくつも町を越えて南東へ進めばトルトリアの王都、ヴァルセスがある。どの地方へ行くにしろエングローベを通ることになるため、エングローベは中継の町としても栄えている。
「思ったよりも到着が遅れちまったな。この時間じゃあもう市場は閉まってるだろう。ライ麦を売るのは明日にして、今日は宿を取った後に軽く酒場で一杯やるか」
 ゴーンが寝静まった農業区にゆったりと馬を進めながら言い、ウィスは首肯で応じた。
 正直な話、十六になったばかりのウィスはまだあまり酒に免疫がなかったが、ただでエングローベまで同乗させてもらった上に向こう持ちで食事に誘ってくれているのだ。酒の席に同席して付き合うくらいしなければ申し訳ない。
 町の中心部にはまだ松明を灯している店が何軒が立ち並び、ウィスはゴーンとともに宿を取ってから宿の隣にある酒場へと足を運ぶことにする。
 宿の馬小屋に馬車を止め、二部屋借りてそれぞれの部屋に荷物を運んだ後、宿の前で待ち合わせして酒場へ移動すると、もう時間も遅いというのに、酒場にはちらほらと客の姿がある。おそらくはゴーンと同じ行商の人間ばかりだろう。サン・ゴスペル教会へ赴く巡礼者が夜遅くに酒を嗜んでいるとは考えにくい。
 蝋燭の炎が仄かに店内を照らす薄暗い中を進み、ウィスとゴーンはカウンターに腰を下ろした。
「ではまず、俺達の出会いを祝って乾杯といこう」
「はい」
 木製の大きなコップになみなみとビールが注がれ、マスターがそれをウィスとゴーンの前に置く。ゴーンが高らかとコップを掲げ、ウィスは控えめに持ち上げてからこつんと互いのコップをぶつけて一口ビールを喉へ流し込む。
 ビールは地方によって発酵の度合いが違い、一概に同じ味だとはくくれない。どうやらこの町のビールは苦みが強いらしく、正直辛かった。
「ぷはーっ。おいマスター、適当に食べ物も出してくれ」
 ゴーンがコップに注がれたビールの半分を一気に飲み干して顔をほころばせた。もっと大人になれば、ウィスにもこのビールがうまいと感じることができるのだろうか。
 立派な顎髭を生やした縦にも横にも大きいマスターが、営業スマイルを携えたまま次々と料理をカウンターに出してくれた。堅焼きのパンにスライスした肉と生野菜を挟んだものや、焼き魚、根菜のスープなど、久々の豪勢な食事に思わずウィスの喉が鳴る。
「美味しそうな料理ばかりですね」
「おう。この町はあちこちから新鮮な食材が届くからな、料理の美味さはトルトリアでも群を抜いている。この町を通り抜けるときの一番の楽しみが上手い食事をとれることだ」
 待ちきれないと言わんばかりにゴーンが食事に手を飛ばし、片手でビールの入ったコップを握ったまま勢いよくがっつき始めた。大の大人がマナーもへったくれもなく料理を口の中へ流し込む様は、威勢がいいというより獣じみている。
 だがそうしたい気持ちもわからなくもない。目の前に置かれている料理は、どれも食欲をそそる美味しそうなものばかりだ。
「ここは俺のおごりだって言っただろ? さっさと食わねぇと俺が全部食っちまうぜ?」
「はい。では遠慮無く頂きます。言っておきますが、僕は見た目は華奢ですが相当量食べますよ?」
「そりゃあ見物だ。俺も好物から手を出していかないといかんな」
 すでに酒が回り始めているせいか、ゴーンはとても上機嫌だった。ウィスも少なからず上機嫌であるのは違いなく、一度手を出したら途端に次々と皿に手が伸びる。
 見た目や香りもさることながら、味も抜群だった。先程あまり美味しいと感じなかったビールまでもが美味しく思えてくる。旨い料理があっての苦いビール。それを実感しながらウィスは次々と料理を口に運んだ。
 山羊か羊のものであろう肉には良い加減で塩が利いており、その絶妙な塩加減はアルコールのよい肴になる。根菜スープが冷え切った体を芯から温めてくれ、焼き魚の身はほくほくとしてとても淡泊だった。
「本当に美味しいです。こんなの今までに食べたことがありません」
「ほほう、お前さんはどうも他の修道士と違って質素な生活を送ってるみたいだな。こんな安っぽい酒場で出る料理だ。見た目は豪勢だが、そんなに値の張る料理じゃねぇぜ?」
 上機嫌のゴーンが酔い任せに店の批評を漏らすと、マスターがギロッとゴーンに鋭い視線を送った。ゴーンがその視線に気づいた様子はなかったが、ウィスはマスターに困った顔で笑みを送る。
「確かに聖職者の方々は宴会がお好きで、貴族や王族の方を招いてしばしば豪勢な食事会をお開きになりますからね。教会に所属する修道士であれば、その恩恵を享受することもできるでしょう」
 修道士を始め、教会に所属する聖職者達が湯水のように金を使って豪勢な食事を毎日食べているのは有名な話だ。ウィスが修道士だという嘘を信じているから、ゴーンはそう思ったのだろう。
 滑稽な話だが、教会は高い寄付金を納めた者にのみ聖水を渡す。そしてそんな高い寄付金を納められるのは貴族や一部の商工人であり、教会は商工人から巻き上げた金を還元して贅沢を送っているのだ。金が一部の人間の間を行ったり来たりしているというのは、そういう一連の流れがあるからだと言われる。
「お前さんは違うのか?」
「はい。私は町から町へ、村から村へ放浪を続ける旅の修道士ですから、宴会の席に招かれたことはありません。それに路銀が心許ないものですから、町へたどり着いてもなかなか豪勢な食事にはありつけません。まだまだこれから訪れなければならない土地はたくさんありますから、普段は倹約して食事も質素なものばかりです」
「ん、エングローベに来たのは教会に戻るためじゃねえのか? 俺はてっきり、お前さんはサン・ゴスペル教会の人間で、そこに戻る途中だとばかり思っていたが」
「はは、違いますよ。あそこにいらっしゃるのは私なんかよりもずっと位の上にいらっしゃる聖職者の方ばかりです」
 実際、この辺りの教会の総本山であるサン・ゴスペル教会には名のある司祭や著名な神父しか居ない。あとは選りすぐりの教会騎士団が駐留しているくらいだろう。
「巡礼中で各地の教会を渡り歩いてるって感じだな」
「はい、そちらの方が近いですね」
「しかし、それじゃあ聖水はどうするんだ? サン・ゴスペル教会には立ち寄らないんだろう? どこかの教会で補給しなけりゃならんのじゃないか?」
「いえ、まあ……。その辺りは教会の機密事項ということで」
「ん、そうか。あまり立ち入ったことを聞くのはまずいな」
「そうしていただけるとありがたいです」
 適当に話をはぐらかしたところで、酒が入って機嫌の良いゴーンは別段気にした様子はなかった。ただでさえ教会の内情に触れることは禁忌とされているので、危険を冒してまで知りたいという物好きでもなければ突っ込んだ質問はしないものだろう。
 会話を切り、がつがつとその大口に料理を流し込むゴーンに負けじと、ウィスも軽快に食事を口に運ぶ。まだ満腹にはほど遠い。
「ほう、旅する修道士とはまた珍しいですね」
 ふと気づけば、マスターがウィス達の会話に耳を傾けていた。店内を見渡せばすでに客の数もずいぶん減っており、マスターも閉店の準備を進める一方でカウンターに腰掛けているウィス達に話しかけてきたという感じだ。
「もしかしてエングローベに訪れたのは、南にあるスルベニアに現れたという魔女を退治するためですか?」
「ま、魔女ぉ!?」
 マスターの口から零れた言葉にゴーンが一瞬体を硬直させる。
 このご時世、魔女という存在を知らぬ者など居ない。ゴーンが肩を強ばらせたのは、魔女を知らないからではなく、その存在を聞いて恐怖したからだろう。
 呪いを操り人々を苦しめる存在。魔女が現れた村は例外なく厄災に見舞われ、疫病や飢饉などにより多くの命が失われる。そして例外なく、呪いの水が湧き上がる。
「お、おいおい、スルベニアに魔女が現れただって? そんな話聞いたことがないぞ」
「つい最近の話です。どうやら魔女が呪いを振りまいて、ペストに苦しむ住民が出ているようです」
「マ、マジか……」
 ペストとは疫病の一種で、黒死病ともよばれる呪いだ。呪いの水を体内に取り込んだ者は、カルサックで見た女性のように肌に黒い斑点が浮かび、死を招く穢れた呪いとして人々に恐れられている。
 魔女が呪いを振りまいている村などと聞いたら、普通の人間なら誰も近寄りたいなどとは思わないだろう。そしてよほど裕福な村でもなければ、教会がわざわざ出張ってきてその救済に当たるとも思えない。
「魔女が現れたという村について詳しく知りませんか?」
「そうですね、すでに教会騎士団が動き出しているという噂はあります。情報が錯綜しています故、村の詳しい状況はわかりません」
 マスターが首を左右に振った。
 もし魔女が現れたというのが本当なら、きっとスルベニアはカルサックのような状況に陥っているはずだ。助けを待つも誰も現れず、滅び行く運命に身を任せる絶望の村。まさに、神に見捨てられた村と化している可能性は高い。
「……どうした。そんな深刻な顔をして」
「ああ、いえ。魔女のことが少し気になりまして」
 ゴーンが魔女という単語を聞く度に嫌そうな顔をする。それはそうだ。普通の人間なら口に出すことすら躊躇うような存在なのだから。
「まさかと思うが……、行くつもりなのか?」
「はい」
 嘘だろうという顔をしながらのぞき込んできたゴーンにウィスは言い淀みなく答える。
 スルベニアはエングローベから人間の足でも一日あれば移動できる距離にある。早朝に出れば、何事もなければ夕方には村に到着するはず。
「やめといた方がいいぜ? 下手にそういう村に立ち寄ると、村から出られなくなる可能性だってある」
 ゴーンが言っていることはもっともだ。疫病に冒された村は教会が厳重に隔離することもしばしばある。カルサックではそのようなことはなかったが、魔女が現れたという噂が流れるくらいだ。もしかしたらマスターの言うように教会が騎士団が派遣し、すでに村を隔離しているかもしれない。その場合、入ることはできても出ることはできなくなる。
 呪いは伝染する。呪いは新たな呪いを生み、被害を最小限に抑えるためには呪いを隔離するのが一番なのだ。
「心遣い感謝します。ですが、僕には呪いに苦しむ人々を助けるという義務がありますので」
 それでもウィスはスルベニアを訪れる意志を曲げない。
 呪いに困っている人が居るところへ赴くのがウィスの使命なのだから。
「ゴーンさん、僕は早朝にスルベニアへ向けて発ちます。ですから今日はこの辺りでお暇させていただきますね」
「本当に行くつもりなのか……」
 心配そうに呟くゴーンにウィスは笑顔を送りつつ腰を持ち上げる。ふと視線を向ければ、マスターもまた、ゴーンと同様に心配げな視線をウィスに向けていた。
「大丈夫です。僕には神のご加護がありますから」
 そう言い残してウィスは酒場を後にする。背中に二人からの視線を感じながらも、ウィスは振り返らず表に出た。
 すでに日付は変わってしまっているだろう。冷たい夜風が頬を撫で、ウィスは小さく身震いする。
 早朝出発すると決めた以上、早く床について少しでも体を休ませよう。明日、いや正確にはもう今日だが、今日は丸一歩きっぱなしになるだろうから。
 そう思いながらウィスは酒場の隣にある宿の一室へ戻り、間もなくベッドの上で寝息を漏らした。


 エングローベからスルベニアへ伸びる公道は小川に沿って進む砂利道だ。背の低い草木が繁茂する草原を道の部分だけ開拓した小道であり、馬車が双方向からやってきたら片方が草原に乗り上げないとすれ違うことは出来ない。
 行き交う人も殆どなく、ウィスに視界には空を泳ぐ鳥たちと、草原で踊るトンボくらいしか映らない。秋の空は高く、どこまでもその青が広がっていそうだ。もし世界の果てがあるのならば、空はどのように終わるのだろうかと考えてしまう。
 ウィスは肩から皮のバッグを提げ、藍染めのシャツと茶色のパンツを身に纏い、その上に熊の毛皮の外套を身につけている。手には木の杖を握り、大きな鞄を背負って公道を進んでいた。
 これなら思ったよりも早くスルベニアに着きそうだ。
 ウィスはそう思いながら心の中でゴーンに礼を言う。今朝、早々に宿を発とうとしたウィスを呼び止めたゴーンが、途中まで馬車に乗せてくれたのだ。
 本当なら魔女が現れたという地域になど近寄りたくもなかっただろう。しかしゴーンは、ウィスが「ここでいいです」と断らなかったら村まで送ってくれそうな気配すらあった。内心は魔女に恐怖しながらも、ウィスのために恐怖を押し殺しているのは手に取るようにわかった。
 流石に村まで送ってもらうのはゴーンに悪いし、ウィスとしても良心の呵責に苛まれる。村まであと数キロという地点でウィスが降りると言った時、ほっとした表情を浮かべたゴーンだったが、ウィスはそれを決して薄情だとは思わなかった。
 別れ際に、ここまでしてくれたゴーンに何の礼も無しでは心苦しいと思い、エングローベを出る間際に真水を詰めた小瓶を取りだしてゴーンに手渡した。もちろん、手渡す直前に練水術を施して、練水へと変えてから。
 ゴーンが「何時の間に聖水を補給したんだ?」と首を傾げていたが、ウィスはそれに答えず笑みを送った。
「……あれがスルベニアか」
 ここに至るまでの経緯を頭の中で思い起こしていると、ウィスの視界に小さな集落が映った。まだこの位置からでは遠目にポツポツと建物が建っているくらいしかわからないが、エングローベとスルベニアの間には小さな村の一つもないということなので、あれがスルベニアで間違いないだろう。
 もう少しだと気合いを入れ直してウィスは一歩前足を踏み出したとき、ふとウィスはある気配を感じ取って歩を止めた。
 人の気配がする。しかも一人や二人ではない。
 ウィスは少し躊躇してから慎重に歩を進めた。するとしばらく道なりに行ったところで数人の武装した男達が検問を張っていた。
 銀色の甲冑には教会の紋章が描かれている。手に持っているのは魔を祓うという銀の剣だろう。パッと見ただけで確信もって言える。あれは教会騎士団の連中だ。
「おいそこのお前。この先の村は現在魔女出没のために封鎖中だ」
 騎士の一人が偉そうな態度でウィスに詰め寄ってくる。大層な髭を生やしていかにも騎士臭をまき散らす男にウィスは内心毒を吐くが、それを口に出したり表情に出せば間違いなくここが人生の終点になってしまう。
「承知しています」
「ほう、わかっていながら来たのか。何用だ」
「私は村から村へ旅を続ける放浪の医者です。魔女の呪いによって苦しむ方々がこの先にいらっしゃると聞き及び、私の持つ知識で何とか助けてあげられないものかと思い至って参りました」
「医者だと? ふん、魔女が振りまくのは医者風情が治療できるような病ではない。聖水なくして魔女の呪いを祓うことはできん」
「確かにその通りです。ですが劣悪な環境では他の病を併発させてしまう恐れがあります。私は教会の方が聖水を持ってこの村をお救いに来てくださるまで、他の病によって村人が命を落とすことないよう尽力したく参りました」
 適当な嘘をペラペラと口にするウィスを騎士が訝しげに見つめてくる。
 ここで挙動不審になってはいけない。常に堂々と。時には偽の修道士を語るウィスにとって、表情を偽るのはもはや日常茶飯事だ。
 ウィスと話していた騎士が一旦仲間の所へ戻る。数人の騎士達が何やらひそひそと話し合いを続け、時折ウィスへ疑惑の眼差しを送りつけてくる。その度にウィスはにっこりと微笑んで見せた。
 しばらくして先程の騎士が戻ってくる。ウィスは待たされたことなど全く気にする素振りを見せず、ただただ偽りの笑みを顔に貼り付ける。
「いいだろう、通行を許可してやる。ただし、一度ここを通過した後は、魔女狩りが終わってすべての呪いが祓われるまで出られぬぞ」
「はい。承知しています」
 騎士は脅すつもりで言ったのだろう。しかし凄まれても表情を一切変化させずにいたウィスに、騎士は舌打ちして道を空けてくれた。
 他の騎士達にもぺこぺこと頭を下げつつ、ウィスは検問を突破する。
 まだ村までは二キロほどある。これだけ離れていたら、公道を外れて村を抜け出す者が居てもおかしくないだろう。これではあまり検問の意味がない。
 それは何故か。そんなの、魔女が怖いからに決まっている。教会騎士団だと威張りくさっている連中とはいえ、結局は魔女が怖いのだ。だからこうして村から離れたところに検問をしき、もし魔女が現れたら一目散に逃げるのだろう。
 そんな騎士達を内心でせせら笑いながらウィスは歩を刻む。
 同じく魔女を恐れる者とはいえ、ゴーンのような行商と騎士では立場が違う。ゴーンが魔女を恐れるのは当然だと思って別段情けないとは思わないが、騎士は騎士だ。情けないと思うどころか怒りにも似た感情を覚える。
 ようやく見えてきたスルベニア。カルサックと同じく立派な外壁などなく、どこからが村なのか境界がはっきりしない。公道の両脇にいつの間にか家が建ち並び始め、周囲がいつの間にか草原から畑へと変わる。
 どこからが村なのかはハッキリしなかったが、ウィスにとってそんなことはどうでもよかった。ウィスにとって外界と村内を分かつのは、呪いの臭いがするかどうかだ。
「……これは相当だな」
 思わず独り言を漏らしてしまう。それほどまでに、スルベニアを包む呪いの臭いは強かった。カルサックの比ではない。
 魔女が居るという噂も、あながち嘘ではないかもしれない。
 ウィスは、魔女と呼ばれる存在はおそらく呪いに精通した知識人だと考えている。つまり、人工的に呪いを生み出して人々を苦しめる悪意に満ちた人間だと思っている。
 実際に教会が魔女狩りをして吊し上げるのは見た目は普通の人間ばかりだ。教会は魔女として吊し上げた理由を、その者の家から呪いの水を精製するのに必要な黒魔術の道具が発見されたからだとしているが、教会の人間以外がその真偽を確かめる術はない。
 魔女の存在が何であろうと今は関係ない。ウィスにとって大切なのは、呪いを受けて苦しんでいる人が居るという事実であり、それを救うことこそがウィスの使命だ。
 閑散とした村の中を練り歩き、ウィスは人影を探す。カルサックと同様、収穫期だというのに畑に人の姿はなく、黄金に輝くはずの麦穂はどす黒く腐っている。
「この村に何用じゃ」
 畑に目を奪われて道の真ん中に佇んでいると、前方から嗄れた声が聞こえた。
 ウィスは腐った麦から視線をスライドさせる。すると真っ黒なローブで全身を包む背の曲がった老人が立っており、大地に刺さって老人の体重の一部を支える杖がカクカクと震えていた。
 細い目を片方だけ開き、訝しげに老人がウィスを見つめてくる。真っ白な髪やローブから伸びるしわくしゃな手を見る限り、六十に届こうかというご老体であるとウィスは察する。六十といえばかなり長寿の部類に入る。
「私は教会の人間です。この村が呪いに苦しんでいると耳にし、聖水を持ってはせ参じました」
「聖水? おお、ではあなた様も聖職者の方でしたか。これは大変失礼しました」
「……あなた様も、とはどういう意味でしょうか」
「おや、昨日訪れた方は同じ教団の方ではないのですか?」
「……っ」
 思わず声が漏れそうだったのをウィスは必死に堪える。
 迂闊にも何の情報も集める前に教会の人間だと名乗ってしまった。すでに本物の聖職者が村に入り込んでいようとは、夢にも思わなかったからだ。
 普段は一通り呪いが収まってから教会の人間は村の内部まで入ってくる。それまでは呪いの飛び火を恐れて近寄ろうとしないからだ。いくら聖水があるとはいえ、自分達が穢れるのを好まない連中だから。
 しかし本物の教会の人間がいるのは厄介だ。本物は教会が発行する教会の紋章が入った木札を携帯しているという事実を知っているため、ウィスの嘘など容易にばれてしまう。
「……いえ、その、私は聖職者ではなく、教会の掃除などをさせて頂いている下人です。今回は懇意にしている司教様に頼まれ、下人の身でありながら聖水をこの村までお届けするという大任を授かって参りました」
 少々苦しい言い訳だが、修道士だと言いふらされても困る。
 ウィスは苦笑にならないよう気を張りながら老人に穏やかな笑みを送った。老人はその言葉をどうやら信じてくれたようで、その瞳から疑惑の色が消える。
「呪いに冒された方はどちらに?」
「はい。裕福な者は広場で先に到着された司祭様に聖水を頂いています。しかし寄付金を納めることができない者は、司祭様の命令で麦倉庫に集められています」
 老人が心苦しそうに言う。同じ村の民でも、代々引き継がれる土地の広さは異なる上、豊作凶作も局所的に起こりうる。寄付金を払える者とそうでない者がいるのは当然で、払えない者は同じ村の人間とはいえ迫害され、隔離されてしまう。例え、それが親戚のものであっても。
「わかりました。ではその倉庫に案内して下さい」
 ウィスはそう言って、老人の後に続いた。


 予想通り、倉庫の中には呪いの異臭が立ちこめていた。
 苦しげな呻き声を漏らす人々であふれかえり、とても衛生的とは言えない劣悪な環境には、すでに事切れている人も少なからずいた。
 ウィスはまだ息のある人間に練水術で練水した水を飲ませていく。教会に見捨てられた後は、苦しみながら死に行くばかりだと思っていたであろう人々に、ウィスは救いの手を差し伸べる。
 水が尽きれば近くの川から汲み上げて瓶に詰める。今の時点では川の水も呪いで穢れている可能性もあるが、練水術は呪われた水ですら聖水と何ら変わらぬ練水に精錬することができる。
 練水を飲まして呪いを祓っても、また同じ呪いの水を飲んでしまっては元も子もない。完全にこの村から呪いを祓うためには村人が生活で使用する水の大元に練水術を施す必要があるが、それは骨の折れる作業だ。
 今日はすでに呪いで穢された人々の救済に専念し、明日以降に呪いの大元を探って浄化を施すとしよう。
 ウィスはそう思いながら、川の水を小瓶に移し替えてバッグに詰め、先程の倉庫へ戻ろうと踵を返した。そしてしばらく歩を進めた時、
「あなたが無料で聖水を配布しているという方ですか」
 突然、ウィスの鼓膜を若い男の声が揺らした。ウィスがそっと顔を持ち上げると、道の真ん中でまるでウィスを待っていたかのように若い男が口角をやんわりとつりあげて佇んでいた。
 男にしては長い茶色の髪。狐のような細目に狼のように横に裂けた口をした男は、教会の人間が身に纏う真っ白なローブを着ていて、首からは十字架の形をしたネックレスを提げていた。
 間違いない。この男が先に村に訪れたという本物の司祭だろう。
 背筋を嫌な汗が流れる。それでもウィスは社交的な笑みを崩さず、現れた二十歳くらいの男から視線を逸らさない。ここで変に怪しい素振りを見せたら、村の外で待機している教会騎士団が押し寄せてこないとも限らない。
「はい。そうです。あなた様は先に救済を開始なされた司祭様ですね?」
「ええ。サン・ゴスペル教会のマルク=リーベンスです」
「ウィス=ド=ホーランベルグです」
 マルクと名乗った司祭が手を伸ばしてきたので、ウィスはそれを取って軽く握手をする。表面上は穏やかに微笑んでいるように見えるマルクだが、内心ではウィスが何者なのか見極めようと思考を巡らせていることだろう。うっかりボロを出さないように気をつけなくてはならない。
「この先には川しかありませんが、何をしていらしたのですか?」
「用を足していただけです」
「……そうですか。しかし、聖水を無料で配布するとは聞いたことがありませんね。失礼ですが、あなたが所持している聖水を見せていただけますか?」
「はい。構いません」
 マルクが手を伸ばしてくる。ウィスの持っている水が本当に聖水なのかどうかを見極めたいのだろう。極刑を設けていても、教会の人間を語り、聖水だと言ってただの真水を売り飛ばす人間は後を絶たないのだ。マルクはウィスが向こうの川で汲んだ水を瓶に詰めたと思っているのだろう。実際その通りなのだが。
 ウィスはバッグから瓶と一本取り出す。取り出す直前に意識を集中させて練水術を施し、ただの川の水から聖水と何ら変わらない練水へと変化させた。
「……確かに聖水のようですね。これだけの輝きを放つということは、とても上位の聖泉から湧き出した聖水に違いないでしょう。失礼ですが、どちらの教会に所属していらっしゃるのですか?」
 聖水が本物だとわかって驚いた表情を一瞬浮かべたマルクだが、すぐにまた笑顔に戻って探るようにウィスへ問いかけてくる。
「申し訳ありません。司教様の言いつけにより、教会名を明かすことはできません」
「そうですか。いえ、それなら仕方在りません」
 司教は司祭よりも地位が上に当たる。マルクもそれを知っている故、強く問いただすことができないのだろう。もしウィスが言っていることが本当であったなら、自分より位の高い人間にたてついたことになるからだ。
「あなたが所属する教会にいらっしゃる司教様はとても崇高な考えをお持ちの方なのですね。財政の厳しい教会において、聖水を授与する対価として受け取る布施は貴重な収入源だと言いますのに」
「私が懇意にしている司教様は、貴族や王族には高額の布施を要求し、一日一日を生きることが精一杯の方からは一切布施を受け取っていません」
「なるほど、お金はあるところから取る。そういうことですか」
「はい」
 まだ疑っているような視線を緩めないマルクに、ウィスは明朗な笑みを浮かべてみせる。
「まだ倉庫に呪いに苦しんでいる方がいらっしゃるので、私はこれで――」
「もう一つだけお聞きしてよろしいですか?」
 ウィスがマルクの脇を去ろうとした時だった。何かを思いついたような声音でマルクがウィスを呼び止め、ウィスは強ばりそうだった表情を必死に抑えて振り返る。
「……何でしょうか」
「私が倉庫へ行くように命じた村人の数は相当数に上ります。ですが先程様子を見に行ったところ、随分多くの方が呪いから救われたようですね」
「はい。それが、何か?」
 マルクがしてやったという顔を浮かべる。ウィスにはその意図するところがわからず、ただただ眉根を寄せてマルクを見つめ返した。
「そのバッグには何本の空き瓶が入っているのですか? そして、後何本の聖水が残っているのでしょう」
「……っ……」
 思わずウィスの喉が鳴る。それを見逃さなかったマルクが一層嬉々とした笑みを浮かべ、線のように細かった目がほんのりと見開かれ、そこにマリンブルーの瞳が現れる。
 マルクに指摘された通り、今ウィスの肩に掛かっているバッグでは呪いに冒された人々すべてを救えるだけの量の聖水を保持することはできない。そんな単純なことを失念していたことを悔やみながら、それでもウィスは必死に笑顔を消さないよう気を張る。
 だがすでにマルクは勝ち誇ったように笑んでいる。ほぼ黒確定の容疑者が、どんな言い逃れをするのかを楽しみにしている陪審員ような表情だ。
「……そのバッグの中、見せて頂いてもよろしいですね?」
 一向に口を開かないウィスに、マルクが楽しそうな口調でそう言いながら歩み寄ってくる。バッグに収まっているのは練水術を施していない真水ばかりだ。もしこれを見られたらどうなるか。そんなこと、火を見るよりも明らかだ。
 一歩、また一歩とマルクが歩を詰めてくる。ウィスは背中に流れる嫌な汗を実感しながら、必死に弁解の言葉を模索する。
 そしてマルクの手がウィスのバッグに伸び、もう駄目だと諦めかけた時――
「――っ! うあ、あ、あああああっ!?」
 突然マルクの手がピタッと止まり、マルクの口が奇声が零れだした。表情から笑みが消え、この世の終わりを見てしまったかのような恐怖に歪む。
「ど、どうしました?」
「あ、あ、あ……」
 ウィスの問いかけにマルクは答えない。その視線はウィスの後方に固定されたまま瞬きを忘れ、口から零れ出す嗚咽のような奇声には際限がない。
 そっとウィスは振り返る。そして、見た。
「――っ!?」
 声ならぬ声が喉から零れる。失神してしまわなかったのが奇跡と言えるくらいの衝撃がウィスの全身を駆け抜け、瞬きを忘れ、呼吸すらも一瞬忘れて完全に固まってしまう。
「…………」
 魔女。魔女がいた。
 それもウィスが思っていたような魔女ではない。魔女という存在を想像でしか知らない者が描くような魔女が、夢でも幻でもなくウィスの前に立っていた。
 本体から切り離されて数年が経過したようにパサパサで艶のない長い黒髪。黒ずんで焼き爛れたような肌。衣類の類は身に纏っていないが、何かどす黒いオーラのようなものが肌の表面を覆っている。両胸には控えめではあるが膨らみがあり、おそらくは女性であろう。だが本当に女性であるのか、それ以前に人間の形をしているが本当に人間なのか疑わしい。
 呪いに関する知識がある悪意に満ちた人間。それがウィスの抱く魔女のイメージだったが、それは完全に否定された。目の前に居るのは、まさに異形の怪物だった。
「ま、魔女だ! ひぃ!」
 マルクが瞳の縁に涙を浮かべながら後ずさりする。その瞬間、
『アタシヲ魔女ト呼ブナ!』
「ひいいっ!」
 嗄れた、獣の呻き声のような音を魔女が発する。そこには明らかな怒気が含まれており、皺だらけで怪物のように歪んだ顔に浮かぶ朱色の双眸がマルクをギロリと睨め付ける。
 一歩、魔女がウィス達の方へ歩を詰めてくる。魔女が歩を刻む度、魔女が足を着いた地面の草が真っ黒に腐って枯れ果て、ウィスはウィスにしか嗅ぎ取れない呪いの臭気を感じ取る。鼻がひん曲がりそうな異臭とは、まさにこのような臭いを指すのだろう。
『オ前達ガ聖水ヲ持ッテキタ教会ノ人間デショ? 呪イ殺サレタクナカッタラ、聖水ヲアタシニ寄越シナサイ』
 この世のものとは思えぬほど耳障りな声質とは裏腹に、言葉遣いは何処か幼さが残っている。もしかしたら、とウィスは魔女の目をジッと見つめ返した。
「わ、私はもう聖水を持っていない! そいつだ、そいつのバッグの中に聖水は入っている!」
 マルクががたがたと体を震わせながらウィスを指さす。そして見た者すべてを石化させてしまいそうな魔女の瞳がウィスへスライドすると、マルクは悲鳴を上げながらその場から逃げ去っていった。
 魔女を吊し上げるはずの教会の人間が魔女を前にして逃げ出す様は、本来なら無様で情けないと思うところだろう。
 だが今はそうも言えない。ウィスは魔女を呪いを振りまく存在ではあるが普通の人間だと思っていた。しかし、今目の前にいるのは呪いを振りまく存在どころか、呪いそのものの塊に見える。
『命ガ惜シイナラバッグヲソノ場ニ置イテ去リナサイ。モシ聖水ヲ持ッタママ逃ゲヨウトシタラ、ソノ時ハ容赦ナク呪イ殺スワ』
「……っ……」
 ウィスを脅すつもりでしたのだろう。魔女がその枯れる寸前の木のような腕を振るうと、肌を覆っていたどす黒いオーラがまるで肌に付着していた水のように魔女から離れ、飛散した黒い水が大地に繁茂している草木を枯らす。どうやら魔女を包む黒い空気に触れると、それだけで呪いを受けてしまうようだ。
 人工的に黒魔術を用いて呪いを生み出すのではない。まさに呪いそのもの。
「まさか本当に魔女が居るなんて思わなかったな」
『――ッ!』
 ウィスが内心で思ったことをそのまま言葉に出すと、魔女が一層鋭く眼光を研ぎ澄ませて睨みつけてきた。
『サッキノ男ニモ言ッタワ。アタシヲ魔女ト呼ブナト』
「じゃあ何て呼べばいいの?」
 思いの外落ち着いていることに一番驚いているのはウィス自身だった。目の上の人間や教会の人間の前でへつらってきた態度を一変させ、地の態度をとってみせると、魔女が驚いたように目を見開いた。
 魔女としてもこんなに堂々としている人間をみたことがないのだろう。マルクのように恐怖して逃げ出す人間が殆どのはずだ。
「魔女が嫌なら何て呼べばいいんだい? 魔女さんとでも呼ぼうか?」
『……ッ! オ前……』
 憤怒の形相を浮かべる魔女がウィスに詰め寄ってくる。後二メートルほどで互いの距離はゼロになる。それでも、ウィスは一向に引く気配を見せない。
 予感があった。いや、それは確信に近いと言ってもいい。その根拠は、どう見ても魔女と呼ばれる存在に相違ないと思われながら、聖水を欲していることだ。
『アタシヲ恐レナイ度胸ハ買ッテアゲルワ。ケド、ソレ以上アタシヲ魔女ダト呼ンダラ、容赦ナク呪イ殺ス! サッサト聖水ヲ置イテ去リナサイ!』
 殺気に満ちた朱い瞳が本気だと言っている。だが、
「魔女さんが聖水を手にしてどうするんだ? 例え神の加護を受けた聖なる水であろうとも、魔女に触れられてはたちまち呪いの水へと穢されてしまうよ」
『オ前ッ!』
 一足飛びで魔女が間合いを詰めてウィスの喉元に手を伸ばした。魔女はウィスの喉を締め上げ、そのままウィスを押し倒して馬乗りになる。
『再三忠告シタハズヨ! オ前モ呪イデ穢レテシマエッ!』
「……さて、それはどうかな」
『ナニ……?』
 何百年もの年月を生きたらきっとこんなしわくちゃの顔になるだろうと思えるような顔をさらに歪め、魔女が驚きの眼差しをウィスに向ける。
 魔女の体を包む黒い空気がウィスの身を包む衣類を蝕み、呪いで穢していく。
 だがウィス自身は違った。ウィスの体には黒い空気が届かず、まったく呪いを受ける気配がない。
「僕は特異な人間で、呪いの類を一切受けない体質なんだ」
『ナッ、ソンナ人間ガ居ルノ?』
「現にここに居るよ。だから、僕に魔女の呪いは効かない」
『……ッ! マダアタシヲ魔女ダト言ウノ! イイワ、呪イヲ受ケナイナラ!」
 魔女が両手でウィスの喉を締め付けてくる。呪い殺すのではなく直接窒息死させるつもりだろう。
 これ以上はさすがにまずい。このままでは本当に殺される。
 ウィスはそう思って潰れそうな喉に力を入れる。
「君は……、やっぱり……、魔女じゃ……、ない、ん……、だね……」
『エ……?』
 ウィスの言葉に相手の手から力が抜ける。ウィスはゴホゴホと咳き込んでから呼吸を整え、出来るだけ穏やかな笑みを相手に向けた。
「ごめん、試すような真似をして」
『……ドウイウ意味ヨ』
「僕は君が魔女だとは思えなかった。だから敢えて君を魔女だと呼び、その反応を窺った。君が魔女ではないという確信を得たかったから」
 目の前の人物は探るような視線をウィスに送ってくる。普通の人間なら視線を向けられただけで呪い殺されそうなくらい、その視線は鋭い。
「おそらく、君は大きな呪いを受けた普通の人間だ。魔女と呼ばれても仕方ない、自ら呪いを生み出してしまうような極大の呪いを受けた人間。……そうでしょ?」
『……アタシガ何者デアロウトオ前ニハ関係ナイワ! 余計ナ詮索ヲシナイデ!』
 ウィスに馬乗りしている人物は獣のような声で乱暴にそう言い放ち、腐食が始まったウィスのバッグを無造作に取り上げて身を翻した。
 相手が退いてくれたため、ウィスはよっと上半身を持ち上げて自分の衣類へ視線と落とす。相手の呪いを受けたせいか、外套は呪いで虫食いのように穴が空いている。その下の衣服も一部が腐っていた。
 前に練水を呪いで苦しんでいた貴族に高額で売りつけ、その金で買った結構な代物なのだが、これはもう駄目だ。
 ウィスは落胆しながら、視線を自分の衣服からバッグを奪い去った相手へと移す。
『聖水ダ! ヤット聖水ガ手ニ入ッタワ! コレデアタシノ呪イハ祓ワレル!』
 視界の中では魔女にしか見えない人物がウィスのバッグを嬉々として漁る。見た目の醜悪さから、それはまるで肉食の獣ががむしゃらに肉を食んでいるように見えた。
 だが、その表情が一瞬にして変わる。
『ア、アア……、アアアアア!』
 絶望のどん底で腹の底から鳴らすような咆吼。叫び声を聞いただけで命を落とすとされる、マンドラゴラという寓話の中の怪物を彷彿とさせる怪物じみた絶叫が周囲に広がり、思わずウィスも顔を顰める。
 見ればウィスのバッグに収められていた瓶の水が次々と真っ黒な液体へと変化していた。無色透明の真水が呪いの水に変わり、さらにそれを包む透明の小瓶が曇って黒ずんでいく。
『イヤ、イヤアア! 駄目、ヤメテェッ!』
 次から次へと小瓶がこぼれ落ち、大地に落ちてパリンと割れる。中の液体が大地の草を枯らし、茶色の地面を黒く染める。
『イヤアアアア!』
「……落ち着いて」
 ウィスは冷静に、落ち着いた声音で我を失いかけている相手に語りかける。そっとそのすぐ脇にまで近寄り、腐ってボロボロになったバッグをその手から奪い取った。
『聖水ガ……、聖水ガッ! ヤット、ヤット手ニ入ッタト思ッタノニ!』
「だから落ち着いて。これは聖水じゃなくてただの水だよ。そこの川に流れている水と同じなんだ」
『エ……? ――ナ、ナンデスッテ!』
 相手の瞳から絶望の色が抜け落ち、禍々しい怒りに満ちた双眸がウィスを捕らえる。
 さっきから睨まれてばかりだな、とウィスは内心苦笑しながら割れていない瓶をバッグから取りだした。
 瓶の中の水は真っ黒に穢れている。
『偽物ノ聖水? オ前、アタシヲ騙シタワネ!』
「僕は一言も、このバッグの中に入っているのが聖水だとは言ってない。それはさっきの司祭が勝手に言ったことで、僕がそう言ったわけじゃない」
『……ッ!』
 再び相手がウィスの喉元へ手を伸ばしてきたので、ウィスは手のひらを相手に向けてその動きを遮る。夜でも輝きを放っていそうな瞳からは殺気が迸っており、これ以上刺激しては本当に殺されてしまう。
「見てて」
 それでもウィスは恐怖など一切感じていない笑顔を浮かべる。実際、恐怖など殆ど感じていなかった。
 ウィスは意識を集中させて小瓶の中の水に練水術を施す。呪われた水から穢れを祓い、その上さらなる浄化を施して聖水と変わらぬ練水へと昇華させる。
 黒く穢れていた水が眩い七色の光を放つ練水へと変化していく様を見つめ、ウィスを睨め付けていた相手の顔が驚きに変わる。それは初めて聖水を見たというゴーンの表情に似ていた。
「本物の聖水とは違うけど、それでも効果は変わらないはずさ」
 ウィスはそう言いながら小瓶を相手の手に握らせる。今度は中の練水が穢れてしまうことなく、相手の手の内でキラキラと光り輝いたまま瓶の中で揺れていた。
 そしてウィスは見た。瓶を握る相手の手が、白くてきめ細かな肌を持つ手に変わっている。指先から手首の辺りの黒い空気が消え、焼き爛れたような肌が手の部分だけ完治したように見える。
 練水できっと相手の呪いは祓える。ウィスはそう確信して、
「ゆっくりと、しとしとと喉を徐々に潤していくようにゆっくりとそれを飲んでみて」
 優しい声音でそう語りかけた。相手の目にも、自分の手に起こった変化は映っているだろう。だからこそ、信じられないものを見たような表情でカタカタと震えているのだ。
 相手が顔を上げてこちらを窺ってくる。ウィスは笑顔のままコクンと頷いて見せた。
『…………』
 怯えるようにゆっくりと小瓶からコルクの栓を抜き、瓶口をおそるおそる口に近づけていく。醜悪な外見をしていながら、まるで狩られる前の子兎みたく震える様は滑稽だと言えるかもしれない。だが、ウィスは怯える様子の相手にそんな感情は抱かなかった。むしろ、それが正しい反応だとさえ思っていた。
『ウック……。ウック……』
 相手の喉から奇妙な呻き声が零れ出し、瓶の中の練水が空になる。瓶の水が空になると、瓶を握っていた手が再び焼き爛れて黒ずんだ手に戻ってしまった。
 だが、その手を見つめて相手の顔が失望したように歪んだ次の瞬間、その表情が絶望から驚愕へと変化していった。
『アア……。アアアああっ!」
 嗄れた奇っ怪な声のオクターブが上がっていき、そこに含まれるノイズが薄れていく。
 それだけじゃない。声質の変化に伴い、外見にも大きな変化が訪れる。
 ごわごわとしていて死んだ猿の毛みたいだった漆黒の髪に艶が浮かび始め、徐々に色が薄れていく。それは一度純白に染まってからサラサラと風に靡き、そして太陽の光を吸収したかのように金色へと染まっていった。
 一糸一糸が金糸のように光り輝く艶やかな髪。香料など使用してないだろうに、それでも見ているだけで何か甘い香りが漂ってきそうなほど美しい金髪へと変化した。
 焼き爛れたように黒ずんでいた肌も、白くてきめ細かな肌へと変わっていく。それは変化というより、まるですべての細胞が一から再構成された再生と言った方がいい。
 もはや肌の表面を覆っていた黒い空気など姿形もない。むしろ暖かな淡い光を自ら放っているような気配すらある。
「…………」
 目の前の相手に現れた変化を目の当たりにして、ウィスは思わず息を飲んだ。それは恐怖ではない。正反対に位置する感情だ。
 ウィスの視界に映っているのは、腰まで伸びた金髪を靡かせる少女の姿だった。年の頃はウィスとさほど変わらないだろう。磁器のように白い肌でできた細い腕は、まるで大きな聖堂にある彫刻のように美しく、驚きの表情を浮かべるその顔は、女神という言葉を相手に連想させるほど整っている。
 少女がコバルトブルーに煌めく双眸に驚きの色を浮かべながら、細くて精巧な作りへと変化した自身の両手を見つめて震えている。
 これが本当に自分なのか。
 少女のそんな心の声がウィスには聞こえたような気がした。
「あ、あたしは? あたしどうなったの?」
 川のせせらぎのような麗しい声音が静かに響く。少女の声は、もはや嗄れた怪物のそれではない。その小さくて薄ピンク色の艶やかな唇から奏でられるのは、どんな楽器よりも心地よい柔らかな音色。
 ウィスは少女に見とれて言葉を失っている自分に気づき、そして事態を把握した後、再び動揺して我を失いかけた。
 少女は一糸纏わぬ生まれたままの姿で立っていた。そして自分の体の変化に驚いたまま固まっている少女は、まだまだ女らしいとはいえない控えめな胸を惜しげもなくウィスの方へ晒している。
「え、えっと、とりあえず何か着た方がいいよ」
「え? ……っ」
 ウィスは視線を泳がせながら後頭部を掻く。ウィスの行動からやっと自分が裸体のままであることに気づいたのか、少女は隠すようにウィスへ背を向けた。
「穴だらけになっちゃったけど、無いよりはマシだと思うから」
 そう言いながらウィスは外套を外して少女に差し出す。少女は首より上だけこちらへ向け、睨むような視線を送りつけてからひったくるように外套を奪っていった。
 外套を手渡した後、ウィスは少女に背を向ける。少女が美しく、またそんな少女のあられもない姿を目撃してしまったため、まだ動揺が抜けきっていなかったからだ。
 ガサガサと少女が外套に袖を通す音が響く。それを耳にしながら、
「やっぱり、君は魔女なんかじゃなかったんだ」
 そう言うのが精一杯だった。しかも小声で、まるで独り言のように。
「何度もそう言ったわ。あたしを魔女と呼ぶなって」
「うん。僕は君が魔女じゃないことはすぐに信じられた。けど……、いや、何でもない」
 まさか本当の姿がこんなにも美しい少女だったとは思わなかった。
 そんな本音を吐露することはせず、ウィスは適当に語尾を弱くして曖昧に言葉を切った。
「ねえ、お前から見て、あたしはどう見える?」
「どうって――」
 ウィスが恐る恐る振り返ると、外套を纏った少女がジッと睨むようにこちらを見つめていた。おそらくウィスの外套では体の多くを隠せなかったのだろう。地面に座り込み、外套の胸元をギュッと両手で寄せながら体を萎縮させている。
 上目遣いの蒼い瞳には様々な感情が交じっており、その中には不安や恐れとともに、ウィスの口から容姿を賞賛する言葉が出てこないかと期待しているような色もうかがえた。
「どう見える? 変? 自分じゃあ、よく確認できないから」
 見とれて固まっていたウィスに再度少女が尋ねてくる。ウィスはままならぬ動悸を必死に抑えながら、
「綺麗……だと思うよ。でも、そういうのは主観が入るから、あくまで僕の意見としてはってこと。向こうに川があるから、自分で確認してみたらどう?」
 そう答えるのが精一杯だった。
 その言葉を少女がどう受け取ったかはわからないが、少女はハッとした様子で立ち上がり、外套を翻して川の方へ走り去ってしまった。
 ウィスはしばらくその場に立ちつくして少女が去っていった方角を眺めていた。
 何も言わずに去っていった少女に、ありがとうの一言もないのかと残念に思う気持ちが芽生える。今までは呪いを祓うことに感謝されることを願った事はないが、今は違った。
 さっき少女がバッグを奪ったときに瓶がぼろぼろとこぼれ落ちて蓋が外れてしまい、中の水が流出してしまったから、再び川へ行って水を汲む必要がある。
 別にあの少女の口から感謝の言葉を聞きたいわけじゃない。水を汲みに行かなければならないから川へ行く。
 ウィスは自分自身にそう思いこませて川の方へ歩を進めた。いつしか歩調が小走りになっていたことに、ウィスは苦笑する。
 しかしウィスが川へたどり着いた時、そこに少女の姿はなかった。すがるようにみっともなく周囲を窺ったウィスだが、結局少女の姿を見いだすことは出来ず、瓶に水を詰めて残念な気持ちのまま倉庫へと戻ることにした。
 せめて一言。あの少女から感謝の言葉を聞きたかったな。
 そう思いながら、ウィスは小さくため息を漏らした。


 ウィスがスルベニアを訪れた日の夜、ウィスは村に一軒だけある旅人用の宿へ身を寄せていた。
 宿の主に話を聞いたところ、あのマルクと名乗った司祭は魔女が現れたとか言いながら慌てふためいた様子で村を去っていったらしい。あれからしばらく経ったのに教会騎士団が村へ入ってこないところを見ると、サン・ゴスペル教会まで戻って多くの教団騎士団を率いてまたやってくるつもりなのだろう。
 ならば早々に村を去った方がいい。マルクは薄々ウィスが正規の教会の人間でないことに気づいているようだった。あの少女のことが気にならないと言えば嘘になるが、それでもまだ旅の途中であるウィスはここで教会に捕まるわけにはいかない。
「しかし、あの司祭様があなた様はもう駄目だ、今頃魔女に呪い殺されているだろうとおっしゃっていらしたので、とても心配しました」
「ご心配おかけして申し訳ありません。魔女は聖水をかざすとすぐに逃げていきましたので、何とかなりました」
「おお。魔女とは言え、やはり聖水の前には手も足も出なかったわけですか」
「はい。神の前では魔女とて無力です」
 宿の一階にある食堂で主と会話をかわしつつウィスは食事を口へ運ぶ。主はマルクが自分の寝床欲しさに安い布施で聖水を手渡し、すぐに呪いを祓ってもらったために随分回復したという。
 目の前のいかつい大男すら呪いで死にそうな思いをしたのだ。あの倉庫ですでに物言わぬ亡骸と化していた人々の苦しみは、きっと想像を絶するものだったのだろう。
 果たしてその呪いを振りまいたのはあの少女だったのか。それはわからない。もしかしたら少女が望んだわけではないにも関わらず、自ら呪いを生み出してしまう極大の呪いによる不可抗力だったのかもしれない。
 だがもし本人の意志に関係ないことだとしても、もしそれが本当なら胸が痛くなる。あの少女が、多くの人間を呪いで苦しめ、そしてその命を奪った元凶だということになるのだから。
「ああ、こちらにいらっしゃいましたか」
 ふと食堂の入り口から少し擦れた老人の声が聞こえてくる。ウィスが振り向くと、そこには村の入り口でウィスを呼び止めた老人が立っていた。
「魔女と対峙されたと聞いて」
「ええ。ですが持っていた聖水の加護で事なきを得ました」
「それはそれは。倉庫に居た者どもも皆お救い頂き、言葉では言い表せないほどの感謝を感じております」
「いえ、それが僕の使命ですから」
 老人は曲がっている腰を更に曲げて頭を垂れた。どんな村へ行っても、ウィスが練水を用いて呪いを祓えば大概こうして感謝される。
 なのにあの少女ときたら――
「……そうです。一つお聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
 ウィスは心の内に渦巻く自分でもよく整理できない感情を取りあえず脇に追いやり、老人と宿の主を交互に見つめた。
「ええ、何でしょう?」
「この村に金髪碧眼の少女は居ますか? 僕と同じくらいの年頃で」
「金髪碧眼ですか……。パン屋の娘のレイナがそうですが、レイナはまだ七歳です」
 ウィスは昼間に遭遇した少女の姿を思い起こす。胸の発育具合は正直まだまだだったが、それでもあの容姿で七歳はないだろう。おそらく老人が思い浮かべている少女とは別人だ。
「その少女以外には?」
「居ません。碧眼の人間は数名おりますが、金髪はレイナだけです」
「そうですか……」
 やはりあの少女はこの村の人間ではないのだろうか。もしかしたら幼い頃に悪魔憑きだとでも思われて両親に捨てられたのかもしれない。
 悪魔憑きは神への信仰心を試す試練だと言われているが、田舎の村ではそんな教会の教えを知らないため、穢らわしい存在だと忌み嫌われている。
「金髪碧眼の少女がどうかしましたか?」
「いえ、見間違いだったようです。お気になさらないで下さい」
 頭の上に疑問符を浮かべる老人に笑みを送り、ウィスは曖昧に話を断ち切る。
 気にならないと言えば嘘になるが、呪いが祓われた以上、あの少女は何処にでも居る普通の娘でしかない。だから、必要以上の接点を求めてはいけない。
 ウィスは旅人だ。旅から旅へ、呪いで苦しむ人々を救うのが使命。同じ場所に留まることなどない。
 明日は村の井戸や川の水を調べ、穢れている場所を見つめて浄化して回ろう。マルクが教会騎士団を率いてやってくる前にこの村を立ち去るためにも、効率よく早く呪いを浄化しなければならない。
 そう思いながら、ウィスは適当に主や老人と会話をしながら食事を進め、主が出してくれたすべての皿を空にしてから立ち上がった。
「明日も早くから救済に取りかかるつもりなので、今日はこれで失礼します」
「はい。お疲れの所を長々と付き合わせてしまって申し訳ありません」
「いえ。では――……ぐぅっ!」
 その場を去ろうと踵を返した時、ウィスは強烈な異臭を感じて思わず表情を歪め、その場に膝をついてうずくまった。
「ど、どうしたのですか?」
「あぐ……。い、いえ、大丈夫です。ですが、これは……」
 突然ウィスがうずくまったからだろう。主と老人が驚いた様子で近寄ってくる。
 ウィスは鼻が腐って落ちそうな異臭を必死に堪えながら辛うじて笑みを繕い、何とか体を起こす。
 この主や老人は何故ウィスが苦しんでいるかわからないといった困惑顔を浮かべる。
 それはそのはずだ。これは呪いの臭い。ウィスにしかわからない穢れたものの臭い。
 この強烈な異臭には覚えがある。つい数時間前に同じ異臭を感じた。
「――っ! ひ、ひぃぃいいっ! ま、魔女だぁっ!」
 突然、宿屋の主が悲鳴を上げて床にへたり込んだ。それに呼応するかのように老人の喉から声ならぬ声が響きだし、杖を持つ手がガタガタと震え始め、そして杖が手を離れて老人も床に尻餅をつく。
 ウィスは辛うじて二本足で直立したまま、右腕の袖口を鼻に強く押し当てて異臭を和らげる。そしてそのまま食堂の入り口へ鋭い視線を向ける。
 招かれざる客の姿がそこにあった。見間違うはずがない。あの禍々しい異形の姿は、紛れもなく、数時間前に対峙したあの少女だ。ウィスの練水で女神のように美しい容姿へと変貌したはずが、練水を飲む前の姿に戻っていた。
『ウウウゥウゥ……』
「ひいいっ! く、来るなぁ……。こ、このっ! 穢らわしい魔女めっ!」
 嗄れていて怪物の呻きのような声で苦しげに喘ぐ少女に、主が近くにあった皿を投げつける。皿は少女に触れる直前に少女を覆う黒い空気に触れて腐食し、ボロボロと食堂の床へ散り落ちた。
 少女の足下は床が腐っている。茶色の木目が腐り、真っ黒に炭化したように染まっていた。辛うじて床は抜けていないが、それも時間の問題だろう。
『……見ツケタワ』
 焼き爛れた黒い肌。ごわごわで腐り果てた黒髪。不気味に輝く朱色の瞳。
 この世のものとは思えぬ姿で再び現れた少女は、視線だけでウィスを射抜き殺そうとしているかのように鋭く睨め付けてくる。その瞳には怒り以上の殺意が渦巻いており、ウィスは背中を流れる冷たい汗を感じた。
『オ前ガアタシニ寄越シタ聖水ハ偽物ダッタノネ!』
 怒気を孕んだ声がウィスを襲う。ウィスはチラリと宿の主と老人の姿を捕らえ、彼らが頭を抱えて震え上がっている様子を確認してから少女へと視線を戻した。
 少女と称することがあまりに的はずれであるような容貌。魔女だと言ってしまえばまさにそれほどピッタリな言葉はないであろう容貌。だが、それでもウィスは相手を一人の少女だと認めている。
「この宿にはすでに呪いを祓った人も沢山居る。ここで新たな呪いを生み出すのはやめてくれ」
『他人ガドウ苦シモウガ、呪イデ穢レヨウガ関係ナイワ! 苦シイノハアタシヨ! 誰ヨリモ一番苦シンデイルノハ、アタシナンダカラ!』
 少女が身を乗り出して主張する。確かに苦しげに喘いでいるようにも見えるが、ただでさえ嗄れてノイズ混じりの声質であるため、それを見極めることは難しい。
 ウィスは少女の目をしっかりと見つめる。もし視線を逸らしたら、きっと少女は一足飛びで間合いを詰めてきて、呪い殺せないウィスの首を強引に締め上げて絞殺するだろう。
 何故かはわからないが、少女は再び呪いで穢れてしまった。その理由、その不条理の捌け口として少女が怒りの矛先に選んだもの、それがウィスなのだろう。
 だが何故なのか。今まで練水で呪いを祓った人々の中に、理由もなく再び呪いで穢れた人はいない。何か呪いを生み出すものに触れてしまったのならともかく、そうでなければ穢れたりするはずがない。
 もし少女が何か呪いを生み出すものに触れたのならウィスを憎むのはお門違いだろう。それくらいの分別はつくはずだ。なのに少女がウィスへ殺意の籠もった視線を向けているのは、おそらく呪いに触れた記憶もないのに再び呪いに穢れてしまい、それは練水が本物の聖水ではなかったからだと思ったからだろう。
『殺スッ! オ前ハアタシヲ騙シタ!』
 この場で少女と言い争いを続けていてはウィスが本当の聖水を持っているわけでないことや、少女が見た目通りの魔女でないことが村人達に伝わってしまう。もし少女が魔女ではなく普通の少女であることが知られたら、きっと村人達は鬼のような形相で少女を殺そうと躍起になるだろう。
 だから、ウィスは逃げた。
『ナッ! 待テッ!』
 本当に待ってしまいそうなほど威圧的で耳障りな声が響く。それでもウィスは少女に背を向けたまま食堂を駆け、木製の窓を蹴破って宿の外へ飛び出した。
「くっ!」
 木片がウィスの肌を裂き、血が滴る。だがすぐに気を取り戻して大地を蹴り、すっかり夜の帳が降りた村を全力で駆ける。
『許サナイ! アタシヲ騙シタオ前ヲ、絶対ニ許サナイワ!」
「……許さない、か。期待していた言葉は、ありがとうだったんだけどな」
 背後から肌に突き刺さるような殺気を感じながらもウィスは小さく独り言をもらす。
 ありがとうの一言が聞きたくて、昼間は少女を追って川へ向かったのだ。けれど今は、まさに正反対。憎悪の言葉をぶつけられながら、ウィスは川へ続く道を少女に追いかけられている。
 ウィスはポケットの内に数本の瓶が入っていることを確認する。旅に必要な物が詰まったリュックも、呪いで穴だらけになってしまったバッグも宿の一室に置いてある。手元にあるのは、ポケットに入っている数本の空瓶と、以前立ち寄った村で救った少女に貰った変わったペンダントだけだ。
『コノアタシカラ逃ゲラレルト思ッテルノ! タトエ地ノ果テマデ逃ゲヨウトモ、アタシハ必ズ追イツイテオ前ヲ殺スワッ!』
「そんな遠くまで逃げるつもりはない。取りあえず人気のない川原まで行くつもりだよ」
『……何?』
 ウィスはピタッと足を止めて後方を振り向いた。突然ウィスが止まったためか、少女が醜悪な表情をさらに歪めて体を硬直させた。止まれば殺されるのに止まったからだろう。少女はウィスの思考が読めない様子で困惑している。
「今言ったとおりさ。逃げるつもりはないよ。だから、一緒にそこの川へ行かない?」
 この状況においてウィスは笑顔を少女に向ける。完全に意表を突かれた様子で、少女は先程までの殺意を消して困惑を前面に押し出している。
 ウィスは微動だにしない少女に背を向けて再び歩を刻み始める。今度はゆっくりと、逃げるのではなくただただ進む必要があるから歩を進める。
 少女にしてみれば無防備きわまりない背中だろう。だが少女の魔手がウィスに襲いかかる気配はない。星々が煌めく夜空を仰ぎながら耳を済ませると、ウィスの後方を静かに追従する足音が聞こえる。
 呪いが放つ異臭が消えていない以上、少女はつかず離れずウィスの後をついてきているだろう。
 夜風がウィスの体温を奪う中、ウィスは立ち止まらずに進んだ。外套を身に纏っておきたちところだが、あれは少女に貸し与えたきり行方知らず。少女は出会ったときと同じく何も身に纏っていないため、おそらくは何らかの理由で再び呪いに穢れて、その呪いを浴びて外套は完全に腐ってしまったのだろう。
 川のせせらぎが鼓膜を揺らした。土手の上からうかがうと、決して水量の多くない小川が表面に朧月を映し出しながら煌めいていた。
 昼間も思ったが、川の水からは呪いの臭いがしない。そうなるとやはり、呪いの源はあの少女なのだろうか。
『着イタワ。サア、ドウスルツモリ?』
 川辺でウィスが足を止めると、後方から嗄れたガラガラ声が響く。ウィスはゆっくりと振り返り、禍々しいオーラに包まれた少女を見つめた。
「どうして再びその姿になってしまったのか。それを教えてくれないか?」
『……ッ! オ前ガ寄越シタ聖水ガ偽物ダッタカラデショ! ヤット苦シミカラ救ワレタト思ッタノニ、ナノニ……!』
 少女の眼光が鋭さを増し、再び怒気と殺気が渦巻き始める。
『一度忘レタ苦シミガ蘇ッタ今、ドンナニアタシガ苦シイ思イヲシテルカワカル? オ前ハソレヲセセラ笑ッテ楽シンデイルンデショ! アタシヲ魔女ダト思ッテナイトカ言ッテタケド、本当ハ違ウンデショ! 魔女ニ一泡吹カセテヤッタト喜ンデルンデショ!』
 まるで癇癪を起こした子供みたいな物言いで少女が地団駄を踏む。
 やはり再び呪いに触れたから穢れたというわけではないらしい。練水では完全に呪いを払拭しきれず、残っていた呪いが再び息を吹き返したということなのだろうか。
「僕が渡した水を飲んだ後、何かあった? どれくらい経ってから、またその姿に戻ってしまったんだ?」
『何モナイ! 森ノ奥ノ泉ニ映ッタ自分ノ姿ヲ眺メテイタラ急ニ体カラ呪イガ吹キダシタンダ!」
「どれくらい経ってから?」
『ソンナコト聞イテドウスルノヨ! アタシハ何カノ実験台ダッタトデモ言ウノ!』
「いいから答えて」
 ウィスは凄まじい殺意をこちらへ向ける少女に落ち着いた口調で尋ねる。少女はどんなに凄んでも腰を引かないウィスに困惑した様子で、『三時間後クライダッタ』と答えてくれた。
 それだけ確認して、ウィスは少女に背を向けて膝を折った。ポケットから一本の瓶を取りだし、川の水を汲み取って瓶に詰める。
 少女は苦しそうだった。醜悪で表情などよくうかがえない顔であるが、少しずつ少女が苦しんでいるということを読み取れるようになった。
 練水では完全には呪いを祓えないのかもしれない。けれど、だからと言って苦しんだままにさせておくのも躊躇われる。
 ウィスは瓶を握る手に意識を集中させた。清らかで荘厳なイメージを脳裏に描き、それらを瓶の中へ流し込んでいく。
 練水術を施すと、川の水が瓶の中でキラキラと輝き始めた。それを確認してウィスは立ち上がり、少女に体を向けて瓶をかざす。
『ソレハ……』
「昼間と同じ水だよ。取りあえずこれを飲んでみて」
 ウィスはゆっくりと少女との間を詰め、異臭に歪みそうな表情に無理矢理笑みを貼り付けて少女のすぐ手前まで近寄る。
 怪しげに光る紅蓮の双眸がウィスの真意を探るように向けられる。ウィスはそんな視線を受けつつ、そっと瓶を少女の手に持たせた。
 近寄るだけでウィスを包む衣類の一部が腐食してしまうため、瓶を渡した後、ウィスは一歩だけ後ろ足を引いた。
「昼間と同じように、ゆっくりと喉を潤すように飲んで」
『…………』
 練水の入った瓶とウィスの顔を交互に何度も見つめながら、少女はそれを一気に口へ流し込んだ。ゆっくりだと言ったのに、ウィスの忠告など聞く耳持たずだ。
 空になった瓶をウィスへ投げ飛ばし、少女はジッと己の体に起こる変化を待っているように佇んだ。そしてそれはすぐに訪れる。
『ァア、アアァああぁっ!」
 奇声が美声に変わり、醜悪が美麗へと変わる。
 黒髪が金髪に。朱色の瞳が澄んだ蒼に。黒く爛れた肌が白くきめ細やかに。
 それはまさに怪物から女神への転生。完全なる生まれ変わり。
「……あ」
 そしてウィスはというと、またも少女の張りのある玉肌を目の当たりにしてしまい、目のやり場に困って川の方へと体ごと向く。
 しっかりと網膜に焼き付いてしまった映像を消そうと、川の水で顔を洗う。
「今度こそ完全に呪いを祓えたの?」
 背後から少女の困惑を含んだ高い声音が響いてくる。
「わからない。けど、昼間の水とまったく同じはずだから、もしかしたらさっき君が言っていたように、三時間後にまた呪いが息を吹き返すかもしれない」
「なっ! どうしてよ! 聖水は呪いを祓ってくれるんでしょ!」
「正確には、君が飲んだのは聖水じゃないんだ」
 ウィスは背を向けたまま語る。背中に感じる視線が鋭くなったのは、聖水じゃないと知った少女がウィスに対して不信感をあらわにしたからだろう。
「……聖水じゃない、ですって? お前、やっぱりあたしを騙して」
「僕は一度も聖水だって言ってないと思うけど、まあ、とりあえず謝っておくよ。でもね、僕が君に渡した練水っていう水も、性質的には聖水とまったく相違ないんだ」
「え……?」
「つまり、もしまた三時間後に呪いが息を吹き返すようなら、本物の聖水でも完全には君の呪いを祓えないってこと」
 背中に感じる視線が弱まり、空気を伝って少女の困惑が漂ってくる。振り向くとどうしても目のやり場に困るため、直接表情を窺うことはできないが、それでも何となく少女の表情が脳裏に浮かぶ。
「そんな……。そんなの嘘よ! 誰がお前の言うことなんかに騙されるもんか!」
 少女の言葉にウィスは何も応えない。何も答えられなかった。
「何か……何か言いなさいよ。嘘だって言いなさいよ!」
「…………」
「嘘よ……。絶対に嘘に決まってるわ!」
 嘘になればそれに越したことはない。たまたま前は練水術に失敗してしまっただけで、今度こそ完全に呪いが祓われたかもしれない。
 本当は分かっている。そんな希望的観測などしたところで、おそらく現実は容赦なくて残酷であるだろうことを。練水術の失敗など、ウィスは一度もしたことがないのだから。
 しばらく沈黙が続き、虫たちの演奏会がひっそりとあちこちで開かれているところに、
「くしゅん」
 少女の可愛らしいくしゃみが割り込んだ。
 そう言えば少女は一糸纏わぬ姿のままだ。直視するわけにもいかずに背を向けているため、すっかりそのことを失念していた。
 寒いのならそう言って立ち去ればいいのに、ウィスの後方の気配は一向に動く様子がない。何を考えているのかわからないが、背中に突き刺さるような視線も感じない。おそらく、虚空を見つめて呆然と何か逡巡しているのだろう。
 ウィスはすっくと立ち上がって振り返った。突然立ち上がったウィスに驚いた様子で少女がこちらをうかがうが、ウィスは極力視線を合わせないよう、少女の四肢を視界に映さないように気を配りながら川辺から離れる。
「どこに行くつもり?」
 怒気を孕んだ少女の声が響く。まるで逃げだそうとする奴隷にとっかかる主のようだ。
「……そのままじゃあ風邪を引くよ。宿に戻って着替えと毛布を持ってくる」
 先程は外套を羽織っていたためにそれを貸し与えることができたが、もし今ウィスが着ている服を少女に渡したら間違いなくウィスが風邪を引く。
 もし少女がこのままの状態で呪いが祓われたかどうかを見極めるつもりなら、三時間ほど留まる必要があるだろう。裸で少女に三時間居座らせるのはまずい。
「逃げない保証がないわ」
「じゃあ裸のまま僕に付いてくる?」
「……う」
 少女の喉から呻き声が漏れ、同時に視界の端で少女がこちらを睨んでいるのがわかる。
「すぐに戻ってくるから、それまでは寒いかもしれないけど我慢して」
 ウィスはそう言い残して走り出した。
 背中に視線を感じる。不安と疑念。おそらく、ウィスの背を睨め付ける少女の表情にはそんな感情が浮かんでいることだろう。
 それでもウィスを追いかけて強引にその場に縛り付けようとしなかったところから、少しはウィスのことを信用してくれたのではないかと思う。まだまだ視線には不信が色濃いだろうが、それでも一抹程度には信用してくれているのではないだろか。
 そんな自分自身の思考に苦笑しつつ、ウィスは宿へと全力で駆けた。少しでも早く、少女の身を包むものを取ってきてやろうと思って。


 ウィスが宿に戻って改めて確認すると、宿の入り口から食堂に続く廊下の床が完全に腐っていた。先程は食堂の窓を蹴破って飛び出したために気づかなかったが、まるで墨をぶちまけたように廊下は漆黒に染まっており、所々床が陥没していた。
「おお、ご無事でしたか!」
 宿へ戻ったウィスに駆け寄ってきたのは宿屋の主だ。がたいのいい大男ではあるが、先程あの少女を目の当たりにしたときは身長が二十センチは縮んだかのように見えた。
「はい。聖水の力で何とかなりました」
「そうでしたか。やはり聖水の威力は素晴らしいですね」
 宿の主が安堵の表情でそう言うのをウィスは笑顔で流し続ける。あの時一緒に食堂に居た老人の姿は見えなかったが、主の話によるとどうやら腰が抜けて二階の客室で休んでいるらしい。
「そうです。すみませんが、毛布を貸していただけないでしょうか?」
「え? ……どうしたんです?」
「いえ。聖水の力で追い返したのは良いのですが、いつ何時またあの魔女がこの村にやってくるとも限りません。ですから、今日は僕が外で哨戒に当たろうと思いまして」
 ウィスはそう言いながら、まさに今の自分みたいのを偽善者というのだろうと内心自嘲する。嘘で誤魔化して真意を明らかにせず、そしてその嘘で偽りの信頼を勝ち得る。
「初秋とはいえ夜はだいぶ冷え込みますから、どうか毛布を一枚貸して下さい」
「救済でお疲れでしょうにそんなことまで……。いえ、ではお願いします」
 宿の主が心苦しそうに眉根を寄せたので、ウィスは明朗な笑みでそれに応じる。そして主が承諾して毛布を取りに行ってくれている間に借りている部屋へ赴き、自分のリュックから替えの服を一式用意した。
 念のため少女の呪いで一部が腐ってしまったバッグを肩から提げ、割れていない空瓶を数本用意しておく。
 二階の部屋から一階へ下りると主が毛布を持って待っており、ウィスはそれを受け取って宿を後にした。
 一度建物の中に入った後でまた外に出ると、その肌寒さが一層身に染みた。あの少女はこんな中を一糸纏わず待っているのだろうか。そう考えると自然と足早になる。
 もっとも、もしかしたらウィスの言葉など無視してすでに立ち去ってしまったかもしれない。あの少女がどれだけウィスを信用してくれているかわからないが、ウィスには居るだろうという予感があった。
 そして案の定、月明かりが照らす小道を進んだ先の川原に、件の少女の姿はあった。寒さに身を縮めて川辺にうずくまっている。
 その丸まった白い背に月の光を浴び、ただでさえ磁器のように白い肌が淡い光を帯びて輝いているように見えた。大理石の彫刻でない生身の人間が、あのように美しい肌を有するのを今までに見たことがない。
 ウィスの気配に気づいたのか、少女が首だけこちらを振り返る。
 割れたガラスのように怜悧で切れ長の瞳は、サファイヤのような煌めく蒼。整った鼻筋や薄ピンク色の柔らかそうな唇が相成って、少女を現実離れした艶めかしい容貌を有す女神へと仕上げている。
 ただし、一般的に女神の彫刻は豊満な肉体をしている像が多いが、ウィスの視界に映っている女神はやせっぽっちで簡単に折れそうなほど四肢は細く、女性らしい部分も未成熟だった。
「……ごめん。遅くなったね」
 怒りを隠す様子もなく、少女は体を縮めて大事な部分を隠しながらウィスを睨め付けてくる。その瞳が訴えているのは至極わかりやすい。「遅い」と言いたいのだろう。
 ウィスは土手を下って川辺に佇む少女の元へ近寄る。そしてその手前に衣服と毛布を置き、くるりと踵を返して少し間合いを開けた。
 背中越しにごそごそと布が擦れ合う音が聞こえ、それに混じって少女のくしゃみも三度聞こえた。もしかしたらもう風邪を引いてしまったかもしれない。そう考えると、自分のせいではないかと負い目を感じてしまう。
 後方の蠢く気配が止まり、再び静寂が辺りを包む。
 ウィスは声を掛けようかと迷ったが、たぶん大丈夫だろうと思って、確認することなく振り返った。
 少女はウィスの持ってきた茶色いカーゴパンツの上に皮の腰巻きを身につけ、上半身は灰色の長袖シャツの上に黒っぽい皮のベストを羽織っている。どれもウィスが旅路でよく着る愛着のある衣服だ。
 さらに少女はそれだけではまだ寒いと言わんばかりに持ってきた毛布を体に巻き付けて蓑虫のようになっている。先ほどまで惜しげもなく披露していた玉肌は、頬や手首より先を残してすっぽり覆い隠されてしまった。
「僕の服だけど、どうやらそれほどぶかぶかというわけでもなさそうだね」
「腰回りが緩い。立ったらズボンが下がっちゃうわ」
「それは、君の方がウェストが細いんだから仕方ないよ」
 やっと寒さから逃れられたというのに、相変わらず少女は仏頂面でウィスを睨め付けている。笑えばきっと可愛いだろうに、そんなサービスを見せる気配は微塵もない。
 それどころか、服や毛布を持ってきたことに対してすら何の謝意もない。少しくらい「ありがとう」と礼を述べる可愛らしさがあってもいいだろうに。
 ウィスは嘆息しながら、少女から数歩分離れた川原の石の上に腰を下ろして少女を振り返った。少女はウィスの一挙手一投足を睨むようにジッとうかがっている。
「…………」
 さて何を話したものかと、ウィスは真っ向から迫る少女の視線に目を逸らすことなく思考を巡らせる。そしてふと、重要なことに気づいた。
「そう言えばまだ、お互い名前すら知らないね」
 ウィスは少女の名前を知らない。少女もたぶん、ウィスの名前を知らないはずだ。
「別にお前の名前なんかに興味はないわ」
「そうみたいだね。でも、僕は君の名前を知りたいと思うんだ。僕はウィス=ド=ホーランベルグ。君の名前は?」
 つれない少女は整った顔立ちで睨むようにこちらを見つめている。ウィスの作り笑顔を見透かし、それを咎めるような眼差しを向ける少女に、ウィスは内心苦笑しっぱなしだった。
 それからしばらく沈黙が続く。探るように、品定めするように向けられる少女の視線を浴びながらも、ウィスは黙って少女の言葉を待った。
 そして随分夜も更けていった頃合いになって、
「あたしの名前を知っている人間はいないわ。だから、あたしには名前がない」
 少女がぼそりと、独り言のようにつぶやいた。
「名前がない?」
「……いいえ、違うわね。あたしには名前がある。けれど、その名前であたしを呼ぶ人間はいない。だから、その名前はあたしの名前であってあたしの名前じゃない」
 ウィスはおおまかに少女の言いたいことが理解できた。
 名前は他人を認識するためのもの。他人から自分を認識して貰うためのもの。
 もし一切他人に関わることなく生きていくとしたら、そこに名前は要らないのだろう。必要なのは私という一人称だけ。それ以外に名前は必要ない。
 少女は完全に他者と隔離されていたわけではないはずだ。だがそれでも少女が名前を必要としないわけは、少女には本来の名前ではなく、別の名前を持っているからだろう。
 少女の意志に関わらず呼ばれ続けた名前。それが、魔女。そして少女には、魔女という呼び名以外の名前を呼んでくれる相手が居なかった。
「なら、僕が君のことを名前で呼ぶ。だから、君の名前を教えて欲しい」
「…………」
「最初に会った時、僕は君に言っただろ? 僕は君を魔女だとは思っていないって。僕は君を、呪いに苦しんでいる一人の少女だと思っている。君は君で、それ以外の何者でもないはずなんだ。だから知りたい。君の名前を」
 自分でも何でこんなに積極的に少女に関わろうとしているのか理解できない。ただ心の中の何かが、もっと少女のことを知りたいとウィスを突き動かしている。
 決して疑念が消えない瞳をウィスへ向け、少女が顔を近づけてくる。アップであればあるほど一層きめ細やかな白い肌が浮き彫りになり、ウィスは頬が熱を帯びることを実感しながらも視線を逸らさずその蒼い瞳を見つめ返した。
「ティニア」
「……え?」
「あたしの名前はティニア=コルツホックよ」
 少女が顔を背け、横目でチラチラとウィスを窺いながら名乗った。
 仕方ないから名乗ってやったというようにも見えるし、恥じらっているようにも見える。その区別がつくほどに、まだウィスは少女の表情から心情を読み取ることはできない。
 それでも、名前を教えてくれたことに少なからずウィスの心の内が沸く。そして思わず、
「ティニア……。良い名前だね」
 そう、口に出してつぶやいていた。
 これではまるで、少女の美貌に目がくらんだただの軟派な男じゃないかと思い直し、ウィスは決まり悪く後頭部を掻いた。
「ふん。お前なんかに褒められても全然嬉しくないわ」
 本音でつぶやいたウィスの賞賛に対し、ティニアと名乗った少女は横目でウィスを窺うことすら止めて、完全にそっぽを向いてしまった。
 もう少しくらい友好的な態度をとってくれてもいいだろうに。
 ウィスはティニアが笑顔とまではいかなくとも、多少は警戒心を緩めて心を開いてくれればいいと嘆息しながら、ティニアから視線を外して川の方を向く。
 ティニアの笑顔が見たいという勝手な希望はこの際脇に追いやるとして、とりあえず思いついたことから行動する。
 ウィスはポケットから空瓶を取り出し、それを川に沈めて水を詰めた。
 本当に三時間でまたティニアの呪いが息を吹き返すかどうか定かではないが、警戒するに越したことはないだろう。呪いが発現しているときのティニアは、本当に苦しそうだったから。
「……っと!」
 水の入った瓶に意識を注ぎ、練水術を施すと、ただの水がキラキラと光り輝く練水へと変化した。ウィスは振り返ってティニアを見つめ、ティニアもウィスの視線に気づいてこちらを向いた。
「はい、予備の練水。もし三時間経って、体に異変を感じたらすぐに飲んで」
「……レンスイ?」
「そう。僕は生まれつき特別な力があってね。呪いをまったく受けない特異体質だけじゃなくて、川の水や井戸の水とか、普通の水を清めて聖水と同質のものに変化させることができるんだ。そうやって浄化した水を、聖水と区別するために練水と呼んでる」
 練水の説明をしながらウィスは月光を浴びて七色に淡く輝いている小瓶をティニアに手渡した。
 ティニアは月光を反射させるだけでなく、自らも光を放つ練水をマジマジと見つめながら目をくりっと見開いていた。呪いが吹き出していた時の驚きとは異なり、今の驚きの表情は年相応にあどけなさが残っていて可愛らしかった。
「聖水と同じもの……。お前はどんな水でも、その、練水にすることができるのね?」
「うん。ちょっと余計な力を使うけど、頑張ればお酒にだって練水術を施せる」
 酒の場合はさらにアルコールを抜くことなく練水に仕上げることもできるので、うまくやれば神酒を醸造できる。それはなかなか貴族受けがよくて、大きな町では路銀稼ぎにやることもある。
「聖水と同じものを作れる人間……。そうよ! 簡単なことじゃない!」
「……どうしたの?」
 突然、ティニアが今まで浮かべていた困惑や疑念を払拭させて嬉々とした笑顔を咲かせた。それは鈴蘭のような可憐な花ではなく、もっと華やかで豪奢な菊のような笑顔。
「お前があたしの側で、三時間毎に練水を寄越せばいいのよ! そうすればあたしはもう二度とあんな苦しい思いをしなくて済むし、ずっとこの姿のままいられるわ!」
「それは、まあそうだけど、あくまで本当に三時間で呪いが復活する場合の話でしょ? もしかしたら、さっきの練水で呪いはちゃんと祓えていたのに、途中で何かしら別の呪いに穢れてしまった可能性もあるでしょ?」
 だが実際、あのような極大呪いを浴びる機会など殆どないはずだ。よくウィスが見聞きする呪いは、黒死病に代表される疫病という名の呪いばかり。ティニアが冒されていた極大呪いを、ウィスは過去に見たことがない。
「そうね、さっき飲んだ練水で完全に祓われたのなら問題はないわ。でも、もし練水では完全にあたしの穢れを浄化できないなら……」
「なら?」
「お前がずっとあたしの側に居ればいいのよ。三時間毎に練水を飲めば大丈夫なんだし」
 何とも自分勝手な言い分だと思いつつ、ウィスは何故か腹立たしいという気持ち以上にティニアの短絡的な思考を微笑ましく思ってしまう。
 だからこんなことを言ってしまうのだ。
「それじゃあまるで夫婦みたいだね」
「──んなっ!」
 四六時中一緒の男女と言えばそうなるだろう。恋人同士だって、結婚するまでは互いの多少の距離を置いて生活を続ける場合が多い。完全に同じ時を刻む男女は、夫婦という形を取るのが一般的だ。
 ウィスの言葉にハッと目を見開いたティニアが俯いて何かぶつぶつと呟き出す。そしてウィスが首を傾げた次の瞬間、ティニアはガバッと顔を持ち上げ、凄まじい怒気を眼光に込めてウィスを睨め付けてきた。
「馬っっっ鹿なこと言わないで! な、何でお前なんかとあたしが夫婦にならなきゃいけないのよ! お前は三時間毎に練水を寄越すだけでいいの! そう、ただの従者よ! いえ、お前みたいにやらしそうな男は下僕以下! ペットで十分よ!」
「だったら、わざわざティニアの側に居なくてもいいんじゃない? 練水は呪いに触れない限りは保存が利くから、一週間に一度だけ木樽一杯の練水を受け取りに来るとか」
「えっ……? そ、そうよ! それでいいわ! そうしなさい!」
 これまでずっと一人旅を続けてきたせいだろうか。事情を知らない他人が聞けば一方的にウィスが命令されているだけのような会話にも関わらず、ウィスは何故かティニアと話すことが楽しく思えて仕方なかった。
 同年代の異性と話すのも随分久しぶりだった。昔は、双子の妹が家に連れてくる同じ村の少女達とよく遊んでいたものだ。
「な、何笑ってるのよ! 気持ち悪い男ね! 何でお前みたいなヤツが呪いを祓える水を作れるのよ!」
「さあね。どうして僕がこの力を持っているのか、それは僕自身わからない」
「……何で、お前のはそれで、あたしは呪いだったんだ」
 ウィスが練水術のことを話すと、ティニアはまるでこの世界すべてを憎んでいるような表情で低くつぶやいた。
 その言葉を聞いて、ウィスはティニアが生まれつきの呪い持ちだったことを知る。呪いの苦しみがどれ程のものかわからないが、きっと想像を絶する辛さを伴う呪いなのだろう。
 ティニアはその呪いに、十数年苦しみ続けてきたのだろう。
 そう考えると、ティニアの側でもう二度と呪いが再発しないよう見届けてやりたいという気持ちが芽生える。だがウィスにはウィスの目的があり、使命がある。だから――
「……さっきの話。悪いけど、僕はやらなきゃいけないことがあるんだ。だから、ここに留まってティニアの側に居続けることはできない。明後日くらいにはこの村を離れるつもりだから」
 明日は呪われた人の救済を続け、同時に井戸などの生活水の源に練水術を施す。おそらく疲労困憊でエングローベの町まで戻る気力はないだろう。だからもう一晩スルベニアに泊まり、明後日の早朝に出る予定だ。
 ウィスの言葉を聞いて、予想通りティニアの視線が鋭くなる。主に楯突いた馬鹿犬にどんな懲罰を下そうかと考えている顔だ。
「お前の都合なんか関係ないわ。もしあたしを見捨てて行くつもりなら、殺してやる!」
「普通に考えれば僕の方が腕力もあるし、強いと思うけどね。それに、もし僕を殺してしまったら、もう二度と練水は手に入らないよ」
「……う。じゃ、じゃあ、無理矢理縛り上げて木の幹に括り付けてやるだけで許すわ」
「そっちの方が辛そうだ。なら、そうされる前に逃げないといけないね」
 逃げると言いながらも、ウィスはその場を動こうとしない。もちろんただの売り言葉に買い言葉であるから、本気で逃走を図ろうとは思ってない。
 沈黙が舞い降り、互いに口をつぐんだまま視線を絡め合う。
 時間だけが静かに過ぎ、ウィスは徐々に強まる寒気を肌に感じながらティニアを見つめ続けた。


「そろそろ三時間経つね」
 ウィスは川辺に腰を下ろして水面を見つめているティニアの背中を瞳に映しながら声を掛けた。
 結局、互いの視線を絡み合わせていることに先に根を上げたのはティニアだった。逃げるようにウィスから視線を逸らし、下唇を出したまま最後に一度ウィスを睨め付けて、その後はジッと口をつぐんで川の水面を見つめている。
 その後は掛ける言葉が思いつかず、またティニアの背中が話しかけてくるなと言っているようで、ウィスも黙ったままその場に佇んでいた。
 毛布で体を包んでいるティニアはいいが、何も長袖シャツの上に何も羽織っていないウィスには寒さが堪えた。明日風邪を引いてなければいいと、ウィスは嘆息する。
「どう? 特に変わったところはない?」
「……ないわね」
 ウィスの言葉に応じたティニアが、恐る恐る自身の両手を見つめている。安堵しているので、けれどまだ不安が拭い切れていないような思いが空気を伝ってくる。
 もし呪いが再発したときのために渡した練水の瓶を、ティニアは黙り込んでから片時も手放していない。完全に呪いが祓われたのならば、もやは無用の長物となるだろう。
 そしてそのままさらに十五分ほどが経過した。その間にティニアに変化はなく、その小さな背中から伝わってくる空気が、徐々に不安から安堵へと変わっていく。
「大丈夫……よね?」
「もう三時間半は過ぎたよ。もしティニアが言った通りなら、三時間経っても大丈夫なんだから、完全に祓えたってことなのかな」
「そうよ! 今度こそ、今度こそ完全にあたしの呪いは消えたのよ!」
 歓喜に満ちた声を弾ませ、ティニアがガバッと立ち上がってウィスの方へ振り返った。安堵に満ちてうっすらを瞳の端に涙を浮かべたティニアは、ウィスにその喜びを共感することを許してくれているような笑顔を初めて見せてくれた。
「よかった。これで僕も心おきなくこの村を後に出来る」
「もうお前なんか用無しよ! あたしの前から居なくなっても構わないわ」
 利用するだけ利用して、もう不要になったらポイと捨てる。じつに我が儘で自分勝手な言い分だが、そろそろそれがティニアらしいと思えるくらいになってきた。
 ティニアが爛々とした笑顔でウィスの脇を駆け抜けてその場を立ち去ろうとする。
 思わず呼び止めたい衝動に駆られたウィスだが、呼び止める理由が無く、またウィスの呼びかけにティニアが応じてくれるとは思えず、その背中を黙って見送ることにした。
 遠ざかっていくティニアの背中を見つめてウィスが小さくため息を漏らした時だった。
「ああああアアアアッ!?』
「えっ?」
 突如、ティニアが奇っ怪な叫び声を漏らしながら大地にうずくまった。
 そしてその体からどす黒い煙のようなものが吹き出し、周囲の草木を枯らしながら自身の衣類までをも腐らせていく。肌が黒ずみ、金髪がごわごわとした漆黒の髪へと変化し、透き通るように高い声音が奇っ怪で耳障りな異音へと変わっていく。
「そんな……。完全に治ったんじゃ……」
 ウィスは呆然と固まってしまいそうな体に鞭を打ち、呪いの異臭で歪みそうな顔を何とか堪えてティニアに駆け寄る。そして先程用意しておいた予備の練水を取りだし、苦しみながら大地をのたうち回っているティニアの腕を掴んだ。
「ティニア! 落ち着いて!」
『アアッ! アウウアアアッ!』
 再び呪いで穢れた姿になったティニアは、ウィスの言葉などまるで聞こえていないように暴れ回りながら奇声を発している。一度途切れた後に再び噴き出す呪いの苦しみは相当のものなのだろう。
「ティニアッ!」
 ウィスは乱暴にティニアの腕を引き、キスできそうなくらいにティニアの顔を自分の顔に引き寄せた。
『ッ! アア、練水ヲ……。練水ヲ寄越セッ! 早クッ!』
 ようやくウィスに気づいたティニアが鬼気迫る表情で叫ぶ。ウィスはすさかずその手に練水の入った瓶を握らせ、ティニアはすぐさまコルクの栓を抜いて一気に中身を喉へ流し込んだ。
 まるで肉食動物が野ウサギに牙を立てるように、ティニアは鬼気迫る表情で練水を飲み干し、しばらくもがき苦しんだ後、はたと黙ってその場にうずくまった。
 そのまま微動だにせず数秒が過ぎた時、禍々しい姿のティニアに再び変化が訪れる。
 もう何度目になるか、ウィスはティニアの身に起きる変化を静かに見守った。
「はあ、はあ……」
「大丈夫?」
「大丈夫なわけないでしょ! うぅ、あの姿の時は、し、死ぬほど苦しいんだから!」
 美しい姿に戻った後も、ティニアの表情は苦しげに歪んでいた。口元を小さな手で押さえ、眉は弱々しくハの字に曲がっている。あの姿になっている時間が短かったためか、衣類は少し腐った程度で、目のやり場に困ることはない。
 呼吸を整えているティニアから、ウィスは地面に転がっている小瓶へと視線を移した。それは呪いが再発したときのためにティニアに持たせた予備の練水が入っている小瓶で、先程までティニアが片時も離さず持っていたものだ。
 ウィスは記憶を引き出し、三時間が経って、もう不要だとティニアがそれを放り捨てた瞬間にティニアの体に変化が起こったことを思い出した。
「もしかして……」
 転がっている小瓶を拾い上げ、ウィスはそれをまじまじと見つめた。
 元は川の水だが、ウィスがそれに練水術を施し、聖水と何ら変わらぬ練水へと変化させたはずだ。キラキラと自ら煌めくのが練水であるが、今瓶の中にある液体は、練水術を施した直後に比べて幾分輝きが褪せているように見えた。
「どうしてよっ! 完全に治ったんじゃなかったの!」
「どうやら駄目だったみたいだね」
「そんな……。どうやったらあたしの呪いは完全に祓えるのよ! 何とかしなさいよ!」
 半べそをかきながらティニアが睨め付けてくる。助けてやりたいのは山々だが、どうやらウィスの練水では完全にはその呪いを祓うことはできないらしい。
 だが、完全に祓う術はないが、一つ気づいたこともあった。
「一つ気づいたことがある」
「……何よ。あたしの呪いを祓う方法に関係ないことだったら言わないで」
「関係なくはないと思う。直接祓えるわけじゃないけど、……ちょっとこれを見て」
 ウィスはそう言いながら先程の小瓶をティニアに見せた。ティニアはそれがどうしたと言いたそうな顔で睨み付けてくる。
「ティニアが持っていた小瓶。ちゃんと練水術を施したはずだけど、ほんの少しだけ輝き褪せているんだ」
「それがどうしたのよ! 関係ないことは言わないでって言ったでしょ!」
 瞳の縁に涙を抱えたティニアは当たり散らすように声を張り上げる。聖水とほぼ同じ練水でも自分の呪いが祓えなかったことに、相当ショックを受けたのだろう。
 だからウィスが気づいたことも気休め程度にしかならないと思う。いや、もしかしたら気休めにすらならず、逆にそんなことをいちいち取り上げるなと言われるかもしれない。
「……確証はないけど、練水の入った小瓶を肌身離さず持っていると、呪いの再発を遅らせることができると思うんだ。練水を飲んで元に戻って、三時間経ったらまた呪いが再発してしまうのを、少しだけ遅らせることができる」
 根本的な解決にはなっていない。それはウィスもわかっていた。遅らせるといっても、高々何時間という程度だろう。何日、何ヶ月、何年も遅らせるということはできない。
 予想通り、ティニアの視線は鋭さを増した。半泣きの表情は、いつ完全に崩れて大泣きし始めるかわからないほど歪んでいる。
 何とかしてやりたいとは思う。けど、ウィスにはこれ以上何もできない。
「……ごめん。あまり意味のあることじゃなかったね」
 ウィスは明日にでもスルベニアを離れる身だ。あまりティニアに肩入れしても仕方のないこと。
 けれど何か、何かしてあげたい。何か、何か自分に出来ることはないのかと必死に思考を巡らせる。
「あ……」
 その時、光明が射した気がした。それは光明と言うにはあまりに儚くて現実味の薄いものかもしれない。気休め程度と言われればそれで終わってしまうかもしれない。
 けど、眉唾物であってもそれは一縷の希望として胸に抱くくらいしてもいいことだと思う。だから、ウィスは今にも泣き崩れそうなティニアの顔を真正面から見据え、
「そうだ。もし源泉を見つけることができれば、ティニアの呪いは完全に祓えるかもしれない」
 小刻みに震えるその小さな肩を両手でガッと掴みながらそう言った。
「ゲン……セン……?」
「そう。正直な話、これは信憑性に欠ける事柄で、真実かどうか、本当に源泉というものがあるのかどうかわからない。……それでも、聞くかい?」
 ウィスはこの話を聞くかどうかティニアに尋ねる。
 確実でないものにすがって、後からそれが逸話だと知ったとき、人はきっと絶望し、強い後悔を抱くだろう。それが嫌なら最初からそんな話を耳に入れず、希望などを持たなければいい。
 しばらくティニアは黙ってウィスを見つめていた。そして数分後、しっかりとウィスの瞳を見つめて力強く頷いた。
「わかった。じゃあ、話すよ」
 ウィスは深呼吸をして気を落ち着かせる。別に動揺しているわけではないが、何となく気持ちをしきり直したかった。
「古くからの言い伝えで、この世界のどこかには聖水が湧く聖泉の源泉があると言われているんだ。多くの教会にある聖泉の大元、すべての源である泉が世界のどこかにあり、その泉から湧き出る聖水は他の聖泉から湧き出す聖水とは比べものにならないほど清くて尊いものだと言われている。その源泉から湧き出す聖水を飲めば、どんな呪いでもたちどころに浄化されるらしいんだ」
「源泉……。もしそれが本当にあって、そこから湧き出す聖水を飲むことが出来れば、あたしの呪いは……」
「うん。きっと祓えると思う」
 すべては聞き伝えのうわさ話でしかない。でも、ティニアの表情はそれでも少し明るさを取り戻したように見えた。溺れる者は藁をもつかむという諺があるが、まさに今のティニアはそんな心情なのではないだろうか。
「でも、先にも断ったけどあくまでそれは信憑性に欠けるうわさ話だからね」
「火のない所に煙は立たないわ。だからきっと、この世界のどこかにその源泉ってのはあるのよ! 間違いないわっ!」
 覇気を取り戻しつつあるティニアがぐっと拳を強く握りながら立ち上がる。自分に言い聞かせているようにも見えるし、生きる希望を得て活き活きとしているようにも見える。
「決めた! あたしは世界中を回って源泉を探すわ! 源泉を見つけて聖水を飲んで、この呪いを完全に浄化するんだから!」
「そう……。うん、見つかるといいね」
 ティニアの決意を見つめながら、ウィスは穏やかな気持ちでそう言った。気休めで言ったのではなく、心から、本当に源泉が存在してティニアがそれを見つけられたらいいと願う。ティニアの幸せを、たまたまその場に居合わせた一人の観客として見届けたい。
 ウィスがそんな、他人の幸せを願う傍観者に徹していた時、
「何言ってるのよ! 見つかるといいね、じゃなくて探すのよ! お前も一緒にね!」
「は――?」
 ティニアが先程までと同じ傍若無人ぶりを発揮し、ウィスの意見も挟まず勝手に事を進めていた。
「だって、あたしは聖水か練水がないとすぐに呪いで苦しい思いをする。練水なら、飲めばすぐに呪いを祓えるし、練水の入った小瓶を持っていれば一日くらいは呪いを抑えられるんでしょう?」
「えっと、まあ、多分そうだと思う。飲むと三時間くらいは呪いを抑えられるだろうし、小瓶に入れて保持していれば……、そうだね、一日くらいは保つと思う。瓶の中の水を一日ごとに練水し直せば、きっと呪いは抑えられると思うけど……」
「じゃあ決まりじゃない。あたしは源泉を探さなくちゃいけなくて、あたしには練水が必要。練水が作れるのはお前しか居ないから、お前はあたしと一緒に源泉を探す」
 横柄とか自己中とか、もはやそんなレベルの話ではない。ティニアの自分勝手さは、まさにこの世界は自分を中心に回っている的な思考だと言える。
 けれど、同時にそうでないことをウィスは気づいていた。
 ティニアはきっと、世界を憎んでいる。世界が自分中心に回っているなんて微塵も思っていない。もし世界が自分の味方なら、呪いで苦しむこともないのだから。呪い憑きで生まれたティニアは、理不尽な世界をきっと心から憎んでいるはずだ。
「そうと決まれば善は急げよ! さっさと出発の準備をしなくちゃっ!」
 まるで夢や希望を胸に未知の土地へ進もうとする冒険者のように、ティニアの表情は晴れ晴れしく輝いていた。
 そんなティニアの表情を見ているとこちらまで胸が躍る。けれど、ウィスにはウィスの使命があるため、素直にティニアの笑顔に見とれることはできない。
 だからちゃんと、ハッキリと言う。
「さっきも言ったはずだよ。僕にはやらなければいけないことがある。だから、ずっとティニアの側に居続けることはできない」
「お前の意見なんか聞いてないわ!」
「ティニアが何を言おうと、僕は僕自身のために自分の旅を続ける」
 向日葵のように華々しかった笑顔が散り、今度は逆に憎悪や殺意を惜しげもなく放出する憤怒の表情を浮かべ、ティニアがウィスをジトッと睨んでくる。
 ウィスは決して視線を逸らさず、自分の意志の堅さを証明するためにもティニアのまるで宝石みたく煌めくブルーの双眸を見つめ続けた。
「……何よ。そんなの、そんなの許さないわ! お前は黙ってあたしに付いてこればいいのよ!」
「…………」
 もう十分こちらの意志は伝わっただろう。それでもなおティニアが声を張り上げるのは、それを許さないという怒りの表れに違いない。
 ウィスはそっと歩を前に出し、そのままティニアの脇を通り過ぎた。
 これ以上話すことはない。こちらの意志がテコでも動かないことはティニアもわかっただろう。
「な、何でよ! あたしのことはどうでもいいってワケ? あたしの名前を知りたいとか、恩を売るように少し手助けして、それでお終いってこと?」
 背中に突き刺さる視線は針のように痛い。でも、ウィスは立ち止まらない。
「お前は最悪だ! あたしは今まで呪いの苦しさをずっと堪えてきた。でも、お前の練水を飲んであたしは一時だけ呪いの苦しさから解放された! でも、お前が今ここであたしを見捨てるのは、一度安らぎを覚えたあたしを見捨てることだ! お前にわかる? 堪えていた頃は大丈夫だった苦しみも、一度離れてからもう一度そこへ行くと、頭の中にある記憶よりももっとずっと苦しいんだから! 苦しくて苦しくて仕方ないんだからっ!」
「…………」
「見捨てるなら最初から助けるなっ! あたしに、今のような呪いによる苦しみのない安らぎを教えるなっ!」
 後方から聞こえるティニアの声はもやは嗚咽の混じった泣き声だった。
 ティニアの言葉一つ一つがウィスの胸をえぐる。ティニアがウィスに付いてこいと言ったのは、確かに自分勝手で自己中心的なことだと思う。けれど、泣きながらに訴える今の言葉はどうか。ティニアの言うように、ウィスは中途半端にティニアに関わって、余計に苦しい思いをさせただけなのではないだろうか。
「……ッ……」
 吐き気がする。自責の念に駆られる。それらはティニアの言葉が正しいと告げている。
「お前みたいな偽善者、さっさとのたれ死んでしまえ! さっさと消えろっ!」
 辛辣なティニアの言葉に、思わずウィスは苦笑してしまった。心苦しいというのに、どうして感情とは正反対の表情を浮かべてしまうのだろう。
「……偽善者、か。確かにそうだな。僕は旅に出たときからずっと偽善者だ……」
 わかっている。自分が偽善者であり、崇高な考えの基に練水で呪いを祓うという慈善活動に身を捧げているわけではない。
 すべては自分のため。だから、ウィスは偽善者だ。
 ティニアの言い分も、基は自分のためだ。ウィスのことをどんなに非難しようとも、基になっているのは自分が助かりたいという保身的な考え。
 その点でウィスとティニアは似ているかも知れない。互いに自分のことを優先して他を二の次にする。
「ウィルマ……」
 そう考えたとき、ふと脳裏に懐かしい人物の笑顔が浮かんだ。はにかむように笑い、ウィスとは正反対に他を優先して自分を殺す少女の笑顔。
 その笑顔が脳裏をよぎった後、気づいたらウィスは再び踵を返してティニアの方へ体を向けていた。視界には、眉をギッとつり上げて涙をこぼしながらこちらを睨め付けるティニアの顔が映る。
 今は思い出の中に埋もれてしまっている少女。ウィスの脳裏をよぎったその少女が言いたそうにしていた言葉。それは、きっと、
「一緒に来る?」
 たぶん、これだろう。
「え? な、何言ってるのよ! さっき自分から一緒に行けないって言ったじゃない!」
「確かにそう言った。僕はティニアと一緒に行くことはできない。でも、ティニアが僕と一緒に来るのであれば、僕は構わない」
「……どういう意味よ」
「僕には僕の目的がある。それを達成するために世界中を旅して回る。ティニアのために旅することはできないけど、ティニアが僕の旅に勝手に付いてくるのは構わない。互いに違う目的を持っていて、ただ単に同じ道を進むというのであれば、別に一緒に来ることを拒む理由はない」
 いろいろ託けて理由を言ってみたが、本当はそんなに複雑じゃない。思い出の中の少女が、ティニアを見捨てないでとウィスに言っているような気がしただけだ。
 ウィスは自分の目的を達成するため、ティニアは源泉の場所の情報を得るため、それぞれ違う目的でもいい。
 ウィスがティニアにそう同行するかと尋ねたとき、思い出の中の少女が麗らかに微笑んでくれたような気がした。
「……つまり、お前の旅の目的とやらを邪魔しない、勝手に付いてくる分には構わないってことね? そこには、一緒にいるからには練水を定期的にあたしに寄越すってことも含まれていると考えていい?」
 探るような視線でティニアが尋ねてくる。ウィスは首肯し、
「そうだね。一日一回、このペンダントの中の水に練水術を施そう」
 そう言いながらポケットからハート型の硝子のペンダントを取りだした。以前立ち寄った村で救った少女に貰った、中が空洞になっているハート型硝子がついているペンダント。これに水を入れて練水し、首から提げておけば呪いを抑える効果は得られるだろう。それを一日一回の頻度で練水し直せば、きっと呪いの再発はない。
「どうする?」
「……言うまでもないわ。あたしはもう、二度と苦しい思いはしたくないもの」
「わかった。じゃあ、最後に一つだけ注文してもいいかな?」
 ティニアの同行を確認して、ウィスはニッと笑む。それを見たティニアが怪訝そうに眉を顰め、あからさまに不快色、警戒色を発する。
「僕のことは名前で呼んで。これが練水を提供する対価ね」
「……は?」
「だって僕はちゃんとティニアって名前で呼んでるのに、ティニアは僕のことをお前呼ばわり。不公平じゃない?」
 不公平も何も、先に名前で呼びたいと言ったのはウィスだ。ティニアにしてみれば、勝手に言ってろという感じだったかもしれない。それでも、一緒に旅をするのであればいつまでもお前呼ばわりされたくない。
 ウィスはあからさまに嫌そうな顔をしているティニアに、さらに破顔の笑みを向けた。きっと気持ち悪がられているだろうとわかってはいるのだが、頬の筋肉を弛めることができない。
「……ウィスってホント、気持ち悪い男ね」
 案外素直に名前で呼んでくれたと思いきや、やはり憎まれ口だった。
 ウィスは嘆息しながらも、ほんの少し胸が温まるような気持ちを覚えた。悪口を言ったにもかかわらず笑みを崩さないウィスに、ティニアの口から再度、「気持ち悪い」という言葉が零れた。
「よし。じゃあ、改めてよろしくね、ティニア」
「ふんっ」
 これが始まり。
 自分の目的を達成するために孤独な旅を続けてきたウィスと、その旅に起きた大きな変化をもたらすティニアの出会い。
 二人の旅は、今ここから始まることになる。
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