恵一は高速を降りた。岡崎→名古屋間の高速料金は800円だった。恵一は1000円札で支払い200円を受け取って一般道へと出る。
 立体交差だらけの複雑な道を名古屋市街方面へと向かう。
 県道六〇号名古屋長久手線。この道を行けば名古屋の中心街に辿り着く。
 二四時間営業のガソリンスタンドの林立する交差点で赤信号に捕まった。出勤途上の車を掻き分けNSRを先頭に持って行く。
 ふと見ると隣に一台の大型バイクがいた。
 GPZ900Rニンジャ。
 見た目からしてノーマルではない。
 太いカーボンサイレンサーの集合管と巨大なラウンドラジエーターと銀色に光るサブフレームが目立つ。よく見ると足回りもノーマルの物ではない。
「すげェ…。」
 思わずつぶやく。
 フルチューンされたモンスターがそこにいた。 いつかは俺も…と恵一は思う。
 恵一のような中型限定免許のライダーの憧れがそこにあった。
 ニンジャのライダーが恵一の方を見た。
 何となく気恥ずかしくなって目を反らす。
 自分が物欲しそうな顔をしていないかが気になったからだ。
 ニンジャのライダーはヘルメットのスモークシールドをあげた。
 意志を持った強い目が現われる。
「神谷のGT―Rは振り切ったようだな。」
 その言葉に恵一は、はっとしてライダーの顔を見つめた。まさか――。
「渡してもらおう。」
 信号が青に変わった。
 NSRをとび出させる。
 奴らの仲間だ!
 車の群れの中へととび込む。高速道路をハイスピードでとばして来た目には周りの車がひどく遅く感じる。
「くそっ!」
 苛立つ感情のままアクセルを開ける。
 左右に車体を振りながら車の波を抜ける。
 曲芸並みのハイペースだ。高速道路と違って車の量がやたら多いのが厄介だった。
 野太い排気音は背後から離れようとしない。
 ニンジャは余裕でついてくる。
 焦りが広がる。
 プレッシャーに息がつまりそうになる。
 正面の信号が黄色に変わった。
「やばいっ!」
 車速を落とし始めた車の脇を抜ける。信号が赤に変わる。車の動きが止まる。そして左右それぞれの道の車が動き出す。
 加速して突っ込む。
 急ブレーキの音。
 クラクションが鳴り響く。
 間一髪で走り抜ける。
 背中に冷汗が流れている。
「抜けた…。」
 ため息をつく。
 だがこれでニンジャを引き離せるはずだ。
 一瞬の安堵感。
 しかし、一瞬のその思いは野太い排気音にかき消された。
 めぐらした視線の先にはニンジャがいた。
「馬鹿な…。」
 思わず声がもれる。
 あのタイミングでどうやって…。
「くそっ!」
 アクセルを開ける。車の間をすり抜ける。
 一際にぎやかな星が丘の通りを抜けると左手に緑に包まれた東山公園とそのシンボルである東山タワーが見えてくる。
 一番左側の路肩を全開で駆け抜ける。
 だがニンジャは余裕でついてきた。
 いつでも抜けるはずだった。だがあえて前に出ようとはしなかった。
 遊ばれているのが分かった。
 しかし、どうにも振り切れない。
 くやしかった。
 その思いが恵一の右手に力を込めさせる。
 一台の車がいきなりハンドルを切った。白いセダン。その先の交差点で左折するために左に寄って来たのだ。ウインカーは出ていなかった。
「!」
 フルブレーキング。
 ハンドルがとられた。
 恵一は宙を舞った。
 
 




 体が浮き上がるのを感じた。
 視界が次々と変化する。
 NSRのメーター。アスファルト。空。
 左手を突き出すようにNSRを飛び越える姿勢になって放り出された。
 アスファルトにたたきつけられた。
 痛みは感じなかった。
 ただショックだけがあった。
 肉体的なのか、精神的なのか、痛くはないのに打ちのめされたようなショックがあった。
 恵一は起き上がった。
 ジーンズの膝とナイロンツイルのジャケットの肘や袖口が破れ、血がにじんでいる。
 立ち上がろうとすると傷口から痛みの信号が走る。
「くっ。」
 痛みをこらえる恵一の目の前にニンジャのライダーがいた。
 アライの黒いフルフェイスヘルメットとダブルブレストの革ジャンに革パンツ、その上からGベストをはおっている。
 ライダーが恵一のジャケットの襟首を掴み引き寄せた。
「これで終わりだ。下手くそめ。さっさとブツを出しな。」
 威圧感に満ちた声だった。
 重い声が腹に響く。
 負けじと睨み付ける。そしてしぼり出すように声を出す。
「嫌だね…ぐふっ!」
 いきなり腹に右拳が来た。恵一の腹筋はその拳を受け切れなかった。
 息が出来ない。足から力が抜け、立っていられない。右手で殴られた腹を押さえる。
 よろけながら左手は襟首を掴んだままのライダーの腕にしがみつく。
 ライダーはうざったるそうにその手を振り払った。恵一は立っていることすらできずにアスファルトの路面に転がった。
「早くブツを出しな。小僧。終わりなんだよ、これでな。」
 視界の中にはカウルが割れ、転がったままのNSRと先を急ぐ車のタイヤとライダーのブーツ。
 ドライバー達は素知らぬ顔だった。誰も止まる者などない。歩行者も同じだ。誰も関わり合おうとはしない。
「こんな痛い思いをしてまで走ることはないだろ。ええ?お前さんには何も関係ないことなんだぜ。」
「バイク乗りだからだ…。」
 立ち上がろうとする。
「何?」
「バイク乗りがバイク乗りに頼まれたんだ。関係なくはない…。」
「エラそうなこと言ってんじゃねェよ!」
 ライダーが拳を振り上げた。
「貴様ら何をしとるかあ!」
 車の群れの中に一台、白黒ツートンのパトカーがいた。そのスピーカーからの声だ。
 ドアが開き警官が出て来た。
「貴様ら!こんな所で何をしている!」
 今度は地声だった。
 一瞬、呆気にとられた恵一は我に帰るや否やNSRに駆け寄る。トラブルを避けるためか、ライダーも自らのニンジャに走る。
 警官はどちらを追うか迷った。
「おい!貴様ら!」
 警官の声をよそに、恵一はNSRの脇に膝をつく。NSRはフロントカウルが割れていたが、走るのには影響がなさそうに見える。
 恵一はNSRを抱え起こし、エンジンをかける。三回目のキックで二四九CCのVツインエンジンが目覚めた。
「こら!エンジンを切りなさい。」
 スピーカーで、がなりたてながらパトカーが目の前を防ぐ。背後を見るとニンジャはアクセルターンでリヤタイヤを振り回し、警官を近付けまいとしている。
 恵一はNSRをダッシュさせる。パトカーを避け、車の列の中にNSRをとびこませる。
「止まりなさい!そこのバイク!」
 パトカーのスピーカーが叫ぶ。
 もちろん恵一にはそんな指示に従う気などなかった。これだけ車が多い中で車がバイクに追い付ける訳がない。追い付けるのは――。
 背後から野太い排気音。
 そう。あんただけだ。
 GPZ900Rニンジャ。
 もう一度…もう一度勝負だ。ニンジャ!
 
 

 7




 恵一の中から焦りが消えていた。
 殴られて気付いた。
 焦っている自分に。
 小僧。ニンジャのライダーはそう呼んだ。
 確かにそのその通りだった。頭に血を昇らせ、苛立ちながら走ったあげくにフロントブレーキの握りゴケ。小僧と呼ばれても仕方がない。
 深く、静かに見つめること。
 そして熱い心で走らせる。
 怒りではない、熱い心で。
 それがバイク乗りだ。
「行くぜっ!」
 NSRがダッシュする。

 ニンジャのライダーはNSRのペースが上がったことに気がついた。
 動きもスムーズになっている。
 乗れていた。
「面白い。」
 つぶやく。
 止めてやるぜ!小僧!
 ライダーは本気になった。

 ニンジャが迫る。
 恵一はわざと左に右に車線を変えつつ走る。
 脇に並ばれた。
「くそっ!」
 車体を振って路肩へ出る。
 ニンジャもついてくる。
 左手に千種区役所が見えてきた。
 栄まではあとわずか。
 振り切れないのか?
 路面のアップダウンでNSRが跳ねる。
「くそっ!」
 暴れるNSRを抑え込む。
 交差点の信号が赤に変わる。と、同時に右折可の矢印信号が点灯する。
 そのまま突っ込む。
 リヤタイヤのグリップを気にしながらフルバンク。
 対抗する右折車同士の間を一気に抜ける。
 姿勢を戻して今度は左の側道にNSRをとびこませる。
 通勤途中のサラリーマンやOLたちが目をむいていた。
 無視して側道を行き、さらに奥へと進む。広い通りならともかく、こんな狭苦しい、車一台がやっと通れるような路地ならば。
 そう考えたのだ。
 すると目の前にゴミの缶。プラスチックの巨大なやつ。
「ラッキー!」
 叫んでそいつを蹴り飛ばす。
 細い路地の中にゴミがあふれ返った。
 ニンジャがとびこんできた。
 目の前にゴミの缶。そして辺り一面のゴミ。ゴミだけならともかく、このでかいゴミの缶は無視してはじき飛ばすには大きすぎた。
「くそっ!」
 ニンジャのライダーは、叫びつつフルブレーキ。
「あばよっ!」
 NSRはそのまま突き進む。
「ざまぁ見やがれ!」
 恵一はアクセルを開けた。
 通りへ抜ける。
 相も変わらず、通勤途中の車の波だった。
 その車の波を掻き分け進む。
 時計に目をやる。
 タイム・リミットまであと十六分。
 赤信号を無視して交差点を右折。
 セントラルパークのテレビ塔が見えてきた。
 あと少し。
 アクセルを握る手に力がこもる。
 左の側道からニンジャが飛び出してきた。
 安心しきった恵一の心に再び緊張が走る。
「くそっ!」
 正面を塞がれた。前へ出ることができない。
「畜生!」
 ニンジャの左側にNSRをすべり込ませる。
 ライダーの左腕がとんできた。
 タンクにへばりついてよける。
 NSRが前に出る。
 ニンジャが追いすがる。
 NSRは逃げ切れない。
 大排気量のパワーでNSRを捉える。
 恵一の視界に名古屋高速の高架が見えてきた。
 アネックスビルはあの向こう。
 その脇のCB。
 そいつに…こいつを!ウエストバッグの中の包みを渡せばゴールだ。
 高架下の信号は青。
 一気に走り抜ける。
 そしてこのままゴールに!
 そこへ、ニンジャが右側からぶち当たってきた。
 NSRがガードレール側に押し込まれる。
 肘と膝がガードレールに接触する。

「終わりだッ!小僧ッ!」
 ニンジャのライダーは叫んだ。
 叫んで後方からマシンを寄せた。
 このまま、幅寄せしてNSRを止める。
 止まらなければ、はじき飛ばすまで。
 そしてニンジャは、獲物を狩る猛禽類のようにNSRに襲いかかった。

「くそおッ!」
 やられるならせめて相打ち!
 一瞬の思考が走った。
  恵一はブレーキレバーを思いっきり握った。
 NSRの車速がぐんと下がる。
 斜め後ろから寄せてきたニンジャとからんだ。
 2台のマシンはライダーをはじき飛ばした。
 
 




 恵一は歩道脇の植え込みの中に投げ出された。
 枝葉を振り払いながら立ち上がる。ジーンズは破け、すり切れた皮膚に真っ赤な血があふれている。
「くそっ!」
 歯を喰いしばって立ち上がる。
 激痛が走る。
 よろよろと歩き始める。
 公園と歩道橋の向こうにアネックスビルが見える。
「あそこだ。あそこに!」
 CBがいる。
 振り返ると道路にニンジャとそのライダーが倒れている。だがライダーは意識を失っているわけではないらしい。腕を動かして起き上がろうとしている。
「追いつかれる――!」
 そんな思いが走る。
「走れ!」
 自分に言い聞かせる。なけなしのプライドが恵一の体を動かした。
 一歩一歩、歩くごとに痛みが体中に響く。
 横断歩道は赤信号だったが構ってなどいられなかった。若いOLの運転するハッチバックを無理矢理止めて通る。
 クラクションが派手に鳴る中を恵一は走った。よろけるように走った。
 息が切れる。
 冬だというのに、汗があふれる。
 そして、両の目からは涙が。
 痛みは無視する。
 体が悲鳴をあげているが聞く耳など持たない。ただ走る。よろめきながら。
 アネックスビルの周りは通勤途中のサラリーマンやOLでいっぱいだった。
 しかし、汚れ、傷ついた恵一のことなどあえて無視してそれぞれの会社へと向かい、足を止めようとする者はなかった。
「CB…CB…。」
 恵一は、つぶやきながら周囲を見廻す。
 バイク乗りが「CB」と言えば、ホンダのオンロードタイプのスポーツバイクをさす。
 日本初の750cc、CB750から現行のCB1300SFまで。一口にCBと言っても様々な車種がある。
 どれだ?どこにいる?
 バイクは何台か目に付く。
 だがオフローダーやアメリカンが多い。
 どこだ?気持ちが焦る。
 一台のバイクに目がはりついた。
 フルカウル故に見逃したマシンがそこにいた。
 CB1100R。
 八十年代初頭の名車CB1100R。
 その脇にツナギの上にブルーのジャケットをはおったライダーが立っていた。
 あいつだ――!
 恵一は確信して近寄った。
 理由はない。
 あえて言うなら、CB1100Rという名車に乗ったライダーに待っていてほしかった。そんな子供のような想いが、恵一にそう確信させた。
「あんた、山崎さんって知ってるかい?」
 叫んだ。
 ライダーがこちらを向いた。
 女だった。
 ショートカットの髪と、気の強そうな目つきの目立つ、そんな女。
「あんた…知ってるかい?カタナの山崎さんを。」
「え?ええ…だけど。」
「これを頼まれた。」
 そう言って恵一はウエストバッグから包みを取り出した。
 女は目を丸くして息を飲んだ。
「あの…人は…?」
 つぶやくように言った。
 恵一は答えられなかった。
 一瞬の沈黙が流れる。
 女はそれで悟ったようだった。
 口元が歪む。悲しみをこらえるかのように。
 女は包みをジャケットの中へとしまい込んだ。そしてCBにまたがる。
 エンジンをかけた。
 1062ccDOHC四気筒はすぐに目を覚ました。
 女は恵一を見つめた。
「ありがとう。」
 一言。そう一言言い残してCBを発進させた。
 特徴的なテールカウルはすぐに車の群れの中に消えていった。
 呆気無く終わった。
 恵一はその場にへたり込んだ。
 緊張の糸が切れた。
 痛みと寒さが一斉に襲って来た。
「くうっ」
 自分の体を抱きしめる。
 相も変わらず、サラリーマン達は関わり合いを避けるように近寄らない。
 終わった…な…。
「帰らなきゃ…な。」
 よろよろと立ち上がろうとした。
 顔をあげた。
 ニンジャのライダーがそこにいた。
「!」
 息を飲んだ。
 近寄ってきた。
 いきなり左腕を掴まれ立たされる。
「ぐっ!」
 体中が悲鳴をあげた。
「骨は折れていないようだな。」
 ライダーはそうつぶやいた。
「ここがゴールだとはね。やられたよ。」
 そう言って手を放した。
 ふと見るとフロントカウルの割れたニンジャがそこにあった。
 ライダーはニンジャにまたがった。
 そして恵一の方を向く。
「次は負けねーぞ、小僧…いや、バイク乗り。」
 ニンジャの排気音が辺りを支配した。
 サラリーマン達がけむたそうに視線を投げる。
「あばよ。」
 そう言ってニンジャは走り去った。
 そして恵一は再び一人取り残された。
 ふと心地よさを感じた。
 何故かは分からなかったが気分が良かった。
 体中の痛みすら心地よい。
 口元が笑みの形に歪む。
 恵一はヘルメットをとって歩き出した。
 NSRの元へと。
 バイク乗りはバイクを見捨ててはいけない。
 街は何もなかったように動き続けている。
 左手に巻いた、G−SHOCKのアラームが鳴った。
 タイムリミットの時間だった。
 恵一は口元に笑みを浮かべ、左手首のG−SHOCKを見つめた。
 そして、アラームを止めた。
 
 




 アスファルトの黒い焦げ跡が、あの出来事が事実だったことを証明していた。
 恵一はガードレールに腰を下ろしてその焦げ跡を見ていた。
 報道は何もなかった。
 ここで燃えたGSX1100Sのことも東名高速道路でクラッシュしたGT―Rのことも。
 あの後、とある証券会社のスキャンダルと製薬会社の贈収賄の報道が年の瀬というのに華々しく紙面を飾っていた。
 あの包みがそのどちらかと関係していたのかどうかなど恵一には分からなかった。
 ただ確かなのは。
 とことんまで走ったこと。
 ただそれだけ。
 それだけだった。
 恵一はミラーにかけてあった傷だらけのヘルメットを手に取り被った。
 NSRにまたがりペダルをキックする。
 サイドスタンドをけりとばし、クラッチを握り、シフトをローに落とす。
 もう一度振り返り、焦げたアスファルトを見る。
 恵一はNSRをスタートさせた。
 そして、もう二度と振り返ることはなかった。
 

 END





 書いたのは結構昔の話で。
 ストリートを走るバイクのお話が読みたかったので、とりあえず自分で書いてみました。
 何度も手直ししようと読み返すのですが、不出来な部分も含めて、ま、いいか、と思って何もせずにいます。
 一度、主人公が運んでいたのは何だったのか、と聞かれたことがあります。
 私は何も考えていなかったのですが。
 私が書きたかったのは、どうでもいいかもしれないけど、どうでもよくない。
 そんな今一つ説明のつかない情熱みたいなものでした。
 はたして、それが表現できていたのかは疑問ですが。
 ちなみに主人公が辿り着いた場所は、現在とらのあなとまんだらけにはさまれたオタクな場所になってしまいました。


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