内容
「ゆきゆきて神軍」「スペースボール」「ゲッタウエイ」

「A.I」「パールハーバー」「ハンナプトラ2 黄金のピラミッド」「スパイ・ライク・アス」「スターウオーズ エピソード2クーロンの逆襲」「バイオハザード」「タイムマシーン」「ザ・リング」

「舞踏会の手帳」new


「望郷」new


「心の旅路」new



 木曜会のメンバーは映画がおしなべて好きである。映画はできる限り、映画館の銀幕で見るよう心がけるが、レンタルビデオを鑑賞する場合もある。全ての作品が、銀幕で上映されるわけではないので仕方のない所であろう。
 映画の好みのジャンルに関して言うならば、岡崎研究員は銀幕にしてもビデオにしても膨大な量をこなしている。しかし、近頃、本書きや講演などで忙しくあまり見れないようである。
 山本研究員は、ビデオのなかでもかなりマイナーなものをどこからか見つけてくる。彼は映画界のアングラ系に精通している。
 土井研究員は、銀幕、ビデオともにあまり量は見ないが、気に入った映画をあきもせず繰り返し見る傾向がある。よって、気に入った映画は、セルビデオ、レーザー、DVDなどで入手し何度も見倒す。また、彼の部屋は、完全防音の設備と、スピーカー10本を設置し、これらを鳴らすアンプやデッキ、37インチ大型モニターなどが部屋を埋め尽くす。
 よって、木曜会では、土井の研究室においてしばしば映画鑑賞会が行われる。この鑑賞会の後あーだ、こーだと映画談義をやって楽しんでいる。まさに活劇、電影サロンといったところだろう。

 以下ランダムに映画やテレビ番組などを取り上げそれに関するコメントを述べていきたい。


その1〜「ゆきゆきて神軍」           主演 奥崎謙三  監督 原 一男   1987年  122分

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この映画は、木曜会のメンバーで試写会に行った。上映後、原田監督やスタッフの話が聞けてたいへん良かった。この映画に関しては、製作ノート+採録シナリオとして「ゆきゆきて神軍」 (話の特集)より本が出ている。
 この作品は1987年ベルリン映画祭カリガリ映画賞、1986年日本映画監督協会新人賞、日本映画ペンクラブ推薦などの評価を得ている。「疾走プロダクション」という会社で製作されており、まったくのアングラ上映で出発したが、たいへんな話題と物議をかもし出して、多くの映画館で上映された。またビデオにもなっている。われわれ木曜会のメンバーは、ビデオでもこの映画を見てこの映画の迫力を再認識したのである。

このおっちゃんが奥崎謙三である。彼は、不動産業者を殺し、皇居で天皇ヒロヒトにパチンコをうち、天皇ポルノをデパート屋上からばらまき、独房生活13年9ヶ月 前科3犯のとんでもない突破ものである。しかもこの映画のラストでは、太平洋戦争時の将校を拳銃で撃ち、投獄されている。この強力な個性をもつおっちゃんが、大戦中の隠されたる真実をカメラの前に明らかにしていくのだ。





このシーンは特に強烈であった。南方方面の米軍に包囲された日本軍が、餓えと絶望感と強烈な生への執念から何を行ったか。それが語られていくのだ。そこに出て来る言葉「白豚、黒豚」、証拠隠滅のための同朋の虐殺、そしてカーニバリズム。反戦の映画はあまたあれども、これほど戦争の真実を伝える「語り」はないだろう。戦争では人の命は取るに足らぬものになると考えてしまうが、決してそうではない、30年以上経っても人々のこころをさいなませつづけるのだ。いやそれだけではない、そういう人もいれば、当時の自分がやったことを「正当化」し何食わぬ顔をして孫なぞ抱いて、いいおじいちゃんになっている将校たち。要するに、悪の張本人は生き長らえ、「死人に口なし」とばかりに死んだ戦友を冒涜する。憲法9条改正など叫ばれているが、そういうことを言っている戦前派のおやじたちの方が(生き残り)よほど「あやしい」のだ。

その2〜「スペースボール」      主演 リック・モラリス   監督 メル・ブルックス 1987

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パロディである。スターウォーズの。ヒッチコックやフランケンシュタインシリーズのパロディをやりまくっていたメル・ブルックスがついにスターウォーズをパロった。しかも大変よくできている。岡崎研究員はこの映画をいち早く見つけ、みんなで視聴することを提案した。この映画は東郷研究所のAVルームで早速上映された。あまりの面白さに、セルビデオを中古で購入し、暇なときに何度も見倒している。岡崎研究員も時々このビデオを借りて、いろいろな所で見せているようだ。ところで、私は主演をリック・モラリスにしたが、クレジット上は当然メル・ブルックスである。しかしこの映画はモラリスによるモラリスのための映画だ。モラリスは、ゴーストバスターズで、脇役の会計士をやっていたが、ダン・エイクロイドやシガニー・ウィーパーを完全に食っていた。左の写真はリック・モラリス扮する「ダークヘルメット」

このおっちゃんがメル・ブルックスである。彼は、自分で製作した映画によく出演するが、ときに、「ヤングフランケンシュタイン」のごとく姿をあらわさないこともある。しかしこの映画では、この写真の悪役スクルーフ教授とヨーダをパロったヨーグルト役を演じて楽しんでいる。こんなにまあうれしそうに演じている、メル・ブルックスにも困ったものだ。スターウォーズが、大ヒットしてからきっとこのパロディーをやりたかったんだろうなぁ。14〜15年後にその願いがやっとかなって、はじけるように演技していくのがわかる。

その3〜「ゲッタウエイ」    主演 ステーブ・マックイーン  監督 サム・ペキンパー 1972

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この映画の主役はマックイーンである。しかし、この映画には悪役しか出てこないそしてそいつらがみんな一癖ふた癖なのだ。善人が一人出てくるがそいつは女房を寝取られ、黒澤の羅生門よろしく面前で女房を悪役に犯される。悪はみんなどう見てもふてぶてしくごっつい。やられ方も派手だ。マックイーンだって一番右の写真の金髪をぶん殴って気絶させる。右から2人目がやくざのボスだが殺されると弟分が取って代わられあげくに古井戸に捨てられてしまう。とにかく出てくるやつみんなが、主役を食っちゃうやつらだ。マックイーンだからかろうじて主役に納まれたが、それでもなかなか厳しい。この映画、最後はマックイーンとマックグローがメキシコに逃げて終わりなのだが、この映画の元となった原作はアッと驚く顛末なのだ。メキシコへ逃げるが、逃げた先はこれまた悪人の天国である。まあ国をあぶれた悪が逃げ落ちるところなのだが、とにかくそこで生活をするには莫大な金が要るのだ。そして金が払えなくなると、そこの住民の食料になってしまうというとんでもないところなのだ。そこで二人は裏切りなどがあったりして悲劇への道を進むという展開なのだ。しかしこの当時の役者というのは何かこう体臭とか口臭などが匂ってくるような臨場感と迫力があるね。


特別編1(これは私が気に入った映画ではない) 〜「A.I」   主演 ハーレイ・ジュエル・オスメント  監督 スピルバーグ 2001

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近くにシネマコンプレックスができたので、近頃はよく銀幕を見に行く。特に、レイトショーは1000円で済むためこいつを狙って行く。9:00や10:00ぐらいから始まるから、風呂なんぞ入ってから視聴することができる。有名新作などは、朝一番に予約を取って、見に行くのだ。安く、ならばなくてもよいので助かる。それに新しいシネマコンプレックスは、きれいで座席に余裕があるので快適に映画が見れる。映画好きには何よりだ。
 さて上記の方法で「A.I」を見たのだが、これがまあなんと困った作品であった。10時からスタートのレイトショーであったので思わず居眠りをしてしまった。スピルバーグは時々大いなる駄作を作るのだがこの作品は何本かに一回やっちゃう駄作のひとつといえよう。
 妻子がぜひとも見たいということで一緒に行ったのだ。私はこの手の作品はレンタルで十分と考えていたのだがやむおえず付き合った。ストーリーはピノキオのようなSFファンタジーのようなとにかく、純真な美少年とマスコットとマザコンとロボットの悲哀と・・・色々まぜこぜにした内容だ。スピルバーグにはめずらしくスピード感がまったくなく、ストーリーが途中で頓挫して「おいおいもう終わりか?」と思ったらそこから1時間以上もだらだらと物語が続くのだ。このだらだらが、お涙ちょうだいであることは確かで、終了後何人かの女性がすすりなきをしていたようなので一部その目的は達成したといえる。しかしこんな程度で涙腺が緩むというのはつい「あんたらー、感性がちょっとばかり貧しいのじゃないの」と思ってしまう。私は、「シンドラー・・・」でもまったく泣けなかったが、「A.I」は、ため息が出るばかりでとにかく退屈な代物だ。
 案の定、妻子も感想や余韻などあるはずもなく、ただ無言で駐車場まで早足で歩いていた。ちょっと辛気臭かったので、「屋台とんこつラーメン」を食いに行こうと誘ったが、「早く家に帰って寝る」とのこと。「それがいいな早く帰って寝てこの疲れを取ろう」と私もとんこつラーメンはちょっと惜しかったが早々に床につくことにしたのだ。
 アベックなんかで行って、彼女の反応を見て、感動して涙するようであれば、そーとートロイやつか、演技べたのぶりっ子であると断言できよう。「この映画退屈だわ」といったら、その子はまあまともであり、例えば調理用の魚や野菜の見立てもさほど間違えることはないだろう。逆に、本当に感動して泣くような子であったら、その子の味覚は味の素や保存料の大量添加食品をとても美味しいと感じるようなものであり、また食紅で真っ赤なお菓子を「まあとてもきれいで美味しそう」といっちゃう人なので以後の、例えば結婚後の家族の健康維持には注意が必要だろう。
 そういえばこの映画の終了後年配の爺婆が、「なんだねぇ この映画は「母を訪ねて三千里」のようなもんかね婆さんや」「爺さんちゃんと見とったんきゃ、えらいのー。わしゃすぐ寝ちまって何がなにやらさっぱりわからんとよ、はぁ〜」と喋っていた。また私の斜め後ろの若いオネエさんは、超低周波の低く、かすかだが耳障りないびきをかいて寝ておった。さらに、3っツ横のオヤジは館内全域に響くようないびきをかいておったし、その発生源は数十箇所に及んでおり、まるで、宴会の後の酔っ払いオヤジの雑魚寝部屋の体をなしていた。いや〜とても退屈であった。レンタルも借りることはないだろう。

特別編2〜「パールハーバー」 主演らしき人 ベン・アフレック ジョシュ・ハートネット ケイト・ベッキンセール  監督 マイケル・ベイ

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監督いわく「この映画は戦争映画ではない。恋愛映画である」私いわく「この映画は恋愛映画ではない。タイファイター=ゼロ戦 対 Xウイングファイター=カーチス戦闘機のドンパチSF活劇であり、高校文化祭演劇部のあの子に気がある気がないタッチの学芸会である。」この映画の恋愛シーンはかようにとてもダサく、ほとんど喜劇であった。ついにアメリカも日本並にちゃらちゃらなすび顔の「かれしぃー」と、したったらず幼児声の「かのじょー」の恋愛物語に突入してしまったのか。あまりにイモ臭い恋愛演技であるためついにはそのドン臭さを「何とかする」ため、この恋のストーリーは予想もせぬ展開を見せる。「さぁ〜どーなるかぁ ベン君が死ぬかジョシュ君が生き残るのか。ケイトちゃんはどっちのぼーやを「ぱっくんちょ」しちゃうんでしょー。お楽しみお楽しみ」てなフルタチ風の講壇タッチになっちゃうのである。

この恋愛映画が喜劇になってしまう大きな理由のひとつに、女優の低品質があげられる。まあどれもこれもとても厚化粧でケバク色気がない。どーみても根性が悪そうで、オーデションなんかじゃ、プロデューサ−を色気というよりも腕力でねじ伏せたか、あるいはコネコネ作戦で手に入れたか、とにかくまっとうな方法で役を手に入れたとは考えられない。その演技振りといえば、色気というよりも腋臭が臭ってきそうなくっさいものであり、きっとベン君やジョシュ君はキスシーンの後、「お口クチュクチュ モンダミン」でうがいをしたはずだ。 それにベン君やジョシュ君もよきハリウッド時代のバトラーやボギーばりの演技をとりあえず真似ようとしたけれども200年早いと自覚してやめたんだろうな。しかし、監督はボギー、バトラーのかっこよさをきらきらまぶたで追っかけていたようである。
 しかしねぇベン君よ、心悩む表情ってもんは眉間にしわ寄せて首筋浮かせることを幾度も繰り返せばOKじゃないでしょうが。それにジョシュ君、きみはねぇ 驚きも、悲しみも、苦しみも、落胆も、すべて首から上をロボコップみたいにフリーズさせて10メートル先を見つめる表情で通してしまう、工夫のなさにもまいったなぁ。彼らが女性とのラブシーンで思わず息子に「これこれまだまだ待ちなジュニア、順番ちゅうもんがある。今はまだうまく収まらないぜ、もう少し辛抱しておくれ」と言っちゃってもまったく不自然な台詞にはならないのではないか。
 ところで特撮は金がかかっていたな。パイロットの面がダースベーダーでもなんら不自然さはない。戦闘場面はついに宇宙活劇になった。
 日本の山本五十六も南雲もみんな道路工事現場の日雇い労働者の皆さんみたいで、これからのかっこよさの基準に日雇いの方々の風情が基準になってきたことは唯一評価されよう。デフレスパイラルでとっても厳しい労働事情であるが、おやっさんたち希望を捨てるな「がんばろぉー」。それに、彼らの台詞だが、まったく、ろれつが回らずおもがゆい。やっぱり白人は黄色人種をバカにしているな。戦争シーンでは舟のなかで生きながら溺れていくシーンが唯一戦争の怖さというか息苦しさを感じたところであった。しかし、このシーンは日本サイドから見ると、だまし討ちのあてつけに見えてしまうのだが、そこはほれマイケル監督の腕のいいところ。日本人が見てもなんか他の宇宙のM−16星雲のタトウィーンの戦争を見ているようでまったく戦争責任といった日本人としての自覚もおわびも反省も感じることはなかった。まあそれがこの作品のなすび顔的あっさりした軽さなのであって、よいところでもあり、完全なる「だっさく」を決定付けているところでもあるのだ。
 ところで私だったら、この男女の恋愛ストーリーをちょっと変更して次のシーンを入れるね。つまり、ケイトちゃんが東南アジアの方に転勤になっちゃって、まあ例えば、フイリッピンなんかでもよいでしょう。そして、マッカーサーが「アイ シャル リターン」とか言って脱出するのだけれども、ケイチャンは置いてけぼりを食っちゃって、帝国日本陸軍のほりょになっちゃうのだ。そして戦争のお決まりの法則で、日本軍の兵隊に強姦されちゃうわけ。強姦する多くの兵士の中にまあよければ僕も入れてもらえるとうれしいがそうはうまくいくまい。そして月日がたって、ケイチャンは男の子たちに再会するわけだな。さてその時彼女は自分の身に降りかかったオゾマシイ過去を彼らにカミングアウトすべきかどうか?自分はにっくき日本兵に辱めを受けて汚れているがそんな身である自分をまだ愛してくれるか?そんなところのシーンを、強姦されるシーンが何度もフラッシュバックしながらねちねち繰り返す。何度も強姦シーンで日本兵は明るくピースなんかしながらやるとさらに苦悩の効果はアップするだろう。しかしそんなシーンに対しても、2人の坊やは、眉間しわ寄せ、青筋、ロボコップ、ヌボー表情だったらどうしよう。やっぱり喜劇になっちゃうな。うーむ、やっぱりこの映画は煮ても焼いてもどーにもならん内容だな。それに役者の名前もなんかヘン。アフレックとかベッキンセールってなに?3回ほどキーボード打ち間違えたな。


特別編3〜「ハンナプトラ2 黄金のピラミッド」  主演 ブレンダン・フレイザー アーノルド・ヴォスルー   監督 スティーブン・ソマーズ

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 こちらの映画は上の作品より早く公開された。この作品はいわばミイラ怪人の最新版であるわけだが、実は、SFタイムマシンのジャンルに入れることができよう。また、そこここで、スター・トレックでおなじみの「転送装置」が随所に出てくる。それに、ジェラシックパークやファントム・オブ・メナスの戦争シーンも出てくる。
 この映画は、まず、時間軸が存在しない。イギリスからエジプトまで瞬時に移動する。もちろん時代も過去から現在まで縦横無尽に飛び跳ねる。それは単に、古代エジプト時代の出来事を現代に呼び起こすだけではない。本当にストーリーが時間軸を無視して飛び回るのだ。まあ要するに視聴者が退屈しないように何でもありでストーリーが展開するのだ。また、プロット上死ぬ必要のない人がすぐ死んだりするが、なぜかすぐに蘇る。この辺はひょっとすると「火の鳥」を取り入れたのかもしれない。
 主演のブレダン君は、一作目よりかなりでぶっていたけれども、きっと一作目で大金を手に入れ、グルメ三昧の生活を送ったのではないか。それに対してミイラ怪人役のアーノルドさんは、一作目となんら変わらぬ体格と、老けを知らぬ面構えであった。日頃の健康管理が行き届いているようだ。ところでこのアーノルド君、前作はまったく同情されることのない悪役を演じきっていたが、二作目では、スターウオーズのダースベーダーのようにちょっとはいいところもある悪役に成り下がってしまった。何せストーリーの最後の方で、信頼していた女から裏切られたときには、涙まで出しちゃうのである。彼は永遠の愛を信じる、実は誠実でやさしいミイラ怪人なのだ。
 どーしてハリウッド映画というのは続編が続くと強烈な個性の悪役は善玉になっていくのか?(もちろん日本でもゴジラがそうなったが)。ところで、このミイラ怪人よりもっと悪いやつがこの物語には出てくるのだが、こいつは、まさにプレステ2のゲームに出てくるような異型のモンスターである。もしも、ハンナプトラ3が作られたらこのモンスターも女に裏切られて泣いちゃうのだろうか?そうだとしたらこの映画で最も怖いのはミイラ怪人すら裏切っちゃう「悪女」ということになるな。


その4〜「スパイ・ライク・アス」  主演 チェビー・チェイス ダン・アイクロイド  監督 ジョン・ランディス
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 今、中東は物騒だ。いやどこでもそうなりえる。この映画、1986年あたりに公開されている。そして、場所はもろアフガンである。そしてパキスタンも。今ならおそらく、公開は自粛されるであろう。そもそもこの映画は、コメディーなのだ。ソビエトのアフガン進出後、湾岸戦争前だから、想定上はアメリカよりに住民が描かれている。しかし、とても危うい人々であると言うことは、間違いない。ソビエトを敵としている時代だが、映画の上では、両国そろそろ歩み寄りモードとなっている。
 さてこの映画、クレジットはチェビー・チェイスが左になっているが、もちろんダン・アイクロイドがメインだ。左のシーンはCIAの試験会場でカンニングをしているところ。

この人がアイクロイド、エイクロイドとも発音されるが、私は、この俳優のファンである。もともとこの映画は、彼の脚本によるわけだから、日本流でいうところのお笑いマルチタレントと言うことになる。この二人は、他の映画でも共演しているので、絶妙なコンビにもなっているのだ。しかし、ストーリーの大半はエイクロイドのボケを演出するためにある。つまりは彼の映画なのだ。
 ストーリーはCIAで一番出来損ないのやつを2人テストで選んで、捨て玉おとりスパイとして、アフガンへ潜入させると言うもの。現在まさに、アフガンではアメリカ特殊部隊が動き回っているが、この映画では多少設定が違っていても、やはり、似た状況ではある。ただ違うのが、お笑いであると言うこと。しかし十数年前の映画とはいえ今見ると思わずうなってしまうのだ。

左は、CIAのテストでカンニングをしているところ。右はめでたく史上最低のCIA部員として選ばれ、特殊訓練を受けているところだ。とにかく笑いずくめのシーンばかりなのだが、今見ると、結構やバイ設定ではある。もうこんな映画当分作られないだろうな。ベトナムのお笑い版が未だに作られないのだから、(朝鮮戦争や第2次大戦はすでにお笑い映画ができているが)ひょっとすると、22世紀にならんとできんかもしれんな。。

二人がアフガンとパキスタンの微妙なところに降り立ったシーンだ。イスラムの人を前に色々とギャグを飛ばしているわけだが、結局はちゃめちゃになっていく。炭素菌やテロに騒然となっている今この映画を見ながら笑うと言うことはけっこうなんですけども、今だからこそ、見ておくと良いのかもしれない。うーむ、ただのお笑い映画が、時の流れとともに、上映が必ず自粛される問題作となる。映画というのは奥が深いですな。しかし、エイクロイドは笑える。彼のお笑いは上質のスケールの大きいお笑いだ。ところで、2人が出ていた、ゴーストバスターズも、内容はニュウヨークにお化けが出て町をしっちゃかめっちゃかにするというもの、そしてビルの屋上でバトル。・・・こいつも、今一度見ておく必要があるな。貿易センター自爆テロと炭素菌にさらされる、ニューヨーカーの反応すなわちアメリカンの、生き様、在りようが別の角度からみることができる。


特別編4〜「スターウオーズ エピソード2 クーロンの逆襲」ジョージ・ルーカス監督

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スターウオーズは第1作目からもれなく見てきた。作品によっては6回7回と見てきたつもりだ。しかしこのエピソード2は、はっきり言って駄作といえよう。まず、ストーリーにいつものスピード感がなかった。もともとあまり考えずに第1作目をエピソード4などとやっちゃったため、最初に印象付けられたダースベーダーのイメージをここで作っていかなければならない。一作目のダースベーダーのようにただのワルなのだったらもっと楽に作れたであろう。しかしルーク・スカイウオーカーの父親になっちゃってさらに善人として死んだわけだから、そのキャラクターは複雑だ。したがってエピソード2はダースベーダーのキャラクターつくりにそのストーリーのほとんどを費やしたといってもさしつかいない。もちろん特撮のレベルは一級品だし、金もかかっている。しかし、映画はやっぱりストーリーだねということをこの映画を見ていて感じた。見ている人に何を訴えたいのか?何を印象付けたいのか?すべてがあいまいで、ご都合主義でしかも煮ツメが足りない。また気になったのは、「ジュダイ」というのはなんか、とても特権階級的で、えらそうである。しかし、そうでありながらも一番えらそうなのが、ヨーダというのがまた笑える。ヨーダはどう見ても、ポケモン系のキャラクターでしょう。彼が目なんかつぶって遠くにまなざしを向け人差し指を震わせてフォースをひねり出すシーンなんかやっぱりETじゃないですか。まじめな顔をしてやればやるほど噴飯してしまうのである。この映画に出ている俳優さんたちは、今後例えば、性格俳優としてやっていこうと思うのなら、ちょっと恥ずかしいものがあるだろう。火曜サスペンスシリーズの犯人役の女優がむかし、5レンジャーの桃レンジャーに出ていたなんてことになったらちょっと恥ずかしいのと同じで。ジョージルーカスももう2度とこの仕事はやらないといっていたがよくわかるね。この映画の唯一よかったところはパメラちゃんです。いやーとても色っぽくなっていますね。東洋的な化粧もいいですな。少し注文を付けるならば、レイア姫みたいにもっと色っぽいコスチュームを身に付けて欲しかった。アナキンスカイウオーカー役は、ウエストサイドストーリーのジョージ・チャキリス似の良さがあるが、果たして次のエピソードにも出てくるのだろうか。


その5 「バイオハザード」 監督ポール・アンダーソン


私は、この女優さんミラ・ジョヴォヴィッチさんが大好きです。ジャンヌダルクもよかったけど、こちらは性格俳優としての良さが出ていました。知的で演技もうまいし、ストーリーもまじめに作ってありました。しかし、日本が世界に向けて作り出したゲーム「バイオハザード」を映画化するときまさかミラさんが名乗り出ようとは思ってもみませんでした。だってこのひと性格俳優でしょう。アクションじゃないですよ。セクシー系でもないし。しかし、インタビューなんか聞くと本人がやりたくてしょうがなかったと言うじゃありませんか。このひとは自分のキャラクターが固定化されるのを嫌がったようです。役者のプロとしてさらに活躍したいという野心満々の人なのですね。その根性でもって、ジュディー・フォスターにも引けをとらない大女優への道を突き進んでもらいたいものです。
 ストーリーは、まさにゲームオタクでかつ映画オタクがその才能を遺憾なく発揮して製作したといえるほどスピード感のあるアクション映画となっています。私はスペシャルDVDを発売前に予約して購入しました。すでに5回も見てしまいました。2枚目のメーキング関係もしっかり見ました。ついでに言うと、ミラ様が持っていたガンM92シルバーモデル(エアーガン)とMPKAPDW(エアーガン)マルイにドットサイトスコープをつけて、購入し、それを手にしながら6回目を見ようとしています。まあ、興味のない人には、何がなにやらさっぱりわからんでしょうが・・このときだけは、よくあるでしょう、映画館の試写会などに、コスプレでやってくる人、このひとの気持ちが私には少しばかりわかるのです。
 もちろん木曜会においては、わが東郷研究所AVルームにおいて3人で視聴いたしました。当然ながら、岡崎研究員は「貸してくれ!!」との申し出があり、私は快諾したのであります。鉄幹研究員はなんとビ○オにコ○ー○ードをキャ○セ○してダ○ン○できる夢のDVDデッキをネットで購入し、本人の言によると「これで子どもの○○の作品を何度も借りなくてもよくなった」などといかにも子供のために買ったかのごとく言っておりましたが、自分が99,99%使いまくることは火を見るよりも明らかです。
 今後のミラさま(ベッカムなんかよりもよっぽどセクシーだ!)の活躍を期待してこのコメントを終えます。
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その6 「タイムマシーン」オリジナル1960 ジョージ・パル監督
     「タイムマシーン」リメイク2002 サイモン・ウエルズ監督
 

 リメイクされると決まった時点から新しい監督がこの映画をどう料理するのか非常に楽しみであった。なぜならばオリジナルはジョージ・パル監督、H・G・ウエルズの原作なのだから。これを上回る映画を作るのは至難の業である。主演はロッド・テイラーだしな。とにかく個性的なのだ。私はこのオリジナルのセルビデオを持っているが、もちろん10回以上見ている。この40年以上前の作品は今見ても十分楽しめるといえるほどの傑作に仕上がっている。特殊撮影も今ほど進歩していないが、画像を見ていると、未来のというよりも、別の惑星に降り立ったような不思議な気分にさせてくれる。まさに、夢の中に出てくるような不確実な画像のサブリナル効果を存分に味合わせてくれるのだ。
 また、未来に出てくる、タイムマシーンガール「イヴェット・ミミュー」もぴったりのキャスティングであった。この子のためならば、現実世界を捨ててもなんら未練はないと思わせる魅力がある。上の写真はもちろんオリジナルの映画だ。
                                                   さて左はリメイク版である。ストーリーは、オリジナルと大差はない。しかし、なぜ主人公が時間にこだわったのかの理由がリメイクでは、かなり時間をかけて語られる。そのコンセプトは「運命は変えられぬ」ということだ。確かに現在の物理学からすると未来に行くことは理論的に可能だ。しかし、過去へは絶対にいけない。しかし、リメイク版では過去に行くことができる。そして失った最愛の恋人を取り戻す試みを主人公は行うのだ。しかし、何度、やり直しても、恋人はやり直すたびに違う運命を背負って死んでしまうのだ。主人公アレクサンダーは言う「何度時間を戻してやり直してもそのたびに違う恋人の失い方をするのか!」この台詞こそ、リメイク版をオリジナルに負けない、作品の質へと上げているエッセンスだ。
 初めのころはまったりとしたストーリー展開であるが、見終わってみれば絶対に最初のストーリーは必要不可欠なものと思われるのである。そして彼はさらに時間と運命の意味を追い求めて時の旅に旅立つのだ。
 ところでこの映画が過去に向かわないところが、さらに品格を与えることになる。スピルバーグのバック・トゥー・ザ・フューチャーが結局喜劇の駄作で終わってしまうのは、過去へ戻ってのストーリー構成を中心にしたからだ。過去へ戻れるのなら、大金持ちにもなれるし、美人の女性にも出会えることができる。結局世俗的なストーリー展開を余儀なくされるし、作者がどんなに工夫しても、見る側は、「オレならそんな回りくどいことをせずにこうして成功者となってやる」と考えちゃうからね。だから、タイムマシーンモノは常に未来志向でないと作品の品格とか創造性が保ち得ないのである。
 さて、リメイク版のタイムマシーンガール(左の写真)であるが、サマンサ・ムンバは大変よろしい。オリジナルが完全なアングロサクソン系の白人だったのを、リメイクではカラードとしたところに将来の人種構成の運命を予見させてくれる。「ウーバー・モーロック」は未来のおぞましい社会の支配者であるがこれが、真っ白ないでたち、すなわち白人による究極の支配構造を暗示している点ですばらしい。真ん中の写真は、支配者役のジェレミー・アイアンズである。この人どこに出ても悪役か脇役だけど、職人芸的演技力を発揮します。
 主演のガイ・ピアースははっきり言って、やせゴリラ顔です。前作のマッチョなロッド・テイラーに比べると、ひ弱ですが、現在の特殊効果を使えばマトリックスのようにどんなアクションもこなしてしまうのです。
 今問題になってる、白装束集団「パナ・ウエーブ」のような、コミューンをイメージさせる未来社会ではあるけれども、アジア的音楽とあいまってある種の文化の葛藤とか衝突を暗示しているようでもあって、面白いと思いますが、メーキングを見ていると製作者たちは、さほど深く考えていないかもしれないと思うときもあります。                       

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その7〜「THE RING」2002監督:ゴア・ヴァービンスキー 原作:鈴木光司

 ドリームウエアーのリメイクだ。日本版「リング」がハリウッドでリメイクされたらどうなるか?もうその一点でこの映画を見に行った。もちろんひとりで見に行くのはつまらないので連れ合いを同行させたが、肝心要のところでは目をつぶる、耳をふさぐ、を繰り返し、怖くないところでは不埒にもキャラメルポップコーンLサイズをたいらげるという暴挙に出た。「私、ホラーモノはだめよ、キャラメルポップコーンは好きだけど」などと意味不明のことを言っておったが。
 日本版と比較するとまず、金のかけ方が違う。やっぱり日本のはVシネマのつくりだ。原作と映画のマッチングがよいので十分楽しめる質の高いものではあったが、いかんせんハリウッドの金満映画のゴージャスさは望むべきもない。フイルムの質、音響効果、視野の広がる映像効果、もたつきのないストーリーなど、まったくもってエンターテイメントの何たるかを凝集させたつくりだ。この点は怖いとか怖くないとか、オリジナルを超えたとか超えないとかとは次元の違う問題だ。世界一の映画文化・資本を持つアメリカ映画界の面目躍進といったところか。
 もちろん主役のナオミ・ワッツも最高だ。この女優を見るだけでも入場料はおしくない。連れ合いに「ワッツはいいねぇ」などというと、「あの人たちは顔・スタイルを保つために毎日、エステ通い、高級化粧品、高額エクセサイズ・・とにかく美を保つために金をかけているのよ。私にも、美を保つためのお金をたっぷり頂戴」と逆におねだりされた。映画はやはり、ひとりもしくは映画オタクの漢と行くべきだな。もちろんDVDも購入した。特典が「のろいのビデオ」というのが笑える。店頭で「このビデオをお付けしてよろしいですか?」と聞かれ「もちろん」と答える自分がちょっと恥ずかしい。しかし、このDVDには不満がある。メーキングや役者・監督のインタビューがついていないのだ。製作裏話など知りたかったが、公式ホームページでしかわからないのは残念だ。
 作品はとてもよくできている。難を言うならサマラ(貞子)が映画「ビデオドローム」みたいに画面からにゅ〜っと出てくるところで、ちらりと見せる顔のメイキングがエクソシストそのまんまなのはいただけない。せめて「プレディター」ぐらいの異型づらか、まったく想像もできないような「なにか」にして欲しかった。そこがこの映画の唯一にして最大の難点である。
 しかし、映画は興行的には大成功のようで、リング2が早速、作られるとのこと。エイリアン4みたいにむちゃくちゃにならないことを切に祈る。

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その8〜「舞踏会の手帳」1937年 監督・脚本:ジュリアン・デュヴィヴィエ 主演;マリーベル


 ああ、ついにこの時代の映画に踏み入ってしまった。むろん、この映画を見たのは30年以上前だ。そして、ここでこの映画を語るという、つまりは、「禁断の木の実」・「封印された、映画芸術」をコメントするという暴挙をなしてしまった。でも、書きたいのだ。この時代の映画を語りたい。この時代の、神話化された「女優」を語りたいのだ。

 「舞踏会の手帳」は、オムニバス(乗合馬車)、短編集である。始まりは、社交界にデビューした当時の「舞踏会の手帳」から始まる。「トゥ・トラヴイ」訳では「一生涯、あなたを愛します」と舞踏会で一緒にダンスをした男性達から囁かれる・・・ああ、今の時代にこんなシュチエーションでこんな言葉を女性に囁くなんて・・・「ありえない〜」でしょうね。でも、この映画では、これがさまになっているのです。
 しかし、囁かれた女性クリスティーヌ(マリー・ベル)は、結局、ある資産家と結婚し、しかも子どももなく、夫は先立ってしまい、残るのは、莫大な財産と(なにせ、屋敷は大きな湖を渡った島にあるのですからね)夫からの真の愛情を感じることができなかった人生だったのです。

 夫の葬儀の後、彼女は身辺整理をします。その時、おそらくは18歳ごろの社交界デビューとなった舞踏会のときに記した「舞踏会の手帳」に出会うのであります。その手帳には舞踏会で「トゥ・トラヴイ」と囁いた男性の名前が記されています。そこで、彼女は禁断の旅路につくのでありました。つまり「トゥ・トラヴイ」と自分の耳元で囁いた男性たちのその後を追いかけるという。

 映画のシーンでは出てきませんが、「トゥ・トラヴイ」の囁きのあと、デートなどで彼氏たちは、マドンナ;クリスティーヌに自分の夢を語ります。ある男は、政治家に、またある男は医者を夢見て、「成功したあかつきには、ぜひ結婚を」とプロポーズします。そんな男たちが、20年後にはどうなっているか、そんな過去の旅路につくわけです。

 しかし、現実にはむごい男たちの末路がクリスティーヌを待ち受けていました。それはまあ、映画を実際に見てください。ところでここに出てくる20年後の男たちの演技もすごい!!ああ、やっぱり、フランスには勝てんですな。日本の洋風恋愛物は。
 ところで上のシーンは舞踏会の回想シーンです。「灰色のワルツ」(レコードを反転させたりして録音した、一見けだるい、それでありながら、優雅な曲です)がまるで過去の映画ミレニアムを髣髴とさせるバックミュージックのもとに、優雅な踊りが始まるのです。白黒でフイルムも痛んでいますが、とにかく美しく、優雅です!! 
 私はこのシーンに出てくる女性が着ている白い花柄模様のドレスを自分の結婚式のときの妻のウエディングドレスにしたぐらいですから。このシーンを何度も見て、実際にウエディングドレスを決めるときに、このドレスのイメージにいちばん近いものをチョイスしたのです。まあ、その時には妻にはなぜこれにしたのかはいいませんでしたが。ついでに、結婚式のうれしはずかし、キスシーンの後、「トゥ・トラヴイ」と耳元で囁きましたが、妻「えっ なに」って言っとりましたわ。ぼくは「おまじないだよ」といっときましたが。しかし、20年後の我がマドンナは、二の腕が私より太い、肝っ玉かあちゃんになっているのは、まるでこの映画のその後の男たち、そのものです。あっ、男女は、逆になりますが・・・
 

 左のこのシーンは、私が、最も好きなシーンです。名作というのは必ず忘れることのできないシーンや役者の表情というものがあり、それが脳裏に焼きつくものです。このシーンは、物語も佳境に至るところです。右のクリスティーヌ(マリー・ベル)は、かつて自分が初デビューした舞踏会場に行きつくのです。20年もたっているので、ファッショも会場のデザインもリニューアルされています。そこで左の、目を輝かせている若い女性にクリスティーヌが話しかけます。
 女性;「初の舞踏会なんです。美しいわ、純白のドレス、シャンデリア、カーテン・・・」「一生の思い出・・・」。
 この若い女性の初々しさ、希望に輝く、表情。クリスティーヌはかつての自分の舞踏会初デビューをこの若い女性の姿にオーバーラップさせます。

 ところでこの二人の笑顔、この時、私は、美しい女性というのは、なんて、すてきな笑顔をするのだろうと、感動しました。いや、そうではなく、すてきな笑顔をする女性というのは、なんて、美しいのだろうと、感動したのです。そしてそれが、単に、表面的な美しさではなく、希望と憧れを内包しており、それは年の差など関係ない美しさだと思ったのです。ああ〜しかし、この年になってこんな文章を書くなんて・・「はずかしい」。しかし、この映画を語るときこんな文章になっちゃうのですよ。「恋、憧れ、希望」そして「失望、落胆」、人生のすべてがこの映画の中に詰まっています。しかも、とても優雅に!!

 この映画を私は、10回以上見ました。好きなシーンだけを見た回数にいたっては50回以上になるでしょうか。パソコンの壁紙にもしました。それに、発見も多い。例えば、この映画に出てくる女優のファッション、今でも色あせず、生きながらえている。高級フランスブランド店の時代を超えた定番デザイン。ああこの時代にデザインの肝が確立したのだなと思えます。あとは、時代に沿って、アレンジするのみ。そうやってオスギとピーコみたいに映画ファッションウオッチをすれば、おフランスファッションの原点を会得できるのです。・・・と思い込んでいます。

 しかしこれは反面、罪な映画でもあります。この映画を見てしまうと「色恋」を扱った、現在の、とりわけ、日本のメロドラマはなんと、○○なことでしょう。もちろん、小津映画に出てくる原節子は美しい。あのような女性のもつ内面的外面的美しさの表現はもう今ではできないのだろうか?フルデジタルの液晶画面で見ても、確かに美人女優はきれいに見えるが、まるでベタ塗りのグラビアを見ているようで、ぞくぞくとする至高の美しさを感じることができない。ついでに言うと、ドラマに出てくるケータイメールで「愛してる」とやっちゃう製作者の感性にはほんとにまいったな。やはり、1930年代の名作、それはまさに神話化された映画のミレニアムの時代なのでしょう。

 1937年ヴエネチア国際映画祭最優秀外国映画賞   1938年キネマ旬報外国映画ベストテン第1位 
 
 なおこの映画に出てくる最後の思い出の男性ジェラールはクリスティーヌの本命だったわけですが、この男優、実生活においては、フランスがナチスドイツに占領されたとき、レジスタンスの一員として活躍し、しかしながら、逮捕されて処刑されてしまいました。こんなところにも、この映画の時代性というか、まさにその後の男たちの運命を暗示するものだったのです。

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その9〜「望郷 PEPE LE MOKO」監督 ジュリアン・デュヴィヴィエ 主演ジャン・ギャバン ミレイユ・バラン

    1937年フランス作品



 監督は「舞踏会の手帳」と同じジュリアン・デュヴィヴィエである。この映画、大人の映画である。ジャニーズ系のスーパーライト性別不明ジャリタレによる「違うっていってんじゃネーカ的」お下劣なせりふが吐かれる、絶対評価2程度のドラマではない。

 我が年頃の娘が、この手のお下劣ドラマを見て、それなりに感動・共感を得ている状況を目の当たりにして、私はつい娘に言ってしまった。「あのさぁ、トイレのブックレットに置いてある、少女コミックが原作のドラマと、名古屋市美術館常設展示になっている、「モデリアーニの女」を30分鑑賞し続けて浮かぶ男と女の恋愛(これは、ジェラール・フィリップス主演の「モディリアーニの女」として公開されている)の芸術的感性の違いを、というかそういう映画も見て、幅広い、感受性を身につけて欲しい。」などと教育的言説で「語って」しまったが、あかんです。

 時代精神というか、時代の感性が確実に変換されている。ずれている。まあ、しょうがない。

 それでこの映画のワンシーンを年頃である娘に、みせたったわ。(名古屋弁になるのが悲しい)


ジャン・ギャバンの告白からキスシーンへそして恍惚・・この流れが洒落たせりふと絶妙な表情の変化で、それもほんの数十秒でつながる。「君はパリのメトロの香りがする」というくどき文句。

 パリでワルであったペペルモコがモロッコのカスバに逃げ込み、大親分となったが、カスバに観光で来たパリの女に出会い、ひとめぼれ。彼女はパリそのものなのだ。

「おい、娘よ、こーゆー、口説き方をされて、恋に落ちる。この洗練された恋愛関係への流れ。君の見ているジャニーズ系メロドラマと比べてみてどうだぁ? 

娘;いわく「東京銀座の高級ブティックでウインドウショッピングをしているみたい。で、その店のウインドウにへばり付くんじゃなくて、10mぐらい離れて、遠めに眺める。そんな感じ。でも私は、原宿、「ラ・フォーレ」のバーゲンセールでいいのよ」・・一応、違いがわかる。ジャンギャバンを「おっさん」みたいとは言わないのが救いだ。

 私がかつてデートした女性は、「宇宙船艦ヤマトは感動するわよ」といって見に行ったが・・それで、今度は「望郷」を見せたところジャンギャバンを「おっさん」とこいた。相手役女優のギャビーことミレーユ・バランに関しては「あなた、あのタイプが好みなの?」といわれて、互いに引き合っていた感情は粉砕された。まぁっ 私が大人げなかったのであるが。

 しかし、映画好きのむすめはまだ、感性に幅がある。年頃なのだから、この極上の恋愛表現を、いやこの時代の持つ濃厚なる恋の手法・ハビトスを身につけ、磨き上げて欲しい・・・が。母親と一緒にうっとり、大型液晶デジタル画面でジャニーズ系ドラマを鑑賞している親子の構図を見る限り、そこに、分厚く高い壁を見た。


そしてまたまた、私の大好きなシーンその2である。抜け目ない、親分ペペルモコはパリへの「望郷」を(この日本語タイトルはまったく傑作品だ!!)ミレーユ・バランことギャビーの雰囲気によって一気に掻きたてる。



 ダイヤの腕輪、真珠のネックレス、白いミンクのコート、吸い込まれるような青い瞳、イヤリング、そして光沢ある真っ赤なルージュ。白黒画面だが、カラーのように色が浮かんでくる。しかも、映像でありながら香りが、男をメロメロにする香りが、パリを思い出させる香りが漂うのである。これを映像のまさしく「魔術」といえるのではないか。

 ペペルモコは、カスバを出ればたちまち、警察に御用となってしまう。しかし、女とパリへの望郷の念は、絶対に警察には捕まらないという彼のしたたかな生き様をこれまた粉砕してしまう。かれは、ギャビーとともにパリに帰ることを決意し、そして、破滅へと向かう。カスバの階段を意気揚々と下っていくペペルモコ。破滅へ向かうはずのその顔は微笑をたたえている。しかし、カスバでつくった情婦の嫉妬と裏切りに遭い、船着場にある鉄の柵を越えることはできない。柵越しに船を見ればギャビーが待っているのが見える。ペペルモコは叫ぶ「ギャビー!!!」しかし、船の汽笛が重なり声は彼女に届かない。迫り来る警察。彼はナイフで自害するのだ。

 見終わった後、溜め息が出る映画。これこそ、「望郷」なのだ。この映画は先人の映画評論家によって何度も、語られてきた。しかし、見た人すべの仲間と語り合いたい、ひとつひとつのシーンについて。

 当然この映画の持つ魅力を理解し、溜め息が出るほどに感動できる感性を持つ人、限定ではある。

 ところで、ペペルモコ、ギャビー、カスバ、モロッコなど等・・・この映画に出てくる名前や地名は、洒落たバーや高級レストランの屋号になっている。しかし、オーナーのこだわりを理解できる人はいかほどに存在するか。由来を語れば若い人に「へぇ〜、そうなんだぁ」で後は会話が続かない状況に陥ってしまうのか。

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その9〜「心の旅路」監督;マービン・ルロイ 主演;グリア・ガースン1942年アメリカ


 まあ、知る人ぞ知る、大メロドラマだ。1942年に制作完了ということは、第2次世界大戦真っ只中に、このメロドラマをハリウッドで作っていたわけである。もんぺをはかされていた、当時の日本文化の凋落とは違う世界だね。そりゃ勝てないよ。
 
 いわゆるシルバーブロンドのオヤジと中年のおばさまのメロドラマだ。しかし、この作品は「格差社会」を愛は越えることができるのか?というちょっと重いテーマを携えている。

 男は戦争で神経を患い、記憶喪失になる。第1次世界大戦が勝利に終わったときに、この男は精神病棟から逃げ出す。そして、ダンサーをやっていた女(グリア・ガースン)に出会う。男は精神的病を患った記憶喪失の戦傷軍人であるため、見つかればまた病院送りだ。こんな男に、哀れみをそして、ついには愛するようになった女が、彼の逃亡を手伝う。もちろん、自分も一緒である。献身的な彼女の愛が、彼を生き生きと再生させていく。

 彼は今でいうところのライターとなって新聞に記事を書き始める。給料も安定し、二人で小さな家を構えるまでになる。その家は、門のところに確か桜の木があり、男はかがまないと入れないそんなつくりだ。ついには、妊娠もした。出産を心待ちにする二人。そんな折、出版社から、契約の誘いが来る。彼はロンドンに向かうのだ。

 ところが、ここで男は交通事故に遭い、頭を強打する。そして、そのショックで記憶が戻るのだ。そこで彼の本当の正体が判明する。大企業の御曹司。・・もちろん記憶が戻ったかわりに、女性との生活は逆に記憶から吹っ飛んでしまう。

 彼は、持ち前の手腕を発揮し、さらに本家を大きくしていく。それじゃ、あの女性はどうなってしまったのか?実は、男の有能な秘書に納まっていたのである。そこに至るまでの悲劇的状況(子どもを失うといったこと)は、語られるに留まる。しかし、彼女は真実を彼に告白しない。男は、過去の記憶が飛んでしまったといっても、クロスパズルのように断片的に残っているのだ。だから、男は彼女が秘書に応募したときも採用した。彼女は、彼が必ず二人のあの愛の感性を呼び戻すことができると信じて、彼に寄り添っている。そしていろいろな思い出の品をそれとはなしに彼に出してくるのだが、なかなか上手くいかない。
 
 しかし、そんな彼のところに美しく聡明で若い女性が現れ、彼に猛烈にアプローチしてくる。この時点で、彼は過去に自分と過ごした女性がいたというところまで記憶が回復していたのだ。しかし、進展はなく、ついにこの若い女性との婚約を決める。女は悲観し、身を引くことを覚悟する。

 しかし、若い女性と結婚式を語り合う教会でのシーンで男の記憶がさらに回復していく。それを見た聡明で若い彼女は、悟るのである。「あなたは私を見ていない。遠い彼方を、そお、あの女性のことを見ている」と。このシーンこそ、私が最も「いっちゃった」シーンだ。ほんとに涙が出ました。彼女も泣きましたが私も涙しました。以下のシーンは若い女性の方の気持ちの変化を絶妙に表現した演技である。


 
 このシーン。男の顔を見つめての幸福に満ちた表情。戸惑い、遠くを見つめる男の目、それを悟った彼女の悲しみ、そして、自分の気持ちを振り切った後に出てくる微笑、ついには若さの特権ともいえる聡明なる立ち直り。私はこの女優の表情の変化を忘れることができない。こういう演技は天性のものであろう。この時点で「格差社会」の上流階級は、愛がすべてであった一般階層に太刀打ちできなかったのだ。愛は強い。

 彼は有能な秘書・見失った女に何かを感じ、結婚を申し込む。「かたちだけでいい、一緒にいてくれないか。」女性にとってこれは、悲しいプロポーズだ。完全に記憶を回復してのプロポーズではない。一応、結婚はするが互いに、満たされない。彼女の心の痛手はさらに深まる。秘書と頭首との関係。まだ、格差を越える愛には至っていないのだ。

 しかしついに、彼は完全なる記憶の回復に向けて、彼の記憶の断片を手がかりに旅路に出る。そして、あの、門にかかる木のある家にたどり着くのだ。そこにはあの女性が待っていた。
 
 もちろんストーリーは、やや、ご都合主義的に構成されている。しかし、これはメロドラマ、しかも極上の。登場人物の心の変化を、卓越した映像で捉えてゆくその表現技術を、そしてすばらしい演技を、見る側は、楽しみ、感動する映画なのだ。

 まあ、ドラマを制作している日本スタッフなどはこれを作りたいだろうな。でも、これをこなせるための敷居は高い。映画に造詣のある女優さんも一度はやってみたい役柄だと思う。

 ところで、韓国メロドラマ「冬のソナタ」は明らかにこの「心の旅路」のパクリである。そして「心の旅路」で感動して泣いた世代のおば様たちが、ついに、現代版「心の旅路」が出たとばかりに飛びついたのではないか。しかし、パクリであって本物を越えることはできない。だいたい、ヨン様はジャニーズ系だし、チェ・ジュだっけ?は、どうも、演技がわざとらしい。

 今現在、男言葉を使う生意気な女ジャリタレントたち、何とかならんのだろうか?表面的な若さと美貌だけが頼りの女優稼業。消えていくスピードも速い。もっと大事に育て上げていく気概というものがプロデューサーにはないのか? 

 それから、アカデミー外国語映画賞を取った「おくりびと」の女優さんの広末涼子の演技にはまいった。あの「へらへら笑い」は「微笑」ではないね。なんかお品がないな。あの人はやっぱり大根ですよ。ストーリー自体は良いのですが、彼女が出てくると、何か台無しになっちゃっていると感じているのは私だけか。
 
 まあ、往年の大女優と比較するのは酷だけども。アカデミー会場に受賞者一員として行っちゃうということは、過去の大女優と肩を並べるということだからね。よっぽど、自信があったのかなぁ。というか、もともとアカデミー賞自体が、アメリカの経済状況のように凋落してしまったのだろうか。


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