木曜会ミーティング報告




INDEX


2009、5、29梅森台研究所NEW
2009、5、14和合研究所
NEW
2003、4、10 梅森台研究室
2003、5、2 春日井研究所
2003、5、8 梅森台研究所
2003、5,15 和合研究所
2003、5、22 春日井研究所
2003、6、5 梅森台研究所

2003,8,8 とある天ぷらやさんで
2003、8,20春日井研究所
2004、4,8春日井研究所




2003、4、10 梅森台研究室
 ”DEMOCRACY AND ECOLOGY” David Macauleyの16ページを読む。ここはフェミニストとエコロジーのことが書かれており、フェミニストの視点からエコロジーの論展開が、新しい風を送り込んできたことを、かなり高く評価している。
その他、この日はイラク戦争に議論が及び、イラク国民は結局どのような形でアメリカと関わるのかが大いに議論となった。イラク国民の多数派の本音は何か?しかし、イラクはアフガンのようにいろいろな部族・民族が共存しているので、多数派という概念自体が成立しないとの指摘もあった。
戻る


2003、5、2 春日井研究所
 ”DEMOCRACY AND ECOLOGY” David Macauleyの19ページ"Conclusion"に至る。エコロジーという概念が、哲学的な観点から、さらに深められていくと、従来よりあるさまざまな、思想や理論、テクノロジーや資本主義、観念の歴史など多くの分野において、新しい視点が生まれるであろうことを示唆して終わった。
 その他、日本評論社の原稿の打ち合わせや、「おは」 の連載に関する打ち合わせなどがなされた。本研究所から、また新たな情報発信がなされることとなろう。楽しみにしていただきたい。なお今回、学校に関する話題が出てきたが、その大半が、保護者の子どもや学校に関わるそのあり方についてのものだ。今の教育が非常にやばいものになっていることは、疑いのないことであるが、それには止めをかける手立て手段がないということに、絶望感と共に、あやしい期待もすなわち教育がアナーキーに崩壊していくその状況を歴史的に見ていきたいという抑えがたい興味もわいていることも確かだ。
戻る


2003、5、8 梅森台研究所
 次回より読み進めていく論文が決まった。”DEMOCRACY AND ECOLOGY”のなかの、13章ブックチンの"Social Ecology and Social Labor :A Consideration and Critique of Murray Bookchin"
<Alan Rudy and Andrew Light>である。ブックチンは社会エコロジーの分野をフォローしているその方面では、有名な論者であるようで、翻訳も数点出ている。これらの翻訳書も参考としながら、学習を進めていきたい。
 また、今回の会合では、イラク問題〜結局大量殺戮兵器は出てこず、アメリカのイラク侵攻の大義名分は崩壊したわけだが、それに反対していた、フランスやロシアがアメリカに擦り寄っている現在の状況を考えると、やはり利権がらみの戦争であるのがよくわかるのである。
 さらに議論は北朝鮮問題に至り、北朝鮮が日本に攻撃を仕掛けることなど、物理的に困難であることはわかりきっているのだが、それをことさら煽る日本の政治家たちはどこかで戦争準備利権を狙っているとわれわれは断言した。また、北朝鮮問題は中国なしには考えられない問題であり。とりわけ、中国とアメリカの軍事バランスにおける、緩衝地帯として、戦略的位置づけが北にはなされているのではないかという意見も出た。結局、北の体制を決定するのは、中国ではないかということだ。しかし、今中国はSARSの慢性的流行で他国に干渉するどころではないので、この問題がひと段落したときには、きっと中国側から、北への圧力がかかり、北の現支配体制は崩壊するかもしれないという予測が出された。どちらにせよ北はあと2年はもたないだろうという、予測が出たが、実際にはどうなることになろうか?さらに岡崎研究員が「こんな面白い漫画があるよ」と「漂流教師」パルコキノシタ(青林堂)の本を提示した。早速このマンガを借りて、読むことにしよう。
 さらに岡崎研究員より「不適格教員宣言」 赤田圭亮の本をいただいた。彼と岡崎研究員は「やさしい教師学入門」を日本評論社より共著で出版しており、これも合わせて読まれることを皆様に期待したい。
戻る

2003、5,15 和合研究所
 マレイ・ブクチンの読書会が始まった。イントロではブクチンの業績と批判されるべき点がかなりの密度を持って紹介されている。ブクチンは1960年代の早い時期からエコロジーと社会問題について、本人の活動や討論を通じて注目に値する本でもってまとめ上げている。その彼のいわばネタ本とも言えるものは「Our Synthetic Environment(1962)」と「Crisis in Our Cities(1965)」の2点であるとのことだ。(このときブクチンは"Lewis Herber"のペンネームで出版していた)
 一般的にエコロジーが社会の関心となるかなり前から彼はこの問題に取り組んでいたことは、現在のエコロジー問題をルーツから研究していく上で注目しておく必要があろう。
 その他、今回は不登校問題について議論が交わされた。結論らしきものは出なかったが、現在の不登校が、果たして前向きに捉えることのできる現象であるかははなはだ疑問であるとの意見も出た。要するに反権力とか非画一性に対する子どもからの批判的行動であるとのかつての楽観論的捉え方はもはやできないだろうというものである。
戻る


2003、5、22 春日井研究所
 イントロを読み終える。ブクチンは左派エコロジストの強力なブレインとなっていて通俗的なマルクス主義者たちに対して辛らつな非難を浴びせつつ良質のマルキストにとっては強力なサポーターとなっていた。反面、この論文ではブクチンの左派エコロジーを理論的に発展させていく中でのシリアスな欠点も有していることを指摘しつつブクチンの理論を論じていくのである。
 さらにブクチンの論文として注目すべきものとして"The Rise of Urbanization and the Decline of Citizenship” "The Philosophy of Social Ecology"を挙げている。
 今回の研究会では、学校での危機管理の問題が議論された。「のんびりとしてよい学校だ」というのはひとつ間違えると、何か重大事件が学校で発生したとき、何も対処できない状況に陥るときもあるということだ。例えば、小学生低学年の子どもが集団下校したにもかかわらず、帰ってこないとの連絡が学校に入ったとき、管理職や教師はすぐさまどう動くか?この点について、管理職が無能であると重大な結果をもたらすこともあるのである。
 次に話題となったのは、かつての子どもの遊びと所持品である。われわれが少年のころはほぼ全員が、小刀を持っていた。それは例えば、おやじから譲り受けたものであったり、小遣いで手に入れたものであったりした。今は、カッターですら学校への持込を禁止している。また、飛び物例えばビー球鉄砲などがありまた、火薬系も2B弾などでの小動物虐待が普通にやられていた。悪いことはわかっていたが誰でもが少なからず経験したことだ。ギャングエイジの親分は、空気銃ですずめを打ち落とし、串刺しにして焼き鳥にして部下であるわれわれに振舞ったものだ。またゴミ捨て場に生息する、ミミズで釣りをしたり、そこで収穫したサツマイモをゴミ捨て場で拾った七輪で焼いて食ったものだ。ごみ捨て場にはうじがたんまりといたが意に介さずそこで遊んでいた。そういうやつがおやじになって今なんともやぐい子育てをしていることか。確かに今はおおむね街はきれいで、刃物を持ちうろうろするやつはフツーじゃなくなっている。しかし、だからといってかつてより少年犯罪は目に見えて減っているのかというとそうでもない。悪さの質は変化し発展している。そして今までの、子どもに罪はないの論理は通用しなくなっているのではなかろうか?
 最後に風媒社の話題が出た。この出版社は、われわれが始めて「反オリンピック宣言」でデビューさせてもらったところだ。残念ながら名古屋にオリンピックは来なかったのでこの本は予定部数よりは売れなかったが、体育関係者には大いなるカルチャーショックを与えた本であった。その後、「トロプス」と「体育教師をぶっとばせ」で恩返しができたと思うのだが、しかし、ここの原稿料の支払いはあまり芳しくない。岡崎研究員によると「不能化する教師たち」はわれわれの知らぬまに7刷りまでいったそうだ。われわれは何も強引に原稿料を要求する気はない。しかし、増す刷りするのであればせめて、著者に一報があってしかるべきではなかろうか。風媒社が地元の出版社として数々の文化人をサポートしてきた実績をわれわれは高く評価している。しかし、一方で著者と契約関係を結んだ出版社としてきっちり押さえるべき事は抑えておくべきだという意見が出たことをここに記しておきたい。
 さらに今回「思想社」の教育関連の出版に関する打ち合わせがなされた、夏を過ぎたころには正式な題名を持って出版されるのでお待ち願いたい。岡崎研究員が中心となって制作が進みつつあるのだ。

参考 ブクチンのホームページ
    http://dwardmac.pitzer.edu/Anarchist_Archives/bookchin/Bookchinarchive.html
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/bookchin

戻る


2003、6、5 梅森台研究所
 今回の研究会は、思想社の原稿つくりの打ち合わせが中心となって、ブックチンの読書会は延期された。今回の出版において、親、教師、塾教師、教育専門家らを交えて、対談を行うためのプロットつくりが話し合いの中心となった。
 親と教師の対立軸、教育専門家と専門家ではない人たちとの対立軸、学校制度に依存するか、親独自の教育観で学校制度とは切り離して、子育てをするかどうかの対立軸・・このようなさまざまな視点からの教育議論がなされたが、現在の状況からするとこのような、視点だけでは捉えきれないことがはっきりしている。したがってわれわれとしては、新たなパラダイムというか思考の選択軸あるいは対立軸を考え出さなければならないという結論に至った。
 新しいどのような視点があるか?われわれは、教育におけるサービス行為に関して議論の練り直しが必要であるという結論に至った。今のサービスとはサービス足りえているか? 教育のサービスは、今現在まったく違った視点から捉えなおさなければならないのではないか。サービスそのものの解体分析、そしてそれに変わる新たな教育に関するあり方、関わり方がすでに存在し始めているのではないか・・それはどのようなものか?
 われわれはこの視点に関してついに新たな概念を予言するに至った。この概念は従来の教育サービスに変わるもの、あるいはそれとはまったく違う視点から成り立つものである。現在の教育に関する議論ははっきり言って、われわれが見出した新しい視点からすると、まったく時代遅れの古い思考に成り下がってしまうほどのインパクトを持つものだ。これについては今現在ここで詳しく述べることは差し控えたい。まだ理論的に腰の定まらないところもあり、またその他に類似する理論もあるためこれらとわれわれの理論を峻別するための作業が進んでいるからだ。これらが完了し、完全な形で発表されるのは「評論社」の出版時となる予定である。どうぞ、楽しみにしていただきたい。
 われわれはかつて、それは25年以上も前であるが、ある研究会との合同作業によって、情報のウエブ(現在のインターネット)やコンビビアリティーとかバナキュラーなどの概念を研究していた。今現在これらの概念は、情報や思想の世界では常識的なタームとなっている。
 今現在われわれがやろうとしている理論の練り直しもおそらく今後20年以上議論の対象として取り出され続けることとなろう。

戻る


2003,8,8 とある天ぷらやさんで
 今回の研究会は、天ぷら屋のカウンターで行われた。評論社の対談の原稿もやっとあがって、まずは一服ということで、岡崎研究員の提案により食事会となったのだ。この天ぷらやさんは、ディナーのコース料理でありながら非常にお得でしかもうまい。やっぱり基本的に名古屋は東京や大阪よりも物価が安いと思われる。今回の食事会は、また久々の研究会ともなった。お互いいろいろと忙しくて集まる機会がなかったのだ。いろいろな話題が出たが、その中で、メールのやり取りの不具合が問題となった。山本研究員は、ライターという仕事柄、マックを主たるパソコンとして使っている。それに触発されて岡崎研究員もマックを採用した。私のみウインドウズを使うことになったわけだが、メールのやり取りにおいて、マック版ワードファイルで送ると、ウインドウズではなぜかウイルス扱いされて開かないのだ。仕方がないので、テキストで送ってもらったが、どっちが悪いのか結論は出なかった。
 今年の夏は、この新評論の仕事と、「おは」の出版が成果としてあがったが、「おは」は今回よりリニューアルということで編集人である岡崎研究員はむちゃくちゃ忙しかったとのこと。完成した「おは」はその苦労の甲斐あってとてもよい出来となった。タイトルが「こんな絶対評価で進路が決まるのか?」だからな。売れないはずがない。先日も、スーパーで中学生の母親が、3年生の娘の1学期の成績が納得いかないと愚痴っていたのを小耳に挟んだが、おそらくどこの高校受験を控えた保護者は戸惑いを持っていることだろう。
 さらに10年は続いた指導要領も2年にして改訂だ。文部科学省は、ついにその権威や自信を完全に失ったと思われる。そんな政府機関からまた現場に無理難題が吹っかけられることに一抹の不安を待たざるを得ないことは確かだ。物言わぬ現場に教育政策の失政を押し付ける。それに羊のごとく従う教師たち。今や現場の教師は不能化しつつあるようだ。財政の失策を税金で贖おうとする現自民党政権と同じやり方が教育界にも浸透しつつあることは、今後の暗い世の中を予見しているようで気が重くなる。
 話は変わるが、この天ぷらやのおやじは無口である。カウンター商売なんだから何か話せばよいのに・・・しかし、われわれとしてもあまり話しかけられても、困るのであってこれで問題はないのだが、他の客はこれでよいのであろうか。まあ、うまくてそこそこの値段であるのでこれでよいのであろう。

戻る


2003、8,20春日井研究所
 本日は、ブクチンの"The Evolution of the Idea of Domination”を読んだ。遺伝子と自然との共生の関係から運命付けられた動物と独自の社会関係を築き上げ支配や階級といった社会的に多様な関係性を築き上げてきた人間との違いを論じつつ、再度自然と共生していく人間社会のあり方を模索していく試みが今後のブクチンの仕事として展開されていくことが述べられていた。
 今回の研究会では、介護認定の問題や高齢化社会の今後のことについて座談会が持たれた。介護制度はかなりシステマテックになっておりその認定過程や実際の介護サービスも本当に被介護者の立場にたったきめ細やかなサービスがなされるのか疑問があるという意見が出た。
 なお8月23日には本研究所から1名が他の1名と共に、富士裾野の自衛隊訓練場における訓練披露を見学に行くことになった。世の中が、カーキ色に染まろうとしている現在こそ、日本の自衛隊の実際の実力や存在そのものについて見学しておくことは有意義であろうと思われる。見学の顛末については後日報告したい。

戻る


2004,4,8 春日井研究所
 長らくアップしなかったが、研究会は、おおむね毎週開かれている。今回の、というよりも2004年からの研究題材は、「磁力と重力の発見」山本義隆(みすず書房)である。こいつは全3巻で構成されており、なかなかボリュームのある著作である。歴史書であるが、おそらく日本人の書いた歴史書としては、稀有の傑作作品であろう。
 著者は問う。磁石の仕組みをまったく知らなかった過去の人々は、その磁力という現象を見たとき、どう感じたか?そしてそれをどのように考え説明したか?それを解き明かすことは、「近代の知」というものが歴史の、それこそ「心性の歴史」のなかでどのように築きあげられたかを探求することに他ならないということを。
フーコーやアリエスがやってきたことを、山本は磁石と重力についての歴史的考察すなわち磁力のアルケオロジーを試みることによって、解明しようとしている。 われわれの読書会はすでに2冊目に至った。とにかく面白い。以後、できうる限りこの研究題材をここで述べて生きたいと思う。 

戻る


「ホモ・サケル」ジョルジョ・アガンベン〜読書会


「人間の条件」 ハンナ・アレント〜読書会


「社会を越える社会学」 ジョン・アーリ 法政大学出版局 現在読書会中  


2009,5,14 和合研究所
 5年ぶりのアップである。

 実はこの5年間、木曜会は、継続されていた。岡崎研究員が「おそい・はやい」の定期刊行物の編集人として精力的に活動していたが、この木曜会は継続しているのである。その成果は、出版というかたちで各方面で、発表された。この点については、自由すぽーつ研究所出版関係を参照して欲しい。

 さて、現在、「社会を越える社会学」 ジョン・アーリを読破しつつあるが、この本、知る人ぞ知る、新しい社会学的アプローチのためのネタ本である。従来の社会学では到底現在の、社会情勢を分析できなくなっていることは、承知の事実であるが、この閉塞感を打破し、今現在の社会を論じていこうとしている、野心作である。この本を理解していくためには相当の、古典的社会学知識や近代社会学知識が、求められるが我々研究員は、奮闘しながらも、読み進めている。なんといっても、最新社会学のネタ本ですからね。依然読んだ、格調高きハンナ・アレントの「人間の条件」で、苦労したこともいまや大いに役に立っている。とにかく、これを読破し、新しい社会学の地平線なるものを会得したいものだ。

 さて、この会では、単に、読書し、理解していくだけではなく、様々な話題をそれぞれに持ち寄って、議論している。今回、そのひとつを紹介すると、・・・岡崎研究員がポンと「ヒトラーを支持したドイツ国民」 R、ジェラテリー みすず書房 をこだわりの岡崎氏愛用カバンより抜き出したのである。「これあげるよ」と言われた。どうやら、同じものを新刊と中古で同時に購入してしまったようで、一冊をくれるというのである。

 土井研究員と山本研究員のちょうど真ん中あたりに置かれたのであるが、人のいい山本研究員は手を出さなかった。しかし、強欲の権化である土井研究員は、すかさずこの本を手にして、「あっ、この本、欲しかったんだ」などと言いながら、以後、この本を手に取りしかも、山本氏に奪われないように注意しつつ、この本と関連する、書籍の話題へと導いていった。そこで出たのが、「アイヒマン調書(ワードではアイヒマンは愛肥満と変換される;笑い)」岩波書店3570円であった。私は、らくだ書店での新刊棚で手にしたのであるが、この値段に、手が出なかった。しかし、岡崎研究員は、すでに、通販で購入手続きをとったとのこと。私は、給料日後、早速、らくだに行った。しかし、すでに微塵もなく消失しており、ネットで見ても5〜7営業日待ちということである。ちょっと大きな本屋に行って手に入れよう。

 この本なんといっても、イスラエル秘密警察というか、情報機関モサドにより、アルゼンチン亡命中のアイヒマンを拘束・連行した上でのイスラエル警察尋問である第1級証言記録だ。いろいろなところで、引用されているようであるが、この本はぜひ手に入れたく思うのである。

 さてこの本に関連する本として、おさえておきたいものは、やはり「服従の心理」 S、ミリグラム 河出書房 (今は他のところから出版されていると思う)であろう。かの有名なアイヒマン実験は衝撃的であった。いろいろ批判もあるが、名著であることにかわりはない。 さらに、「夜と霧」 ヴィクトール・フランクルも当然ながら、読んでおきたい。私はこれを高校生のとき読んで(35年ほど前)カルチャーショックをうけ、一時期、タミヤドイツ戦車シリーズの購入を停止したのであった。

 次に、手に入れる必要のある本は ドイツの作家ギュンター・グラスの「玉ねぎの皮をむきながら」であろう。彼は映画にもなった、「ブリキの太鼓」の作者であり ノーベル賞も受賞した。しかし、この本で自分がナチスの親衛隊員であった、とカミングアウトしちゃったのである。それで、ノーベル賞剥奪運動なども起こったらしいが、この本は大ベストセラーとなった。

 今の日本の状況をみているとかつての1930年代ドイツ「ワイマール共和国時代」の混乱期に類似している面が多い。特にプチ・ゲッペルスやプチ・ヒムラー、あるは、プチ・アイヒマンがテレビ映像や、ネットに出てきて、けっこうな物言いをしている。とりわけ、かなりヤバイ主張に対しては、ネット上などで2ちゃんねる的叩きがなされず、(まあ、ここはこのような論点に対抗できる人はいないだろうが)大手を振ってオピニオンリーダーとなりつつあることにファシズム的恐怖を感じるのである。

 従って、理性ある出版社は、苦しい出版事情の中でも、この風潮に警鐘を鳴らすような本を出版し始めたようだ。

 ファシズム運動は、まず大衆の扇動・・それも、現在、新しく知事や市長になっている人たちのような、改革派を装うような形で、進行する。また、犯罪に対しては厳罰主義をすすめ、しかもこれが裁判員制度にリンクする。ところでこの制度はどう見ても検察側に有利であろう。(犯罪の資料を弁護側よりもたくさん所有できるなど)

 つぎに、公務員の腐敗が批判され、アイヒマン的人間が官僚に登用され、時の権力者に利用されていく。しかし、大衆は、この初期のヤバイ流れに無頓着であり、実効性を帯びて動き始めると「ヒトラーを支持したドイツ国民」的な反応をするのではないかと、つい心配してしまうのである。まあ、日本も過去に似たようなことをしているのであるが、まあこの流れに恐怖を感じない人は「皇軍兵士の日常生活」 一ノ瀬俊也 講談社現代新書をさらっと読まれることをお薦めする。格差社会に聖域はないということである。

 ところで、「ヒトラーを支持したドイツ国民」の山本氏との攻防戦であるが、山本氏にはこのような攻防戦においては、ひとつ弱点がある。それは、彼自身も岡崎研究員に負けないほどの、読書家なのである。

 岡崎氏や山本氏はお互いに、自分の発掘した本を木曜会で披露しあうのであるが、たいていお互いそれはすでに、手に入れているか、読破されているものが多い。そこから漏れる本があった場合、岡崎氏は次の日ぐらいにその本を手に入れようとする習性がある。彼は本収集マニアである。それに対して、山本研究員はライターという仕事柄、厳密に選択する傾向にあり、とりあえず買っとけという行動には出ない。

 こうしたことが、今回の「ヒトラーを支持したドイツ国民」取得攻防戦において土井研究員に一歩先を越された理由ではないかと思われるのである。

 さて、この攻防戦に勝利した土井研究員であるが、自身は読書家ではない。お二人の難しい本の話になると、ついていけず、じぃ〜っと沈黙している。なんといっても、西村京太郎シリーズ、オール読破を目的にしているような人間であり、しかも、鉄道模型とかエアーガン、ホームシアター、パソコン自作、3Dモデリングなどにうつつを抜かしている輩なのだ。まあ、オタクオヤジですね。だから、岡崎氏のくれる本は、躊躇なくいただいてしまうのである。これからも、こういう機会があったら、山本研究員に先を越されぬよう、本を取得したいと思うのである。

 追伸;日曜日に正文館本店、ジュンク堂を巡るも「アイヒマン調書」は手に入らなかった。一縷の望みをかけ、丸善に行くとあった。3400円税抜き、ついでに「玉ねぎの皮をむきながら」2500円税抜き、も手に入れ、ペイント系ノウハウ本と3Dグラフィック系ムックを買ったら、一挙に1万円を越えた。いまや、ハードカバーの本や専門書を買うということは、多大なる散財を意味するのである。まあ、無駄な出費ではないと思うが、贅沢品である。それに価格が税抜き表示というのはいずれ消費税が上がることを想定しているのか?

 また、アマゾンの検索はすごいと思った。「アイヒマン調書」を検索すると「土井様は次の本もいかがですか」と「玉ねぎの皮をむきながら」が候補に挙がったのだ。思考が、嗜好が、志向が、読まれちゃっている。ある意味で恐ろしい個人情報流出である。この検索システムを国家権力が悪用したら、とってもヤバイと思った。

 「アイヒマン調書」は、2日間で読んだが、歴史的第1次資料の迫力と重さを痛感した。この時、旧厚生省の薬害エイズの犯罪が、いやがうえにも頭に浮かんだ。あの時おそらく多くの役人が、自分の仕事をきっちりと全うすることが、人殺しにつながるということを理解しており、しかしながら、上司の命令により、汚染された血清を認可し、配布させたのだ。いち下級官僚としてのアイヒマンは、今の日本にも存在している。自分の職務の結果に対する、無頓着さ。

 あとがきの中で、アイヒマンを尋問したレスは、彼の印象をこう述べている。「私にとって特に印象的だったのは、彼にはユーモアが完全に欠如していたことだった。その薄い唇に幾度か笑いが浮かんだことはあったが、目は決して笑わないのだった。彼の目はいつも嘲笑的で同時に攻撃的だった。」「アイヒマン調書」p261 現在の日本の官僚の記者会見でこの表情をわたしは、よく見かける。

戻る


2009、5、29 梅森台研究所


 社会を越える社会学も385ページ中296ページに到る。最近、研究会が延期することもなく順調に開催されている。
 
 今回、読書会の前でのコーヒータイムで話題になったのは、河村たかし名古屋市市長の市政方針・内容である。

 岡崎研究員は、上手くいくかどうかについて、半々であろう、いや、まだ判断がつきかねるという、お手並み拝見の立場をとる。

 山本研究員は、「小泉型パーフォーマンス」と断じると共に、岡崎氏も言っているが、名古屋市200万都市の市長が、民主党の出であるということから、この党が自民党より政権奪取を成功したあかつきには、名古屋が地方政治の民主党的政策象徴となるという。大阪の橋本知事や横浜、東京都知事が自民党とタイアップして地方政治のリニューアルをアピールするように、名古屋もそうなるだろうという見解だ。そして、河村市長は民主党が政権をとったあかつきには大臣へと上昇する作戦に転じるだろうとのことだ。
 
 土井研究員は河村市政に否定的だ。 なぜならば河村市長の背後にいる民主党の方針は基本的に改革派である。小泉型の方向性を持っている。弱者救済をうたうが、これを声高に騒ぐほど、実はこれが改革推進のブレーキにもなると彼らが認識しているのではないかと疑っている。資本主義は本業で、つまり、「サービス産業や製造業で儲けて福祉配分がなんぼ」の世界だ。福祉のために資本が動くわけではない。資本を増やすために資本がフローするのだ。福祉はこのフローをせき止める、溜池みたいなものだ。できれば節約したい案件である。
 
 河村市長は、地獄の苦しみ=公務員以外の人、公務員=極楽天国という、庶民にわかりやすい論法で、公務員の給与10%削減を主張する。また、市民税の10%削減も彼の公約として実現しようとする。しかし、10%削減に対してはそれを埋める財源確保について、具体案がない。そういうことについては、官僚に丸投げなのだ。大口、ホラ吹きオヤジになりかねない懸念を持っている。
 
 パフォーマンスとしてのバス通いも,先日の市長室前便所切腹侵入男の事件によって、公用車が使われることになったらしい。実はこの公用車だが、セキュリティー面からすれば、これを利用した方がバス通いでガードマン人件費を使うよりも、安上がりなのだ。しかも、クルマも大きく、高いものであるが、10年ぐらい使いまわすので費用対効果は安くなる。河村は、こうしたコスト計算ができる官僚からこういうことを指摘されただろうが、結局、市民へのアピールをつまり「ええかっこうしい」を優先した。要するに、やっていることとは裏腹に無駄使いをしているのだ。土井研究員はこういう輩が信用できないという。職場にも見た目が派手な活動をアピールすることに熱心なやつがいるが、実は目立たない実直な職人的存在によって、かろうじて、目立っているというケースは多い。特に地方公務員というのは目立たないいわば裏方集団である。河村市長もこの裏方が働いてくれてなんぼのポジションなのだ。この集団を、けっして、高給取りではないと思われる集団を10%給与削減というかたちで敵に回すというのは、本当に上手く、彼らを使いこなせるのか?

 それに、市長が簡単に襲撃される社会とは実は庶民にとっては、恐ろしい、ファシズム的テロ社会なのだ。市長は簡単に襲われてはならない。それは、市民に過剰な恐怖心を植えつけることになる。
 
 ところで、市が関係している、市民サービスは、民間委託がかなりの部分を占めている。また、公務員といっても、1年契約の準公務員の身分つまり、契約社員がいるが、彼らは身分保障がない。河村が言うところの公務員とはどこで線を引いているのか?
 
 正規採用を言うのならこの人員は削減がすすんでおり、仕事上かなりの部分契約準公務員に置き換わっているので、たいした節約にはならないだろう。むしろ、正規公務員の基本給料ベースが削減されるということは、身分保障のない契約準公務員の基本給与ベースもダウンするということになる。

 ためしに市営施設に行ってみよう。そこで働いている人々のどれくらいが正規採用の公務員か?驚愕の結果を知ることになろう。つまり、正規採用されている公務員の部署というのは、やはり、高学歴、高い倍率の競争試験を通過した人たちが配置されており、その職場は、準公務員では任せられない責任部署に配置されているということだ。

 例えば教員も非常勤講師がいなければ成り立たない。ところが彼らに、校務は割り当てられない。教えるだけが仕事である。ところで、名古屋市の非常勤講師の待遇は、決して良くない。なり手がなく四苦八苦しているのが現状だ。特にベテラン世代の非常勤講師が手薄になっている。このようなベテラン契約教員にも人気のない職場、それが名古屋市の教員の現状だ。

 つまりは市民サービスにおけるマンパワーの質的向上をどうするか?それは安定した身分を保証することから始まるのではないか。河村市長はどういう政策を講じるのか?だいたいそういうことを考えているのか?
 
 「公約が上手くいかねばわしを堀川に沈めてちょ」といったが、これも無責任な発言だ。「公約貫徹まで、死んでも死に切れぬ」と言うべきなのだ。「生きて、路上生活者になろうとも、結果責任を果たす。損失を10円でも5円でも市民に払い続ける」と言うべきなのだ。いわば、死ぬこともできず臓腑を毎日食われ続けるあのギリシャ神話の天罰を受け続ける、と言うべきなのだ。
 市政が失敗したときには、こいつは、すたこらさっさと逃げられると踏んでいるようにも思える。というかそうなる直前にアップグレードして民主党政権の大臣に納まるかもしれない。
  
 土井研究員は、末端公務員を援護する。市民の教育を司る教員、市民の健康を預かる医療・保健業務、そして市民の安全を保証する警察。さらには弱者をフォローをする厚生窓口の職員。これらの末端で汗を流している人々が極楽天国とは到底思えない。それにすでにかなり給与が削減されている。それをさらに10%減とはちょっとまずいんじゃないか。アメリカがこの失策の前例だ。学校は校長や教師のなり手がなく。医療は荒廃し、日帰り出産+ガーゼ+毛布持参で費用を節約するそんな社会だ。治安もよろしくない。

 日本の交番制度は機能しなくなり、実際、たいてい交番にはおまわりさんがいない。給与低下による公務員のモラルハザードも心配だ。手抜き、賄賂、不正横領、安月給による公務員就職率の低下。たとえば教員採用試験で3倍を下回ると、教員の質が確実に落ちると言われる。事実、名古屋市もこの状況を憂慮して、地方へと教員集めに向かっている。まあ、教育・医療・安全・弱者対策は結局その大半が人件費なのだから、これを削減すると言うのはかなりまずいのではないか。

 実は我々研究員3人とも名古屋市民ではないので対岸の火的、ポジションになるが、それぞれの住む地区によって市民サービスが違う現実がある。岡崎研究員はちょっとだけ金のある地区。山本研究員は、王子製紙の企業城下町で、しかし、シャッター街が多い。土井研究員は年寄り人口の多い、財政貧困地区だ。だから、市民サービスの低下を身にしみて感じている。例えば、市民の足、バス路線の廃止が続く。箱物の赤字が億単位で発生し、学校隣接道路に通学路用歩道スペースも作れない交通事故発生危険地区だ。豪奢な年寄り世帯の家が、ユンボで潰され、更地になっていく。そこに分筆された土地が区画され切り売りされていく。すでに、商店街は絶滅し、ジャスコ、アオキスーパー、名鉄ショップが林立する地区だ。

 庶民の生活は今後きびしくなる。いや、何かアクシデントが発生したら、破綻する。そんな、危機感がある。例えば、本人もしくは子どもが交通事故の加害者・被害者になったら?大病を患ったら。親の介護が必要となったら。火事になったら。離婚して母子家庭となったら。大怪我をして仕事ができなくなったら。この社会のセーフティーネットはとても脆弱であると思う。ボランティアが中心というのも心もとない。やはり、多少多めの税金を払っても、末端公務員の手厚い、着実な補助と再生のための援助を受けたいものだ。

 そんな社会を河村市長はつくっていけるのか?そのための具体的ビジョンと財源、マンパワーの質的向上と市民サービスの徹底。河村市長のビックマウスからは、こんな地味で大衆向けはしないだろう発言は、聞こえてこない。

 ところで、自民党政府は土日の高速道路1000円とか、定額給付制度とか、エコポイントとか、市民へのリップサービスを選挙対策として実施している。もちろん、政権の維持=既得権限の確保と消費税10%実施が目的なのだ。飴を与えて衣服を剥ぎ取る。この江戸幕府以来の官僚主導政策には、警戒を怠ってはならない。

 しかし、かつての本山福祉市政以後、他の都市にはさほどアピールはなされなかったが、老人無料パスや医療補助、美術館などの公共施設の利用無料化、スクールランチの創設。ごみ問題でのリサイクル活動などけっこう、歴史に残るような政策を今も存続させている。老人パス等は、多少、収入に応じて援助額の増減調節はあるが、こいつを河村市政はどうするか?土井研究員は10%市民税削減の財源として、これらのサービスを廃止もしくは削減するような気がする。「老人は極楽天国、若者は地獄」てな言説で切り捨てるのだろうか?

 そうすると名古屋市民は今、土井研究員が味わっているような、地方財政悪化地区の惨状を経験することになるだろう。使用率の低い大きな箱物はどんどん老朽化し色あせていく・・・土井研究員の地区は大きな屋敷が点在するがそこに、家人は存在しない。次世代の若夫婦が定着しないから空き家なのだ。20年前の子どもの歓声も今は途絶えて久しい。60代の老人が80代の親を介護している。街は老化している。
 

戻る