この指は考え方の方向性を示している。すなわち、人差し指→X軸~右か左か。いわゆる、体制側か革新側か(今ではすでに死語になっているが)を示しており。いわば生産手段を所有しているか、労働力のみしか持ち合わせていないかの選択軸である。親指→Y軸~ソフトかハードか。これはテクノロジーの選択軸をあらわしている。すなわちテクノロジーの操作に関し、素人であるかそれとも専門家であるか、の選択軸だ。このY軸は他方で、エコロジーの技術をも示しており、その技術が自然に対しソフトであるか破壊的なハードであるかの選択軸をも示している。中指→Z軸~これは世界観とか生活の根本的な質の選択を示すものである。すなわち、産業的なものか土俗的なものかの選択軸だ。
 われわれ自由すぽーつ研究所ではこの3方向の選択軸を常に念頭に置きつつ思考してきた。なおこの選択軸の考え方は、イバン、イリイチの提案した視点を踏襲している。
さてそれでは我が自由すぽーつ研究所の研究成果や活動内容を以下に記していきたい。わかりやすいように時代ごとに発表された書籍やレポート、パンフなどを紹介しつつ記していこう。


The history of books and reports



     著書名

「反オリンピック宣言」  残部をお分けします!!詳しくは左の「反オリンピック宣言」をクリック


親子で読む!
東京オリンピック! ただしアンチ!

  

「批判的スポーツ社会学の論理」
 ーその神話と犯罪性をつくー NEW
上記書籍注文はこちら


「反オリンピック宣言」


「みんなでトロプス」
「スポーツからトロプスへ」
「体育教師をブッとばせ!」
「草の根教育運動のために」
「笑う教育学」
「不能化する教師たち」
「極楽非道の教師論」
「がっこう百科」

「がっこう再発見」朝日新聞書評追加

「私たちの教育再生会議」
「日本の教育はどうなるか」new
「現代思想 4 2009 特集~変わりゆく教育」
「新 子どもと親と生活指導」new

「反オリンピック宣言」

その神話と犯罪性をつく

影山健、岡崎勝、水田洋編著

風媒社


 この著作こそ、我が自由すぽーつ研究所の活動の原点といえるものだ。この本は、1981年10月10日の体育の日に発行された。この書はその発行日とは裏腹に、体育やスポーツ、オリンピックなどを手ひどく批判している。
 本書を書くきっかけになったのは、1977年8月25日の仲谷愛知県知事(知事退職後自殺)の「1977、五輪を名古屋へ」発言にはじまる。スポーツ体育を研究する立場からオリンピックに対するさまざまな疑問が沸き始めていたわれわれにとって、この発言は自分の町にやってくるオリンピックを足元で考えるきっかけとなった。また時期を同じくして名古屋大学の水田洋研究室の院生らもこの問題を考えていた。われわれは早速、水田教授(退官後、名誉教授)および研究生らと交流会を持ちともに「名古屋オリンピック招致」を批判するポジションをとって活動することとなった。
 水田先生は言わずと知れたマルクス経済学の大家であり、「社会史」の日本での創始者である。高校の教科書にも出てくるホッブスの「リバイアサン」の訳者でもあり、いわば経済学、経済史、社会史の第1人者だ。名古屋オリンピック招致反対に関しては、この方面からの批判視点を持っていたが、オリンピックそのものあるいはスポーツそのものを批判的観点からとらえ名古屋オリンピック招致問題を考えていたわれわれの視点に対し、水田教授は「スポーツ研究者からのオリンピック批判もある」ということに、驚きと賞賛を示しわれわれのさまざまな活動に尽力していただいた。
 なお本書が出る前に「告発・88名古屋オリンピック」が風媒社より出版されており、ソウルか名古屋かの決定前に反オリンピック宣言も出版された。われわれのような素人が自費出版ではなく商業ベースに乗った出版が可能になったのは、とりもなおさず水田先生の尽力による。またこの出版を快く受け入れてくれた、風媒社の稲垣氏の協力がなかったらこの本は日の目を見なかったろう。
 さらにわれらの恩師である影山教授(退官後名誉教授)の参加により、本書は高度なスポーツ社会学批判の観点を得るに至った。また、岡崎氏の編集能力は群を抜いており本書が、以後のオリンピック問題に対しても有効に批判が機能したのは彼に負うところが多い。彼は後に「おは」の編集人として活躍しており、これ以後の出版も数多い。現在のオリンピック問題に関しては本書を読んでおけばそれがたとえ1980年代初頭のものであっても、十分通用する内容となっている。
 今現在本書の入手は困難になっているが、風媒社に問い合わせてみる価値は十分にある。なお今現在もオリンピックの問題は、あいも変わらず多方面で発生しているが、本書で予言されたことはことごとくあたっている。本書はオリンピック問題の社会、経済、文化的分析のバイブルといえよう。

上記の本はすでに絶版で風媒社には在庫はありませんが、自由すぽーつ研究所には若干の在庫があります。岡崎研究員がその注文方法について、ブログ「続・今日も行くがや!体育教師」http://masaruokazaki.jugem.jp/において記載していますので、以下にその内容を記しておきます。これを参考に欲しい方は注文してください。
ただし、40年以上前の書物なので、経年変化が見られるものもあります。通読には問題ありません。その点、ご了承ください。

反オリンピック宣言』(風媒社1981年刊)をおわけします!

 今回、2020東京オリンピック・パラリンピックの問題はすでに名古屋オリンピック招致批判の市民運動で根本的には明らかにされていました。絶版となっていたのですが、自由すぽーつ研究所が保持していた30冊あまりを送料共で1000でお譲りします。

 必要な方は お名前、送付先、冊数、を下記のメールでご注文ください。

 本書送付と共に振込用紙(手数料はいりません)を送らせていただきますので、書籍到着後10日以内に送金ください。残部なくなりしだい終了します。

 注文メール kageken2017@yahoo.co.jp


 左は「反オリンピック宣言」よりも、1ヶ月前に出版されたものである。同じく風媒社より出されたものだが、名古屋オリンピックに限定した内容であったため、ソウルに決定した段階でその存在意義がなくなってしまったが、分析内容は精緻であり内容の濃い資料が手に入る。
 また、右は雑誌C&D出版部の杉浦登志彦著による、名古屋オリンピック招致反対の市民運動報告であり、1983年2月25日発行された。したがってすでにソウルに決定した後の出版になるが、当時の運動の勢いをひしひしと感じることが出来る。一番右下が杉浦氏であるが彼は後に東京に活動場所を移動した。また、2列目左側の人は知るひとぞしるお方である。しかし今もあまり顔が変わっていないなぁ。

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番外編!シドニーの反オリンッピック

歴史は繰り返される。シドニーオリンピックはたいへんな状況らしい。当然ながら反オリンッピックの市民運動が2000年の時点で活発化している。その運動状況は左記のホームページにおいて知ることが出来る。資料性も高いので、英語ではあるがぜひ訪れてみたい。”anti-olympics alliance” 反オリンッピック同盟

シドニーの反オリンッピックやってくれます!

活発でござるなー しかも笑える ビーチバレー会場に「光攻撃」 (毎日9・6)
新聞によればボンダイ・ビーチにある五輪ビーチバレー会場が報道陣に公開された6日、環境保護などの観点から同会場に反対する市民団体「ボンダイ・オリンッピック・ウオッチ」のメンバーが、五輪期間中の抗議活動の詳細を明らかにした。この団体は、ビーチ周辺住民と、サーフィンなどを楽しむ若者たちのグループで組織されたもので、その広報担当者のケビン・セントアルダー氏によると聖火が到着する14日にメンバーらが周辺のアパートなどから約2000個の鏡を使って日光を聖火走者に照射競技中も約1000個の鏡で会場を照らして妨害するという。というのも、「われわれが集めた12000人分の署名を(ニューサウスウエールズ)州会議に無視されたことの意味を、世界に訴えたい」とのこと。市民運動もこのような、お笑い「光攻撃」のようなやり方を考えると結構やる人出てくるだろうなぁ。


みんなでトロプス!

敗者のないゲーム

影山健 岡崎勝編

風媒社

 本書は、スポーツのアンチテーゼとして出版されたものである。共同的なさまざまなゲームが提案され実践されている。発行は1984年4月25日になっておりすでに10刷以上増刷されている。内容は至って政治的で文化パラダイムを完全にひっくり返したものとなっている。 
 この中で実践されたゲームは実は、名古屋オリンピック招致反対運動のときに集会などのパーフォーマンスとして逐一発表、実践され、楽しみながら市民運動に参加する新しいスタイルの参加形態を提案した。
 トロプスは現在さまざまな現場で使われている。しかしトロプスの持っている社会経済文化的観点からの批判的視点は継承されているとは思われません。単なる実践書として使われてしまっている点についてはわれわれも今後何らかの対策とアピールをしていく必要があるだろう。
 みんなでトロプスの続編として「スポーツからトロプスへ」続・敗者のないゲームが出版された。以下に詳しく述べるが、この本では「みんなでトロプス」で、紹介されたゲームのほかに「トロプス魂」とても言えるような内容が盛り込まれている。

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スポーツからトロプスへ

続・敗者のないゲーム入門

影山 健
岡崎 勝 編

風媒社

この本は、トロプスがアンチオリンピックの観点から、書かれたかなり政治的な本であるのに対してスポーツからトロプスへの本は、実践的で具体的なゲームの紹介が、中心的に書かれている。しかし、トロプスが政治的な視点をより濃く表明しているにもかかわらず実際には、実践書として利用されていたことは確かである。もちろんトロプスを実践することによって結局は政治的な活動に結び付いていくとになのだが、その点について実践者が認識していたかどうかは明らかではない。スポーツからトロプスへの本は、この中で紹介されているゲームを実践していくことでより政治的な活動になっていく仕掛けがたくさん作られている。一見、反オリンピック運動から離れていったように思われるが実際にはトロプスの神髄を心得た人はこの本がより政治的な色合いを持っていることを知るだろう。

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体育教師をブッとばせ!

場外乱闘ハチャメチャ教師論

岡崎 勝
土井峻介
山本鉄幹

風媒社

この本は名古屋オリンピック騒動がひと段落ついたときに書かれた。初版は、1986年2月15日である。名古屋オリンッピック騒動が終わってみると、この地域の体育人の無政治性(ゆえに政治的に利用される)や無能さに無性に腹が立ってきてどうにも我慢できなくなったのがこれを出版する動機となった。最初は、覚書という形で、B4ファックス原紙で10枚以上にわたって殴り書きされた。題名は「体育人をばぁ~かにする本」自由スポーツ研究便所出版になっていた。体育人を題材にするには自由スポーツ研究所の便所の便器に座ってやったほうがよっぽどよいという理由からである。この元原稿が研究所所員によって読みまわされた結果「面白いぞこれは」といわれ、危うく便所紙として使われることもなく本の企画として風媒社に提出されたのである。その結果、稲垣氏やとりわけその頃出版部にみえた、加藤さんに好意的に受け取られて出版の運びとなったのだ。
最初は便所で考えれば事足りると思われた企画であったが、いざ出版となるとそうもいかない。加藤さんの情熱的かつ的確な支援の元、本格的な原稿作りが始まった。加藤さんより「ここの所をもっと衝撃的に迫力をつけて」などとアドバイスを受けながら何度も書き直しつつ作り上げていった。この作業で本作りの本当の楽しさを得ることが出来た。

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        草の根
   教育運動の
       ために

                 影山 健
                        
                 岡崎 勝

                国土社

本書は、1980年始めに問題化した愛知の管理教育を批判する勢力の良質の部分で書かれた書。おそらく、当事者性のある内容は秀逸だと確信している。現在、反愛知万博で闘っている影山が中心になり、実務的な作業を岡崎が行った。
 ここでは、愛知の管理教育の実態が事細かに報告されている。愛知の管理教育の問題点を、学閥支配、御用組合支配、主任制支配という構造的な切り口をもって批判した。影山はこのときに「教育市民運動」という言葉を初めて現場的な立場で用いた。「管理教育」か「管理主義教育」かという論議がこの後展開される。当時の状況から言うとこの本は、敵にとって炎書にも値する本であった。
 自由すぽーつ研究所としては、岡崎がその実務をになったために、本書はメンバーの個性が十分発揮されている。ちなみに、この本では、単なる管理批判でなく、学校そのものを相対化するための視点を持ち得たのは我々自由すぽーつ研究所のメンバーの書いた部分だけである。そこには、不能化、他律性、管理エコノミーの概念がすでに持ち込まれ、学校についてもヒューマニズムの安易な持ち込みに警鐘をならしている。本書を、学校化社会論の視点で読むか、良き教育の発展を望むための市民主義教育論と読むか?その分水嶺的な画期的な本である。
(1983年9月25日刊 国土社 1600円)

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笑う教育学


岡崎勝+土井峻介+山本鉄幹


北斗出版


学校なんて怖くない!
「校害」から子供を守り、お母さんの美容と健康も守るスーパー学校講座の決定版!

とこの本の帯には書いてある。わがスポーツ研究所のメンバーがお母さん向けに学校との付き合い方を論じたのがこの本である。
 前書きには「普通のお母さんに贈る愛のメッセージ」として
「 この本は、わが子への愛情に満ち溢れた、普通のお母さんのために書かれました。優しくて美しい、年齢相応にチャーミングなお母さんが、「学校」に押しつぶされないことを願って書かれました。「学校」のために顔にシワを増やしたり、便秘やヒステリーになってしまうのを防ぐために書かれました。
 はっきり言って、この本は、あなた、そう、お母さんの味方です!学校からお母さんの若さと美ぼうを守る本です。笑いながら学校や教育と付き合っていくための「きょーいく学」の本です!」とある。

以下、章だては
第1章 学校と楽しくつきあうために
第2章 先生ってどんな人たちか
第3章 学校の正体を暴く

という構成になっている。お母さんたちからは見えない学校の内部が、面白おかしく赤裸々に書かれている。また、あとがきでは教育を語ることのつまらなさ、逆に学校を語ることのとてつもない面白さ、といった著者たちの思いが述べられている。この本は1987年7月15日に出版されたわけだが、この時点ですでに後に出版される「大きい小さい おは」(ジャパニスト)の原形が形作られている。90年代後半お母さんたちが真に求めていた教育に対する疑問を答える形で作られた「おは」の先取りをいく形でこの本は構成されている。実際、著者のひとりである岡崎氏は雑誌「おは」の編集人を引き受けることとなった。われわれの教育に関する作業が常に10年先を見越しているということをまさに証明する本といえよう。

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不能化する
教師たち


教育技術・法則化症候群


岡崎勝
土井峻介
山本鉄幹

風媒社


 おい、また何やら教育で「法則化運動」なるものがはやっているぞ。「またかぁー」今度はなんだい?何やら教え方をマニュアル化するんだと。向山洋一とかいう小学校教師がぜったいにできるとび箱の跳び方を開発したとかで、この人のやり方を使うとどの先生でもとび箱の跳べない生徒を跳ばせることができるんだ。そこでこの先生、考えたわけだ。もっと教育技術をマニュアル化すればよいと。それで「法則化運動」なるものを唱え始めたわけだ。これにまた教師が乗ったんだなあ。それで今までのように教師の職人芸的技術を経験しながら身につけるのではなく、手っ取り早くマニュアル化して実践すればよい。ということになったわけだ。そういえばこのころ「ホイチョイクラブ」なるものの「見栄講座」がベストセラーになっていた。それで、教育でもこのマニュアル化をやっていこうではないかということなったわけだ。マニュアル化といえば、彼女をいかに口説き落とすかというのもマニュアル化されて流行っていた。
 われわれ自由スポーツ研究所のメンバーは、この軽いマニュアル化がそのまま教育に移植されたと考え、きっとまたぞろ学校神話はそのままに、教師の教育技術をアップすることによって教師の権威を高めようという流れであると断言して、批判することにした。
 ところでこの法則化運動は、向山洋一を、ついには教祖として祭り上げ、全く怪しげな方向へと進んでいくことになった。というのもこの法則化運動に出版社が乗って全国展開を行ったのだ。方法は、法則化マニュアルの全国コンテスト形式を作って教師の提案するマニュアルを、向山先生が生徒を評価するがごとく教師を評価して、ほめたたえるという形をとったわけだ。めでたく、向山先生からほめられた教師は、涙を流して喜ぶという状況となった。
 この本はこのような法則化運動の動きを教師たちの不能化と断じ、さらには教育技術はマニュアル化されなければならない、という強迫観念に陥っている教師たちの集団を教育技術、法則化症候群とみなして徹底的に批判をしたのである。ところでこの症候群という言葉は、この本が出版された1988年6月20日の時点では、あまり使われてはいなかった。しかしこれ以後、例えば「結婚しない症候群」などといった使われ方ではやっていった。著者たちはこの症候群という言葉を、シンドロームという言葉で表すことも考えていたが、今思えば法則化シンドロームという題名にしてもよかったかもしれないと思っている。

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極楽非道
 の
 教師論


岡崎勝 土井峻介


北斗出版

本書は2部構成となっている。
 第一部では、岡崎が担当し内容は教師がいかに、普通の労働者にすぎないか、ということを、今までの教師偉人論を批判しながら展開してみた。
 第二部は土井が担当し、教育を支える、現場教師たちの考え方と行動のメカニズムを明らかにしようとした。本書では「教育愛」「学校愛という言説がキーワードとなっている。
 本書はまさにこの言葉の神話性やこの言葉による象徴的暴力を書きつづった。教育の根本を非神話化する作業であるといえよう。
 この本は1990年3月20日に出版されたが、この時点では教育の神話はまだ生きていた。21世紀となった今では教育は完全に力を失い、その権威も地に落ちた。もちろん教育の持つ象徴的暴力はいまだ健在であるがもはや教育がかつてのごとく真剣に語られることはなくなった。10年前にしてこの予言的書物は21世紀の教育の状況を完ぺきに予測していたものであった。
 あとがきには、この点がさらに深く述べられている。
「教育もの」の本というのは、読み終わったあと読者が爽快な気分にならなければならない。
「教育もの」の本というのは、将来に対してまじめで明るい展望が述べられていなければならない。
「教育もの」の本というのは、「子供は、可能性を秘めた素晴らしい天使だ」という前提を持たなければならない。

という形で「教育もの」の本の持つ神話性が引きはがされている。われわれは教育の持つ本質のなんたるかを徹底的に語った。と自負している。教師の自殺や心身症が増えている現在、この本のもつ予言はまさに当を得たものといえよう。
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 がっこう百科     岡崎 勝 編著
        
ジャパンマシニスト

 岡崎研究員、肝いりの本がここに実現した!同出版社の「おは」編集人である彼は、いずれこの百科を創ろうと考えていた。それはそのままジャパマの編集者たちの2005年の主要なプロジェクトにもなった。というか、ジャパマのすごい乗りのよさによっていっきに加速したといえようか。
 その動きは、2005年5月ごろから動き始め、7月には企画書が完成。夏休み前に執筆者に企画書が配られ章立てごとの割り振りもなされた。従って執筆した教師たちは夏休みを存分に利用して初稿を書くことができたのだ。
 また斎藤真理子編集者の才能豊かな活躍により編集が首尾よく進み11月には草稿が送られてきたのだ!もちろん岡崎編集員の補充、書き直し、事実確認その他の地道で根気のいる作業もあった。(これなくしては完成はない)
 私、山本もいくつか書いた。私は、「峻」のエンドマークで記された部分を担当した。山本は執筆協力にまわった。
 305項目にわたるこの学校百科は、おそらく教育関係の書籍としては始めての試みとなる。岡崎研究員の言うように(前書き)これは単なるマニュアルではない。教育に関連する、哲学が・・・「おは」に脈々と流れる哲学がそこにある。それは「あいうえお」順の百科辞典形式になってはいても、最初から読んでいける教育哲学書なのだ。哲学書というとどうしても難しく考えがちになるが、そこが岡崎編著の真骨頂。実に愉快でわかりやすく書いてある。まさに養老氏の「バカの壁」も真っ青の教育哲学書なのだ。
 ぜひともこの書をご購入頂き、読み、楽しみ、「うんうん」とうなずいていただきたい。
書店での反応も良好。第1刷りが、品薄になる可能性もあるのでお早めに!!
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学校再発見! 岡崎 勝

 岩波書店

 岡崎研究員がついに岩波書店より「学校再発見!」を出版した。
 今、本屋の雑誌欄を覗くと「男の休日」とか「趣味人」などといった月刊誌がならんでいる。また最近、教育に関するこの手の雑誌も大手の出版社から出始めた。いわく「お受験指南」とか「こどもの文化教養」などといったテーマで、グラビアをふんだんに載せつつ、いわゆる進歩的知識人にトークをさせるといった内容だ。
 いわば、教育や学校をネタとするのがトレンド(み~んながやりたがる傾向)なのだ。ディスタンクション、格差社会、文化資本、多様化→階層化、といったことの具体的な生活でのあらわれとして、子育てが一番身近でネタになりやすいということだ。
 しかし、この「学校再発見!」はこれらのトレンド雑誌とは、その質において次元を異とする。
実はとても怖い本なのである。
 他のトレンド雑誌が読後、さあ!お受験がんばるぞ!とか、そうか、美術館などに行ったり、体験学習をたくさんやっておくと、将来使える。などという形でどちらかというと+の子育てエネルギーが発散されるわけだが、まあだから、読者はある意味癒されていくのだろう。、しかし「学校再発見」は癒されていくように見えてすごぉ~く、今という時代の「やばさ」を思い知らされていくのである。普通に読めば「学校の毎日はおもしろい!」となる。教師が疲れていても、保護者が迷っていても、ついでに、子どもが家に火をつけても、母親をメッタ刺しにしても、学校の毎日はおもしろいと言うのだ。学校では良い子だったのに。あんな殺人をするなんて・・・近頃、何でもかんでも学校のせいにするマスコミは撃滅したが、学校が無力であるとも思っていない。なぜなら、日本のみんなが学校を通過しているからだ。その経験則からわかる。もちろん例外もたくさんあるが。
 この本を深読みすれば、学校の校門と外の社会とのあいだの隔たりを複雑にしらしめられる。
 また一般的に、日本の教師はかつてよりはその権威は低下したが、実は世界でもかなり高いレベルの教育ヴューロクラートもしくはテクノクラートであるという現実。それは、実は昔から家庭での子育ての質よりも学校での生活・教育の質のほうが高い!いや支配的である!・・・・というよりも人生に影響を与える力という面で強い。ということがわかってくるのだ。もちろん岡崎氏の教育理念や技術は卓越したものがあるが、他の教師にしても無能な文部科学官僚の朝令暮改的な教育改革にここまで付き合ってきたのだ。(そして一定程度の実績もあげてきた、しかし、中途半端に方針を変えるのでいまだ完結したことはないがこれは教師のせいではない。通常20年ぐらい継続して作り上げていくものを4~5年でその政策が変わったしまうのだから)
 さてさて、この「学校再発見!」のどこが怖いのか?再発見してみようちょっと、ならべてみると(詳しくはこの本を買って読んでね) 
①み~んな義務教育を通過している。ということは、よしに付けあしきにつけ教師の多大なる影響をみ~んな16年ぐらいは受け続けているということ。
②社会がこんなに変わっているのに学校は実はあまり変わっていない。なにが?は自分の学校生活を思い出しましょう。まあ相対評価が絶対評価に変わったぐらいか。しかし、これも大半は相対評価の線を基準に出しているからな。
③日本では学校の存在しない人生はない。という同一(同質)人生性。
④世界有数のGDPの高いレベルはやっぱり学校が絡んでいるということ。経済力と学力は通底している現実。
 ・・・こんないろんなことがこの本を深読みし、今の時代背景や時代精神を見ていくと、そこここに、メタファー、記号性、象徴的暴力、スクーリングとディスクーリング、解放のための学校、オヤジや母親の生活を根本的に変えて行かなければならないのだというしんどい提案などが、この本の中ではてんこ盛りなのだ。まあ、われわれ大人にはとてもしんどい内容だな。
 だから、怖ければこの本を深読みしなくてもよい。あ~学校ってそういうところだったのか。で終わりましょう。いやそれの方がよっぽどハッピーだ。しかし、深読みしちゃう人、この本、しんどいよ。また教育のことをたくさん研究し評論などをやってきた教育知識人の皆様。やばいなぁ~と思ってしまうのではないか。(例えば学校に寄生するその形態において現場教師と教育知識人の違いというか生き様を思い巡らせばわかりますね。また、子どもの事件にテレビでコメントする心理学者の素っ頓狂な内容と現場教師の核心を突く内言的コメントの違いなど)
 ついでに、教育関係トレンディー雑誌編集者さん。あなたたちに企業広告媒体や特定政治・宗教団体などがバックに付いている限り、100万光年経ってもこの本の内容にはたどり着きませんね。まちがいない!!


あっ!!、ついに「学校再発見」が、朝日新聞日曜読書書評欄に掲載される!!!!20061029日(日)


 朝日新聞全国版の日曜「読書」書評欄に岡崎研究員の「学校再発見」が掲載された。評者は斎藤美奈子氏である。左記の記事を見ていただければわかるが、教育改革が叫ばれる昨今のまさにタイムリーな内容となっている。
 よく戦争のたとえでテニスコートを挟んだ銃撃戦のことが述べられるが、まさに学校はテニスコートを挟んで教師と生徒が対峙して力の引っ張り合いやら教育的工作という実践のやり取りをしている場なのだ。
 そのテニスコートの横のコーチ席で管理職が顔を左右に振ってボールの行方を見ている。
 観客席では保護者が応援している。
 教育委員会はどこに? おそらく最上階のエアコン付きガラス張りビップ席であろう。
 文部科学省は? テニススタジアムの管理事務所ということになろう。
ならばマスコミは?プレス席でシャッターチャンスを狙うカメラマンか管理事務所の窓口あたりにたむろする番記者あたりか。
 では、時の政権はどこに?まあこれは、このコートを実況中継しているテレビを見て茶飲み話で「今の教師は質が悪い」とか「親は子どもを管理できん」とかそんなことをだべって、それこそ、視聴者のテレビ局への苦情電話みたいな感じで、文部科学省に怒鳴っているのだろう。
 岡崎研究員のポジションはもちろんコートに立つ最前線のプレーヤーである。
 実は現場教師にもコート内でのポジションはいろいろあって、例えば終始、補欠、ラケット持ち、ボール拾い(ネットの両サイドで構えている少年)、ラインズマン、審判(教頭か教務)、ここぞというときに必ず故障する当てにならない口だけ達者選手、など有象無象が居るんですなこの学校コートには。
 岡崎研究員は、職人に例えれば、教え熟練工であり、やり手のトラブル解決者であり、迷走保護者のアドバイザー、ワルガキにとっては手ごわい体育会系ど迫力教師、管理職や教育委員会に対しては最も過激な圧力工作者である。しかも、本書以外にも"優れた小学校生活ガイド"「がっこう百科」ジャパマニスト 1905円+税 他、本多数を出版している理論家である。
 もしも本書を批判する方々がいるとするならば、心してかかれよ!!
この本一筋縄ではいきませんので。


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私たちの
教育再生会議

岡崎 勝・赤田圭亮「編」

 日本評論社


 これ、2007年9月30日に出版されました。アングッドタイミングだとお考えの方も多々お見えであろう。なにせ、安倍さんが政権を投げ出しちゃって、参議院で自民党が歴史的大敗を期して国会も以後ぐちゃぐちゃになっちゃたのですから。
 もちろん、教育再生会議は存在しています。しかし、有名無実とはこの会議のためにあるようなもの、話が進展しません。しかしぃ~狡猾なる文部官僚さまたち(まるでヨンさまみたいだな)は、官僚主導の「かいかく」をこそこそやっています。
 まず、学校の先生は超過勤務であるという公のレポートを出しました。つぎに、生徒や教師の心の病の実態をこれでもかとアピールします。とにかく、教育を再生するため「あ~せい、こ~せい」という前に「教育現場は大変なんだ」といっとるのです。そしてそのためには「文部科学省に金よこせ!」と結論付けます。もちろん真の意味で現場に役立つような予算請求なんかじゃありません。文部官僚が自由に使える金をたくさんよこせといっとるのです。確かに、この主張がうまくいけば、教師や生徒あるいは保護者にも何がしかの予算が下ってくるかもしれません。しかし、油断大敵。その金の大半は数多の官僚の血や肉となるのであって結局、教師を含めた庶民は、身をそがれ、皮下脂肪を燃焼させてやせ細っていくのです。
 小泉政権以前というよりもバブルまではみんなが中流という神話がありました。しかし、小泉以降、劇場型政治により皮肉にも庶民の高い支持を受けつつ、「金持にはやさしく、貧乏人には厳しく」という経済政策がこれ見よがしに実施されており、今もますますその傾向は進んでいます。それで、「はぁ」と気がつくと年収200万円以下が、国民の30%以上にもなるというではありませんか。当然ながら、大きな国家を目指さない日本では、金がなければまともな教育を受けることができません。格差社会を通り超えみんなが底流社会になったのです。こりゃ、たいへんですぜ。こうなると、一部の裕福層はがむしゃらに自己権益を守り続けます。底流層はあきらめちゃいます。時には過激に悪事に走ることもあります。心の病に陥ることもありましょう。
 よく考えてみれば学校の現場はまさにこのとおりになっています。
 さて、この本「私たちの教育再生会議」は実はこうしたことを予言し、解決策などを模索しています。そういう意味では、再生会議というタームに囚われず、さて、明日からどうしよう?という素朴な、みんなが底流社会のサバイバルするすでを提案しているのです。ぜひ、お読みください。
 なおこの本は岡崎研究員が、編集しており、私めも一本書いております。その論文についてはここをクリックしてみてください。(タイトル;お受験に走る人々)

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日本の教育はどうなるか

赤田圭亮・岡崎 勝「編

日本評論社

 日本評論社は定期的に教育関係の特集をしております。今回は、「教育改革の失策を問う」という副題がついています。先回が、「私たちの教育会議」という題名の本であり、副題は「現場からの批判と提言」というかたちで、教育改革批判に対する、対案を意識して編纂されていました。
 しかし、今回は日本の教育全般が、「カオス」(混沌)となっている状況を報告しつつ、提案というよりこのままでは教育制度や教育システムが崩壊していくその「序曲」を紙面上で奏でているものになっているのです。経済・政治・文化がグローバル化して一国による不景気といった発想自体が死語になっている現在、教育も大局的な見地からしてどうしたらよいかという提言は、できません。それよりも「今ある現実にどう対処するかという差し迫った状況が学校や、教育界全体をおおっているのです。
 例えば、学歴。2年前は、大学の「薬学部」は大人気で、大学によっては東大を越える偏差値でした。しかし、今は人気が低下しています。薬剤師の国家試験をパスして免許を持っていても、スギ薬局などの大手くすりチェーン店の、一店員でしかない。「歯学部」にいたっては都会部において飽和状態で、個人開業するにも億単位の資本金が必要です。つまり、町医者にはなれない。大手病院への就職もままならない。就職しても過重労働になってしまう。学歴最高峰の、医者やキャリア公務員もその行く末は甘くはないのです。もちろん大企業も、同様でしょう。そんな中でここ10年ぐらい、ニューライトとか新資本主義を標榜していた人たちの、産業界のニーズに合った生徒・学生の育成という考えは、結局一部のすでに特権的地位にある子どもを除いては、役には立たなかった。学生は、勉強する意義を見出せなくなった。就職活動は熱心だが、研究や文化理解、思考の鍛錬といった、ことには興味を失いつつある。大学はあせり、中学校でもしなかったような、学生サービス、例えば「合宿を含む、環境順化トレーニング」をやって、自殺や不登校を予防するといったカリキュラムを組んでいるのです。働き口は一部のエリートにしか開かれていない。あっても派遣や契約社員で継続できない。
 何のために勉強するのか?「産業界のニーズに答える」は産業界そのものがそのシステムを変えつつある今、答えて教育システムをつくったつもりが役立たずの状態になっているのです。
 今、教員の大量退職によって、新卒採用が増えています。しかし、これも5年程度で落ち着くでしょう。ところが、学生を確保したい大学は大いなる借金をして教育学部の新校舎を増設しています。私はこの校舎がかつてのバブルの遺産「シーガイヤ」になるのではないかと危惧するのであります。この本は教育の「カオス」をまとめ上げています。ここまで教育の「カオス」の詰まった本は例を見ません。そういう意味で価値ある本でありましょう。もちろん、自由スポーツ研究所所員は全員書いております。ぜひご購読の上お読みください。私の論文は、その原本があります。 ここをクリックしてください。

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現代思想 4 特集~変わりゆく教育

現代思想に岡崎研究員が投稿!!

 しかも増刷りとなったらしい!!

 朝日新聞に、「休刊の波 論壇の可能性は」という記事が出ていた。(2009.4.12)論座、現代、諸君!などが休刊に追い込まれつつある。そんな中現代思想は、特集「変わりゆく教育」で増刷りをしているらしい。もちろん、先にあげた論壇誌と現代思想を並列させるのは無理があるが、この難しい硬派の雑誌が売れているのだ。しかも、教育特集である。
 岡崎研究員は「静かにしてセンセイの話を聞きなさい!」を書いている。p100~114に至る、4章立ての論文であるが、現場の状況にある混沌がみごとに書き出されている。
 しかし、しぶとく学校はその存在、システム、人員は生き残るのである。社会が混沌となるということは学校も当然混沌となる。かつては、学校と社会には、壁があった。国策に利用をされる現実は変わらないが、今ほどにあからさまに産業界が成果主義やエリート養成を要求しなかったし、教育官僚も立ち入らせない、頑固さがあった。しかし、いま開かれた教育行政ということで、産業界のアヤシイものどもが参画し、それに追随するように教育行政は猫の目のように変わっていった。
 学校教育の弊害は社会の変化と、教育行政の度重なる改悪によって、システム、人員、生徒、親のそれぞれがアップアップの状態である。
 マンパワーの集合体、これが学校教育の実態であるが、この予算が削減され、つまりはマンパワーを弱体化させておいて、成果主義を求めていく。これは社会全体の疲弊がいや崩壊が始まっているのである。本書は「終わりの、はじまり」これを予言する、特集といえよう。
 


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新 子どもと親と生活指導

 岡崎 勝

日本評論社


岡崎研究員が教育界を震撼せしめる、渾身の1作!


 2010年9月に出版されたこの本、ただものではない。岡崎氏にしか書けない秀作である。彼は幾度となく講演を行い、本や雑誌、テレビ出演などで学校の現場からの発言を行ってきた。それに対し、多くの賞賛と僅かばかりの批判?が寄せられたやに聞く。この本は、これら岡崎氏の活動論理のエッセンスである。この本は、多くの教師たちに読まれるべきであり、また、教育委員会のメンバーや文部科学省の官僚たちも精読すべきである。そうすれば、学校教育もかなり、改善がなされ、よりベターな教育改革が実施されるはずだ。
 また、この就職超氷河期に、教員採用された新人教師にとっても心強い必読書となる。この本には、新卒、中堅、ベテランの教師が、必ず抱えるであろう悩みや挫折に対して多くの示唆や提言、解決策が論じられている。もちろん、親や子どもも読んで欲しい。学校での常識が、決してそうではないという事が気づかされるし、さらには、学校と付き合い、友だちや親たち共に生きていくための「作法」をも教えてくれる。
 この本は多くの人に読まれなければならない。それによって、子どもも親も、教師もかわる。しぶとい教育制度も崩壊しつつ新生する。

 さて、岡崎氏であるが、彼は役者で言えばオールマイティーの役柄をこなす事ができる超人だ。ヒーロー、悪役(教育官僚にとっての)、名脇役、敵役なんでもござれだ。
 学校の教師は通常、いい人、悪役、フツーの人、熱血漢、冷えた人などなど、それぞれの役割をもって、はたらいている。それをはっきり認識している人もあれば、無意識でやっている人もいる。岡崎氏はどのタイプの教師にもなれるし、そういう教師たちの本音というか性根を熟知している。また、それぞれの立場にある教師たちの為すべき「作法」も知り尽くしている。それらは単に現場での経験から得られたものだけではなく、膨大な量の多領域にわたる専門書や知識人らとの交流の中から紡ぎだされたものである
 学校や教育に関して、悩んだり、停滞したときまずはこの本を手にすべきだ。必ず、解決策が見つかる。

 もう一つ、この本は、実はわかりやすい社会学の本でもある。難しい専門書を読まなくても、社会化とか社会性、社会関係などの社会理論が学校現場を舞台としてわかりやすく説明されている。さらには、小泉政権時代に全盛を為したネオコンやグローバリズムの論理がいかに教育の世界に浸透してきたか(もちろん多くは失敗したが、救いがたい傷あとも残した)などについて、学校を媒介とした身近な生活を検証していく中でその本質がわかってくるようになっている。そういう意味で、これから、構築されていくであろう新しい社会学や政治学にも多くの示唆を提示しているのだ。
 深読みすれば、わかる人には「なるほどね」という内容が満載なのである。新しい、社会学などを模索している研究者たちもこの本は無視できない存在となるであろう。

まずは、本屋に行って、あるいは、ネットでこの本を購入しよう。

追伸;月刊 「プレ○○ントファミリー」の編集人はまた呟く(ツイッター)ことになるだろう。「またやられた、この本の章立て分だけ(あるいはサブタイトルまで)、売れるテーマが先取りされて書かれてある。」と


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「批判的スポーツ社会学の論理」
ーその神話と犯罪性をつくー

影山 健 著
自由すぽーつ研究所 編
ゆいぽおと発行 価格 2160円(税込)

購入方法

1)当方関連集会等で直接にお買い上げの方 1冊 1900

2)メールで注文の方 送料手数料とも含め 1冊 2000

   *メールkageken2017@yahoo.co.jpで お名前、ご住所、電話、冊数

        送付先をお知らせください。書籍に郵便振替用紙を同封しますので、

    1週間以内に送金してください。

3)アマゾン等通販、書店購入ですと定価通りです。



衝撃の書 スポーツ・体育・オリンピックへの根底からの批判

体育ぎらいにはワケがある!

スポーツやオリンピックが好きになれないのにはワケがある!

スポーツ社会学の専門家が「嫌いの正しさ」を温かく応援する!


内容

 本書は、2020東京オリンピックと過去の名古屋オリンピック招致活動について、批判的に論じている。市民の論理とスポーツ研究の視点から分かりやすく説いている。

 また、スポーツにまつわる欺瞞と根性論など古くて新しい問題について明快に批判しつつ、競争と協働の視点から生き残り的競争スポーツの批判を展開する。

 さらに、日本の体育授業は調教ではないか!と考え、新しく、批判的体育を市民と共に考えていこうという熱い思いを論じている。

 元愛知教育大学名誉教授である影山健(19302016年)の体育人としての思いが生き続けている「批判の書」である。こうした、批判を寛容に受け止めなければ、スポーツや体育、そしてオリンピックに明日はない。


 
「影山先生のドキュメントを後世のために残していこう!」

我ら教え子3人衆は、この掛け声の下「知の発掘」を始めた。

このワークのなかで発見したもの、それは「知への冒険心」であった。これこそ影山先生が多くの人々に、そして我々に注ぎ続けてくれた至宝なのだ。

我々は今「熱い」。二人は還暦、一人は古希も近い。しかし影山先生の放ったオーラはグスタフ・マーラー の“巨人”のごとく「心性」を鼓舞する。

我々に注がれた「影山マジック」は40年たっても解かれない。発掘作業はそのまま未来へのプロジェクト(投企)に連なったのだ。

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親子で読む!
東京オリンピック!
                ただし、アンチ


自由すぽーつ研究所(編)
ジャパンマシニスト社  1800円


書いた人・話した人
小学校教員   小児科医        元中学教師    小児科医    フリーライター
岡崎 勝  熊谷晋一郎  土井峻介  山田 真  山本芳幹  

 「東京オリンピックただし、アンチ」という本が、自由すぽーつ研究所 編集のもとに出版された。
ジャパマよりの出版のため、小中学生やその親が、読んで理解できるスタイルで構成されている。

 ところで、東京オリンピックに関してはほぼ1~2週間に一回ぐらい、かなり深刻な問題がマスコミなどで、取り上げられている。
 予算、ボランティア、施設の建設、五輪担当大臣の世界笑いもの発言、フクシマ問題、・・多数の問題が各方面から噴出している。
 また、われわれがこの本の中で指摘している、スポーツ、部活、差別、健康問題なども含めると3日に1回ぐらいは、それらの記事が新聞や雑誌などを賑わせている。

 またオリンピック問題を見ていると、ワールドワイドな事件が必ず関係していることを知ることができる。

 われわれは、小中学生やその親を対象に論を進めているが、実は、かなり深く難解な内容をこの本の中に盛り込んでいる。その中でも、スポーツそのものの問題をしつこく論じてきた。

 今、巷に拡散している東京オリンピック批判の多くは、スポーツそのものに対する批判を深めるまでにはいたらず、「オリンピックにむけてこんなことをしていれば、健全なスポーツができない」といった批判が流布している。

 しかし、この観点に立つとオリンピックの根本的な問題が見えてこない。というのもオリンピックそのものがその存在意義を、時代に合わせ変化させているからだ。今流の価値観にあわせてオリンピックのあり方が常に変化している。それはまるで、抗生物質に対し耐性を常に身につけ変容していくウイルスのようでもある。

 また大手新聞などのマスコミは、オリンピック批判関係の記事を載せるが、彼らはオリンピック協賛企業になっている事から、批判が及び腰である。なぜなら彼らもオリンピックで儲けるからだ。
 オリンピックは厄介だ。しかし、この祭典がわれわれの生活をダイレクトに脅かす、ということを知るべきである。オリンピックのお祭りに酔いしれた後、「思い知らされる」=「生活破壊」をこうむる前に。

 オリンピックに関する本は、このページで2つ紹介してある。それは、
「反オリンピック宣言」と「告発 名古屋オリンピック」である。前者は、名古屋オリンピック招致に直接反対運動として関わったわれわれのドキュメントでありその反対理論の集大成である。ぜひ読んでいただきたい。

  ↓なおこの本のパンフレットが岡崎研究員によって作成されているので、ご覧ください。



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