身体への知
新スポーツテストの問題点:あいもかわらぬ体育「科学」の愚策
今年から、新スポーツテストというものが学校で実施されるらしい。愛知県はこれが、全校で実施される。抽出校だけではないのだ。以前ボクはかなり力を入れて、このスポーツテストを批判した。そして、行政的な反対の運動もやった。愛知では、全員がやっておまけに「体力運動診断個票」なるものを高校の四年生(定時制も)まで持ち上がる事になっている。しかも高校入試ではそれが、一つの合格ポイントをあげる手段にもなっているのだ。小学校ではけっこうアバウトやっているが、中学校ではそれが入試のポイントに加算されるために大いに慎重にならざるを得ない。
ところが、これほどいいかげんな記録会もないのだ。100分の1どころか、10分の1の精度だって必要ないくらいである。小学校3年生を例に出すしてみると、50M走で0.5秒の違いは、2m70cmでしかない。これくらいの差はいくらでも出る。したがって、いいかげんであるということを前提でやればいいのだが、身体を知る為には極めて有意義であるという幻想がつくられている。
今回のテスト種目の変更がどうして行われたのかは定かでない。今までのは、一体なんだったのか?永田靖章によると「(廃止された種目は)測定機器、測定方法、測定者などによって測定の厳密さに欠け易く、得られた結果の信憑性に問題があったからである。」(『たのしい教室』大日本書籍平成10年4月10日号40頁))ということらしい。
これだけ厚顔無恥に、今までのスポーツテストを推進しておきながら、コロリと批判できるのは科学性を無視していられるからにほかならない。だいたい、踏み台昇降運動と持久走との評価が、同一人物でも著しく異なっている事が多かったのは周知のことである。
また、持久力が、様々な状況によってすべて異なるということは誰にでも分かる。数量化することの限界や、それを平均することで他との比較ができるという思考回路が、脳みそ筋肉的なものであるということにドウシテ気付かないのか?それは、スポーツや体育の学が、体制を保持し、批判的精神の欠如した、現状に甘んじる御用学問でしかないからだ。ここには個別な身体や障害の有無など眼中にはない。おおよそスポーツテストなどというもので人間の身体を抽象化できると考える方がバカである。
現場では、また、「全国平均より若干本校の平均が下回るので体力づくりをやりましょう!」などという声がおきるのだろうか、やれやれである。
(1999−04−12)