身体への知


スポーツとは政治だ

岡崎 勝

 僕は体育科出身で、体育教師でした。高校時代にずいぶん体育教師に殴られまして、殴りかえしてやろうということもあって教師になりました(笑い)。大学に入ってから、やっぱり暴力はよくないなと思いましたが……。冗談だろうと言われるんですが、本当に真剣に思っていましたよ。あれだけ無抵抗な僕たちを竹刀でなぐる体育教師というのは、あれは快感なんじゃないかと。もちろん、抵抗もしましたが、体育の先生だと許しちゃうということが学校の中の雰囲気としてありますね。ですから若干、体育教師へは近親憎悪的な恨みがありまして、スポーツの、体育の中の人間でありながら、スポーツをもういっぺんとらえ返したいと思っています。
 今日は、主に三つの話をしたい。いま、スポーツはどうなっているのか、スポーツ自体がグローバリゼーション化しているということ、それから、この五月に大阪市で開催される第三回東アジア競技大会の問題です。時間の関係上、手短に要点だけ話します。スポーツの政治的利用ということがよく言われますが、スポーツや競技そのものの中には政治や天皇制に連なっていくものがあるのではないかと思っているので、そんな話もしてみたいと思います。

 スポーツは、いま

 スポーツでいま一番目立っているのがサッカーの中田や、いわゆる大リーグなどの現象です。国内ではどうなっているかというと、企業スポーツは軒並み廃部で壊滅状況です。企業スポーツは二つの役割があって、一つは社員の結束感を高めること。東京なんかで都市対抗野球などありますと、バスで応援に行きます。昔は弁当とかいろいろ出たが、今はなにもつかないということです。愛知にはトヨタがあります。トヨタは都市対抗ではなく、ごく内輪の運動会、昔は野球とかサッカーもやっていましたが、自治会型運動会です。徒競走で上司には勝たないようにとか、いろいろ配慮しながらされていると聞きました。このように企業スポーツというのは都市対抗野球型の企業を代表するものもあるし、企業内のリクレーション的なものもありますが、社内結束をより高めようとする。これは、スポーツの属性であるスポーツマン・シップ的なチームワークをねらっているのですね。だから、労働組合でかなり激しい闘いをしていても、職場の運動会はにこにこしながらやってしまう。結構あの人はいい人じゃないかとか言って。職場で教員たちがたまにバレーボールをやると、僕はだいたい、意地悪な管理職目がけてサーブをうつ。そういうことをやるとみんなが、体育の先生なのにどうしてスポーツマンシップがないんだろう、なんていうわけです。日ごろいじめられているのだから、いいじゃないかと思うんですが。こういうことは体育の仲間ではごく一般的なんですけれども、社会的には認められていませんね。河合塾なども塾生スポーツ大会なんかをやっていますね。一種のリクレーションでガス抜きをしながら、企業意識をつけるということです。
 企業スポーツがなぜつぶれていくかというと、企業の宣伝効果と費用対効果が全然ないということです。不景気になっているので、いまさら広告塔として、お金をかけてやる必要がない。ほとんどの選手が遊んでいるということです。よく企業の選手たちはどういう仕事をやっているかと聞かれるんですが、会社のポストもあって仕事は一応やっているのです。でも午前中ちょっと出勤して、午後は練習に行く。ただ最近、プロ、アマの境界線がなくなってきているので、アマチュアの方も体協なんかはスポーツの宣伝のためにいろんな企業の宣伝に出てもよろしいと柔軟化してきました。上納金をとれるし、協会も潤うものですから。だからスポーツだけやっている選手もいる。ゼッケンにしても、TDKとか書いて走れば非常に効果的だといわれていました。だけど僕は自分で体育をやっていて思うのですが、別にあそこにユニチカと書いてあってもユニチカの商品を買うかなあ。名前が浸透するということは確かにある。昔、瀬古はSBカレー、SBカレーを食べると瀬古を思い出すと、そういう宣伝効果 あると思いますが、費用対効果があるかといえば微妙なものです。右肩上がりの時は よかったのですが、いまはね。ちょっと有名なところでですと、軽費が年間数十億円 かかる。日経新聞や日本経済工業新聞などを読んでいますと、企業スポーツに対して は厳しいですね。前の時代は終わった。熾烈な国際競争をくりひろげているのに、今 はスポーツ振興の旗を振り続けるような時代じゃあない。やるなら自分でやれ。どん どん縮小していこうという時代です。
 一方、大きく出てきているのが市民スポーツとか地域スポーツの振興なんですね。 今日はあまりふれられませんが、これは多分失敗すると僕は思っているんです。市民 スポーツといっても、企業スポーツなどのお抱えスポーツをやめる一つの方便として 出てきただけで、自己責任の論理でやらせようというわけですね。子どもも減ってき ていますので、学生スポーツの方も同じで、こちらはもっと著しい。昔は早慶戦だと かいろいろビックイベントなどありましたが、東大野球部の女子の選手がピッチャー で投げたのが話題になるくらいですから、ほんとうに何もない。学生スポーツをやっ ている学生も減っている。大学がすでにリクレーション施設化してますから、今時ヘ ホヘホ言いながら走るのははやらないわけですね。今は大人も子どももあまり努力す るということが好きじゃない。汗を出すのはダサいというのが普通なのですから、学 生スポーツはほんとうに低迷しています。部員獲得が大変で、獲得することはあって もそれは特待生で、学校としてはお金を出さなきゃいけない。費用対効果でいくと、 そういう有名な選手を呼んで特待生待遇をしても、金に見合った学校の宣伝にはなか なかならないということです。
 愛知県に中京大学というのがあります。もともとは体育大学なのですが、ここの学 長が「もう中京は体育の中京じゃない。勉強の中京だ」と言っている。大学の生き残 り戦略としても、体育を掲げていくと人が集まらないので、今は体育の特待生はぜん ぜん採らなくなった。
 要するに、国内ではスポーツに関する関心は、やる方の側もどんどん薄くなって いる。ある程度の選手は維持しないといけないが、底辺はどんどん狭くなっていくし、 もっと根本的なことは、こどもの体力とか、スポーツ・運動能力とかはほとんど低下 していますので、すごい選手を出そうと思ったら、学校なんかに任せていてはだめな んですね。エッセンシャルなところだけをクラブ施設でやって、キチンと育てていか ないとだめなようです。
 野茂とか中田とか日本の選手が海外に出ていっていますね。イチローも新庄も国 内でも相当なレベルだと思うんですけれども。いままで相当なレベルでも、たとえば 長島(嶋)は大リーグに行かなかったんです。なんで今、行くのかなと思っていろい ろ調べてみたら、これはスポーツのエージェントが言っているんですが、じつは、日 本の一軍選手のうち左投手の三分の二は大リーグで使える。右投手だと三分の一、野 手の五分の一はメジャーでやれる。日本の野球は昔からレベルが低いといわれている けれど、もちろん大リーグと比べると低いかもしれませんが、それほどメチャクチャ にひどくはなかったわけですね。たまたま野茂やイチロー、新庄など、〃やれる〃と いう人間がFA宣言をしてメジャーに入った。日本では他の球団に移籍するにしても ものすごい縛りがあっていけなかった。それが、フリーエージェント制ができて、数 年そのチームでやっていれば自由に自分を商品として売り買いできるようになった。 その結果にすぎないのであって、これからもどんどん海外に出て行くと思います。日 本で有名な選手がいなくなって、巨人戦の視聴率が下がったと新聞に出ていましたが、 これからもどんどん減っていくでしょう。
 視聴率が下がったのは野球だけじゃなくて、相撲も激減しています。Jリーグは だんだん減ってきています。競馬やゴルフも、じつはどうも減っているそうです。売 上が減ってきている。やる人も見る人も、賭ける人も減ってきている。もうスポーツ は、企業スポーツもプロスポーツも、どんどん下降しているということです。経済の 論理から言えば当たり前といえますね。

 グローバリゼーション化

 スポーツは生き残こりのためにどのように考えているかといえば、やはり、グロー バリゼーションなんです。海外にどんどん派遣したり、日本だけでなくて海外と提携 したマネージャーをつくるとか。エージェントもそうですね。電通や博報堂などが企 業スポーツやプロスポーツの放映権を争ってお金を出し合っています。世界ではスポー ツ放映権や宣伝を牛耳っている組織が二つあります。世界で二つなんですよね。今度 のサッカーワールドカップでは、ひとつは欧州を中心にして、もうひとつの方が欧州 以外のアジアやアメリカをシェアするというように、キチンと分けて、放映権料を出 す。ワールドカップやオリンピックはまだ放映権の値打ちはありますが、それもいま 低迷してきて、放映権料が下がってきています。それでも、まだ商品的な価値はある のでみんな一生懸命に争っているわけですが、東アジア大会は全然放映権はとれない のじゃないですか。それはそうだと思います。陸上競技のハードル選手の金沢イボン ヌも都合で東アジア大会に参加するのをやめたと新聞に出ていました。都合というよ り、出る価値はないということでしょうね。選手も選ぶわけです。インターナショナ ルな大会でお金が取れるものですから、当然行く価値のない、賞金の出ないところに は出ない。景気のよかった時には、冠大会、何々カップというがいっぱいありました。 競技が盛り上がるには相手がいなければならない。選手はお互いに競争しあいますか ら、お互いにマネージャーが連絡をとったりします。連絡を内密にとりながら、一緒 に行こう、一緒にやめようなどといって盛り上げていたんですね。今はそれは少なく なっていて、ある程度金が出るなら行こうということになって、エージェントたちは 動いている。だから、スポーツビジネスの世界では、エージェントたちが選手たちの 命を握っているわけです。それをインターナショナルでやっています。中田も移籍す るんじゃないかといわれていますが、中田が移籍することでお金が動き誰かが潤うと いうことであって、中田が欲しいということではない。人が動くことによってお金が 動くところを狙っているだけであって、そのあたりになると国の中だけではダメなん ですね。いわばスポーツの自由化みたいな感じで動いている。
 スポーツも自由化していることをトータルにとらえないといけませんね。スポー ツはこういうことがやりやすいんです。なぜなら、いわゆる競争の原理というのがス ポーツにはきちんとはいっています。堺屋太一など右派の経済学者たちが〃闘争をや らないといけない〃などと煽らなくても、競争の原理がスポーツの中に入っているの です。いま僕が興味を持っているのは日本人として、スペインなどと試合をするとな んで日本を応援するのか、ということ。これは当たり前だといえば当たり前なのです が、でも所属意識はそこまでいくのだろうか。インターナショナルな発想をもたなく てはいけないと思っいても、日本が出ているとつい日本を応援してしまうナショナリ ズムがありますね。これは、日本独特のものというより、スポーツ独特のものだろう と思います。国体の時に愛知出身と兵庫出身が闘ったらどうかというと、その時はあ まりピンとこない。だって愛知出身の兵庫の人がいますからね。それがサッカーなど では、どんどん帰化させて選手層を厚くしていくということがとられました。そうなっ てくると複雑なものが出てくる。スポーツにおけるナショナリズムは一枚岩じゃない んですね。ラモス・留偉が帰化して日本人になると、ラモスを応援する。たとえばフ ランスの選手でも、なんで黒人がいるんだろうと調べてみれば、帰化していて、国籍 をもっていたりします。つまり民族と国籍の問題というのは非常にリンクした形で、 スポーツなどに出てくる。そう簡単にはわり切れない問題ですね。

 競争ギライは多数派になれない

 とりあえず、スポーツの中では優勝劣敗というのがありますから、負けたチーム は勝ったチームより弱くて、劣るわけです。これは完全に刷り込みです。現代社会の なかの競争原理と同じです。オフサイドというのは、自分の陣地(サイド)から離れ る(オフ)という意味です。昔は、オフ ヒズ サイドと言ったんです。彼の味方か ら離れる選手、つまり軍隊でいう逃亡者、闘わずして逃げていくやつをオフサイドと いう。そういう意味で罰則を与えるということがサッカーの中にも入ってきているの です。ラグビーで、オンサイドというのは終りという意味で、これは敵味方なく仲良 く手をつなごうね、侵略した相手とは仲良くやりましょうという、イギリス型スポー ツの特徴ですね。いったん侵略してしまったらそこではもう仲良くするという思想が きちんと流れています。このように、スポーツにはルールの中に競争原理をきちんと 制度化していく方法がとられている。だから、スポーツを政治的に利用するなという ことはあるのですが、まさにスポーツ自身が非常に政治的な内容になっていると思い ます。
 最近、徒競走をやめて、みんな仲良くゴールしようということでやった先生がい た。世の中そんなに甘くはないぞって、僕も実際、学校でやったときに親からすごく 苦情がありました。やはり親たちとしては非常に苛烈な競争をさせた勝者に対しての あこがれがあって、自分の子どもがその可能性がある時に競争自体をやめてしまった ことに対する怒りなんですね。でもいつも負けている子どもたちは、「先生、こっち が面白れえや」っていうんですね。この社会は競争からドロップアウトしたことを喜 ぶことは、評価されない社会です。果敢に闘っていく人間は評価される。闘って負け ても、多少武士道的精神で喜ばれるんだけれども、闘いそのものを拒否するというこ とは、反戦運動をやっている人たちでも、なんで闘わねえんだよというようなところ があって、敵前逃亡的なイメージでとらえられる。だから、なかなか言いにくい。ドッ チボールはいやだと思っている子は、「ドッチボールやろうか」と先生が言ったとき、 「わーっと喜ばなければいけないのかな」、「ドッチボールの堅いボールがもものと ころに当たるとたまらないな」とか、冬のドッチボールは地獄でしょうから、「でき るだけ優しく当てて」と思いますよね。そういう子どもにとっては、〃ドッチボール はやめるよ〃と言ったときに、「ヤッター、今日はドッチボールしない」とはいえな いですよ。テストをやめる時にはみんな〃わーっ〃と喜んで、それはだいたい多数派 なんですが、〃ドッチボールをよろこばない〃というのはなかなか多数派にはなれな い。競争の原理とスポーツへのかかわり方によって人間性が評価されていきます。闘 いから逃げる人間に対する非常に冷たい視線が、スポーツや体育の中にきちんと育て 上げられていると思います。
 もう一つ、スポーツが政治的なのは、平等主義ですね。ルールの下での平等です ね。堺屋太一さんがいつも言っている。スポーツを見なさい、今の社会に必要なのは ルールの下での競争ですと。ルールというのは非常に政治的なものとしてつくられて いますから、けっして平等とはいえません。昔の哲学者たちは、ルールは平等で神聖 なもの、その下でやるから差別はないと言った。ハングリースポーツがそうですね。 たとえ黒人出身であろうと白人だろうと勝てば金がもらえるところから平等だという。 ところがそれは、強者にとっての平等で、弱者にとっては明らかにルール自体が差別 化されています。ドッチボールではボールの投げられない子にとっては、あの広いコー トは平等でもなんでもない。たとえばサービスするとき、投げられない子にもう一つ 線を前に出してやるよというと、投げられる子はそれは不平等だというんですね。外 野に届かないから、その子が投げるとみんな相手のボールになってしまって、それで はつまんないと僕なんかは思うのですが、ところが、それは非常に難しい。そうやっ て、言葉はよくないが、ハンディキャップをつけるとそのハンディキャップ自体が平 等化を損なっているというふうにとらえるんですね。パラリンピックも(何と)一緒 にやろうとしていますが、まさにパラリンピックというのは、障害を何種類にも分け て闘わせるという非常に差別化された中での闘いです。決して平等ではない。結果の 平等にも機会の平等にもなっていない。ただ、平等というイデオロギーだけはしっか りと養われるわけです。その人が努力することは非常にいいことだから、成果を認め てあげましょうという、これは強者にとって非常に都合のいいものです。
 どの国のスポーツ選手だって、「勝たなきゃ意味がない」と、絶対に言うんです ね。「勝たなくてもいいんですよ。僕は楽しめればいいんです」って、強い人はそう 言ってもいいんですよ。弱い人はなかなか言えないですね。何かすねてるぞって言わ れますからね。ですから、勝者は何を言っても評価される。「わたしをほめてやりた い」なんてね。勝ったから言えているのであって、もし、最下位で入ってきて「残念 でしたね」と言われて、「これだけがんばった私をほめてやりたい」なんて言っても、 「ああ、そうなの」ってね。だから基本的にうけるものは勝者の論理なんです。すべ て勝者の論理で、敗者が何を言ってもだめなんです。へたすると敗者は敗者であり続 けることによって評価される。あいつは粘り強いということで、みんなが拍手する。 来賓席が泣いたりして。「最後まであの子はあんなに一生懸命頑張った」ってね。ほ んとうは頑張りたくない、やりたくない。拍手をもらうために最後に入ってきたいか! と思いますよ。敗者復活戦なども形式的にはあるけれども、ほとんどは敗者は最後ま で敗者である。敗者が認められようとするときは敗者であることを強調するしかない、 差別を徹底していかないとスポーツでは浮かばれないのです。

 野球の政治性

 野球の話をします。スポルディングというアメリカのメーカーがあります。スポ ルディングというのは人の名前ですが、野球用品を中心としたメーカーです。じつは 野球の歴史はある意味ではスポーツがもともともっていたグローバリゼーションとい う資質をよく示しています。
 スポーツのルールが社会や世界で統一化されるのは十九世紀の末になってからで すが、たとえばイギリスでフットボールが盛んになって、マンチェスターだとか、ロ ンドンだとか各地域にクラブチームがあって競技をしていた。それらのチームがプロ になっていくのです、あちこちでルールができていた。ところがいろんなルールがあ るわけです。手を使ってはいけないところはだいたい似ているのですが、コートの広 さやタイムの時間、人数などはまちまちだった。それが統一化されてきます。その理 由は教科書では、その地域の人たちが、俺たちは世界一強いんじゃないかなーと思っ て、隣の市や町へ行って、ルールを統一化しながらやっていこうとしたと、書いてあ る。
 でも僕はこれは絶対ウソだと思う。自分の町で強ければわざわざ隣の町へ行って おれは強いと確かめるだろうか。民主的なスポーツやってる人たちでも、「自分の力 を試してみたい、人間ならそういう気持ちがある。マラソンでも自分一人で走ってい るよりみんなで走った方がいい」といいますが、僕は人間とは逆にもっと閉鎖的なも のだと思っています。自分の市、町で一番だったらそれを守った方がよっぽど良いで すね。外へ行って負けてきたらみっともないでしょう。僕は前提として、人間は強かっ たら力を試したいと思う、とは思わない。そういう仮説が自分の中にあるものですか ら、スポーツがどう普及したかについて調べてみたのです。そうしたら、イギリスに 鉄道が普及する時期とスポーツが普及する時期が一致するんですね。交通手段があっ てあちこちへ気軽に行けるようになったから、遠征という概念が出てくる。アメリカ のインディアンの人々が部族同士でスポーツ大会をやったかというとやっていないで すね。どちらかというとまったく違う文化をお互いに大事にしようとして、保守的に 守っている。僕は、人間には世界の人たちと競争したいとか、世界の人たちと仲良く なりたいという意識が最初からないと思っています。鉄道がどんどん普及して、行き 来が楽になって、観光目的で行き来している間に同じゲームをやっていくチャンスが 恵まれるだけのことなんです。
 ところが、スポルディングは、イギリス型のサッカーのやり方をしないで、野球 を世界に普及させようと野球のチームを連れて船で世界一周をするわけです。オース トラリアに行ったり、ヨーロッパに行ったり、日本にもきます。とんでもないところ でもやったりしました。彼はそこでスポーツ用品を売ろうと思って世界をまわった。 結果的には失敗したわけですが。それは一九〇〇年の始めのころです。戦後民主主義 の中で育った人は野球こそ民主主義だと思っているようですが、これも確実なイデオ ロギーです。たまたま、占領政策でアメリカがきたから野球だったわけで、もし、イ ギリスに占領されていたらサッカーをやったかもしれない。そして、平等と競争の原 理とグローバリゼーション、この三つはスポーツの中に含まれていましたから、私た ちをある程度、洗脳していくわけですね。チームワークのためには一人が犠牲になっ てもしかたがないと。
 アメリカが明治の始めに野球外交をして、日本で野球を始めてやった。その時に、 バントを教えたんです。そうしたら早稲田の学生が、バントは不道徳だといった。武 士道精神からいうとバントやスチールなどというのはまことに由々しき問題だという わけです。正々堂々と打たなきゃいけない、球に向かってぶつかっていかなきゃいけ ない。デッドボールも多かった。デットボールは誇りだったわけです。ところが、今 は日米野球でアメリカの選手が、日本はバントばかりやってせこいとか、スクイズな んかめっちゃせこいなんて言いますよね。要するに文化の価値尺度が逆転してしまっ た。そういう文化の違いは、やっぱりスポーツのグローバリゼーションの中でどんど ん統一化されていきます。
 最初にアメリカで野球をやったころには、サンデーベースボールは中止というの がありました。つまり、野球をやるのは中産階級だけですから労働者階級はやっては いけないんです。日曜日は、キリスト教徒は闘いをやってはいけない。とすると、日 曜日しか休めない労働者はやれないですね。徹底的な取り締まりをやって、野球場に 酒を持ち込んではいけないとか、そういう道徳的なことを一生懸命やった。いまもドー ム球場の中は空き缶、空き瓶などを持って入っていけないことになっています。名古 屋ドームでも、一応ゴミの問題だと言っていますけれど、乱闘防止なんですね。星野 がカッとしたときに、空きビンを投げられると、めちゃくちゃになるから。このよう にサンデーベースボールを禁止することによって、労働者階級にスポーツをさせない ようにした。労働者階級にスポーツをやらせるとめちゃくちゃになるんですよ。当然、 憂さ晴らしもあるし、殴り合いも出てきます。イギリスのサッカーを見ていますと観 客の方がけんかをやってますね。中産階級の暇で金をもってるヤツが野球をやったり、 野球を見たりするんだよというイデオロギーがまず確固としてありました。日本に入っ てきたときもまず、学校にいくわけです。だから日本の体育教育というのはみんな学 校がもとになる。外国ではあまりそういうことはないのです。
 しかし、世の中どんどん近代化していきますから、労働者だって強くなります。 ちなみにスポルディングは労働組合つぶしを一生懸命やった。それで野球をやったの です。野球をやれば労働者階級がつぶせる、つまり、野球というのは青少年育成にも のすごくいいんですね。自分を捨ててチームのためにがんばる。チームスポーツとい うのはみんなそうなんですよ。チームの中で反チーム的なことをやった人間は排除さ れる。会社だと労働組合があるとなかなかそうはいかない。野球でライトが球を全然 とらないときに、会社なら労働組合が怒ってくるんでなかなか首にできないけれど、 野球では堂々とできるわけですよ。ルールのもとにやってるのになぜお前だけやらな いんだと。「一生懸命打とうとしているから、僕がとっちゃうのは悪いよね」なんて ことは言えない。コールドゲームのルールなんかも作りました。コールドゲームがな ければ悲惨ですよね、百何対いくつまでやらなきゃならない。つまり、スポーツとい うのは人の機微だとか人間関係をそのまま持ち込まないことにしていますから、チー ムゲームを利用してスポルディングは労働組合を懐柔していくわけです。サンディカ ウォーという言い方していましたが、野球はそういう意味でイデオロギーを非常にう まく使ったスポーツです。たとえばサイン一つで動くというのは企業として便利です よね。野球でサインを見損なった人間は懲罰で罰金まで出させる。だから時々怒って、 サインを無視すると、ものすごく叱られる。結果が良くてもダメなのです。スポーツ のイデオロギーというのは非常に親しみやすい形で僕らの中に入ってきて、しかも社 会生活を営むうえで非常に便利だということを、支配者や指導統制しようとする人々 は知っていて、うまく使う。ところが、東アジア大会なんかもそうですが、いまの時 代、それでうまくいくだろうかという問題が出てきています。

 東アジア大会とは

 東アジア大会はなぜ東アジア大会なのか。いろいろ資料をもらって調べました。 最初は、一九九一年のJOC(IOC?)の大会で、日本が発案したんですね。公式 な議事録があるはずなので、JOCに掛け合ってみたがそんなものはない。理由がはっ きりしないところがおもしろそうなので、大阪が終わってしまっても調べてみようか なと思っています。
 ひとつはやっぱり、反欧米の思想だと思います。つまり、アメリカやヨーロッパ に対するアジア、ある意味ではグローバルナショナリズムみたいのがあって、そこと 対抗していこうという意識(日本にはそうあるとは思いませんが)、そして確固たる 西洋に追いつけということがあるかも知れませんし、経済侵略が相当はげしくなって いますから、日本もアジアと仲良くやって自分の市場を増やそうという意識が絶対あっ たとも思うし、いわゆる国際関係の政策で必要だと思ったのではないかと思うんです。 スポーツと医療関係はパッとすぐ国境をまたげます。非難されることはまずありませ ん。最近は台湾の問題もありましたが、スポーツで国交が成立してないところへ行こ うというと、たいてい世論はスポーツをやりたい方を支持しますよね。国交も正常化 されていないところからくる方がおかしいなんていう人は少なくて、せっかく純真な 気持ちを持って、心がきれいな人たちがくるんだから良いんじゃないということにな りますよね。スポーツマンや体育関係の人たちは「よっしゃ、よっしゃ」の感覚があっ て、裏では結構きたないことやっていても、国際関係を利用するのがうまいというこ とです。
 東アジア大会を大阪でやるメリットというのはあんまりないので、かえってやら ない方がいいんじゃないかと思います。はっきり言って東アジア大会は競技的にはた いした記録は出ないでしょうし、イベント的にも面白くない。かといって大阪の人た ちが一致団結して東アジア大会を盛り上げるためにがんばるかといったら、もうそん な時代じゃない。ホームぺージにジはカッコいいことが書いてありますが。財政的な 問題でバックアップもなさそうだし大変なんだろうなと思います。へたをすると、こ れで財政が非常に逼迫してきて大阪も危機になるでしょう。愛知も万博をやろうとし て堺屋太一が入りこんできて、「何が自然の英知だ! 共生だ! そんなのほっとい て、イベント! イベント!」って言ってますよね。エコロジーをやっていた人たち が、海上(かいしょ)の森の自然を守ろうとして半年ぐらいかけて一生懸命つくった 提案を、堺屋太一が一発でそれをつぶそうとしている。わざわざコストがかかること やらないで、もっと安いところで人を集めてイベントをやろうっていうわけです。わ ざわざあんな遠い海上の森のような所でやる時代じゃないと思うので、僕はそっちの 方に乗っちゃう感じがあるんですが。大阪の場合は多少インフラもあるからやるので しょうか。体協やJOCなどの体育関係、スポーツ関係の人は結構のるのでしょうね。 ところが、愛知県の体協に東アジア大会について聞きにいったら、大阪にいなくてよ かったと言いますね。徒弟制がありますから、もうこき使われて、下っ端は大変なん だそうです。国体がそうですね。かつて過労死の人もでました。でも体育関係の人は そういうのを我慢してやります。官公庁の中でもやれてしまうでしょうが、今回やっ ぱり、そういうメリットのないところでやるから経済的な問題をふくめてたいへんだ ろうだろうなあと思います。オリンピックはもっと悲惨になるかもしれないですね。
 最後に、オリンピックについてです。ロサンジェルス大会では金を儲けて黒字に なりました。シドニー大会では、とんとんだといわれたけれど、オーストラリアの人 に聞くと、やっぱり赤字だったというんです。外貨を含めてとんとんですから、本国 自体にはあまり残らなかったみたいです。オーストラリアはリストラが激しい国です から、労働者の不満は高まって、いま社会状況はあんまりよくないようです。これか らはオリンピックで黒字というのは期待できません。
 オリンピックには節目節目があります。一九八四年のロサンジェルス大会は商業 主義オリンピックの節目です。オリンピックは、大阪でなくても、あと五年か一〇年 たつと一つの節目を迎えると思います。オリンピック自体は利権集団ですからなくな るということは考えられないですが、ただ様子は随分変わるだろうと思います。メチャ クチャ赤字を残しておいて、おいしいところだけは誰かかが持っていくとか、そうい うシステムができちゃうと思います。そうすると、引き受ける国がなくなるので、そ の後どうなるかわかりません。確実に大阪でオリンピックをやると財政が破壊するの はまちがいありません。

(おかざき まさる)

《これは二〇〇一年四月二九日、「みどりの日」反対!天皇制を問う大阪集会(集 会実行委員会/ナショナリズムをあおり、オリンピック招致の東アジア競技大会反対 実行委員会共催)での講演録に加筆・修正されたものです》


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