身体への知


「競走嫌い」の権利

1 競走ぎらいの子どもたちのもっともな理由

 最近、運動会で徒競走やかけっこをプログラムからなくす学校が増えてきているという。自分の勤務している学校でも、ここ数年、徒競走はクラス対抗リレーやゲーム的なリレーに変わってきた。しかし、一人一人が「よーいどん」で走る競走は相変わらず多くの学校で行われている。
 まず、こうした競走を考える前に、実際に子どもたちが徒競走をどう感じているかみてみたい。25年以上の教員経験からしか言うことはできないが、徒競走やかけっこが好きな子は、走るのが速く、1〜3位という上位に入賞できる子なのである。しかし、「嫌いな子」は圧倒的に走るのが遅い子である。
 嫌いになる理由は色々ある。聞いてみると、次のようなことを言う。
 まず、第一に、みんなの前でみっともない。漢字のテストなら張り出されることもないし、みんなの前で、点数を言われることもない。なのに徒競走は、運動会という晴れの舞台でほんとうにみっともない。みんなが自分のことを「あーあ、おそいなあ」と思われていることが分かるから嫌だ。
 第二に、頑張っても、走るのが速くなることはない。先生はガンバルと速くなるとか、腕の振りはこうだとか、色々言うけど、無理。速くなるはずない。ちょっとくらい速くなっても別に何も変わらない。
 第三に、速い子の引き立て役になっているだけ。それに、リレーでも、自分のせいで順位が下がったりすると、みんなの「なにやってるんだ」という視線を感じる。実際に、そういわれたこともある。
 こういう子どもたちの声に、きちんと反論したり、説得できる教員や親はいるのだろうか?もっともらしいコトは言えるのだが。

2 競走を支持する論理

 ボクの勤務している学校で運動会の徒競走を一時中止したとき、親たちには、こんな反応が多かった。「運動会らしくない」「走るのが速い子が活躍できる場がない」「遅いからといって、困難から逃げていたら成長しない」そして、教員からも「運動会をやった気がしない」「思いっきり運動した充足感がない」「負けることを恐れていて強くなれるのだろうか」等々。
 「運動会らしくない」というのは、大人のノスタルジーであり、それが、特別に意味をもっているとは限らない。また、そういう大人たちは、自分が運動会で活躍したことがあるからで、ボクの知っているお年寄りは、「わしは、遅かったから肩身がせまかったので、今の子は徒競走がなくてうらやましい」ということを言っていた。
 しかし、ここで問題になるのは、「徒競走で負けがでるからと言って、徒競走をやめるのはおかしい」とか、負けたら「なにくそと思うくらいのたくましさ」が必要だ!という声の多さと、説得力の強さだ。
 さらに、「何でも平等平等というから、横並びになって、子どもたちが自立しない」という昔からの「教育のりくつ」である。さらに、「みんなが頑張ることによって、お互いの努力を認め合うような、良い集団なら、負けても悔いはないはずだ」などという教育者の論理だ。
 しかし、それでもボクは、これらの「競走支持の論理」は、ずいぶん怪しいと思っている。

3 語られない競走の特徴と問題点

 運動会で実際に行われるに競走は、四つの特徴がある。
 まず第一に、敗者であることをみんなの前で自覚させることである。これは劣等感や自己否定感しか生み出さない。たとえば、こうした時に教員や大人は「それを、なにくそといって頑張る力が必要だ」と言いたがる。しかし、コトはそれほど簡単ではない。だいたい「なにくそ」と頑張って、うまくできるモノなら苦労はしない。「やればできることもあるし、やってもできないこともある」という真理が十分わかっていない人は敗者に自尊心があることを忘れて平気で、「努力が足りない」と決めつけやすい。
 第二に頑張る過程が大事だということの空虚さを知る。「がんばったんだからビリでもいいじゃないの」と言われる。しかし、これは「言ってみるだけ」にすぎない。以前、「君はおそかったけど、最後まで一生懸命がんばったね」というと、「でも、賞はもらえない」「一番の子は、頑張らなくても一番だから……」「一生懸命やってビリなら、最初から一生懸命やらない方がよかった」と言われた。つまり、頑張るプロセスが大事だといいながら、その言葉にリアリティがないことを、子どもたちは知っている。いわゆる、「なぐさめ」や「犬の遠吠え」でしかないことをみんな知っているのだ。
 第三に競走などのように、体育やスポーツなどでは、勝者と敗者がかならず分断される。
 このことは学校や一般社会で見られる、競走のような競争は「生き残りのゲーム」であり、人生はこういうモノなのだという社会のメタファーとして確立している。学校では、「社会は生き残りのゲームなんだ」ということを、まさに教育しているといってよい。
 さて最後に、運動会の競走は「やるかやらないか」「参加するかしないか」という選択が与えられていない。強制的な動員がかかっている。学校教育全般にこの「強制力」は働いているので、特にここで競走だけを取り上げることは適切ではないかもしれないが、この強制力は今後の検討を進める上でも押さえておきたい。

4 競争にこだわらないトロプスの発想

 私は二十数年まえから、スポーツの持つ競争原理に対抗して、敗者の無いゲームを提案してきた。スポーツの英語綴りを逆さにしてトロプスと名付けた。実際に例を挙げよう。
 従来のいす取りゲームは、いすを少なくしていくと同時に、参加者も排除していった生き残りゲームである。それをトロプス型にすると、いすは減るがメンバーを減じないで、何とか工夫しながら、少ないいすにみんなで協力してすわることを課題とするゲームになる。
 競争の原理でなく、協働の原理である。こうしたゲーム群を子どもにやってみながら、子どもたちが意外とおもしろがるものだなあと感じた。競争の原理に飼い慣らされたといっていいような学校教育全般の中で、ともだちといかにして協力しあいながら達成感を味わうかというのは、競争で敗者排除や、優勝劣敗で頑張るより、遙かに楽しいし、難しいものなのだ。手をつないでコールするのも、競争にこだわっている「証」である。
 競走にこだわるのは、私たちの文化が「競走原理」で作られているからで、産業社会の中心価値は、合理性や効率性などを基盤とする競争原理であった。近代社会の自由は独占する自由であったように、協働的な工夫をする自由ではなかった。ここでは、くわしく述べられないが、スポーツの成立そのものが資本主義社会の価値観とリンクしているから、それは当然なのだ。

5 競走だけが運動ではない

 トロプスは、いままでの競争原理で埋め尽くされた子どもたちの運動・スポーツ世界に選択の余地を求めた。「競走が嫌いでもいいんだよ、もっと他に楽しい運動はあるんだよ」とメニューを増やした。競走が好きな子がいてももちろんかまわない。しかし、「競走をしない権利」も十分認めるべきであるというのが私の主張だ。
 トロプスは、競争より協働、速さよりゆとり、人工より自然、既成より手作り、類別グループより「ごった」、計画より偶然を重視する。
 「競走をやめて、手をつないでゴールするんですか?」「なかよしごっこですか?」という声も聞こえる。私が提案しているのは「競走を禁止するファアシズム」でもなければ、「手をつなげばなかよしになれる」という、安易さでもない。子どもたちが、本当におもしろいなあといいながら、あるいは、楽しみながら苦労すること、それをリクツではなく、実際に体験して欲しいと思うのだ。
 競走は、たくさんあるメニューのうちの、ほんの一つである。おいしいモノを食べたことのない子どもは、味覚が麻痺する。メニューづくりをしない教師や大人に競争ぎらいの気分はわからない。

(2001−8−5『子どもの文化』10月号掲載予定)


身体への知にもどる     ホームページへ戻る