身体への知08

2002年コリアジャパン・ワールドカップの背後霊

競争ゲームのグーローバリズム

自由すぽーつ研究所
岡 崎  勝  

 

はじめに

 終ってしまえば「なんでもなかった」とでも言えそうなコリアジャパン・ワールドカップであった。これを書いている八月には、ほとんど話題は「賞味期限」をすぎているかのように、マスコミも取り上げなくなっている。「国家的行事」ではなかったのか?韓日友好の永続性はどこへ行ったのか?フリーガンは本当にどうしちゃったのか?
 関連グッズはそれなりに売れたろうに、経済効果も「あった」「なかった」と言う論議すらされていない。
 日本のあまりにもはやい、「日常」への回帰と惰性は、おそるべし!である。ビッグスポーツイベントとしてのワールドカップとは、いったいなんだったのかを、考えてみる。

1) FIFA内紛とスポーツの商品化

 FIFAの理事会のメンバー一一人から、刑事告発されたブラッターが、開会式前の五月二九日の会長選挙で、一三九票を得て再選された(ハヤトウには五六票)。報道で明らかなように、スポーツ発展途上国へ八十億も「ゴールプロジェクト」としてばらまいたお金のせいで、二百を超す加盟国のうちの多くを占める「スポーツ後進国」は、ブラッターへ一票を投じたのであろう。彼はIOCの委員でもあるが、ワールドカップでもオリンピックと同じ利権構造なのだから、要するに、お金で動き、動かしたということ以外になにもない。
 もちろん、対抗馬であったハヤトウが、正義であったかどうか?は、分からない。FIFAもAOCも内部では、利権の奪い合いであることを、様々な報道や書物が明らかにしているが、それでも、「証拠」がないのだろう。一九九九年から今年までのFIFAの収入は二七億スイスフラン(二一五〇億円)であり、なんと、前回の大会の八倍もあるという。放映権料とスポンサー料がほとんどである。FIFA内紛もマネー「ゲーム」である。審判に見つからなければ「セーフ」なのだ。
 チケットの遅配と空席問題も、ひとえにFIFAとチケット販売を専有しているバイロム社の「関係」が原因である。社員が四四人しかいないバイロム社にどうしてFIFAがチケット処理を専有させたのか?まさに「切れない関係」があるからだろう。結局は、FIFAや欧州の企業、放送局、基幹企業の金儲けに寄与するために、サッカースタジアムを、日本の税金で造っているという皮肉な「事実」しか浮かび上がってこない。
 高度な資本主義社会は、本質的に、文化や情報をグローバル化しながら、利益が特定の企業や組織へ集中するようなシステムを持っている。ここでスポーツの巨大イベントは、国家の枠を超えて、スポーツを世界共通の商品として認識されることを企んでいく。バイロム社も最初は、サッカーの観戦ツアー会社から出発し、失敗している。観光観戦という企画では、人を運ぶという点において、予測が甘く、ホテルの予約や航空チケットの手配が難しかったために失敗したのだと言われている。しかし、今回はうまくいった。たった、四四人の小さな会社でやれることは、ワールドカップの「観客」を運ぶことでなく、それより小さな「チケット」を取り回すということだったのだ。
 「空席」それ自体を批判することに私は興味がないが、チケット販売能力のない小さな会社でも、大きな利潤を生むことのできるシステムは、高度資本主義社会で勝ち組となることのできる、もっとも明確な事例なのだ。スポーツは、この高度資本主義社会のなかで、至福をもたらす、重要な「金づる」なのである。
 みんな、一瞬のゲームの興奮と臨場感を得るためには、お金を出す。なけなしの貯金で、交通費も節約してスタジアムに出かけたファンの物語は、美談として、利潤独占を覆い隠す虚飾のために有効利用されている。しかし、そんな観客は本来の「金ずる」ではないし、FIFAは必要としていない。お金を持っている人に、スタジアムに来てもらえることが重要課題なのだ。そして、スタジアムに自分の姿を写すビッグスクリーンは、「私も出たのよ」という、他者との差異をつくるためには不可欠なものとなった。その差異の強調は、利潤の独占を二重にも三重にも覆い隠す。さらに、参加型のイベントになる。あのスクリーンに写し出される「美女」は、また、将来を約束される可能性もあるのだ。宝くじよりヒット率が高いかもしれない。

2) 「スポーツを愛する者」の世俗的欲望とエセヒューマニズム

 今回のワールドカップでも、オリンピックでも、はたまた国体でもそうだが、スポーツを批判するときの立場は、そのほとんどが「素晴らしいはずのスポーツがゆがめられた」という言説である。
 新聞の社説でも、やたらスポーツの素晴らしさと選手のひたむきさが讚えられていた。「よくやったありがとう」(朝日)「よくやった、みんなで拍手を」(毎日)「日本チームが元気をくれた」(読売)などで、日本チームの健闘を讚えている。「日韓のきずなは深まる」という論調がほとんどである。
 つまり、ここにあるのは「人間賛歌」である。すばらしい選手たちが、まったくなんの問題もなく頑張っているように「信じたい」という気持ちがひしひしと伝わってくる。ある放送記者が「開催中は批判ができないのですよ。でも、終ったら書くことができます」と本音を言うとき、困ったものだなあと想った。まるで、第二次世界戦争の時と同じではないか?負けたときには「軍国主義者が悪者」と書けるが、戦中は書けない……それと全く同じだ。
 ワールドカップの最中に、冷水を浴びせるような批判ができてこそマスコミではないか?しかし、それはないものねだりの感もある。このようなご都合主義的保身の習性は、スポーツをする当事者とその支持者にほとんど共通するものでもある。どんなあくどいことが裏で行われていても、「選手は悪くない」と言ったり、それでも、分が悪くなると、「スポーツはそういうものサ!」と居直りはじめる。
 今回の選手たちへ提起された「にんじん」は、スポーツマンは金のために頑張るということをはっきりさせた。そして、それがプロであり、人格的に優れているとか、スポーツマンシップに溢れているなどという先入観は、根本的に間違っていることを証明した。スポーツをやる人間を美化してはいけない。
 優勝したら、日本選手には一人当たり三〇〇〇万円が支払われるはずだった。惜しくも?一次リーグ突破だけだったので一人七五〇万円「しか」支払われないが。イギリスは、優勝なら三六〇〇万円のはずだった。韓国ではベスト一六ならボーナスだけでなく、兵役免除ということになるらしい。
 スポーツマンの心意気に反するから、お金は拒絶するとか寄付するなどという話は、まったく聞いたことがないのは、寡聞のせいか。カメルーン選手の日本到着が遅れたのは、今回の出場の際に支払われるボーナスの問題が起きたからだが、それについてほとんどマスコミのコメントはない。地元の批判もない。カメルーンと地元高校生の練習試合を「夢実現」などと報道されていたが、お金欲しさの交渉で日本に到着が遅れたカメルーンと試合をした「夢」に価値はあったのだろうか?カメルーンを辛抱強く待っていた小さな村のけなげさに、憤りを通り越して哀れささえ感じる。
 誤審問題も、ゴマカシが多くある。誤審そのものを批判しているのではない。誤審ではなく、審判という存在がスポーツをダメにしているということを問題にすべきなのだ。そもそも審判などがなぜ必要なのか?遊びの中には、審判などいない。スポーツも初めの頃は、審判というよりは、調整役であった。ところが、今や審判は独裁者である。中立を装いながら、必ずどちらかに有利な判定をする。それが正しいのか、間違っているのかということでの論議はやかましいが、審判がいなくてはサッカーができないという「常識」を本質的な問題と、とらえ返さねばならない。
 韓国戦では、ホームの応援サポーターを「12人目の選手」と言わせ、相手チームや審判に対し圧倒的な力を持ち得た。あれをフェアーなサポーターといえるのかどうかは、論を待たない。すくなくとも、ホスト国であることを、ホーム・ディシジョンであることより優先しなくては開催国が泣く。誤審について、審判のレベルが低いとか、人間に間違いはあるとか、偶然が重なった、不運だった……というような論評が圧倒的だったけれど。
 複雑なプレーはビデオでの検証をしたらどうか?という意見をFIFAは、即却下したが、それでは八百長ができなくなるというミエミエの見解発表だった。しかし、たとえビデオで撮ろうともゲームはさらに複雑になり、プレイも巧妙になる。ビデオの死角をねらった反則がまた増えるだけだ。それよりも、平然とユニフォームを引っ張る行為を見すごしておいて、正確なジャッジもないものだ。
 選手たちが「スポーツマンとして一流」だと言うならば、審判などなくてもやれるはずではないか?今や、プロスポーツだけでなく、少年スポーツでも「審判に分からなければ何でもやれる。それが、スポーツだ」ということが、一般化してきている。あまりに、フェアーなプレイは「興が冷める」からやめろと言われるようになっている。
 競争における審判は、競争をシンプルなものにすることよりも、感情をいら立たせ、不正も技術の中に含め、勝者と敗者を天国と地獄ほどの差に貶める役割をになわされている。そして、時に、状況を読むアンテナが低いと、熱狂的なファンに射殺されたりするのだ。審判が警護されていることも明確にしておかなくてはならない。

3) 日韓共催ということの意義と虚偽

 FIFAが日本と韓国の両方に開催させるということを容認したのは、結果的に「サッカー市場を拡大するため」ということに尽きる。もっといえば、サッカービジネスをアジアに効果的に拡大することが狙いだったのだ。その意味からすると、今回のコリアジャパンは大成功だった。一度で二度おいしい!
 しかし、これで、韓国と日本の距離がいろんな意味で縮まったというのは早計としか言いようがない。もちろん、韓国という国がどんな国かがよく分かったという意味では、距離が縮まったかもしれない。
 日本に比べると、その国家主義的なサッカーの取扱はすさまじいものがあった。まず、共催と言えども、日本では開催されていないかのような報道。「嫌韓」という言葉をはじめて知ったが、それを煽るのは単に、日本だけの問題でなく韓国のナショナリズムの鼓舞による過剰な応援、運営のしかたにも一つの原因があった。自分の国のチームを単純に応援していただけなのかもしれないが。このワールドカップで韓国は「世界に韓国あり」ということを証明し、アッピールできたのである。その意味の大きさを、日本人は想像すらできないのかもしれない。
 日本が共同開催というときは、「歩調を合わせよう」という感覚であるのにくらべ、韓国は韓国カラーをどう全面に出すか?ということを一生懸命考えていたような気がする。ヒディングがイ・スンシン(豊臣秀吉を撃退した韓国の英雄)にたとえられたように、また、KTF(公式スポンサー:韓国の携帯電話会社)が、CMで「独島(竹島)でも電波が入る。だから、独島は、日本でなく韓国の領土」と伝えたように。やはり、韓国にとって、対日本がまず「ステップ」なのだ。
 韓国の小学校では、国旗が教室に飾られ、機会あるごとに国歌を歌い、そして兵役まである。こうした、中では、日本よりはるかに国家主義的なイデオロギーは醸成される。日本のように、平気で「日本よりドイツを応援するよ」と言えるような雰囲気ではないのではないか?と、あの赤いシャツを見てそう想う。そして、在日韓国人の友から「どうして、日本人は日本を応援しないでヨーロッパの選手をあんなに贔屓するのか?岡崎もどうしてイギリス・アーセナルやブラジルのユニホームなんか着ているのか?」(これはおみやげでもらったんだよ!)と言われた。
 ある意味で、守旧派や、日本の将来を憂えている人は、左派にしろ右派にしろ、あの韓国の同質化した国民のエネルギーがうらやましかったのではないか?あの韓国の若者たちにくらべ、日本ではなんだ……汚い川に飛び込むくらいが関の山か!という、彼等の憤りが感じられる。
 韓国では、ワールドカップの記念恩赦として、交通違反の減点をチャラにするということになった。該当者は481万人になるそうだ。このあたりの施策には首をかしげたくなるが、こうした韓国の素顔を見、知る事ができたことは収穫だった。応援すればトクをする。
 韓国とは比べ物にならないほど、ワールドカップに対する「熱情」が低かった日本は、完全な平和ボケなのか?それとも、したたかな「政治性」をもっているのか?世界市民としての資質があるのか?それは判然としないが、取り合えず、私は「カッカしなかった日本」を多少は評価する。むろん「よりまし評価」ではあるが。

4) 超資本主義国家における競争戦略としてのコリアジャパン

 グローバル化を促進するためのキーワードは「競争ゲーム」である。あらゆるものに競争ゲームの質をもたせることによって、近代以降、世界の経済競争、文化競争、国家の覇権競争は生み出されてた。たとえ、国家間、民族間、企業間で「共闘」ということがあっても、そこには敵があっての「共闘」である。敵が当面なければ「仮想敵」でもよい。
 たとえ環境保護プログラムにおいても、エコロジー的なグローバル「産業」には、駆逐すべきは「自然破壊をする敵」が必要になる。まだ開発されていない、あるいは、後進国というのは、競争に参加していない、つまり、市場として開発されていないという意味である。
 このワールドカップは、国家間の競争ゲームとしてのサッカーの巨大スポーツイベントであると同時に、スポーツを商品として売り買いしている市場というピッチの、競争ゲームでもある。さらに言うなら、競争ゲームに参加するチームとしての国家の活性化のための「閉鎖的ナショナリズム」は「後進国」にこそ必要なのだ。
 そこでは、「勝たなくてはならない」のであって、サッカーでは会場でも、会場外でも競争ゲームが行われていたのだ。
 スポーツの本質は弱肉強食、優勝劣敗というところにある。けっして、チーム同士の融和や、充実感の共有や興奮のカタルシスなどというものではない。それは、物語としては当然あるだろうし、それを語るのも自由である。
 しかし、いままで述べてきたように、とにかく、スポーツは高度になればなるほど、全体にキタナイのである。「汚さが、スポーツらしい」とまで言う屈折した状況になっている。「スポーツイベントで偏狭なナショナリズムが煽られる」という考えかたも、ある程度は納得できる。しかし、それよりも、コリアジャパンを観戦した人びとに注入されたのは、決してスポーツの素晴らしさや偏狭なナショナリズムだけではない。
 「スポーツは人生と同じ、勝たなくては意味がない」「強ければすべてがカッコイイ」「勝つためには何をしても、結局、許される」「やられたらやりかえすくらいのガッツがないとダメだ」「自分のチームが勝ってこそ、相手チームと仲良くなれる」という心性の絶対性がある。「結果を出す」という言い方に見事に現れている。
 スポーツに関わる時、それは、人生や社会のあり方に同質化する。スポーツはヘゲモニー闘争の象徴的な表象である。今回のコリアジャパンでは、そのヘゲモニー闘争が、スポーツという典型的な市場を舞台に展開された。そこでは、敗者や弱者は退場し、そこから去っていった。しかし、超資本主義的な世界は、退場を許さない、そこから去ることを許さない。グローバル化した世界は、弱小チームから、「使える価値のある選手」を、強者に引き抜き同化する。そして、より高度なスポーツ文化の戦略に組みこみながら苛烈な競争ゲームを世界で展開する。
 自分の国に利益をもたらすために経済はグローバル化したのではない。一企業、一組織が世界を席巻することで、国家を超えて経済的収奪を果たすためにグローバル化したのだ。おそらく、コリアジャパンというワールドカップは、「グローバル化した世界市場(=ワールドカップ)」に比べれば「屁」でもないのだ。
 「スポーツは国家のわだかまりを超えて、平和を呼んでくれます!」と叫ぶスポーツ賛美は、ビッグスポーツイベントが、政治的平和の実現に寄与した事がないことには沈黙する。よく見れば、スポーツが、世界を超えてに拡充したものは、その「政治的利用」「経済的利用」であった。
 スポーツにおける競争ゲームという本質は、人間の内側から個をグローバル化し、世界につないでいくのには非常に効果的な文化装置なのだ。

(02−08−09)

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