身体への知

アテネオリンピックと政治
副題:スポーツにおける競争と金、クスリ

はじめに

 アテネオリンピックが開催される今年(2004年8月)は、アテネというパットしない国が会場だけに、近代オリンピックの「遺跡化」には都合のよい機会だと思う。
 もともとアテネが会場になったということは、別に「オリンピックの原点」に帰ろうなどということでなく、単にIOCの気まぐれにすぎない。場所などどこでもいいのだ。運営費の半分は「放映権」だし、あとは協賛企業がまかなう。まあ、とりあえず施設だけあればいい。どんな田舎でやろうと、異次元でやろうと、テレビのある国=お金がある国なのだから、テレビさえあれば、大丈夫なのだ。
 思うに、前回シドニーオリンピックはIOCの金脈汚染で、ひどい失態を演じ、それを、まだひきずっているから、アテネの古代イメージで人心をまどわし、IOC体質を隠蔽できればラッキーというところだろう。報道やニュース解説者、スポーツ評論家はそういう「汚い」部分はいっさい伏せ、オリンピック「終了後」に、したり顔で「厳しく批判」していくのだろうが。
 何事も、「祭りの後」である。

T アテネで開くことの意味と無意味

 紀元前8?700年ドーリア人はオリンピアの先住民族を支配していく過程で、色々な祭をはじめた。いくつもの定期的な祭典競技が形成され、その祭典の一つにオリンピア祭があった。
 そこでは、ギリシャ本土のポリスや、海外植民地からも参加者がいたようである。しかし、確実な歴史ははっきりしておらず、分かっていることは、それほど多くない。
 ここでは、オリンピック競技の一つひとつを説明するのことが目的ではない。つまり、そもそも、オリンピアなどの祭典は、政治的な祭りなのである。当時の人々にとっては、見物や参加を含めてポリスのような所属する集団の栄誉と名誉が与えられる絶好の機会であったと思われる。もちろん全員が参加するわけではなく、どちらかというと「下々の者」が参加し、栄誉と同時に利権・利益も得たことも、当然のことながら、予想できる。オリーブの冠をいだき、像を建てることを許された人々が「金銭的に不幸」になるはずがない。
 この古代オリンピアの祭と、近代のオリンピックは全く断絶されている。競技も走跳投にレスリングが中心だったから、その意味で、近代のオリンピックもつながっているといえなくもないが、運動会のようなお祭りなら、どの時代でも力試しとして走跳投がふくまれるのは当然であろう。マラソンも、古代オリンピアが発祥でなく、近代オリンピック成立のおりに、クーベルタンがその故事来歴を「利用」してマラソンという競技を作ったのであって、古代のオリンピア祭典とはなんの関係もない。歴史的には、近代オリンピックは古代オリンピア祭典とは切れている。
 近代オリンピックは、イギリス教育にかぶれたクーベルタンの発案で、そのきっかけが作られた。彼は、イギリスにおける近代スポーツを通してのパブリックスール教育が、帝国主義的青少年育成に、すばらしい効果があると感動したのである。そして、一八九六年からアテネをスタートし、四年ごとに国際オリンピックを開催する。これぞ、希望、いや、悪夢の始まりとなる。

U 現代オリンピックスポーツの政治性

1)普遍的利権集団IOCの構造と体質
 IOC委員が富裕者と元軍人の集まりだというのはつとに知られたところだが、今回も金がらみの問題を引きずったままアテネへ突入しそうだ。キムウンヨンIOC副会長を、横領などで、ソウル地検が逮捕したニュースは、スポーツ界のお偉方を驚かせた。かれは、世界テコンド連盟などに企業が寄付した四〇億ウォン(約四億円)を横領した。逮捕されてもIOC広報は「有罪が確定したわけではない」などと寝言を言っている。委員資格の剥奪・追放の処分はまだしないということらしい。しかし、彼は、すでにソルトレークでは招致金銭スキャンダルで警告を受けたはずなのに、それでもまだ、IOC副会長に選ばれているわけで、このあたりの利権構造は、根深いものがある。
 スポーツマン精神を、語ってきたオリンピックの運営委員の重鎮がこれでも、まだ清く正しい純粋なオリンピックというのだろうか。オリンピックに群がるハイエナ委員に、選手たちは、本当にうまく利用されている。

2)韓国・朝鮮の「対立」、イラク問題、その平和の欺瞞
 アテネオリンピックでは、開会式と閉会式で韓国と朝鮮の合同行進がされる予定だ。そして、四年後の北京大会では、統一チームを結成する「希望」も確認されたらしい。たとえば、この場面だけを取り出して、「肯定」することはやさしいかもしれない。選手たちに罪はないというのも、一定程度は理解できる。しかしながら、これは、あくまで政治的なパーフォーマンスの域を出ない。もちろん選手村で情報が行き来することで朝鮮の選手が「学習」することは十分考えられるから、その点においては、オリンピックも多少いいこともありそうだ。
 しかし、これは、決して「南北」の統一への道として意味があるとは思えない。もちろん、選手たちが政治的な行動に出ることがあれば、それは機会を十分に生かした「動き」として、評価できるかもしれない。人間として、国家の意図とは別に、「手をつないで一緒に歩く(予定だそうだが)」ことができるとは思えない。
 今年三月に朝鮮のサッカー代表チームの元監督が韓国に亡命した事件があった。これは、元監督としては二人目である。こうした、政治的な問題が、オリンピックで手をつなぐことで、隠され、うとんじられ、現実に朝鮮の国家主義スポーツ選手育成のすさまじい政治文化戦略が見逃されるとすると、「合同行進」は必ずしも希望とは思えないのだ。
 そして、イラクがこんどのオリンピックに参加するかもしれないということの意味も同じ水準で考える必要がある。
 IOCは、フセイン政権下でのスポーツ選手への虐待を理由にして、オリンピックから排除していたが、二月にイラク・オリンピック委員会に対する処分を解除した。政権委譲がどの程度なされるのか、そして、どの程度、「自力で復興」できるのか?
 単純に考えれば、オリンピックにイラクが参加すれば、世界の多くの人々は、「拍手」で送るだろ。一方で、「オリンピックに参加してる場合かよ!」 という声もあるだろう。また、本国でそれが、どのように受け止められるのか? 費用として使う金で、もっともっと性急にすべき仕事がある。整備等の、その金でできることがあるだろう? 
 日本はイラク人のオリンピック選手以外への「援助」を積極的にするらしいが、自衛隊を引き上げ、きちんとした支援を考えることが先なのではないか。
 こうした、見栄えのいい「支援」「援助」は、裏を返せば、強国が自分の持つ力を、下に向けて行使する「支配の証明と欺瞞的平和形成」にほかならない。確かに、イラクの選手が一生懸命プレーすることは「けなげ」に見えるだろう。しかし、そのときに、彼らがアメリカの横暴や虐待の事実にたいし抗議の手を挙げたら、世界の人々はどういうだろうか?きっと「政治をスポーツに持ち込むべきでない」というだろう。しかし、強国によって街を破壊され、肉親家族を殺戮されたイラクの選手が、加害者である強国の集う「オリンピック」に参加させられている政治性を考えるとき、拍手を送っている自分たちのイノセントが権力そのものだと言うことを知らねばならない。イラクの選手は全部軍人なのだろうか?

3)テロ対策という管理
 ギリシャはイスラムとは歴史的に縁があり、イラクへ派兵していない。だから、「ギリシャに恥をかかせるようなことはしないだろう」という日本人もいる。しかし、アテネ・オリンピックの最大の課題は「テロ対策だ」と言われている。今、一番危険なのは、アメリカチームだろう。実際に、ギリシャ政府は前回のオリンピックに比べて四倍の1300億円かけて警備を予定している。史上最大のテロ対策費用だ。
 容易にテロが起きるとは思わないし、起きて欲しくないが、警備の厳しさで維持される平和の祭典は、救いようのない矛盾を抱えている。昨年十一月に国連総会は、アテネ・オリンピック停戦決議を全会一致で承認した。これは、一九九四年以来、六回目の決議だ。
 ギリシャの外相じゃ「オリンピックの基本理念をよみがえらせたい」とオリンピックによる平和を訴えたというが、まるで、念仏のごとく唱えられる毎度のせりふを聞くたびに、現実との乖離がますます増幅される。
 アフガニスタン、イラクへの強国の破壊活動に対して、平和への行動的かつリアリティのあることで、オリンピックがなし得ることは、「イラクでオリンピックをやろう」という提案しかないのではないか? あるいは、ガザ地区でオリンピックを開催しようという提案しかない。
 オリンピックではないが、昨年三月に、サッカーの国際試合で「戦った後には、両チーム握手をして別れることにする」という提案が国際サッカー連盟(FIFA)の理事会で承認された。これは、茶番なのであろうか? それとも、常識を確認したのであろうか。
 サッカーのトランクスやユニホームを平気で引っ張りながらのディフェンスや、暴力行為が増加して、イエローカードがでっぱなしの国際試合をみながら、最後に握手すりゃいいのかい? と、これまた、矛盾だらけのフェアープレイ政策である。
 テロ対策も、試合後の握手も、その場しのぎで、根本からの課題をネグレクトした、稚拙な思いつきのような気がするのは私だけだろうか?

V 身体的メディアの商品化

1)金になるものならなんでも造る、売る、さばく
 スポーツメーカーのミズノが、一足140グラムの短距離走シューズを開発した。現在トラックはアンツーカー(土)から、タータンに変わった。全天候型というものだ。ゴム製だから、反発力を生かすシューズが研究されてきた。それで、今回のミズノのシューズだ。アシックスも同様に開発中だ。
 問題は、それをはく選手をどうするか? ということだ。オリンピックは、そうしたスポーツ製品を宣伝する絶好の場である。アマチュアリズムの枷がはずれてからは、選手は宣伝搭・宣伝灯である。
 二〇〇八年の北京オリンピックは、その市場開発のチャンス。スポーツ用品のメーカーは手ぐすね引いて待っている。上海ではすでに、ミズノやデサントの店舗ができているし、ちょっと豊かな層をねらった商戦が展開されている。その際に、労働力として安く買いたたいていた日本や欧米の商業戦略がどんな風に変わるのかが注目される。ねじれた形で、逆輸入して、ブランドをありがたがるのか、自国の労働者の低賃金に怒るのか? メイドインチャイナのシューズがどんな売られ方をするのか? いままでのような安価だけではなんともならない事態に、日本のメーカーは追いやられるのではないだろうか?
 アメリカのナイキ(シューズメーカー)が、ブランドのために次代のジョーダン後継者を捜している。テニスのマッケンロー、ゴルフのウッズなど、売り上げに貢献できるスポーツマンがいる。宣伝に不可欠な人材が世代交代し始めている。アテネ・オリンピックでは、商業戦略の中心は、市場拡大のターゲットを見つけることと、あたらしいブランドスターを探すことに必死だろう。エアージョーダンのスニーカーは、売り上げ三二億と言われている。柳の下のどじょうを探すことが、商業主義オリンピックには必要不可欠なのだ。
 日本でも、JOCでは、シンボルアスリートを約一〇人選ぶことになった。CM出演など「需要」の高い選手は、より好条件で、自分の肖像権などを個別管理する際に委託交渉できるということになる。
 むかしのアマチュアリズムなどどこ吹く風になり、強い者はもうけて当然、それを利用するJOCや体協も陸連などもやりたい放題となる。
 アテネでは、景観に悪影響を及ぼす広告看板を撤去することにした。しかし、オリンピックスポンサーは別。今回のオリンピックでは、公認スポンサーを、前回の一〇〇種から、四〇種に絞った。これは、実は商業主義の抑制という名目だった。
 ところが協賛金が減るどころか、逆に目標の運営費のための収入よりはるかに超えている。それは、独占スポンサーには独占した分だけ料金を高額に設定しているからだ。結局、独占することで得るメリットもお金に換算されているということにすぎない。どこが、商業主義の抑制か?

2)高騰する放映権料
 今回の放映権料は、アメリカのNBCの場合872億円。これは、単独で放送局が取得したのではなく、親会社のゼネラル・エレクトリックが関与している。つまり、放送局単独ではもう巨額すぎて放映権料を取得するのは無理になった。次回の北京からは、インターネットでの動画配信や過去の映像があるデジタルライブラリーの権利も含まれている。実際に、NBCは8年間分の契約をしている。
 こうした流れは、前のワールドカップの放映権料を握っていたドイツのキルヒ・メディアが倒産したように、極めて危ないハイリスク、ハイリターンな商売なのである。
 このように放映権料が莫大になってくると、当然費用対効果が強調される。確かに、ほとんどの国ではテレビで観戦することができるようになり、録画やインターネットなど、映像の確保がしやすくなる。地球は丸いが、昼夜の差なく放映することができる。こうした映像効果をねらっての商業宣伝戦略はますます、CMの有効な利用や、消費者の欲望をあおるようなメディアの権力ともいうべき工夫をしていくだろう。
 ルールも、メディアの都合で、どんどん変えられる。昨年8月の世界陸上で、二度目にフライングした選手が失格になり、抗議してトラックへ寝転がった事件があった。今までは同じ選手が二回失敗すると失格。ところが、二〇〇一年に国際陸連では、なんでもかんでも、二回目はフライングした選手すべてが失格というルールに変更した。これは、「テレビを意識して、進行を早めようとするルール」だという指摘がある。相撲のしきりが、テレビでの六時終了に合わせてだんだん短くされたり、バレーボールのサーブ権ポイントが廃しされたように、放送の都合によってどんどんとルールが変わる。
 スポーツは正真正銘の商品なのである。それは、利潤を生み出す限り、放映権がついて回る限り、選手の意向は二の次、三の次となる。そのことに抵抗する選手は、国際試合どころが、ローカルな試合にも出られないと言うことになる。
 放映権料の高騰は、スポーツそのものを変質させてきたし、これからも変質させるだろう。

3)トルシエのせこさは、オリンピックのせこさ
 日本サッカーの監督だったトルシエは、現在カタールのナショナルチームの監督をしている。オリンピックではないが、ワールドカップで、三人のブラジル選手を呼んで、国籍をカタールに変えて、出場させようとしていた。ことし、三月に行われた予選にむけて、準備したのである。FIFAはこれに対して今後に悪影響を及ぼすということで協議し、「国籍変更は、選手本人か、実父母、祖父母がその国で出生しているか、もしくは、本人が二年以上連続して、その国に定住している場合に限る」とした。トルシエのせこい企ては、これでお流れになった。しかし、これは反対に、「用意周到に、かつ計画的に、移籍することができるのだなあ」と理解される。
 今回のオリンピックでも、アダルマという女子三段跳びの選手が、キューバからスーダン代表として出場する可能性がある。本人の夫はイギリス人だが、スーダンに国籍変更した。これは、スーダンが国籍が取りやすいという理由でしかないという。
 最近は、オイルマネーで豊かな国への国籍変更も目立つらしい。カタールの陸上男子のサイフ・サイードは、ケニア代表としてして出場後、一年たってカタールへ。
 ワールドカップのフランスチームのように、多国籍風のチームはこれからどんどん増えるだろう。自分でお金が稼げ、その国が自分に手厚い保護をしてくれるなら、それでいいという選手は多いはずだ。そのとき、ナショナリズムは消滅したかに見える。
 しかし、だからといって、無国籍の選手は許されないのだ。個人で出場することが原則のオリンピックも、メダル数を国家で競争する限りナショナリズムは原則として生き残る。無国籍的な人間にも、新しいナショナリズムは造られるのである。「個人の出場」は原則から「お題目」に変わる。高橋尚子もスーダンなら出られたかも。
 勝つためには、何でもありの世界がスポーツだ。国体のジプシー選手と同じように、使える人間は、どこでもいつでも出かける。需要と供給のバランスで選手も商品として回されるのである。

W ドーピング競争のオリンピック

1)クスリのリスク:お茶もドーピングにひっかかる?
 興奮剤としてのカフェインは禁止されているが、お茶やコーヒーにも入っているので、これが、ドーピング検査でアウトになる可能性は十分ある。しかし、根本的な問いとして、「なぜドーピングが禁止されるのだろうか?」と。 本来、よい記録を出そうとしたり、限界に挑戦するなら、クスリのリスクは必然であり、「しょうがない」のではないのか? 限界に挑戦することの意味を、再度考えなくてはならない。これでよいという到達点はない競争なのだ。そのときには、利用できるものは何でも利用するのが、ごく自然のなりゆきである。
 ドーピング検査にアテネ・オリンピックは相当なチカラを入れいてる。IOCが力を入れているからだ。ところが、ドーピングはモラルだという、あいも変わらないお題目が繰り返されるだけで、「改善」されていない。使用する選手と検査のいたちごっこである。そもそも「改善」とは何だろうか?
 現在THG(テトラハイドロゲストリノン)は、タンパク質同化ステロイドであり、新種の筋肉強化剤で、禁止されている。しかし、これは、つい最近まで発見されなかった。つまり、ドーピングをするために検出されにくい構造を持つ作為的な薬品である。バリー・ボーンズ(大リーグ)や、ドウェイン・チェンバース(陸上競技)など有名な選手からも検出された。
 プロスポーツと栄養補助食品会社との不透明な金銭の流れがあることまで分かってきた。つまり、科学の最先端は、こうした検出されないドーピングを、作りだし、選手に提供して金銭的な利益を得る。まるで、つぎつぎと塗り替えられるオリンピック新記録のようにあたらしいクスリは発明されるのである。

2)汚染された身体は産業的な身体
 一部の若者たちが覚醒剤をやっているように、アメリカでは、若いスポーツ選手たちが、自分の体を改造していくために、トレーニングをするのと同じ感覚で、「気軽に」クスリを飲むのだ。インターネットでも購入できるから。
 たとえば、コンビニで買えたりする栄養剤摂取がドーピングに抵触しているのではないか? そう疑うことも、まんざら間違っていないのだ。
 効率よく動く身体を造ることは、スポーツだけでなく、リゲイン飲んで24時間働ける、スーパー労働者へもつながる。こうした、産業的な身体は、スポーツの本質的な競争の原理、結果主義、業績主義と共通した価値観によって造られる。
 過労死ということと、ドーピングによるうつ自殺と同じ構造を持つ。反ドーピング規則がIOC関係者で作られたが、これは、おそらく不徹底な「心がけ主義的なお題目」に終わるだろう。なぜなら、ドーピングはボーダーラインが常に移動する生き物であり、科学の競争でもある。それを防ぐことなどできない。スポーツが、成績主義を持ち続ける限りドーピングへの志向は、生き延びるだろう。
 付け加えるなら、ここでも、アメリカの傲慢な姿勢は目立っている。アメリカの陸連は、シドニー・オリンピックで陸上金メダルを取ったジェローム・ヤングの灰色が、もう三年たってもはっきりしていない。隠蔽工作もあったといわれている。どこまでも、傲慢な国家なのである。

あとがき

 今回のアテネ・オリンピックは、それほどの経済効果はないと言われている。しかし、これも断定はできない。スポーツ中毒は世界中にうじゃうじゃいる。テレビのスイッチは簡単にオンできる。3月にアーセナル(イギリスのプロサッカーチーム)のフランス国籍の六人がイラク戦争を進めるイギリスとアメリカに抗議して、解雇覚悟で「出場拒否宣言」した。こうした、政治的な行動がとれる、スポーツ選手は日本では、まず見られない。
 本稿は、オリンピックの現状とその政治性を、できるだけ具体的に明らかにしようとした。そこで、はっきりしたことは、スポーツはグローバル化しながら、経済の競争、大国の覇権主義をいっそうあおるということだ。それは、スポーツの本質になる競争と排除の論理が、ゲームの中のルールにもあるということでもある。
 いまさらながら、「スポーツは人間的であり、政治とは無縁でなくてはならならい」という言説が、年々強固になり、深いところで、その逆に、ますます政治的になっているのである。

(04−05−26)


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