身体への知

「世界陸上」の政治学 レコードマシーンのアスリート

岡崎勝(自由すぽーつ研究所)

はじめに

 世界陸上(ワールド・チャンピオンシップ・イン・アスレチックス)が、本年(二〇〇七年)八月二十五日から九日間、大阪で開催される。二一一の国が集まり、総勢三〇〇〇人以上の選手とスタッフが参加することになっている。
 このビッグスポーツイベントが、相も変わらず、皇室参加行事?の一つになり、経済効果を期待され、メディア戦略の舞台になるという「お決まり」のエネルギー消費行動に終わることは確かである。
 世界陸上の会場付近の長居公園で、野宿者の差別的で政治的な排除を大阪市は執行した。ビッグスポーツイベントが催されるたびに繰り返される「清潔な帝国」をめざした「浄化行為」は、いわば「スポーツの名の下に繰り返される抑圧」以外ではないだろう。
 この世界陸上選手権大会の開催にあたり、スポーツの持つ問題を、あきらかにしてみたい。

1.世界陸上のグローバリズム

 世界陸上は、国際陸上競技連盟(IAAF)が主催する。この大会は、今では、オリンピック、サッカーワールドカップに並んで、世界的にも大きなスポーツイベントである。しかし、こうした、ワールドなんたらかんたらというスポーツイベントは、年中、世界の国々で開催されており、一般庶民としては「いつだって、何か、スポーツの世界大会をやってるじゃん」という感覚は否めない。
 後ほど述べるが、メディア、主としてテレビであるが、二時間サスペンスドラマ「家政婦は見た」「法医学者なんたらかんたら事件簿」くらいの感覚で、「また、何かスポーツやってるじゃん」なのだ。
 しかも、いつもワールドカップなのだ。勝てば、世界第一位などと言われ、同種のスポーツでのイベントが一年に何回もあると、世界一が、何人も輩出される。だれが、今現在、本当に君は一番なの?、世界一を維持する期間は、非常に短いね! などと言いたくなるほど、大会が多い。
 世界陸上は、最初第一回、一九八三年ヘルシンキ大会で始まった。ローマ大会、東京大会と四年ごとに三回まで開催された。四回目からはシュツットガルト大会を一九九三年に、第五回イエテボリ大会一九九五年、第六回アテネ大会一九九七年、第七回セビリア大会一九九九年、第八回エドモントン大会二〇〇一年、第九回パリ大会二〇〇三年、第十回ヘルシンキ大会二〇〇五年、そして第十一回大阪大会二〇〇七年である。
 もともと、この陸上競技大会は、モスクワオリンピックでアメリカや日本が参加拒否、ロスオリンピックで東側諸国が参加拒否と、政治的な思惑でどろどろしたオリンピックが続いたことに発祥の要因があると言えるだろう。つまり、ボイコット・オリンピックでは、完全な、選ばれし国家の代表がそろわなかったので、そこでの記録は、正真正銘金メダルの価値がないとされていたのである。つまり、世界新記録を作っても、「まだ、あんたより強い選手が、今回のオリンピックには来ていないもんねぇー」ということだ。
 さらにそれは、新しい世界大会を欲する人々を生み出した。オリンピックに代わる、あるいは、オリンピックと同じような機能を果たすイベントがあれば、いいのに? という気持ちの人も多かったと思う。関連して設けようとする企業も、市場が減るのはつらいだろうから、じゃあ、オリンピックの休みの間に、陸上競技大会をやってみようということになったのだろうことは容易に予想がつく。
 「世界」大会という名称は、何々カップという企業名のつく冠大会に比べて、よりスポーツの純粋性を追求しているようでウケが良い。「トヨタカップで世界は一つ」というよりは、「世界大会で世界が一つ」と言った方が、イメージ戦略としては成功するだろう。
 世界陸上は第四回から二年ごとに実施されることになっている。二年ごとに世界大会ということは、ほぼ毎年「準備」「開催」に追われることになる。空路の発達だけでなく、スタッフの移動、練習器機の運搬なども簡便になり、世界が狭くなったと言うことである。まさにグローバルである。
 大阪では、競技そのものを楽しむというコトよりも、経済効果に期待する人々が大勢いる。スポーツの世界大会は、儲かるのである。経済効果を大阪がどの程度見積もっているのかははっきりしないが、あらゆる関連企業はおおよろこびでの参加になるのだろう。大会組織委員会として、九三億円負担としているからたいしたものだ。
 スポーツというツールで、世界を市場にしていけるのだ。この巨大市場のグローバルな多国籍企業であり、そこで生み出される「連帯」は人間を自由にしない。
 同時に世界を、イデオロギー的必然性でつなぐことができる。例えば、その具体的なものは、ルールと記録の持つ権力のツールである。
 ルールは、世界共通でなければならない。そこに集う者はルールが共通しているからこそ、試合ができる。そのルールがどこでどう決まったかは関係ないのだ。フライング失格のルールも、二回目に違反した者が、退場失格となるという根拠はどうでもよいのだ。誰かが、わざと一回目にフライングして、二回目に競争相手の誰かにフライングさせて、自分を有利に運ぼうと考えてもそれは、ルールのなかだからかまわないのだ。そのルールの妥当性は、共通性より後退している。
 一万メートル以下のレースでは一〇〇〇分の一秒台の記録は繰り上げなければならないというルールがあるが、その理由ははっきりしない。しかし、一〇〇〇分の一まで測る必要性があるのは、参加者に、なんとしても「順位」を付ける、つまり、「白黒はっきりさせる」ためという理由なのだ。同着はあってならないのだ。なぜか? それは、記録と順位に商品価値がなくなるからだ。一番は一人でなくてはならない。
 現代のスポーツにおけるグローバル化は、どこかでしくまれた「共通したルール」と、優劣をつけるための「記録」をどんどん精密にしていく作業によって支えられている。
 われら庶民は、そこに口を挟むことはできないのだ。ますます、スポーツはスペクタクルになり、見せ物興行化していく。スポーツのグローバル化とは、曲芸化すること。

2.メディアと商業主義のスポーツ

 相も変わらず、世界陸上のように視聴率が採れる番組はテレビメディアの中心をなす。とりわけ、今回も前回同様、TBSが放映権、中継を独占するのだろう。
 TBSのもったいつけた織田某の司会でいままで世界陸上は放映されてきたが、ネットブログなどでは、その傲慢な放送に批判も目立つ。視聴率のとれない、地味な競技は、カット、日本の選手の出る試合は、時間をかけて前フリを繰り返し。「このあとすぐ」コールがなんどもなんども放送されるという、姑息なことをやって、視聴者にチャンネルを変えさせない「努力」をしているのは、他の番組でも同様だ。
 今回は、大阪開催だから、「ホンモノ」のライブ(笑)を見ることができるだろうが、どんな放送の仕方をするのだろうか? 最近は、選手に親しみを感じさせようと、やたらとニックネームなど、プロレスラーのようなフレーズをくっつけて名前を呼ぶようなこともバレーボールの試合などでやっている。
 解説者も、完全な日本びいきでの解説しか行わず、まさしく、大本営発表のような、通り一遍の、見れば分かるような解説が多いか、あるいは、勝手に感想を垂れ流しているかのどちらかだ。どうでもいい解説をするくらいなら、黙っていて欲しいくらいだ。
 きちんと競技解説をしたり、批判や問題提起をしたりするような解説者はほとんどいない。明らかに疑問がのこる判定や競技運営にも、それを指摘する解説者はゼロに近い。以前、日本代表や、有名選手だった解説者は、とりわけその傾向が強い。選手は審判に反論できないにしても、解説者はいくらでも間違いを指摘できるのだ。自分が選手のようなつもりで、「審判には絶対に文句を言わない」というのがフェアープレイだというような教条を血肉化しているのだろう。
 現代のテレビ番組では、コマーシャルの占める割合が、非常に多い。とりわけ、音量も大きくしてあるのだろうか、コマーシャルになったとたんに音量が変わる。
 陸上競技は、なんと言っても、走る広告塔と言われている。さまざまなスポーツメーカーが、ウエアー、スパイク、シューズといった、身につけるものを選手に提供する。TDKゼッケンの陸上競技大会は記憶に新しい。
 この広告市場での競争は激しい。ワールドカップサッカーにおいても、ドイツ大会では、メーカーのシェアーが激変した。プーマが十二カ国、ナイキが八カ国、アディダスが六カ国と占めている。こうしたユニホームは、そのレプリカが爆発的に売れるために、重要な商売となる。以前の日韓開催のワールドカップサッカーでは、日本のレプリカを五十万枚以上販売した。もちろん、そのときはアディダスである。
 今回も選手はさまざまなところで、広告塔の役割を果たすだろう。例えば、陸上の短距離走で、アナウンスされカメラが当人をアップにするときに、ウエアーを一枚脱いで、ロゴを目立たせたり、タオルを大きく振ってみたり、靴のひもをわざと結んでシューズをアッピールしてみたりと……苦労する。
 選手のインタビューも、最近はどのスポーツにおいても、協賛企業のロゴ入りのついたての前で行うが、こうした何気ない行為も、全国シェアーで同じ宣伝をすることを考えれば、経費(費用対効果)は至極安価なものになる。コマーシャルの費用を考えれば、マラソンにしても、ずーっと企業ロゴを付けて走る選手は、もっと宣伝料金をもらってもいいはずだ(笑)。
 某ビールメーカー協賛の冠大会は、ビールのおいしさをスポーツ選手のイメージとだぶらせて、好きなスポーツを応援することで、それを協賛している企業のイメージもアップするのだ。このことを狙って、企業は協賛するのである。スポーツによる肯定的なイメージは、宣伝効果が抜群なのだ。
 ちなみに、新聞のスポーツ欄には、車とビールの宣伝が異様に多いと感じるのは私だけだろうか?
 企業は、こうしたスポーツイベントを支援するという、商品だけでなく、「企業の姿勢」をも、消費者にアッピールする。そのことで、ブランドだけでなく企業への好印象、親近感を獲得するために支援するのだ。
 こうしたスポーツイベント協賛コマーシャルを企業は社会貢献とまで言い換えていく。つまり、販売促進を社会貢献と読み替えるのだ。

3.薬物によるスポーツ的人体改造

 世界陸上では、ドーピング問題がまた大きく問題を投げかけてきた。今回もあるだろう。特にアメリカはドーピング王国であり、プロ選手だけでなく、大学のスポーツ選手までいろいろと問題が起きている。ステロイド系の筋肉増強剤だけでなく、栄養剤への依存度も高い。たとえば、ビタミンやミネラルなどにも筋肉増強剤ナンドロンや男性ホルモン・テストステロン関連物質が混在していたが、ラベル表示はなかったという。
 つまり、風邪薬でもドーピングがあり得ると言うことだ。あまりに厳しいのではないかという指摘もあるが、それは実態をよく分かっていない。例えば、ぜんそく治療薬に筋肉増強効果があるとされているので、選手が本当に喘息でもないのにその薬を服用して、「効果」をあげるのである。これを、判定するのは、あまりに難しいので、グレーゾーンを設けたが、逆に、「利用者」は、そのグレーゾーンを利用するというやりかただ。
 そこまでしてなぜ記録を挙げるかという問題を抜きにして、単に「まちがって風邪薬をのんでしまったのです」ということで納得はできない。
 ソウル五輪のベン・ジョンソンが男子百メートルで金メダル、世界記録を出したが、あとでドーピングだということが分かってメダルを剥奪、記録抹消となった。それ以降、最近のガトリングまで短距離などでは、ドーピング問題が後を絶たない。
 短距離走は瞬発的な爆発的力と、無酸素状態での筋運動という特殊な競技であるために、とりわけドーピングが多いのではないかと思う。つまり、麻薬だろうとなんでもいいから、一時的な興奮状態と筋力の爆発ができれば記録は出ると言うことだ。
 二〇〇五年に旧東ドイツ時代にナショナルチームの選手だった一六〇名が、訴訟を起こした。それは、旧ドイツ政府の指示でステロイド剤を製造したイエナファーム製薬会社を訴えるということだ。薬物投与により、選手たちは肝臓に異変がおきたり、妊娠出産に問題が起きたりしている。
 最近流行っている「低酸素宿泊室」も、問題が多い。これは、高地トレーニングと同じような効果をもたらすとされている。つまり、高地の酸素の薄さによって、EPO(エリスロポエチン。ホルモンの一種)の増加、赤血球の増産、有酸素運動能力(持久力)が飛躍的に高まることを利用したツールである。これも「薬物禁止リスト」に入れる入れないという論議があったが、健康被害が出る可能性も十分にあるので、望ましいものではないので、注意しなければならない。しかし、これをドーピングテストで発見できるのか?という点を考えると、苦しい。最近の会議では、とりあえずは、禁止はしない方針のようだが、いろいろと考えるのが記録至上主義者だ。血液ドーピングのように、競技の直前に輸血で赤血球を増やすような方法や、今後は「遺伝子操作」もアリ?になるのではないか?
 その「可能性」は無限であり、それに群がるスポーツ医学やトレーニングスタッフは、アスリートを使って儲ける商業戦略を「熱っぽく」語っているのだろう、「人間の限界への挑戦」と称して。
 こうしたドーピング問題が起きるのは、いくつかの根本的な理由がある。まず、一つ目は、記録を出すことで、選手として有名になりたいという単純だが手強い動機だ。しかし、これは不正を犯してまで出すことに意味があるのかという常識を持ち出せば、話は簡単になる。しかし、今は、社会の多様性から、その常識にも「良心を喚起するだけの力」がない。
 二つ目は、その常識を無視できるくらいの「記録」への執念である。勝てばいい、新記録を出せばいい。多少の不正は、うまくやるか、ドジを踏むかの問題だと考える。とにかく、勝利と記録が欲しいのだ。健康のためにスポーツをやっているのではない。記録と勝利、そして金のためにスポーツをやっているのだ。このことが理解できないと、ドーピング問題を正しくつかむことはできない。
 少しぐらいの健康不安、身体の損傷、精神の変調も、記録があがるのならかまわないというのがアスリートである。テレビ、メディアで報道されるスポーツがどれほど楽しく新鮮な映像を流しても、「健康」とは程遠いところにあるのが、現実だ。
 第三に、その執念を「全面的」(ドーピングでもなんでもオーケー)に後押しする、コーチ、監督、スタッフの「金銭」への意志がある。それは、最終的にビッグスポーツイベントにある「金銭」への欲である。これは、選手の勝利や記録への執念よりも強く、根深く、広く蔓延している。
 ときどき「選手の生活費や、遠征費、道具の費用が非常にたくさん必要なのだから、しょうがない」という意見もあるが、一体、どれだけいるのか?そのことも明確になっていない。スポンサーが儲けることに比べたら、選手の必要経費なんて極小でしょう。
 スポーツで記録を出そうと思うのなら、お金をかけて練習する必要がある。金銭的に恵まれない選手が、頑張って、いい記録や勝利を勝ち取ることが全くないとは言わない。しかし、それは、ほんの雀の涙ほどである。その雀の涙で今のアスリートたちの現状を語るのは止めてもらわなければならない。
 また同じくらいに、「選手たちには罪はない、それを管理できないスタッフが問題だ」という言い方も、的を射ていない。それは、大東亜戦争の責任を天皇が取るのかどうか? という論議に似ている。つまり、実際にトラックで走り、フィールドで投げるのは、まさしく選手そのものである。その選手が、もっと明確な正義感や、節度を持ち、競技を演じるのなら、さほど問題は起きないのだ。
 現実のドーピング検査は、いたちごっこのように見える。ドーピングテストの新システムができると同時に、その検査をかいくぐるような、新しい薬品・栄養剤・テクニックや手法が、またできあがり、蔓延する。陸上競技大会やオリンピックは、その繰り返しである。
 良い記録が欲しい→純粋な気持ちで練習、試合をする→自分の身体はどうなってもいいから記録が欲しい→不健康でかまわない→そもそも健康のためにスポーツをやっているのではない。この思考回路をはっきりさせておこう。
 ドーピングは覚醒剤と同じで、快楽を求めるためにやるのだということをその快楽は「新記録」であり、「勝利」なのだと。ドーピングが「実質的」解禁になっている現在、将来は、公然と解禁となる日も近いのではないか?

4.ビッグスポーツイベントのもたらす帝国

 最後に、スポーツ愛好家やスポーツ大好きの人々へ「スポーツがただ好きなだけです。あなたのように、そんな小難しいことや、政治的なことで批判するのはおかしい。まじめに一生懸命努力している人もいます」的な素朴な疑問や反論に答えて置かなくてはならない。
 私自身もスポーツが嫌いではない。ただ、高校野球が「純真な高校生のスポーツイベント」だとは思うのには、いろいろ実態を知りすぎたし、オリンピックや国体をはじめとするビッグスポーツイベントが、いくら選手たちが純真であっても、明らかにそれは「政治的に利用」されているし、主観的に「ただスポーツを好きでやっているだけ」とアスリートが思っても(思うのは自由だ)、残念だけれど、空虚だ。逆に、「純真にスポーツをやっているだけ」と思うのは、あえて政治的現実や経済効率や、商業主義から目をそらすることを必要不可欠としている証拠にもなる。
 ビッグスポーツイベントの影響を真摯に考えてもらいたいのだが、批判をすると、愛好者は、まず「むかつく」のである。スポーツマンや体育会系は自分たちを十字軍だと思っている節がある。とにかく、「犬や猫を可愛がっている人間に悪い人はいない」というレベルで、「スポーツをやっている人に悪い人はいない」と信じ切っている。ここには、キリスト教原理主義的な、一途さというか、権力的な強さがある。「一生懸命やっている人を批判するのはおかしい」という慣習的体育言説である。
 スポーツイベントは、いくつかの隠れた戦略を持っている。これは、歴史的にも変わらない。ひょっとすると、政治的国家より古い本質かもしれない。
 第一に、スポーツイベントは異端者を排除する。つまり、アスリートは参加することに意義があると思って参加しているわけではない。なぜ参加しているのか? 勝ちたい、記録を出したいからだ。もちろん、スポーツはそれ自体で楽しい。だが、それだけが、孤立独立しているわけではない。そしてそれを、衆目の中で承認して欲しいと思っている。そのためなら、なんでもやる。たとえ性格が悪くても、根性が腐っていても、勝てばそれは「個性」となって認められる。
 勝てば、付加価値が付く。お金を儲けるアスリートもいるだろうし、お金はとくに増えないが、就職など社会的に安定した評価を得る。有名になる選手ほど選手寿命が短いので、引退後の自分の生活保障に関することは、人一倍敏感に反応する。
 第二に、スポーツイベントは自発的にも強制的にも、多くの人々を「動員」し、「結束」を正当化し服従させる。スポーツマンは仲間での結束が固い。競技では独立独歩的に試合をしなければならないが、その前後は、クラブチームや先輩後輩、種目ごとの協会に服従する。この結束は、相互批判よりも、持ちつ持たれつを中心とするので、第一の異端排除と組合わさって、敵ができると結束と動員はより高度に強化される。対外排撃と内部緊密である。「北朝鮮が攻めてくる」という根拠と可能性の薄い理由で、連帯を強要するのだ。動員への選択の余地はない。
 内部告発者は、「スポーツマンシップがないし、フェアーではない」と言われる。「堂々と言えばいいじゃないか!」という。そういう人間は、決して言わないし、「言うことがない」か「言われたら自分が困る」関係者である。
 第三に、スポーツイベントはグローバリズムをすすめる。もともと、スポーツは「自己責任」「自己管理」「規制緩和」の思想を中心に持っている。そもそも、速く走る、高く遠くへ跳ぶ、ボールを蹴るなどという行為は、それ自体が経済に貢献はしないが、上記の「自己への配慮」を高める。「スポーツは世界に幸せをもたらす」という話は枚挙にいとまがない。
 中村のようなフリーキックはどこのサッカー場でも、いつのサッカー試合でも「可能」だし、「練習の成果」であり、だれでも「できる可能性はある」と思える。この「誰でも」「いつでも」自由に行為できるということが、スポーツでは大前提になっている。サクセスストーリーはだれにも開かれているのだという典型である。実は、全くそうでではないのだが。
 スポーツイベントのためなら国籍さえも変更しちゃうぞ……なのだ。アフリカの有能な選手が、カタールやバーレーンの選手として、出ることも可能になっているのだ。もちろん、陸連は待ったをかけているが、グローバルなスポーツは、競争のためなら、勝てることならなんでもやるという感じである。国籍なんて問題ではないのだ。だが、国家を廃棄するとか、乗り越えるというコトではない。国籍なんてどうとでもなる。しかし、国家の威信をかけている陸上競技選手たちは、国籍無しでは参加できない。
 ワールドカップサッカーにおいてもフランスの出身者はほとんどいない。多国籍多民族チームはすごかったが、国籍はフランスでなくてはならない。ようするに、外国人労働者を国内で雇うような感じなのかもしれない。
 こんどの大阪世界陸上もミズノのスポーツ用品が「公式パートナー」(要するに、大会中に特権的な宣伝ができるということ)になっているが、市場を、国家を超えて、世界に広げるチャンスなのだ。アスリートはそれに協力するから、もうけの一部が、どんな形にせよ「入る」可能性があるだろう。グローバリゼーションのひとつとして、労働者の国外からの流入が一つあげられている。それと、同じではないか?

あとがき

 大阪陸上まであと××日の前で、ニュースキャスターたちがおしゃべりしている。この国はスポーツを批判することは許されない。その許されない事態をしっかりと認識してほしい。スポーツだけならまだいいのだが。

(07−05−20)


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