身体への知

インタビュー「平和の祭典」は可能なのか:ペキンオリンピックを前に

 ついに迫ってきました、北京五輪!テレビに釘付けの一ヶ月、という方もたくさんおられるでしょうが、ここで少しクールダウン。オリンピックについて、ちょっと別の観点から考えてみましょう。

○五輪開催反対が、市民運動の種をまいた

――岡崎さんは、「高度産業社会批判社・自由すぽーつ研究所」という団体を運営されていますが……

岡崎勝さん(以下「岡崎」):はい。一九七七年になりますが、私はもともと体育科の学生で、体育社会学の勉強をしていました。体育科を志望するぐらいですから、運動も比較的得意でしたし、スポーツも好きであったわけですけれども、学問として社会学的観点からスポーツを考えるとなると、当然、単なる「スポーツ馬鹿」ではやってられない。スポーツというものが、人間社会にとってどのように機能しているのか、我々にとってスポーツとはどうあるべきなのか。ま、そんなことを考えていて、今もいろんな勉強会なんかを企画したりしているわけなんですが、それで一九七七年です。当時の仲谷愛知県知事が、名古屋市にオリンピック招致をすると発表したのです。

――へぇー、名古屋でオリンピック!そんなことがあったんですか。

岡崎:この話、なんだか変だと思いませんか。

――と言いますと……

岡崎:今年のオリンピックは、何オリンピックですか?

――北京オリンピックですよね。

岡崎:北京というのは、都市の名前ですよね。同じように名古屋も、都市の名前です。「名古屋オリンピック」であって、「愛知オリンピック」ではない。

――ああ、言われてみると確かに。えっ、それじゃ何で知事が。

岡崎:ね、おかしな話でしょ。五輪というのは、オリンピック憲章で「都市」が立候補することになっています。仲谷さんの構想は、名古屋の周辺自治体と連合体をつくる形で五輪を招致しようというものだったわけです。これはオリンピック以外でもそうですが、いわゆる「お祭り型公共投資」なわけですね。イベントを招致するから、ハコ物を造るぞと。それで税金をブチこんでバラまいちゃえと。こういった手法は、これから経済成長していくという場合には、まだ効果があるのかもしれない。しかし、当時はもう高度経済成長が終わってしまった後でした。物質的に成熟した日本に、本当にそんなものが必用なのか。

――なんだか、今とまったく同じ構図ですね。公共投資による税金の無駄遣いという。

岡崎:そうですね。ま、ともかく、それで名古屋五輪という計画が動き出しました。それで反対運動をしようと言い出したのが、影山健先生でした。彼はスポーツ社会学の第一人者で、私は彼の愛弟子でした。だから当然、お前もやれ、と(笑)。

――ああ、そうなんですか。

岡崎:それでとりあえず、体育科の友人に賛同してくれないかと声をかけてみるわけですけれど、うまくいかない。というか、体育やっている人間でオリンピック反対なんて、そんなやついるわけない(笑)。せいぜいある批判は、勝利主義走らにないようにしようとか、そんなぐらいです。そんな折、招致委員会が、メインスタジアムを平和公園につくると言い出したのです。それでまず、周辺住民が声をあげました。あんな自然が残っている場所を開発するなんて、けしからんと。それから様々な、本当に様々なグループが反対を表明しました。環境保護の人達、生活クラブみたいな集まりなど、規模の大小、主張や性格も様々なグループがありましたが、一応、みんなで連合体をつくろうということで作ったのが「反オリンピック市民運動連合」という運動体でした。

――なんだか、すごい運動になってきましたね。

岡崎:ここで重要なのは、この時始めて、私達は既成政党抜きで運動をしたということです。 既成政党は全てオリンピック賛成でした。招致委員会の設立に反対したところはひとつもなかった。それまでの名古屋の運動は、なんだかんだ言ってもやっぱり既成政党のバックアップがありました。でもこの時初めて、私達は純粋に「市民」だけで運動を展開したわけです。もちろん、意見や主張、「ノリ」の違いなどは様々あったわけですけれど、みんな「名古屋オリンピック反対」ということでは一致した。この経験は大きかったと思います。この運動を通じて、名古屋に市民運動の種が撒かれたのだと私は思っています。


○近代の統治ツールとしてのスポーツ

――歴史的に考えても、非常に意義深い運動であったのですね。でも、あの非常に言いにくいんですが……正直、オリンピックに反対するって、かなり言いづらい感じがするんですけれど……。

岡崎:いや、よくわかります(笑)。

――岡崎さんは、スポーツそのものに反対というわけではないんですよね。

岡崎:もちろんです。スポーツ、大好きです。ただ問題なのは、その「スポーツ」の中身が 何なのかということです。

――と言いますと……

岡崎:スポーツという言葉で私達が理解しているのは、まず直接的には「近代スポーツ」です。スポーツとは近代の、産業革命以降の産物です。近代以前に、私達が考えているようなところの「スポーツ」というものはありません。もちろん、体を動かすようなは行為たくさんはあったろうと思います。遊びもたくさんあっただろうし、何かを競ったりということもあったと思います。でも、現代のようにコンマ何秒を争うなどということはなかった。それぞれの地域で、神事に組み込まれたものだったり、民俗芸能として行われていたりという形で存在していたわけです。例えば相撲。「はっけよーい」の前に、「みあってみあって」があるあけですね。ま、今では十八時終了の放送時間がありますのでサッサと終わらせなければいけないわけですけれど、あれは本来、お互いの「気」を合わせる行為なわけです。もちろん勝負ですから、勝ち負けがあるわけですけれど、それが一番の価値ではない。勝負よりもなによりも、まず「気」が合うかどうかが問題なわけで、もし合わなければ何時間でも「見合う」わけです。

――なるほど。言われてみると、近代以前は、今のようには考えていなかったのかもしれませんね。

岡崎:それから例えば、カナダの先住民が初めてバスケットをやったときのおもしろい話があります。ふたつのチームに分かれてゲームをするわけですが、勝負にならない。なぜかというと、片方が点を入れたら、もう片方が点数をいれるまでなにもしない。待っているんです。それで点数が入ると、おおすごい、よくやったと、互いが互いを讃え合う。つまり、彼らには「競争としてのスポーツ」という考えがないわけです。

――へぇー、なんだか素敵な話しですね。確かに私達は普段スポーツと競争を、切っても切れないものとして考えていますね。体を動かすこと=スポーツ=競争、みたいな。

岡崎:そうです。そしてまさに、それは資本主義の論理そのものではないでしょうか。

――ああっ!

岡崎: 勝者と敗者。競争と自己責任。スポーツ精神としてよく称揚されるものは、全て資本主義の論理のメタファーになっている。

――あの、スポーツって、言い訳できないですよね。勝ち負けが厳然とある。正直、残酷な世界だと思います。そして「自己責任」という言葉も、抗いがたい「魔力」のような力があると重います。本当はその人のせいとはいえない原因があるのに、有無を言わせない力で迫ってきます。

岡崎:もちろん、これはあくまでメタファーだと言っているのであって、スポーツはスポーツ。所詮ゲームなんだから、という話はあります。でも、結果として同じ構図になってしまうのは、ちゃんと理由があるのだと思うのです。近代スポーツは、国民国家とともに誕生しました。国民国家は、それまで存在していた地域の土着性だったり、民俗性だったりしたものを平準化し、人々を「国民」に作り上げようとした。でも当然、人間は「生き物」ですから、そんな簡単に「国民」は完成しない。例えば、「気を付け」。これって、江戸時代の人はできなかったと思いますよ。

――確かに、学校に行った経験がない人は、多分できませんね。小学校でも、ちゃんとできる子とできない子がいました。

岡崎:「気を付け」は、まあ、体育の時間にやるかもしれないけど、スポーツではない。でも、人間の身体は、そのように訓練されることで、はじめて「国民」の動きができるようになるわけです。

――なるほど。

岡崎:スポーツも同じです。スポーツの論理は、学校教育を通して私達に身体化されています。例えば、イギリス。押しも押されぬ「近代帝国」であるわけですけれど、イギリスではスポーツはパブリックスクールを通じて普及していきます。広大な海外植民地を保有したイギリスにとって、植民地を統治する司令官の養成は非常に重要な課題でした。頑強な肉体と規律、リーダーシップとチームへの忠誠。そういったことがスポーツを通じて教え込まれる。ちなみにですが、代表的なスポーツマンシップとして挙げられるものに、ラグビーの「ノー・サイド」というものがありますね。

――ゲームが終わったら、敵も味方もないというやつですよね。

岡崎:はい。でもこれって、実は侵略正当化の論理そのものではないんでしょうか。戦争をして、負けました。はい、これからはみんな仲間です。フェアに戦ったんだから、負けてしのごの文句を言うのは見苦しい、と。「勝って驕らず、負けて悔やまず」ということですね。

――えーっ、最悪の発想じゃないですか。

岡崎:もちろん、あくまで現実の政治や歴史と、スポーツは別物でしょう。でもスポーツの論理は、私達の身体に完全に組み込まれている。オリンピックに反対しにくいという理由は、スポーツの論理そのものの中にあるのではないでしょうか。


○国威発揚イベントではなく

岡崎:そしてオリンピックは、そうした身体管理の際たるものとして存在しています。オリンピックの問題は、挙げたらキリがありません。ドーピングによる薬物中毒の問題、グローバル企業との結託の問題、そしてその企業の工場で働く労働者の低賃金で劣悪な労働環境の問題、開催施設の建設にからむ腐敗や環境破壊の問題……。でも最大の問題はやっぱり、国威発揚による国民意識の強要と、それを忌避する人間の排除の問題ではないでしょうか。

――すみません、もう少し簡単に……

岡崎:簡単に言うと、オリンピックの価値観を押し付けないで欲しい、ということです。スポーツが好き、競争が好き、という人はいいんです。でも、そうじゃない人もいる。例えば私は小学校の教員をしているわけですが、ありがちな話、かっけこをする段になって、「足が痛いから走れない」などと訴える子どもがいます。(笑)。

――ああ、必ずいますよね(笑)。

岡崎:そういう場面で言われるセリフは、えてして「負けるな、がんばれ」だったりします。正直、私も子供のころは、なんでそんな情けないこと言うんだと思っていました。これも資本主義社会と同じで、競争に打ち勝つ気構えのない軟弱者、自立する意志のない落伍者とされてしまったりするわけです。でも本当にそうだろうか。少なくとも、スポーツはそのように、人間を選別したりするためのものなのだろうか。 楽しくないもの強制することが、本当にスポーツの精神に適うことなのか。

――あの私、とりたててスポーツが嫌いというわけではなかったんですけれど、なんだか大嫌いになってしまいそうです、スポーツ。

岡崎:いやいや、ごめんなさい(笑)。そんなつもりではなかったんですが。でも、私が一番言いたいことは、今のスポーツが、本当に人間にとって「楽しい」と思えるものになっているかということなのです。理由色々はあるでしょううが、「走れない」と言っている子どもは、かけっこは楽しくないと思っていることは確かなわけです。身体に障碍があったりする場合、そもそもできない競技もあります。スポーツを拒否する人を排除するのではなくて、何か別の選択肢は用意できないのか。本来スポーツは、人間の尊厳を確認し、互いを讃え合うためにある。そしてそれは、競争だとか、順位だとか、最高記録なんかよりもずっと大事なことのはずです。私は常々、競争原理型ではなく、協働原理型のスポーツを、と言っています。例えば、よく学校でバレーボールをやりますが、当然、背の高い子が有利になりますよね。だから私はネットを斜めに引きます。

――へぇー。それはおもしろいですね。

岡崎:簡単なことなんですけれど、それだけでも随分違います。大事なのは、体を動かすことが楽しいと思えるかどうか。テレビで五輪中継を観るのもいいけれど、普段は全く運動しないのに、冷房ガンガンの部屋でビールを飲みながら五輪鑑賞って、それこそスポーツから疎外されているとは言えないでしょうか。やっぱり、仲間と実際にやってみるのがいちばんではないのでしょうか、スポーツは。

(2008-8-1)


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