きょういく大研究

いーめーる教育談議 第2回1998年2月号

信頼関係は怖い!

 信頼関係はなくて当たり前、そう思っている。というのも学校はやたらと「保護者との信頼関係が…」とか「子どもとの信頼関係があれば…」と言いたがる。

 というのは以前、管理職とケンカしたとき「信頼関係を裏切られた」と管理職に言われた事がある。その時に「そうか、ボクを信頼していたのか?」と思い、同時に「その割りには、冷たかったなあ」と恨んでしまった。

 また「先生を信頼していたのに、裏切られました」と言われたので、「おーそうか、信頼していてくれたのか?」とまた驚いた。信頼も安っぽくなったもんだ。

 体罰を「愛のムチ」という人もいるように、先生と親、先生と子ども、子どもと親という関係が「信頼関係であらかじめ結ばれている」というのは、ほぼ間違いだと思う。信頼とはいろんな意味があるだろうか、「相手の期待に応える」ことだとも言える。そうすると、案外にわがままな理屈だ。

 もともと人と人の関係は、信頼関係など「無い」というところから出発しなくてはならないとボクは思っている。同時に「不信感」からも出発すべきでない。考えが同じでなくては一緒に仕事ができないというのも、半分くらい納得できない。

 べたべたした信頼関係は、自律を損ねる。子どもがえらくツッパル時には、教員もムッとすることがある。しかし最近、それもいいじゃないか!と思えるようになった。そもそも、クラスの全責任を教員が負う必要など無いし、責任を負うという思い上がりは、子どもや親の信頼を無批判に前提とする時しか成り立たない!ということに気づいたからだ。  信頼関係がなくても、うまくほどほどに生活できるし、自分の身の回りの人すべてに信頼関係があったりしたら、すごく怖いことだ。総監視体制そのものかもしれない。

 不信感か信頼感かという二者択一はおかしいということだ。その中間はたくさんある。

 子どもの存在そのものが「中間的」なのではないだろうか?

 信頼関係があればなんでもOKという人は、お気楽でいいなと思う。ボクなど、一年間おつき合いしていただいて子どもたちが「まあまあじゃん」と言ってくれればそれでけっこうだ。よく言うことだが、毎日毎時間「全員が楽しいと思う授業」ができるワケがない。いや、そういう人もいるかもしれないが、ボクは無理だ。だから、いちおうは信頼なんかしてくれなくてもいいから、つらくてやらなきゃならないお勉強を極力「楽しい化」し、その合間に、「楽しいひととき」をきちんとしっかり提供できればいいと思っている。「まあ、つまんねぇことも多いけど、楽しいこともあるから我慢すっか」と言ってくれればいいと思っている。学校よりもっと楽しいところもあるのだ。学校より「まし」なところもある。信頼関係という幻想の思い込みで、暴力的な授業や指導にあぐらをかくような恥ずかしいことだけはしたくないなと思っている。

月刊『家族』に連載(家族社電話082-211-0266)


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