きょういく大研究(1999.2.14)

いーめーる教育談議 第3回1999−02−14

他人に迷惑はかけるもの!

 時々、親が「うちの子には『人様に迷惑だけはかけるな』『後ろ指さされる人間にはなるな』と言い聞かせています」というので、「それは無理ですよ!」とつい言ってしまって、大いにひんしゅくを買う。

 しかし、基本的に人生は迷惑の比例直線なのだ。活発に行動すれば他人に迷惑がかかるのは当たり前。ボクなんぞ「オカザキさんは、いつも元気ですね!」と言われると、それは「オカザキさんは、いつも迷惑をみんなにかけていますね!」と同義だと感じてしまう。そう言うその人の目が、「同義だよ!」と言っている。

 つまり、迷惑というのは、一つの表現だから、しかたがないのだ。迷惑をかけるのが生きがいみたいな人がいるでしょ。ボクはそれほどじゃないけど、「迷惑をかけずには何もできない」と思っているので、職員の仲間にも、「ゴメンね!いつか借りは返すから」と言う。もちろん、だれも期待していないけどね、そういうボクのありようを「まっいっか」と許してくれている……と思っている。だから、孤立感はない。たまにはみんなのために、校長に文句言いに行くこともある。

 多分、迷惑それ自体は大したことはないけれど、付き合っていく上で「お互いが許せる程度」か、「絶交じゃ!」というのかの違いがある。でも「絶交じゃ!」と言ってまた、仲良くなったりするから複雑だ。

 子どもたちにも、「迷惑をかけないように」というより「迷惑かけても許してもらえる関係を」とボクは言う。そして「迷惑なんだよ!」と相手に言える程度の勇気を持つことも必要だと言う。

 世の中には、迷惑なのに、迷惑だと思っていない人が多過ぎて困る。時には「迷惑」どころか「アンタのためよ」という「善意の迷惑」がある。学校なんかはそんなのばっかりだ。

 1月10日NHK教育テレビに出演して思ったのは、先生たちはみんな「善意が迷惑!」ということは少しも考えていないのかなと。ボクがおしゃべりした時間は少なかったが「オカザキさんて、他の人が熱っぽくしゃべっているのに、『あーあ』って顔してるもんね」とスルドイ指摘を受けた。そう、大いに迷惑だった。だって、ボクはできるだけ、皆の話をつなごうと努力しているのに、他の人たちは「話はかわるけど」とか「ちょっとはずれるけど」と勝手に話を切るんだからな。そりゃーないだろ!と思った。でも、みんな「自分の話は皆が、絶対聞いている」と思っているんだからすごい。ああいう熱意の固まり先生は、迷惑の程度があいまいになっているようだ。

 ボクの所属している少数派自立独立組合は教委などの当局に「迷惑」をかけることが、世の中のためになると考えている。だから、突然事務所へ押しかけてみたり、ちょっと大きめの声で「イイカゲンにしろ!」と発声の練習したり。とにかく「迷惑の固まり」になっている。でも、そのことを自覚してるから、帰る時はかならず「お騒がせしました」と言う。もちろん当局の「微笑み返し」はないが。

1999.1.15


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