きょういく大研究(1999.2.14)

いーめーる教育談議 第4回1999−03−14

個性的になれば波風が立つ!

 最近は、文部省や教育委員会が「個性化」とか「多様性」という言葉を堂々と使うようになっている。むろん昔から「自由と個性」は常に教育界の「金言」として貴重な理想とされてきた……実態とは無関係に。

 ところが、この個性的に教育するというのは語義矛盾があって、教育の営みというのは一種の画一化を含んでいる。画一化というと「悪しきこと」と思われがちだが、「基礎学力」とか「最低必要な生活習慣」などというのは、「画一的でもいいよ!」という前提がどこかにある。

 ボクは、教員として子どもたちに向かって「画一化」の営みをやっているのだが、そこから子どもがはみ出していくことこそが、自律的な自己教育だと思っている。だから、一切の画一化がイケナイとは思っていない。束縛に反抗(無視することも含む)していくパワーも生きる力だと思っている。

 ボク自身も、教員として個性的でありたいと思う。学校での画一化の流れに「反抗」しているとき、「ああ、ボクはみんなの画一化パワーのおかげで個性的になっているなぁー」と思うことが良くある。最近、オカザキ対策委員会のような管理職の一致団結がないので、ボク自身のパワーが低下しているのは、事実なのだ。

 こうして考えると「個性的な子どもを育てる教育」というのはめちゃくちゃ大変なことをやろうとしているのであって、職員室で「最近、本校の子どもたちは個性的な子どもになったわね!」などと、ニコニコとお茶を飲んでいる場合ではないのだ。

 ガラス53枚割られたとか、爆弾しかけたとか、自殺予告しているというのも「個性的な子ども」と言っていい。ボクらは、どうも「安全な個性」を期待しているようで、そんなもんは、「平凡な個性」としかいいようのないもので、個性をバカにしているような気がする。

 個性的なのは周りが疲れるはずなのだ。だって、個性的な子は予想がつかないから、教員はお大慌てになる。だからボクは個性的と言ったら、学校に革命のあらしが起こっても、文部省は「成果あり!」くらいに考えてもらわないといけないと思っている。

 「個性的は勝手にやることではない!」というのもどうかと思う。だって、勝手にやらなきゃできない個性もあるだろう。いちいち「×××やっていいですか?」と聞くわけ?ボクは、「個性的に責任取れよ!」と子どもに言うことはあるが、「許可制の個性」なんてのは「個性」じゃないと思う。許可は責任回避の道具である。

 それで思うのは、個性的に生きるというのは、すごく大変なんで、結構本人も努力していることが多い。以前、丸刈りに反対して長髪登校した子がいたけど、「おまえだけ勝手にやっていかん!」などという生徒や教員、地域の人がいた。しかしその子はそういう非難する人に比べたらよほど「勤勉な思考」をしたし、勇気も必要だったろうと思う。少なくともそれを非難していた人々よりもしっかり考えていた。波風の立たない個性などは「個性」とは言わないのだ。●

1999.3.14


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