きょういく大研究(1999.4.28)

委員長日記第15回(機関紙ASCU1999年5月号より)


 大阪の高槻市に四月『学校労働者ネットワーク・高槻』ができた。ネットワークだが、れっきとした組合である。
 ASCUと同じ小さな組合であるが、全国十六番目の自立労働組合の仲間である。結成大会にボクは参加したが、非常に楽しく感動的な会であった。詳しいことはまた会報でも発行されたらそれに詳しく掲載されるだろうが、色々文章化されたものとは違うところでボクは個人的な感想を述べてみたい。
 大阪は昔、原則的に強い組合だった。今でもそれはそれなりに強いのかもしれない。でも現場の苦悩が「組合の課題」になっているのかというとそれは疑問だろう。愛知の大組合は現場の苦悩を「組合の課題にしない」のが習い性である。「現場の苦悩を組合の課題にしたら、校長先生がお困りになる」という感覚を愛知の大組合は持っている。なぜかというと、愛知では組合幹部になることは、校長や教委主事への近道になっているからだ。
 高槻のみんなを見ていると、それぞれが現場感覚を大事にして、そこからなんとかしたいと思っている。それぞれの現場に課題や問題は山積しているが、それが明確になっている。その課題解決のじゃま者はだれかが分かっている。現場感覚とは誰が当面の敵になるのかがハッキリしているということである。校長だろう!管理職だろう!ヒラメ教員だろう!もし、それが同じ組合員だったり、元組合員だったら面倒くさい。大組合はそういうことがけっこう心配だ。「しがらみなんぞ!」いってバカにしてはいけない。
 自立組合なら、校長になりたがっている組合員などまずいない。ボクは自立組合というのは、校長のような当面の敵に「ひょっとしたら、付き合い方によっては、味方になってくれるかもしれない」という思いや期待を全くさせないというところにメリットがあるように思う。相手が「期待しない」というのはすばらしくいいことで、自分の自立を助けるのだ。
 「うるさい奴」というのは緊張関係を相手に強いるので、対等な「取り引き」しか受けつけないよ!という関係をつくることができる。校長の方が「偉い」ので、本当はボクらに関わっているのはヘンなのだが、自立組合は、対応を間違えると、魚の小骨のように「ひっかかると、うっとおしい」ので、それなりにきちんと対応しなくてはいけない。ふつうは、真剣に怒る大組合は、当局にとって恐いが、怒らない大組合は当局にとって「最高のうれしい仲間」である。
 高槻のメンバーは今「措置要求」を二件提出しているが、人事委員会は相当苦慮しているようだ。つまり、高槻ネット結成宣言にあるように「ひとりから始めていく」という原則は、具体的な行動に移ると、当局を相当苦しめることになる。
 一人二人でやれることをまずやるというのが、現代の一番効果的な「幸せへの道」のような気がする。多数派になる努力エネルギーは、相当必要で、今は量の時代ではない。一人一人の質を問う時代なのだ。
 そして、ボクは「自分さえ良けりゃいいじゃないか」という不謹慎な言い方をするが、それは、「自分さえ」良くならないのに、皆が良くなるはずがないという確信からである。「みんなの期待」ほど恐いものはない。
 いずれにせよ、高槻ネットの笑顔にボクはあらためて初心に帰ることができた。●

(1999−4−28)


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