いーめーる教育談議 6回(1999.5.15)

管理職の怠惰とボクの怠惰


 怠惰というものへのネガティヴなイメージが日本の社会にはある。学校は特になまけるということへの嫌悪で包囲されている。それは、体育会系のボクの経験からするとスポーツ社会の掟そのものでもある。「負けてもいいから、一生懸命やることが善であり、なまけて勝利を得ても人間としては価値がない」というような、一生懸命主義がスポ根人生には不可欠になっている。これが、そのまま教育の文体として子どもたちにたれ流しされている。
 だから、なまけるということは最大の悪であるということになる。ところが、往々にしてあるのが、熱意のあまり?の体罰や熱血教師の破廉恥行為である。「日ごろは子ども思いの熱心な先生なのですが……」という記者会見用の校長のリピートは、その延長にある。「いや実は、あの先生は、多分何かやらかすとは思っていました」という校長の弁は聞いたことが無い。しかしけっこうあるのだ!「やっぱ、あの先生でしょう、何かやると思っていたワァー」という親の声もあったりして、校長もホンネではそう思っていることも多い。
 しかし、管理職の諸君程、怠惰な人たちはいない。むろん管理職全部ということではないが、耳にするバカタレ事件ではそういうのが多い。先日もボクの学校の職員会で校長に質問をしたら、「昨年同様に進めたい」という。昨年同様などというのは答えではない。それは、「もう考えるのはやめたからな!」というに等しい。それが証拠に、さらに質問をすると、もうきちんと答えが出てこない。自分の頭で考えることをすれば、「昨年同様」なんてのは、一番主体性のない回答だということが分かる。ボクなど、同じような授業でも、昨年同様に見られないように、なんとかうまく差異化して子どもに「すごい!」と言わせるように努力している。つまり、怠惰というのは、主体性を奪うということであり、体育会系一生懸命主義はまさに、怠惰そのものなのだ。以前陸上競技の選手だった友人に、「一生懸命走って記録あげて、それって、すごく安易で怠惰じゃないの?」と言ってニラまれた。「思考を停止して、一生懸命になるのは怠惰である!」という視点をボクは提起したい。
 もう一方で、正しい怠惰というのもある。それは、一生懸命に教育実践をやると、その一生懸命な自分を肯定したくて、それに適応できない子どもをバカ呼ばわりするようになる教員もいる。あるいは、子どもができないのは自分の指導努力が足らないからだ!と思い込んで深く深く沈没していくことにもなりかねない。一緒に沈みませんか?などと言われたら最悪。こういうい状況はよくないので、もっと教員が怠惰になる方が、子どものためだ!と言えないかな?という考え方だ。「テストをするのが面倒なので、テストしないよ!」という怠惰は、序列差別に加担しないので「正しい怠惰」である!と言ってもいいんじゃないのかな。ボク適当にやるから、できなくてもいいんだよ!というのもあっていいんじゃないか。つまり、怠惰というのもボク流で言うと、省エネタイプの地球と子どもにやさしい怠惰ということになる。変ですか?けっこう真面目に考えているんですけど。

(1999−5−15)


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