きょういく大研究(1999.5.31)

きょういく大研究55号

『所見開示』で損なわれる程度の信頼関係??

  1.  指導要録とはなんだったのか?

     指導要録は、学校教育法施行令第三一条の「学習及び健康の状況を記録した書類」であり、同施行規則第一二条の三では「校長に作成義務がある」とし、文部省の通知(H三、三、二〇付け)では「児童一人一人の可能性を積極的に評価し、豊かな自己実現に役立つようにすること」とある。

     しかし、この要録は「予断と偏見を助長し、とりわけ非公開であることが前提であったので、差別的な表現を平気でしていた」と断じるのはボクの間違いであろうか?保存が五年に短縮されたときに、ボクはそれでも長過ぎると述べたことがある。実際に転出入の子どもが多い本校では、日本各地の学校の指導要録が、様々な方法で記載されていることを知ることができる。

     ボクにしてみれば、役にも立たないこの「公簿」が早くなくなってくれればいいな!と思うだけである。コレに、全力投入して書き込んだ未熟な時代もあったが、秘密裏に処理されるような公簿に、熱意など湧くものではない。最近は、知能検査記録を記入しない→知能検査そのものも実施しないが、ボクはあれだけはやりたくなかったし、実際に指導要録には記入してこなかった。妥当性のない「非科学的」な検査であり、かつ保護者に見せられないような検査結果など書く必要はないというわけだ。

  2.  全面公開の異議と意義

     今回の全面公開は文部省も教育委員会も異議ありのコメントを出しているが、これだけトンチンカンなコメントはさすがというしかないだろう。自分の指導要録を見たいという自己情報の開示において、いままでそれに反対する理由には、『開示することにより、公正または適正な事務執行を著しく妨げることになるんだよ』ということがあった。

     判例の代表的なものによると、

    「現行指導要録の記載内容によれば、……児童の人物評価ともいい得る評価が記載されているのであり、……人が自らあるいは自身の子供に対するマイナス面の評価を冷静かつ率直に受け止めることは必ずしも容易なことではなく、マイナス面の評価自体から感情的な反発や誤解を招くことが少なからずあるであろう」(東京地裁判決H六)


     名古屋市教委は「全面開示は指導要録制度の崩壊につながる。市の決定に従ったが、結果は誠に残念」と「話している」らしい。しかし「崩壊」といういい方がなんとも、時代感覚の無さを表している。ボクなどは崩壊したと思うなら、無くして欲しい!のだ。何が崩壊だ!市教委の「知る権利」や「情報公開」に対する意義理解の貧困さがまさに教委全体の崩壊と権利意識の低さをしめしているとしか言えない。

     つまり、指導要録が非公開だと、何がいいのか?これは公簿なのだから、「法令秘」にもあたらない。

     また、信頼関係が崩れるという「異議の論理」もある。

    「保護者又は児童本人が、評価等に対して反発や誤解をしたり、あるいは感情的になって、教師や学校との信頼関係を損なう場合があり得るところであり、……場合によっては、教師に対する逆恨みを抱いたりする可能性もあり得る」(前記裁判判例)


     実際に「忘れ物が多い子どもで、指導しても反省もなく、親も協力的でない」と書かれていて、親がそれを開示で見た場合、「やっぱりそうよね」と納得するか、ムッとくるか、と言えば、たいていはムッとくるだろう。で、それでいいのではないか!事実ならば。それは本来好き嫌いの問題ではない。その後、「でもね、次の年はぐっと忘れ物も減ったのよ」とか、「あいかわらずよ」と色々親にも言い分があるはずだ。むろん、「それは先生の偏見じゃないの」とか「時代遅れの価値観の教師」という批評もあっていいだろう。信頼関係というと、すぐ「めでたしめでたし」を考えるが、そんな甘くはない。批判的なことを書くときの「意義」はボクらの責任と裏腹なのだ。

     欠点を言われてうれしい人は少ない。どんなに信頼していようと、ムッとくることはある。それでいいのではないか。開示されたら困るようなことは「ウソ」か「偏見」か「差別」か「故意か悪意の不公正な記述」くらいのものだ。もともとそれは、開示されなくても「いけないこと」だ。

  3.  指導要録は、そんなに必要なものなのか?

     ボクたちは今、学校の壁を外からはがされ「丸見え」状態になってきている。先日の「生徒分類リスト」も同じである。つまり、開示してはいけないものを持たないということが重要になってきた。それは学校の権威で「ゴマカシてきたもの」がもう通用しなくなってきたという現実を認めるということだ。「子どもなら学校は来て当たり前」「勉強はして当たり前」「先生に文句言わないのは当たり前」ということから脱皮しなくてはならない。しかし、それは決して「やりにくくなった」のではない。やっと、学校が、教員が、世間並みのサービス業として、頭を使わなくてはならなくなった!と考える方が正しいのではないか。「昔はよかった」という「老いの繰り言」は、なんの腹の足しにもならないということだ。

     学校の情報公開の開示が進んでいくと、一方で、小手先のつまらない「重層的隠匿」や「形骸化」がすすむ。この指導要録も形骸化するのかもしれない。しかし、形骸化するくらいなら廃止した方がいい。要録などなくても授業はできる。それが証拠に、二年も三年もためて書いている人が結構いる。ボクなどはできるだけ短く所見を書いている。そもそも、あんなスペースにおさまるように、子どもを表現できるはずがない。要録は子どもとボクをバカにしている。 終わり

(99年5月25日職場で発行)


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