いーめーる教育談議 7回(1999.6.5)

信頼して裏切る

 先日、四年生の遠足につき添って行った。徒歩遠足なので、途中から参加した足を骨折した子と、足がちょっと不自由な子の二人を、皆とつかず離れずで、見守りながらの引率である。
 百六十余人がゾロゾロと並び、教員5人がその周囲をウロウロしながら、引率する仕事は、まるで、羊か馬の群れを束ねている犬のような仕事である。目的地に到着するとすぐに「お菓子食べていいですか?」「お茶のんでいいですか?」などと子どもたちが聞いてくる。でも、ニヤニヤしているだけのボクをジーっと見ているうちに、こりゃダメだ!と気づいて担任の教員のところへ聞きに行く。残念だが、今は専科教員だから、決裁権は無きに等しいのだ。よその人から見たら「変」に思うかもしれないが、お菓子やお茶が自由に気ままに飲めるのならこんな気楽なことはない。それにだれもガマンが美徳だとは思っているわけではない。そうでなく、集団でお茶、お弁当、お菓子を食べる時には、様々な要件が付帯するのだ。グループ、ゴミ処理方法、時間、安全、遊んでいい区域等々。だから、「どうぞ、ご自由に」というのは、教員としては言うのはやさしいし、ラクなのだが、あとが大変になるので、やはり、ここはしきたりにしたがって「しばらく待たれよ」となる。
 「先生、ジュース入れてきたんよ」というので、見ると水筒にジュースが入っている。それを知った友人が、「いいの?」と心配げに聞いている。ボクは「お茶じゃないといけないんじゃないの?」というと、「岡センは、去年いいって言ったじゃないの」というので、「去年は去年、今年は今年」と言う。すると、不信感に満ちた顔をしてボクを睨む。こういうのを信頼関係が崩れたというのだろうか?「もう、あげんよ」というので、「欲しいなぁー」と言いつつ、「でもな、ハッキリと約束破る時は、それを聞いたら困る人には迷惑かけんようにやるべきだ。ボクなんか困るジャン」と言う。
 遠足用のおやつも、350円以内という約束がある(まあ、約束と言っても一方的な教員側からだけの約束だから、本当に約束というのはおかしいのだが)。でも、その時本当に350円以内なのかどうか?などと教員は調べはしない。それを知っていて子どもたちは適当に買ってくる。「買い過ぎても食べられないよ」という350円的メッセージを感受しながら、それでも、堂々と食べれられるのは遠足くらいしかないじゃないか!という子どもの意気込みがあるから、350円は迷い道に入り込む。
 ボクらは、いちいち水筒の中が本当のお茶かどうかなどと調べるような暇は持たないし、それに意味も見つけない。でも、一応の規則や内規を、自分の責任でちょっと破ることを「奨励」しないで「見過ごす」ことはしている。
 大人と子どもも、人間どうしの「信頼」が間で揺れている。信頼しないのはさびしいし、かといって信頼に縛られるのもつらい。信頼の約束をそっと破りながら、それでも関係をつないでいく、そんな微妙なやりとりがある。

(1999−6−5)


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