いーめーる教育談議 9回(1999.9.3)

唐突に出会う大人としての教員

 仙波さんのように、自分の、ほぼ終了しつつある子育てを考えてみようとすると、思い出すことは、なにかしら、みんなホントで、みんなウソのような気がする。
 現在、娘は就職対策的にか、来年は大学院に逃げ?、息子は来年の高校入試準備とその「気分転換?」と称してのバンドの練習に忙しい。娘にも息子にも、進学する必要はない!塾へ行く必要はない!、ピアノのレッスンなんて金持ちのやることだ!、学校へ行きたくないなら行かなくてもいいから家事を分担せよ!等々のボクの父譲りの言い方で子どもとのつき合いをしてきた。彼らは保守的に、かつ、とりあえず、好きなことを、多少のガマンもしながら、よくやっている。まあ、ボクのような親を持つとどうも苦労するのは子どもの方かもしれない。
 娘は身体があまり強くないし、息子は食物アレルギーでそれなりにボクら親は苦労してきた。つらいことも時にあった。でもボクは自分の親に倣って、「口より手」という育て方をしてきたつもりだ。つまり、口であーたらこーたら言わないけど、実際に強力な安心と手助けを具体的に日常的にコンスタントにしようと決めてきた。とにかく、ボクは淡々と子育てしょうと思い、そうやってきた。
 学校で、同僚が「どういう親じゃ!」と時々口汚く言うことがある。そう言いたくなる親もたしかにいる。でも、ボクは一方で、家へ帰ればどんな形であれ「親−子」をやって生活してるんだよね。他人がとやかくいうもんじゃないと思う。反対に、学校に媚び、子どもの生活習慣や生活価値観の形成を学校に期待し求める親の方に「嫌悪感」を感じる。どんなんでもいいじゃないの。子どもなんて、朝起きて、ご飯が食べられて、なんか楽しいことがちょっとあって、夜はあったかいおふろにはいれて、「さあー寝るか」といって、グーグー眠れるならそれでいいじゃないか、と思う。喰う寝る遊ぶ!
 そして、教員と親という大人と子どもの関係から言うなら、大人が子どもに合わせて色々と育児や教育をしているつもりでも、実は子どもの方が、大人に合わせてくれているということが多いのではないか。ボク自身、自分の母親の「わがまま」や父親の「頑固」に小さいころから、苦労して「合わせてきた」という感がつよい。
 それなりに一生懸命、仕事として、教育的営みにエネルギーを費やしてきたが、ときどき、ボク自身が子どもたちに、おつき合いしてもらっているという気持ちになる。
 教員としてボクは、以前から「学校託児所論」を提起し学校生活そのものが教育・子育てだ!と考えてきた。教員と子どもが、お互い持たれ合いながら(多分、背中でね)、ものの考え方を交換したり、意地汚く給食を食べたり、大きな怒声を交わしたり、あいもかわらない読み書き計算のし方を教え合うという、そんな生活をするんだと。教員は「親のような世話」をしない、社会的な大人(他人)だけど、親同様に適当なつき合い方を学んでいく対象だ。子どもにとって教員は、親以上に、唐突に出会った大人・人間でしかないのだから。

(1999−09−03)


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