いーめーる教育談議 11回(1999.11.18)

「生き生きする」より「のんびり」したい!

 先日、職員会で冬休みの研修の話が出た。教員には自宅や図書館など学校外での研修が認められている。その中身は色々ある。早い話が、研究と修養なので、相当広い範囲で認めることになっている。
 ところが、管理職が「研修内容を細かく書いて欲しい」と提案したので、ボクは断固反対した。もともと、校外研修は、教員には「時間外勤務手当て」がつかないので、その罪滅ぼし的に出てきた制度である。だから、「まあ、いつも時間外に勤務しているから、休みのときはゆっくり幅の広い研究をして下さい」という意図の法的制度なのだ。
 教頭が「担当している学年クラスに直接関係のないことは研修とは言えない」というので、ボクは「そんなことがどこに書いてあるのか?」と聞くと、明文化されていないと言う。ボクはそこで、「魚ツリだって、修養として認められるだろう?」と聞くと、答えないで沈黙している。校長も沈黙して苦笑いである。「成績の処理も研修とは言えない」と提案されていたので、完全にキレテ、「教員が余裕のない働き方をしているから、今の教育状況を生んだんだから、あんたの言っていることは後ろ向きの話だ」と断じて認められないと言った。自分たちの都合のよいことだけは「きちんと」しようといい、つごうの悪いことは知らんぷりという、恥ずかしい仕事ぶりである。
 愛知では最近、校長が旅費の二重取りをして、17人処分された。しかし「名前を公表すると現場が混乱するので処分者の氏名は伏せる」と教育委員会は言っている。残念だが、最近は管理職の質が確実に悪くなっているような気がする。なんの役にもたたないどころが、教員の足を引っ張ることしか考えていない。事の「善悪」でなく、他校と「横並び」できているか否かで判断している。  「正しいことは勇気を持って行動しよう」と道徳の本に書いてあるのに、自分ができないということに痛みも感じない悲しい管理職だと思いつつ、疲れてくる。反面教師としてしか役に立たない教員がいてもいいとは思うが、反面ばかりでは、どこがまともなのかが分からなくなる。
 学習指導要領が変わり、総合的な学習なるものが導入され、各地で研究指定校が公開授業をし、そこに沢山の教員が集まり「研修」をしている。ボクもそこに参加したことがある。しかし、そこで展開されているのは、日常とはかけ離れた、お芝居であり、「子どもが生き生きしている」という幻想に酔いしれた、定型的な教育論議である。
 研究指定校の超過勤務時間の実態や、それに振り回されている子どもや教員の実態は全くでてこない。そういう公開研究より、日常のつつましい授業や子どもとのたわむれをボクは好むし、ほとんど誰も読まないような華々しい掲示物に囲まれた、大騒ぎ公開授業よりも、のんびり映画でも見ながら、その話を子どもにしてやる方がいい。あまり「生き生きしたこどもの顔」はあのヒットラーユーゲントを思い出してしまう。毎日を淡々と生きる教員として、子どもと向かいあいたい。
 キバッタ仙波さんに、脱力したボクをならべ、終わります。

(1999−11−18)


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