きょういく大研究(2000.3.1)

きょういく大研究58号

 日の丸君が代は教材たりうるか? その1

  1.  「日の君」問題は日本の歴史を問うこと

     昨年の法制化いらい、日の君(日の丸・君が代)問題は「決着」がついたかのよう見える。むろん愛知の義務教育学校は「昔から」一〇〇%実施で、法制化以前から「決着」がついているようなもんだから、今さら別にどうってことはない。鶴見俊輔が言うように、「大勢の定まった中で反対をつづけることの値打ちは大きい」と思う。
     少なくとも、日本が民主主義国家である以上、少数派を抹殺するような愚挙はありえないと「信じている」。ボクの愛国心は「少数派の人権と思想を保持する」という点においてのみ存立する。きちんと日本史を学んで、『事実とは何か』を考えるときに、日の君がかかえる問題は、単にハタとウタと言うことでもあるし、単にハタとウタではないということも同時に言える。

     これは第二次世界大戦(大東亜戦争)の時の「時局童謡」である。大政翼賛会等が募集した「大東亜戦争一周年/国民決意の標語」当選作『欲しがりません勝つまでは』に作詞作曲したもので、その四番。

     文部省が一九三六年に作成した『尋常小学校修身書』第三巻 教師用には、こうある。

     また、文部省が作成した、「昭和」一六年の『ヨイコドモ』上の三八ページには、こうある。ここで言う「テキノシロ」は南京攻略のことである。
     例えば、単純に、考えて、いやな思い出のある服を着て、好きな人と生活することはあまりしない。つまり、日の丸の旗それ自体に悪を観念するというのはおかしいが、その旗が持つ歴史と意味は十分学習するにたるものだろう。やくざが出入りに使った包丁をかざして、やって来たら、いくら「今度は、魚をさばくのです」と言われても、信じがたい。侵略戦争に活躍した日の丸をかざして「学校現場で強制」したら、「本当にあんたの国は反省したのか」と疑われてもしかたがない。

  2.  日本に国旗がないのも歴史ではないか!

     オリンピックで日の丸に感動する人がいてもいいけれど、正確に言うと、規則では「国旗」とさだめていない。つまり、オリンピックは国家間の競争ではないと「オリンピック憲章」に定められている。つまり、掲げるのは「チーム・選手団の旗」と規定されている。だから、今まで国旗をあげないチームもあった。
     日本の国を愛するということが、本当に誇りに思えるかどうかは、おそらく個々人違うだろう。経済戦争で勝利した日本が、今度は武器でなく、お金でアジアを侵略しているのではないか?という指摘もある。この国の在り方を学校で子どもたちに教えるという時に、日の丸の歴史をきちんと教え、自自公の強行採決によって「国旗」となったということもボクら教員はしっかりと記憶しておく必要がある。
     日の君に反対するのは「アカ」だとか、ニッキョウソという時代もあった。しかし、あえて今二十世紀最後の年に言うならば、国旗を持たない国=日本という、歴史をきちんと自覚的に反省した国ココニアリ!というのも、けっこうカッコイイように思う。
     そして、ボクは、裏の城山の詩のように、旗に結集することを無条件に「良いこと」とする「生き方」にも反対なのだ。それが、ボクの所属する組合の旗だとしてもである。
     なぜ日の丸が赤いのか。それは沈み行く夕陽であるからだ。あの時代の国のように。●

    (2000.3.1)



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