きょういく大研究(2000.4.23)

続・極楽とんぼ委員長日記 (機関紙『あすく』4月号)


 名古屋の中学校での五千万円恐喝事件がおきたとき、某テレビに取材を受けたが、ほとんどトンチンカンなコメントしかできなかった。いまも、たいした コメントはできないだろう。しかし、その事件のストリーはほとんど予測できたし、ここ一週間あまりの動きはその通りになっている。
 これからも、色々な事実が分かってくるだろうし、断片的な話も聞いている。しかし、関係者は悲惨な結末を迎えるしかないだろうし、子どもも親も地域に住み続けることは、けっこう大変なことにもなるだろう。
 不謹慎かもしれないが、面白かったのは、教育関係者のコメントがほとんど同じような質のものばかりであったことだ。ようするに今回の事件に、「評論家」的態度は何も効かない……ということがはっきりした。
 いや、それ以上にボクは、もっと単純に、「もし、ボクが親だったら」「もしボクが担任だったら」「もし、ボクが警察だったら」という素朴な想像力でこの事件に向かうべきではないかと思った。
 その時「もっと生徒の心に触れるような関係を作ることが大切です」と言われても 「もっと、早くに対処していたら」「もっと早く周りに相談していたら」といくら「あとで」言われても、頭を下げて「はぁー」とため息混じりに言うしかない、もしボクなら。
 どう見ても、報道や評論家の態度は、このネタでどれだけ視聴率が稼げるか、あるいは言葉が生産できるか、そういうことにウエイトが置かれているのではないか?
 学校に相談された時に、もっと立ち入って親と話をしたり、家庭やその子たちのいる盛り場へ出向いて話をする「労働時間」と「給与」と「人」がどうして十分にないのですか?もし、身を粉にしてそういう指導をして、その教員自身の家庭が放置され、息子や娘がグレテしまったらどうしてくれますか?不登校の子どもの生活指導の責任はだれがどのように取るのですか?きちんと危機管理のできない校長や、校長会組織、教育委員会がどうして免罪符的な会議や集会を開いたり、通達文書を出して終りなんでしょうか?なんで、末端が「詰め腹」を切らされるような形でしか収拾できないのか?
 ボクは自分が当事者になったと仮定する と、こうしたことが色々問題として出てくる様な気がする。
 地域の人たちも、「自分ちでなくて、よかったわぁー」と思っているんでしょうか。加害者と言われる一人の子の母親が「うちの子は、七月から、じっと家の中にいて出ないようにさせていたんです、関わらないように」と悲痛な声で話していた。しかし、そうじゃないだろぅー!それが問題じゃないだろ。なんか運が悪かったって感じなの?
 ボクも意気地はないが、この地域がスキだから、なんとか住み続けたい。なんとか、お互いに助けあって生活し、活動するしかないと覚悟を決めているところだ。
 単純だけど、金を稼がない人間が金をたくさん持ってることって、そうとう変な、危険なことだ。この事件、道徳や倫理の問題ではない。大人の意気地の問題かも? ●

(2000−4−23)


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