きょういく大研究(2000.5.30)

社会臨床総会シンポジウムのまとめとして :岡 崎  勝


○『カウンセリング・幻想と現実』(上下)を読んだこと

 本著を10日くらいで読んだ。こういう難しい本は、たいてい1日決まった分量(約50ページくらいづつ)を自分のノルマとして読む事にしている。それは、ある種の仕事本だとボク自身がとらえているからだ。ノートも取った。淡々と読むことに徹した。難解な語句はそれなりに調べた。引用文献もいくつか実際にあたってみた。たくさんの執筆者だから、ある程度はまとまった思想なり方法なりが見えるが、徹底して出ているとは思えない。だいたい、本書の編集会議があるにしてもそんなに時間をかけてやれるとは思えない。日ごろ顔を見ている人たちが、ある一定の信頼関係の中で、各自が自分の一番書いてみたい事、書くべき事を書いたのだろうと思う。若い研究者の方々もたくさんいてそれなりに熱を感じる個所も多くあった。
 大まかに本書で気づいた事を書いてみる。当日のシンポではそれらに触れることはできなかった(本当は午後に触れるつもりだったが、はかない夢だった)ので、この場をお借りする。
 林さんのロジャーズの教育制度解体への言及は大変おもしろかった。林さんはロジャーズが学習者中心の考え方である点を明らかにしつつ、共同体の重要性を語っている。そして最後に文部省「生きる力」への批判をしつつ、一元的な管理強制の学校を指摘している。その大方は首肯できるが、ボクとしては一つの危機感を対置させてみたい。それは、自由選択や個性化という今回の教育改革が、新たな一元的制度として立ち表れている点である。「選択の自由」というのは選択しない自由を奪う。あるいは、「選択の自由」は選択する事に自由という幻想をいだきやすい。これは、価値肯定的なディスクールの中でうずまいているワナなのである。ロジャーズはこのことを考えていたのだろうか?それが気になった。
 これは中嶋さんの論考の中にもつながるのだが、メタモルフォーゼと管理で述べているように、新しい管理技術が個人の内面まで降りてくる管理の糸としてのカウンセリングととらえると、今まで肯定的に使ってきた「自立的主体的」な生活のありようとは一体どこが違っているのだろうか?どこで区別していったらいいんだろうという問題が出現する。
 井上さんの論考の中でボクが聞きたかったのは「資本主義というシステムは本質において絶えざる拡張を必要としている。再投資による資本の増殖を目的としたシステムだからである。」なるほどそうなのか、マルクスも大手スーパーマーケットの経営者もそんなようなことをいってたあなぁー、「人間のためではなく、拡大再生産それ自体のために拡張はなされる。」(上:230頁)うーむ、でも「人間のために」再生産してますって、みんな企業は言うぞ……へんだな。そのあたり、本当の人間ためとウソの人間のためがあるのか?またあるとして、どう違うのかが知りたかった。
 もう一つ、佐々木さんの論考からボクが思いついたことがある。それは、資格と専門性である。専門性そのものが、一つの観念だとして、致命傷を負っても生きのびたい人は、医療技術と手術の成功率を専門性のものさしにするだろうし、安らかに死にたいと思う人は、手術の技術より、死ぬ事が怖い事ではないと説教するうまさを専門性のものさしにするだろう。資格はそれを、いくら細分化しても、構造的にはどんどん限定的に専門性を狭くする事でしか存立し得ないのだろうと思う。こうなると、専門性とか資格なんて空虚なものでありながら、しかもある時と場所では、すごく力を現実的に発揮できるんだろうかと思う?これについてどう考えられるでしょうか?
 さて、日本社会臨床学会という学会の在り方については、野田さんの提起や、午後の論議で色々と話題になった。でも、ボクは率直に言って、そのことに興味関心がない。それは、そのことが大事だと思っている人が、しっかり考えて提起していけばいいと思うからだ。むろん、野田さんの提起や学会の会員が重要な問題と思っている事に対しては異議はないが、ボクは学会の在り方を問い質しに参加したわけではない。逆に、そんなことは一任したいタイプなのだ。シンポ当日も一任して黙っていたつもりである。
 ボクの一番言いたかったことは、この本の「見てくれパワー」である。上下巻合わせて重さ1kg、計668頁がその存在をかけて訴えてくる「権威」である。権威主義はよくないと言わないで欲しい。筆者らの意図を離れて本書が何を表現しているかを、話したかった。
 まず、基本的に、カウンセリング批判の集大成の本である事は間違いない。だから、「カウンセリングを語るときに、この本の筆者らの論理と厳しい分析を踏まえないでものをうことはできないであろう」という具合に使うことができる。ボクなんか「これも読まないでカウンセリングがいいなんて言えるのぉー」とニヤニヤしながら、聞こえるようにつぶやける。いい人なら、すぐに本屋に注文だろうな。
 こうした書き言葉の文化はいわゆる文化闘争なのだから、現場的にいうと、「どうだまいったか!」という装丁がいいのである。しかし、一般的に内容のない本が多過ぎるので、賢明な読者は、読む時間がもったいないとばかり「あっ!また針小棒大な話を、難しい専門用語を並べて権威主義的にインクと紙をむだ遣いしているな」と考えるのだ。本書が、その手の本と一緒にされるとすると、そうとうな危機である。むろん、本書がそのままで、ダーティーな仕事で疲弊している学校労働者の睡魔をしのぐ興奮をよぶかというと、それはむつかしい。しかしながら、渡部千代美さんの報告のように、ごく素朴なところから問題を見て、深部へ突き刺さるようなものは現場の睡魔にいいセンで闘えるような気がする。
 こうした、内容的な問題もさるところながら、見かけもやはり重要なのである。挿絵やカットがない!笑いが取れない!という現代本の流行をことごとく拒否した本書が、その中身について論議するまえの、ごく庶民的ではあるが、重要な問題を今回、もう少し言いたかった。そして、そのことは、批判の枠組みを検証するときに、どうしても除外してしまいがちなことではないかと、あえて非難覚悟で言うべきだと思っていたのである。
 さて、当日のシンポは、忍耐の一字であった。遅れて始まったので、ボクは一人30分だと、昼食が単純に30分遅れてしまうと思い、そんなことは許されない、腹が減ってはいけない。生存権をかけても給食の時間、いや昼食時間は死守すべきだと思った。事実、お腹がすいていたし。そこで、ボクは持ち時間30分を15分に減らして話した。だから、のこり15分を次のパネラーで使ってもらおうと折半したのである。ところが、最後のパネラーもきっちりと30分話して、午前の部の終了が15分も遅れたのである。ボクは、ここは信念の強い人の集まりなのだなと感心した。「自分で勝手に短くしておいて、文句言っちゃいけないよ」と先祖の声がして、ボクは反省的受容的態度で応じた。
 さて、午後はまた、二時間忍耐である。フロアーからの質問がボクに向けられなかったのは、同情してかどうか分からないが、まあ、質問されるほど自分で話しちゃいないからね、仕方がない。ただ、フロアーの人もけっこう、話が長くてボクは、この会は一人当たりの平均会話時間が長い学会なのだと、あらためて思った。むやみに時間に厳しい会もイヤダが、これだけ、寛容な学会も珍しい。ボクは自分が関わっている会が結構時刻時間に厳しいので、試練だった。パネラーを交代すべきだったのではないか?そう思わざるを得ない。そして、長い話は、だれも聞かないと信じているので、みんなが静かに聞いているのに驚くと同時に、「もういいかげんにしてくれないかなぁー」という聴衆のオーラがボクには感じられたような気がする。気のせいかな?
 さて、今後もこの本を読み続けていこうとは思っているが、多分、現場の複雑系の中でボク自身が料理しながら読んでいく以外ないのだろうと思う。敵は我にあり。

(2000−5−30)


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