きょういく大研究(2000.8.15)

第1章 良い子悪い子フツーの子?


  1. やかましい子どもは「悪い子」か?

     授業中にやかましいクラスは学級崩壊だ!という親がいた。やかましいから学級崩壊だなんて、ちょっと安易すぎる。そんなこというなら、授業参観での親のおしゃべりや、喫茶店での井戸端談議だって、そうとううるさい。中年女性集団の飛騨路の旅的ワイドビューしなの7号も相当うるさい。地下鉄東山線の女子高校生のケイタイもやかましい。
     そもそも、静かな子どもなんて、寝ているか死んでいるかのどちらかだろう。あるいは、口一杯にキャラメルコーンを突っ込んでいるか。「やかましい子どもたちは元気な子どもたちである」ということをまずきちんと認めなくてはならない。「いつも静か」にしないと苛立つ教員も多くいるが、ほとんど、胃に穴が開くくらいに怒り続けている。だから、やかましくてもカリカリせずに、とりあえず、やかましい=元気=生きている=安心という連鎖反応をしておこう。
     むかしの子どもは静かだった!というノスタルジーに生きる「24の瞳」的な教員もいるが、それは本当かい?単に、その教員が怖かっただけじゃないのか?ボクはそうだった。とにかく怖い教員の前では静かだった。威厳のあるその崇高な教員のまなざし……なんていうのでなく、その目の光りがドラキュラのようで怖いし、何されるか分からない恐怖からの震え、そんな時には静かにするしかない、とうことだった。 夏でもないのに、黒いサングラスをかけ、野球部だったボクを睨み付けながら指導してくれたあの先生……、本当に怖かった。いわゆるやくざさんと同じスタイルで、肩で風を切っているあの先生の授業は静かだった。本当に静かだった。
     ところが、今はそんな「ドラキュラのような光る目」はできない。そんな目をしようものなら、不登校が増えたり、「先生、もっと子どもが楽しく学校へ来られるようにしてください」などという親たちの厳しい批判にあって、あえなく沈没するのがオチだ。
     しかしながら、だからと言って、「大いにやかましくていいよ」などとはいわない。そんなことをしたら、教員の仕事がなくなってしまう。一応は、勉強をしなくてはならない。静かにしないと、勉強と休み時間の区別がつかない。伝えたいこともある。そこで、ボクたちは一応静かにしてもらう努力をする。それが、また、けっこう大変なんだな、これが。ボクは昔から子どもを静かにさせる方法というのを、先輩教員から教えてもらってきた。「一、二発、ブッとばせば静かになる!」という乱暴な懲戒免職的方法もあるが、それはちょっとできない。
     たとえば、「はーい、みんな、授業の前に思いっきりやかましくして、今のうちに、大騒ぎしていいよぉー、でも授業中は静かにしようね」などという、ガス抜き型がある。これなどは、意外と効果があるが、結局、その時一番うるさくしている子どもが、やはり、本番の授業でも静かにはできずに、ほとんど、常時うるさい状態になっていることが多い。ちょっと、むなしいこともある。
     また、「鈴をリンリンならしたら、静かにする約束ね」という、ちょっと上品な感じのサイレントベル型もある。しかし、静かなときには、鈴を鳴らす必要がないし、うるさい時には、鈴のような静かな音は聞こえないという致命的な問題がある。鈴を振り過ぎて、壊してしまうのがオチ。それに、教員は勝手に「約束ね」といいつつ、「守れないよ!」という子どもの声は聞かない。本人の承諾も得ないで勝手に保険に入るサギのようなもんだ。
     また、「先生が、手をパンパンパンと三回鳴らしたら静かにしてね」というのも、始めのうちはいいかもしれないが、次第に、パンパンパンがパンパンパンパン、パンパンパンパンパンパン……となり、幾つかわからないようになり、それに怒りが増幅して、気がついたら手が真っ赤になっていたということにもなる。
     さらに、「あっ、あれは、な、な、なんだぁー」と言って、窓の外の遠くを指さすと、子どもたちが、ちょっと目を向けてシーンとなるという方法もある。。しかし、これも、度重なると、ほとんど無視されて、「バッカみたい」という軽蔑に変わる。
     あとスゴイのが、笛を首に常時ぶら下げていて、やかましくなると「ピーピッーピーッ」と鳴らす先生もいる。これなんか、すごく「笛がやかましい」ので、隣のクラスの教員から、その教員の方へ苦情が来ることも多い。
     「先生は、声が出ないので、小さい声で話します。だから、みんなも小さな声で話してください。静かにしてください」と黒板に書くと、ちょっとの間は静かにしてくれる。しかし、油断して、大きな声を出すと、「なーんだ、先生、大きい声がでるじゃん!」と言って、以前にも増してそうぞうしくなる。
     結局、子どもたちに「どうしたら静かにしてくれるの?」というと、「先生がやさしすぎるからダメなんです」という。しかし、「やさしくない先生は嫌い」とか言われて、どうすりゃいいんだ??とにかく、教員は、静かにさせるのを、すごく苦労しているのである。
     うるさいと感じるのは、それぞれの基準というかレベルがある。道路の騒音公害とおなじで、「60デシベル以下なら生活に支障はない」と言われても、うるさいと感じれば寝られない。一方で、テレビがガンガンなっていても、泥のように眠れる人もいる。ボクなどは相当うるさくても仕事はできる方だ。ところが、どんなに小さな音でも、イライラする音はある。友だちが小声で何か話している時に、「ひょっとしたらボクの悪口かもしれない」と思えばきっと、うっとおしいと感じるだろう。だから、やかましいという時にはその場の、その生活の、自分を含めた人間関係が重要な意味を持つ。
     ボクたちは、時々、同僚が授業をやっているのを研究する「授業研究会」がある。その時に、静かな教室を「統制がとれていて、みんな集中している」ととらえるか、「みんな消極的で活気がない」と見るかは、その教室の授業の子どもたちの音量ではなく、質である。
     静かにするということは、あくまで教える側の「都合」である。子どもたちにとっておしゃべりとは、まさしく活動していることにほかならない。みんながシーンとして教員の指示や説教を聞いていなくてはならないという前提自体がすでに間違っていると思う。それがいいと思う教員もいてもいいが、ボクはそういう考えをもっていない。うるさいくらいでちょうどいい。ボクの話を聞いていないなら、自分で隣の子どもに「ねえねえ、いま先生ってなんていったの?」でも良い。それくらいきちんと友だちに聞ける人間関係を作っておけばいい。むろん、ボクは「聞いていなくてもいいよ」とは決していわない。なぜなら、聞いていなくても良いことなら、最初からボクはしゃべらない。「静かにして、聞いて下さい」「静かにしろ、バアロー!」と65デシベルくらいで話しを聞いてもらえるように努力はする。しかし、みんなが全員シーンとして聞いていないと話をはじめないというような完全主義ではない。いまから、ちょっと大事なことをいうから聞いてよね!と言っても静かにならないのは、確かに困る。しかし、それでも静かにならないことがあるだろう。でもそれは、多分、本当に大事なことではなかったりするので、子どもが「またか」という、「聞かないよ的条件反射」になっているからだ。結局、大事というのも、教員の勝手な思い込みだったりする。大事だなんていうけれど細かい規則や、お説教、偉そうな自慢話、愚痴……そんなものではないのか?
     職員室の朝の打ち合わせでも、あっちでペチャクチャ、こっちでペチャクチャという時もけっこうある。でも、よほどでないかぎり「静かにしてください」とはいわない。それは聞いていなくても、まあなんとかなるだろう!という気分だからだ。世の中、そんなにシーンとして聞かなきゃならないことばかりではない。子どもたちに、静けさばかりを強要することで、本当に大事だと思っていることが伝わらないこともあるのではないか?そして、静かな子どもたちはひょっとしたら、何も聞いていない、何も分かっていない、何も考えていない、何もやる気がない……だから、静かなのかもしれない。そう思ってみることも必要だろう。強制され、虚無感に満ちた「沈黙」には個性的な生などみつけようがない。
     「今日は、すごくおもしろいことがあってさ!」「昨日のドラマ視たぁー?」「ねえねえ明日さ、お休みだね」と話しかけるとき、ほとんどの子どもたちは、こっちを向くか、耳を傾けてくれる。「いまから、ちょっとおもしろい授業をしてみたいんだけど」という出だしなら、まず、集中してくれる。つまり、自分が何かおもしろがることで、子どもと時間を共有することが、うるさい子どもとつき合う第一原則だと思う。

  2. 早くできるこは「よい子」?

     学校は、とにかく早くやることを子どもたちに要求する。ボクも大いに反省しているのだが、自分の子どもにも「早くしなさい!」と朝の出勤と登校「騒乱状態」である。多分たいていの子どもたちは「早く、早く、早く、早く」の嵐が吹きすさぶ中で、生きているのだろう。
     急がせるとあまりいいことはない……ということをボクは知っている。むろん、早くやってもらわないと困ることも多い。しかし、急がせる必要のないことまで急がせてはいないだろうか?
     テストでも、急がせることで子どもの意欲をなくさせることがけっこうある。たとえば、あまり学習が得意でない子が、「ちょっと、今日のテストは、頑張ってみるかな」と思っても、もし教員が、「じゃあ、このテストは25分くらいでやってください」などというとどうだろう。良くできる子、つまり要領のいい子は、25分だって長過ぎると思うかもしれない。しかし、得意でない子は、いくらやる気になっていても「えー、25分、無理だよ。」という思いが強くなる。そして、「もう、頑張ってもどうせ時間内にはできやしないから、やめとこ……」ということになる。これは、優等生的な、完全無欠のおりこうさん的道徳なら「何を言っているんだ!ぎりぎりまで、精一杯がんばることが大事なんだ!」と言うことになるだろう。しかし、現実の子どものホンネはそううまくはいかないものだ。
     計算の練習問題などを子どもたちにやってもらうと、しばらくすると、必ず「できたぁー」と大きな声で言う子がいる。この子は、「早くやったんだから偉いダロー!」という気持ちがあり、「どうだ、みんな、私はすごいのだ!」と目立ちたいのである。そういう子どもは、それなりに頑張っているんだから、まあ、しかたがないだろう。しかし、その声で、まだやっている途中の子どもたちは、様々なことを思う。「あー、もうできたのか、早いなぁー」「あー、一番を取られたぁー」「すごいなー、もういやになるな、まだ、半分しかやってないぜ、俺は」「わたしなんか、やっても無理だわ、あの子とは頭の構造が違うのね、あの子を目立たせるためにいるようなものじゃないの」などなど。こうした複雑な思いは、学習への姿勢をつくる。
     しかし、世の中、早けりゃいいってもんじゃない。ボクはこの、早くやることに大いに異議がある。とりわけ、子どもたちには、早いことが良いことだという迷信を植えつけたくない。そこで、こんな話をする。
     「新幹線はとても早い、しかし、線路の近くにある畑で手を振る農家の人がいても、それをみることはできない。しかも、こちらが手を振っても応えてくれないだろ。早いことが実は面白みをなくしてしまっているんだよ。」
     むろん、目的に合わせて、早さというのは必要になるだろう。しかし、学校で生活する子どもたちを、いたずらにせかせたり、競争させたりすることは無意味というよりは有害ですらある。
     算数で計算や文章題を解く時に、その数字をイメージしながら考えるなんてことは、急がせたらできるはずがない。しかし、たんなる45+36という計算でも、45人いるところへ36人がやってきたのか、45人と36人の二つのグループが一緒になったのか、そんな実際の生活や具体的なイメージを持つことが、数字を扱う時にとても大事になってくる。たんなる計算なら、算盤や電卓の方が早く、正確に決まっている。「センセイ、ぼくは45円持っている時に、お母さんがおつりのハンパを36円くれるって感じです」と言う子を担任したことがある。その時、みんなは一瞬シーンとなり、フーンそんなふうに考えるのかぁと感心していたことを思い出す。「千円もって、、450円のチョコレートを買いに行く時の感想を書きなさい」と算数の時間にやったことがある。そのとき、子どもたちは「これは算数の授業なのですか?それとも国語なのですか?」と聞いてくる。その時にボクは、「あのね、生活の中で買い物をする時には、今日のおかずは千円以内にどうやったらおさまるかしら、とか、明日は給料日だからちょっと豪華にしようとか、考えているだろ。計算や文章題にも、いろんな思いや感想があるのさ。それをちょっと想像してみてくれよ」と話した。すると、ひとつひとつの計算が「意味」を持つようになる。むろんすべての計算をそうやっているわけではない。しかし、単なる計算競争だけをボクはわざわざ教室でやる気はない。
     学校の学習は全般的に「早さ」を要求する。そのもっとも良い例が、知能テストである。学校で知能テストをやらされる子どもがいるが、実は知能テストは「早く、正確」にする子が成績がいい。しかし、例えば、そこで、色々悩んだりするととたんに困るのだ。「男の赤ちゃんはお兄さん。では、女の赤ちゃんは何になる?」と聞かれて、すぐに「お姉さん」と答える子どもが「よい子」になるらしい。しかし、自分をかわいがってくれたおばあさんとか、おかあさんとか、いもうとという答えもあっていい。「類推して比較すればお姉さんに決まっている」と専門家はいうかもしれない。しかし、それは、パターン化された、おきまりの、極めて平板な、かつ面白みのない答えではあるまいか。
     早いと言えば、クレペリンでの適正検査というのがある。ボクはたまたま、大学の附属高校であったので、毎年、教育心理学の実験のためなのか、クレペリン検査をやらされた。それは、一行に数字がいくつもならんでいて、となりの数字との和の一桁目を書き込む検査である。それを、時間でくぎり、それらの数列の何行かをできるだけ、早く、たくさんやることになっている。しかし、ボクらはあまりのばかばかしさと、いたずらゴコロで、全部おなじ数の計算だけやって、時間が余ろうと知らん顔をして、そのまま提出していた。そして、その結果、「異常な性格」という判断が下され、生徒指導の教員に叱られ(なぜ、生徒指導教員なのかいまだにわからないが)、担任に苦笑いされ(良い担任だった)、してやったりの気分を味わった。早く、正確であることが、いかにつまらないことかを知っていたのだ。ボクらは機械じゃないんだ!という反抗だった。
     「よく考えなさい」と言っておきながら、急がせて「早くやりなさい」という矛盾は、学校のいたるところにある。「発想が貧困よ、もっとじっくり考えなさい」といいながら、「いつまでグズグズしているの、時間がかかるわね」と叱っている教員も困る。自分の矛盾と無謀さに気づいていない。今まで、いつも早く早く早くと追いかけることは、子どもたちに、考えることを「放棄」させる。じっくり考えようと思っても、急がされ、ある答えを期待されているなら、自分で考えることなどバカバカしくなるのが当然だろう。 現代社会では、ゆっくりとやっていると、他人との競争に負けてしまうことが、確かに多い。しかし、徒競走的な学習は、結局のところ、勝者として得るものも多いかもしれないが、失うものも数知れない。人より優れているということが、意外と勘違いだったりする。例えば、漢字がたくさん、はやく、正確に書けるということが、小学校のうちは大事にされる。ところが、そういう優等生が、大きくなって、仕事をする時に、どれだけ意味があるかということは検証されていない。漢字が分からなければ、辞書で調べればいいのではないか。ワープロやパソコンがあれば、「きれいに書ける」。つまり、漢字一つが早く書けることは、それ自体ほとんど社会的な意味のない、趣味のレベルだと思う。漢字が早く書けるということが、よい文章が書けるとか、明確な事務的な文章表現が優れているということではないのに、なぜか勘違いして、「国語ができる」と思っている子どもは多い。早く書けるより、漢字の面白さが分かる方が良い。ゆっくり漢字を見つめながら、意味と音を味わうこともあっていいのではないか?
     学校における早さということは、現代の生活や社会の優先的な価値観を表しているのだろう。しかし、今の社会が、お金や能率を優先し、「欲望」「快感」「優越感」など、人間の生活を大きく左右する「感性」を、私たちはマスコミや学校から「教育」という名で押しつけらているとはいえないだろうか?急ぎ、時間を節約し、効率性を追及することで、子どもの生活が充実するとは思えない。多分、教員も子どもも親も、もっとゆっくり自分の子どもをみつめ、一緒に生活することで効率だけの仕事の進め方に異論を唱えるようになるだろう。ゆかいで、興味を引くものを前にすると、子どもは、時間も忘れ、自分の仕事も忘れて、取り組んでいく。回り道をいっぱいすればするほど、豊かになるという事実を今一度、教室の中で考え直す時期に来ていると思わずにはいられない。

  3. 忘れ物はなくなるのだろうか?

     「さぁー、次の時間は、お習字だからね、道具を出しておいてくださいねー」とボクはいい、その後に「それで、もし、忘れた人がいるなら、隣のクラスとか、他の学年の人にかりてきてください」とつけ加える。そのつけ加えがないと、子どもたちは「あーっ、忘れた」「えー、どうしようか?」「忘れた人はどうするのですか?」という矢継ぎ早に質問が襲ってくるからだ。ボクは、「まあ、忘れたものはしかたがない。どうするかは、自分で考えて下さい」という。もちろん、貸せるものや、余分にあるものは、子どもたちに提供する。しかし、ないそでは振れないので、あとはなんとかしてもらうしかない。
     ところが、この忘れ物には色々な、問題が含まれていて、意外とおもしろい。つまり、今どきの学校を象徴する、おおいなる課題なのだ。
     まず、今、子どもたちにとって、忘れるということは、あまりおおきな意味をもっていない。以前は、「君は、いったいどういうつもりだぁーーAAAA」と厳しく担任が怒り、頭をゴン、あるいはコツンとしたものだ。ひどい時など、「一つ忘れるごとに、一発尻ペン(おしりたたき)だ」とか、「廊下で立ってろ!」ということもよくあった。ところが、その時は子どもの方もけっこう事情が複雑で、貧しくて、お習字の道具が買えなかったり、工作で使う「きびがら(おおーなつかしぃー)」や画用紙が買えなかったりした。つまり、貧しさや大人の事情(子ども自身のいたらなさとは別の理由)で、で忘れる(ことになる)ことが多かった。40年くらいまえのボクの子ども時代には、忘れる子どもは一番忘れていなかった。「お金がないから、持っていけない、どうしよう」なのである。
     ところが、日本は一応豊かになり、お習字の道具を買えない子どもは減った。そして、先生もゴツンができなくなり、廊下へも立たせられなくなり、家へも取りに帰らせることはできなくなった(一人で家まで行く途中で交通事故が起きたら学校の責任が問われれるのです)。忘れ物一つで漢字百字練習などということもしない。つまり、忘れる必然性が薄くなったのである。ちなみに、学校の忘れ物の収納箱には、有名な商標タックのついている「上着(ジャケットか?)」から、カーディガン、傘、ピアス、お習字の道具セットなど、たくさんある。全部、落とし物ということは名前が書いてないということだ。そのまま、バザーができそうである。子どもたちにとって、忘れることの罪深さなんてのは、フェザータッチ(軽い軽い軽いっ!)ということになる。
     それに、もう一つ、学校はとにかく「学習用具」が多過ぎるのである。それも、毎日持ってくるものから、週に一度持ってこなくちゃいけないもの。時々必要なものなど色々ある。たとえば、ボク自身が子どもたちに頼んでいるものをあげてみよう。
     筆記用具(鉛筆、15cmくらいの定規、消しゴム、赤ぺん、青ペン、下敷き)、色鉛筆、30cmものさし、三角定規、コンパス、工作セット(はさみ、のり、ボンド、新聞紙、カッターナイフ、セロハンテープ)、漢字ドリル、計算ドリル、連絡帳、自由落書きノート、各教科の教科書、副読本、ワークブック(練習帳)、プリント綴り、体育の服(赤白帽子等)、上履き、体育館シューズ、絵の具等、習字道具、裁縫セット、部活用バッグ、給食用ナフキンと箸、うがい用コップ、歯磨きセット、ハンカチはなかみ、名札、たて笛、鍵盤ハーモニカ用歌口(学校用のをかりるために、自分の口に触れる所だけは自分のものを用意する)など。
     まだこれ以上に、その時々に、授業で使うものを用意する必要がある。例えば、発泡スチロールや端切れ布、針がね、バック、紙袋、墨捨て用の入れ物、ぞうきん、タオル、水泳用具、集金用の袋、家庭科調理の食材、読書用の本、とにかく、ボクら教員ですら忘れるような事態もおきる。まあ、それだけ、学校がいろいろな教育活動をしているということになるのだが、それを十分支えるだけの学校のシステムが整っていないということにもなる。家から持ってこなくていいような教育材料が、学校に整っている限り忘れ物は問題ない。ときおり、事務職員の中には、「個人に渡すものは個人負担です。集団で使うものは公費でかえますぅぅぅー」とはしたなく叫んでいる人がいる。しかし、そういう個人か集団かなどという現実味のない戯言は、まったく有効でない。なんでも杓子定規に子どもの実態や教育の実態を見ないで、お役所の学校派遣小役人よろしく、やる気の足を引っ張る人もいるのだ。
     さて、こうした忘れ物は基本的には、「しない方がいい」ということはその通りなのだが、できるだけ忘れないような工夫と、忘れたらそれなりに何とかする方法を身に付けておく必要がある。教員サイドとしては、あまり、たくさんの持ち物を要求しないということは必要だろう。また、よくあるように、あまり細かく指示をしてしまうと、それについていけない子どもは、家へかえってからトンチンカンに材料や道具をそろえてしまう。持ってきても役に立たないどころか、先生にしかられてつまらない思いをするだけになってしまう。
     忘れないようにするといっても、連絡帳に書いたり、プリントに印刷したりしても、その連絡帳を見るのを忘れたり、プリントをなくしたりということもよくあるので、あまり期待せずに子どもたちに連絡し言い渡す。ボクなどは、9割が忘れずにいたら、とってもうれいしが、まあ7割もってきてくれればとりあえずOKとする。
     子どもたちには、借りられるものをきちんと誰かに借りるとか、自分の持っている範囲でなんとかつじつま合わせをするとか、隣の友だちを手伝うとかする。そのとき、一応、「ちょっとまずかったなぁー」という気持ちが態度に出ているということが必要なのだ。 それから、重要なのは「やりもらい(やったり、もらったり」するような人間関係をつくるということが大事だ。つまり、日ごろから、「余分にある人は、ちょっと忘れた人のために多めに持ってきてくれないかな?」と頼むといい。教員の中には、なんでも用意してしまう人がいる。しかし、教員が用意すると、それを簡単にあてにするような子も出てくるのだ。ときどき、授業参観でスリッパを忘れてきた親が、勝手に学校の倉庫やロッカーを開けて持ち出し、あとは知らん顔していることがあるように(本当にあるんだからね)、また、「用意して下さい」と案内に書いてあるのに、自分の忘れたのを棚に上げて、「どうしてこの学校は不親切なのかしら?」とわめく人もいる。(その百単位のスリッパをだれが用意し、だれがきれいにしておくのか考えたこともないだろうが。)あるいは、授業参観の後で、どうかんがえてもワザと履物を間違えて行く親もいるんだから……。まあ、とにかく、まず自分で困り、友だちに助けを求め、それで人間関係をちょっといい感じにすることを学んでほしいという気もする。すべて、いたれりつくせりがいいとは、ボクは決して思わない。
     忘れ物が、家庭でのしつけというより「意識」である以上、学校は忘れるチャンス?を減らす努力をし、できるだけ学校に保管する意外にテはない。だから、ボクはそんな忘れ物ごときで心を痛めたくないのだ。所詮、子どもが忘れ物0なんてことは努力の甲斐があるようなことではない。

  4. 給食、みんな食べなきゃだめ?

     「ゲーッ、先生ナニナニコレ?」と子どもたちが言うので、何かと思って見ると、なんと「ひじき」である。しかし、これはまさに、彼らにとっては「異星人の食べ物」なのだ。これは、髪の毛にも良いし、血行もよくなるし、とにかくいいんだから食べなさいよ!というと、ムッとして、「エーッ、ムリムリムリムリ」とスプーンでよける。ボクなどイカスミスパゲッティ(給食には出ないけれど)の方がもっとグロテスクだと思うのだが。
     さて、学校の悲喜こもごもステージと言えば、給食がその筆頭になるだろう。入学前から給食が全部食べられないとえらいことになる!という恐喝がよくされているようだが、たちの悪いのになると、自分の家庭の偏食や食卓マナーをよけておいて、なんとか学校でしつけをしてもらおうという親がいる。根本的に間違っている!給食でマナーを育てようとしてもむつかしい。だって、教員だってなかなかマナーの悪い人がいるし、その基準というかボーダーはそうとうあいまいなのだ。食器をカチャカチャならして食べるのがすごく嫌だという子どもがいるとしても、他の子どもたちに、同じようにやりなさいなどとは言えない。「ちょっとくらいいいんじゃないの」と苦情の多いお嬢さんやお坊ちゃんにはそう言う。すると、非常に軽蔑したまなざしでボクの方を見て、上から下までをジローッリッ!と眺めて、しかたないなぁーというような顔をしている。
     配膳中はあちらこちらと当番の子どもが、食器を持って移動するので教室内は騒然となる。ほんとうにはちの巣を突いたようになる。「ぼくのが少ない!」「嫌いなのにたくさん入れたぁ」とケンカも始まることがある。また、牛乳のビンがちょっと汚れいている(ように見えるだけ)ので、替えて欲しいとか、隣の子がツバを入れた!などと、ボクら教員も疲労の極致から、あきらめの境地に入る……が、そのとたんに、「センセェー、牛乳のビンが落ちて割れたよ」「おかずのスープがひっくり返った」などという、コレでもか的混乱となる。その、始末の仕方をどうするか?低学年などは、ぞうきんの使い方すらしらないから、そこからこぼれた牛乳と、割れたビンのかけらの始末の仕方を教える。そこへ持ってきて、「ぼくがやったんじゃないもん」「わたしは、ただ見てただけだもん」という自己中心的他人のことなんか知らないよホザキが始まると、こっちも完全にキレル!楽しい給食どころか、勝手に食え!このサルども!の気分になってしまう。
     教員の中には、おもしろいというか、なかなかジョークの強過ぎる「異様な常識」をもっている人がいる。給食の準備中は、全員にマスクをさせ、しゃべらないようにして、静かにさせる教員がいる。なんか、SFホラー「人類撲滅宇宙飛来細菌生物研究所」の病室のように、静かに、子どもたちが白いマスクを付けでジーっとしているのが「しつけ」「マナー」だと思っているのだ。あるいは、消毒液を使って洗った手を机の上にひじをつけ立てさせ、乾くまでガマン、そして、その手で他のものを触らない!という指導をしている教員。とにかく、葬式のように静かに食べさせる教員。とにかく、こうした生活的教室になると、教員の常識のなさとか人生観が如実に出ておもしろく悲しい。O−157事件の時の異様な雰囲気が日常的になってしまっている教室もある。そういうのはO−157よりボクは怖い。そういう教員に限って、食材をもっと無農薬や有機栽培のものにしたらどうか?教室の机の上で食べるのはちょっと考えものだ!カロリーが多くても脂肪の質はどうだろうか?などという疑問はいっさい持たないし、口に出しもしないことが多い。
     前後するが、給食調理場から食缶や牛乳を運んでくるのも相当大変なのだ。特に、小学校一年生が重い食器「よいしょ、よいしょ」と運んでいるのを見ると、ひやひやする。最近は、校舎の上の方は、給食用のエレベーターでその階までは運んでくれるからずいぶん楽になっている。学校によっては、食器を運ぶワゴンやテーブルを用意している所もあるが、場所が小さかったり、通路が狭いとそれも置けない。名古屋の場合、牛乳は25本入り1ケースなので相当な重さになる。ちょっと前までは、元気な子が「よっしゃよっしゃ、やったるわ!なんだ軽いもんジャン」と言いつつ、運んでくれる勇者がクラスには必ずいた。勉強はできんけど、みんなより力あるもん!の子が。ところが、今や「こんな重いものもてません」「車で運べばいいのに」「先生やればいいのに」「給食のおばさんはどうしてはこんでくれないの」という、まあ、しかたがないと言えばしかたがないが、そういう「正し過ぎる理屈」と軟弱で力のない子が増えているので、教員はなだめるように、「頼むからがんばって!」と、なんで頼まなきゃいけないの?と思いつつ、運搬につき添う。
     最近こうした、給食をなくしたらどうか?という声がでてきた。しかしその理由は様々で、反対も賛成も色々な意見がある。ちょっと、整理してみよう。給食廃止理由・弁当をつくるのが親の愛情だ、それくらいやれ!・食材や内容がよくないし、食は個別なものだ、画一的な給食はやめてほしい。この二つはまったく違う発想からきていると言ってもいい。給食賛成理由・子どもたちの発育と健康を保障できる。・働く親にとってはありがたい。この二つはあまり違わないし対立もしないことが多い。ただ、現実の親や学校関係者の中で、こうした賛否は交錯して混乱している。
     ボク自身の考えはこうだ。親の立場からいうと、きちんとした給食は準備されていいと思う。安かろう悪かろうというまずかろうという給食は駆逐するべきだ。環境ホルモンが含まれている食器を使い、遺伝子組み換え食材で作ろうとするなら、それは改善されるべきである。現状の給食をそのままにしておいて、給食は賛成できない。ただ、教員の立場からいうと、給食は教育活動となっている。だから「給食指導」となる賃金の支払われる仕事としてある。今まで述べたように、単に、子どもと一緒に、お昼を和気あいあいと食べているわけではない。大人なら、どちらかというとお昼は、静かに一人で食べたい。しかし、仕事なのであるから、教室から出て勝手に食べることはできないし、子どもを指導しないで放っておくことはできない。たいていの教員は食べるのが早い。それは、ガツガツしているのではない(ボクの場合は、ちょっとあるけど)。給食を早く済ませ、ノートん赤ペンを入れたり、プリントを作ったりしている。そういう実態を考えると、仕事中に一時間でも子どもから解放された休憩があるといいと思う。実際、お昼をゆっくり食べて、ちょっと昼寝でもできたら、ボクらは今より健康で長生きできると思っている。しかし、学校給食法にもあるように「教育の目的を実現するために」(第2条)実施されているから、給食はボクらの仕事でもある。給食を子どもだけでなく、働く大人としての視点からも見て欲しい。
     食べるという、基本的な人間の楽しみをどう実現するかということは、給食が必要かそうでないか、ということでなく、文化として、こういう在り方がいいのかいけないのかという問題なのだ。(この章おしまい)

  5. あいさつと敬語のむなしさ

     学校ではさいきん「敬語」というのが教えられていない。それは、単に「道徳がすたれた」とか「倫理観がなくなった」というつまらない通俗的な「老いの繰り言」のような社会になったからではない。善し悪しはともかく、単純に、人間みな似たような者になったからだとボクは思っている。
     だいたい、先生社会でも敬語は使わなくなっている。いや、使えなくなっている。最近の若者先生は……オッ出たぁー、ついにボクもこんな言い方をしてしまうようになった!……異様に元気の良い、営業パーソンのように、でかい声で「お願いしますっ!」「おはようございます」などと叫ぶ。しかも、帰る敬語を使うべき立場の人間に「ご苦労様でした」とか言うのである。「失礼」で身を固め、歩いているようなボクでも、「ご苦労様」が目下の者に使う言葉であることくらいは知っている。もちろん最近は、電話でも「いま校長先生はいらっしゃいません」という、恥ずかしい言い方をする人はいなくなったが(正しくは、「校長はいま不在ですが」)。まあ、とにかく、そういうことを知っていて、敬語を確信犯的に間違えるのなら、それはそれで「ケンカを売る」ようなものであり、文句アッカ!ということだからいいのだが、ケンカの根性もないくせに、慇懃無礼な奴は教員に多い。ボクは、体育科出身の教員だから分かるのだが、そういう敬語や内輪でしか通用しない言葉の使い方が、世の中(別の場所・関係)では、ほとんど通用しないことをよく知っているつもりだ。だから子どもがボクのことを「おい、オカザキぃー」「オカセン」と呼ぶのは、そういう関係ができているからで、そういう言い方をしても、決してボクをばかにしていないという、その世界があると確信が持てるから動じない。逆に、いくらていねいな文部省推薦的敬語でも、心の中で「この、クソ野郎」と思っていることはあるだろう。あるいは関係が、めっちゃくちゃ悪いことだってある。つまり、言葉は一つの関係性を持つ。だから、敬語は、それを使う相手との関係がきちんとうまく作れないと逆に非常にむなしく、つまらない、ある時は失礼なものの言い方になる。
     教員が自分のことを「先生」と呼ぶのも、よく考えてみれば(まあ、よく考えなくてもだが)非常におかしい。ましてや、喫茶店やレストラン、料亭で「岡崎先生、まあ、一杯」と同僚を呼ぶのも、ばかばかしいと言えば、そうとうバカバカしい。むろん、ボクは、年を取ってきたので、「まあ、そんなことを言ってもしかたがないかな」というふうに思っているので、学校を離れると、極力「岡崎さん」と「さん」づけすることにしている。「先生と言われるほどのバカでなし」という川柳があるが、本質的な事を表現していて、感動する。
     だが、ここでちょっと気に食わないこともある。では、だからと言って、子どもたちの前に立って「君たち、私を先生と呼ばないでくれたまえ。岡崎さん!と呼べばいいんだ。同じ人間じゃないか!」という「親愛の情」で、熱血的ヒューマニスト教員が言うとしたらどうか。ボクはこれもはっきり言って嫌いだ。だって、あくまで、ボクらの立場は、個人的にどうであれ、教「師」としてある。どんなドラム缶教員だろうと、兵士的教員であろうと「先生」なのだ。まあ、子どもが勝手に「岡崎さん」と呼ぶのはいいとしても、自分から、先生と呼ぶな!というのは、ちょっと酔っ払っていませんか?という感じがする。ボクなのは、こういう論議や話題になると、子どもたちに「先生はやめてくれ、大先生とか、大教授とか言ってくれ」という。これは、おもしろい。いくらなんでもボクのことを「岡崎大先生」と呼べばジョークになる。つまり、さっき述べたように、関係性を呼称が持つ以上、最初は、世間並みに「岡崎センセイ」しかないだろう。
     教育委員会へ行くと管理主事の人たちが、ボクのことを「先生」と呼ぶ。これは、同僚というか、同じ教員なのでそうなる。学校職員でも、事務職員や業務士の人たちを「さん」と呼ぶ。こどもに「先生」と呼ばせる学校もあるらしい。事務職員の人を「中曽根先生」と子どもに呼ばせるのはどうしてだろう?そう呼ばれて事務職員の人が喜んでいるとしたら大笑いであるが、いくらなんでもそうではないだろう。以前、校長がこう言ったそうだ「子どもにとっては、学校にいる大人はみんな『教えを受ける先生』であるから、さんなどでなく、先生と呼ぶのがいい」と。まあ、そんなら、鉄棒の工事をしてくれに学校へ来た人も「先生」なのか?画用紙を持ってきてくれる文具屋さんも「先生」なのか?こういうトンチンカンな感覚がおかしいと思わないところが恥ずかしい。
     「先生と呼ばれて喜ぶノウテンキ」
     以前、自分のクラスで、「今ね、『先生が来たぁー』と言って、廊下を走っていた子がいたけどな、敬語をちゃんと使ったらどうだ。『先生が来た』じゃなくて、『先生がおいでになった』とか『いらっしゃった』だぞ!」と教えた。同僚は岡崎さんらしくないじゃないのそんなことんこだわって、というがその時はそう教えた。ところが、その後、たしかに「岡崎さん」らしくなったのだ。子どもたちは、階段の上から、昇ってくるボクを見つけて「ウアァー、岡崎先生がおいでになったぁー」と大声で叫びながら、廊下を集団で走っていった。つまり、その時、ボクは敬語を教えるのは難しいことだと反省し自覚したのだった。
     敬語と同じくあいさつの教育も学校ではさかんである。ボクはあいさつは敬語のように人間の関係を無視しては身につかないと思っている。朝のあいさつ運動をやっている学校もたくさんある。ボクはどちらかというと反対である。あいさつなどは、大人のフリを見て、子どもが身に付けるものだ。小さい子がきちんとあいさつなどすると、この子は一体何を考えているのか?こざかしい奴だ!とボクは意地悪く考えてしまう。反対に偉そうにしていて、こちらがあいさつしても、ふんぞり返っている奴も、品性を疑う。大人が子どもに、「あいさつをした方が世の中がうまくいく」ということは教える必要がある。逆に、大人のくせにあいさつもできないようでは、あいてにケンカを売るようなものなのだ!ということも教える必要がある。
     しかし、今学校でやってるような、「あいさつ教育」がはたして、社会の潤滑油的なものであるという、そういう社会的な意味を教えているだろうかということには疑問を持たざるを得ない。校門の前で、教員や児童会の役員の子どもたちがずらりと並び「おはようございます」と連呼するような「教育」が横行している限りあいさつは無味乾燥なもとなるだろう。
     以前、あいさつ運動を批判した時に、その学校や地域の関係者から「批判のお手紙」をいただいたことがある。しかし、残念ながらそこにあるのは、「一生懸命やっている自分たちを批判するな」「あいさつがどうしていけないのか?」という表層的な批評だけであった。あいさつ運動そのものの持つ意味については深い掘り下げはない。校門の前で米付きバッタのように頭を下げて「おはよう」を連呼している子どもたちが、本当にあいさつをしていると考えるていいのか?ボクは疑問を持つ。あいさつというのは、「おっ、元気?どう最近は?」とか「今日も、たのしくやろうぜ」という気分でするものであったり、「まったく知らないあなただけど、まあ、何かの縁ですね、こんにちは、どうかよろしく」というようなものから、色々ある。あの校門の前でやっているあいさつはどんな意味があるのだろうか?そして、それをみんな喜んでやっているのだろうか?ボクは、子どもも教員も喜んでやっているのなら、いっさい文句はない。で、もし、喜んでやっているのなら、自由参加にして、「あいさつしたい人集まれ!」でやって欲しい。どうも、動員あいさつのかんじがしてならないのだ。あいさつは動員されるものではない。

  6. けがはしない方がいいのか?

     最近は学校でのけがについて、教員はとても敏感になっている。それは、子どもがけがをした時の親の反応がとても大きくて、その対応に四苦八苦するからだ。教員から言わせると「こんな程度のけがでなんで大騒ぎするんだよ?」という感じである。しかし、親から言わせると、「学校はけがに無神経で子どものことを考えていない」ということになる。このギャップはなかなか埋まらないだろうが、ここには親と教員の教育や子育てについての考え方というか世の中の価値基準の変化を考え直す必要があると思う。
     親の立場に立って考えると、「けがをさせてならない」という親はまずいない。ころんでけがをしたとたんに学校に「ウチの子を殺す気か?」と言ってくる親はいない(はずだが……いるかもしれない)。しかし、軽いけがならともかく、ひどいけがの場合に、教員がのほほんとしていれば、親は頭に来る。ところが、このときに、教員の「軽い」「ひどい」と親の「軽い」「ひどい」の基準値が大きく違う場合にトラブルが起こる。教員の「これはひどいな的ものさし」が親の「これはひどいな的ものさし」がJIS規格でもあればいいのだが、そうは簡単でない。そして、そのものさしは「長男長女」とか「大事な子」「まあ育てばいい子」とか「お舅さん大事な跡継ぎっ子」「共稼ぎ的自立してちょうだい子」などのさまざまなファクターが重なり合ったものなのである。また、教員のものさしも「昔いたずらっ子」「いいとこの子」「昔ケンカ見ると足震える子」「昔ケンカ見ると血が沸く子」などの教員自体の成長過程や歴史などが影響し対応するので、これまた複雑になる。複雑で怪奇なものさしができ上がるので、「子どものけがは常識で考えよう」という安易さは許されない。こうしたことに鈍感だと、けがが「とんでもない事件」に発展してしまうのである。
     以前、ある集会で有名教育評論家とともに、「ナイタートークの広場」に参加を要請されて行ったことがある。その時に、ボクは子どもは元気に育つことが大事なんだよね!という、安心理論がその場で形成されたので、つい「まあ、でもけがをするんですよね、元気な子は」と言った。すると、ある母親がすこしくらいのけがならまあ、しかたないですよねと応じてくれた。調子に乗ったボクは思わず「まあ、死ななきゃいいですよ」と言ってしまったのだ。そのとき、みんながいる畳12畳の部屋に見えない霧がかかり、冷たいものがヒタヒタと感じられ、参加者は黙ってしまった。ボクは、しまった!と思った。ボクの育ったプロセスは「死ななきゃエエンダヨォー」という世界だったのでついそう言ってしまったのだ。しかし、そこは、りっぱな子育てに熱心な親たちの集まりなので、そういうレベルではなかったのだ。ところが、まずいことは続くものだ。あせったボクはまたまた「いや、まあ、腕の一本や二本はね、折れても治るから。あ、あ、あ、あ、治ると強くなるんですよ、折れても……」と最悪の発言をした。すかさず有名評論家は「あの、みなさん、学校から出る宿題はどうですか?」と話題を変えてくれた。ホッ。しかし、その目は「バーカ、オカザキ、ナニイッテンダァー」とボクの胸に鋭く突き刺さっていた。
     しかし、ボクが最初に赴任した小学校(ボクの住んでいた港にあった)は、「死ななきゃいいよ」という親ばかりだった。むろん、幸いにも今現在のところ、教えている子どもが死んだことはないのだが、その地域、その時代では、「ちょっとくらいのけが」に骨折も入っていた。木から落ちて骨が折れても、「ドジだな」「ほんとに鈍くさいんだから」と親が自分の子どもに言っていた。だから、歯が折れることがあっても、「まあしかたないね」で終っていたのだ。今のように、職員がはいつくばって、欠けた歯のカケラを探すようなことはしなかった。今は、処置が歯やければ、欠けた歯もくっつくらしいので、ボクは、できるだけ歯のカケラを探さすことにしている。
     今でも鮮明に覚えているのだが、一番最初に受け持ったクラスの子どもが、部活動の後すぐに帰らずにバスケットゴールで遊んでいて、落ち、頭をしたたか打った。ボクは、その子を救急病院へ運び、医者に見せ、レントゲンを一応撮り、とりあえずしばらく動かさないようにベットに休ませて様子を見ようということになった。連絡を受けた仕事帰りの父親が「おい、もう寝とらんでもええやろうが、さあ、帰るぞ」とおこして、頭をパンパンと殴ったのだ。むろん、彼は吐き気がし、戻し、顔面蒼白で、再度ベッドに寝かされた。父親はドクターに叱られたのだが、「こんな事くらいでなぁ先生、子どももひ弱になったな、情けないわぁ」とボクに言った。「しかし、頭を打ったんだからね、安静にしとかないと」と言うが、意に介さない。結局、父親は家へ帰り、ボクは夜明けまでベッドのそばで看病した。むろん、その子は元気に今も「生きている」。
     こうした、ボクの若い頃の経験は、自分の父親とも重なり、別に特別なけがへの対応ではなかった。いわゆる、地域の人々はみんなそうだった。したがって「元気に生きていればとりあえずいいのだ」という「ものさし」なのだった、昔は。ところが、今はそうはいかないのである。
     学校でけがでもしようものなら、教員は養護教諭に見せ、頭でも打っていたり、気分が悪いというと、即病院へ連れていって、診断をしてらろうことになる。その為に、健康調査票というシートがあり、既往症からいつも見てもらっている医師の名、もちろん健康保険証などの個人記録を提出してもらっている。むろん、けががたいしたことはないかどうかを教員が勝手に決めることはできない。だから、当然医師に診断をしてもらうのは正しい判断である。ところが、そのために、教員はより忙しくなる。子どもが保健室で治療している間に自分はついていなくてはならないこともある。なぜなら「先生はうちの子を他の先生に任せて看ていらっしゃらなかったのですかぁーー」と保護者に言われることもあるからだ。ところが、そうしている間に、今度は自分のクラスでまたあたらしい事件が起きることもあって、もう何が何だか分からなくなってくる。
     学校の教員は今まで以上に、子どものけがに敏感になり、親が文句を言わないような体制を取る。親に文句を言われない!ということがまず一番重要なことになってしまう。しかし、そうした危機管理体制は子どもの動きを落ち着かせて、事故の起きる要因を先に摘み取る方向に行く。したがって、周囲の危険物と危険物の候補が撤去され、金網が張られる。子どもはますます、自己規制し、危険な局面で適切な判断ができないようになる。それで本当にけがが減っていくのだろうか?そして、けががなくなれば本当にいい学校といえるのだろうか?「たくましい元気な子どもたちを育てたい」と言いつつ、あらゆる危険なことにも注意深くなり、挙げ句の果ては万が一の危険にも配慮するためには、動かないほうがいいと言う子ども育っている。もう一度、けがのもたらす「理不尽」な問題と、けががあるからこそ豊かになれるという「生活の理屈」の問題を再度問いかけたいなと思っている。

  7. 友だちはいないほうがいいか?

     親が子どものことで気づかう一つに「友だちとうまくやっているか」「友だちがたくさんいるかどうか」ということがある。自分の子どもが人気者なら一番いいのだろうが、そんなことはなかなかむつかしいから、なんとか友だちがいるといいなあと思う。むろん、あまりたくさんでも困るけれど、まあ数人が仲良くなれて、ついでに母親ともなかがいいともっといいだろうと思っている。
     まあ、うまくいっている人は悩みもしないのだろうが、そうでない親や子は簡単にのほほんとはいかない。学校の休み時間も一人でぽつんといるのではないか?友だちに誘われもしないのではないか?そんな思い出、心穏やかでない。友だちがどうしたらできるだろうか?パーティーでもやって、集めて、友だちになってねと頼んでみようか?そんな気も使わなくてはならない……。
     しかし、こういう友だちに恵まれない子どもは、だからと言ってあまり姑息な作戦で友だちづくりなんかしない方がいいとボクは思っている。ここでは、友だちというものの考え方と実際的な友だちづくりの方法のようなことを書いていく。そして、念を押しておきたいのは、誰にもあてはまる「友だちづくりマニュアル」なんてのは存在しないこともはっきり言っておく。
     まず、最初に親、自分自身がどんな友だちへの考えや思いを持っているかを見直しておくことが必要になる。親の影響を子どもは受けて当然だから、親の「友だち観」は一応点検?しておいた方がいい。例えば、自分が子ども時代にどんな友だちを持っていたか?自分がリーダー的に動いていたのか、それとも「ついてまわり」で楽しんでいたのかを思い出してみる。リーダー的な存在だったときの、苦労はなんだったか?「ついてまわり」のときの苦労はなんだったか?それぞれ、あるだろう。しかし、はっきりしているのは、それなりん苦労はあったが、いい思い出が多かったか、嫌な思い出が多かったかは分かる。多分、大方の人は、いいこともわるいことも、それぞれ色々あったなぁーというところに落ち着くのではないか。
     たいていは、友だちを作らないと生きていけないなんて子はいない。なんだかんだとゴタゴタ生活している間に友だちができてしまった……、というのが現実なのだ。クラスが変わった時、グループで一緒になったとき、塾が一緒だった時、近所だった時、そんなときに「遊ぼうか?」ということになるのが普通である。もし、そういう新しい出会いに、友だちができないとすると、それは、親がそこに介在しているからだ。親の目が気になるから、声もかけられない、あるいは、かけられても返事ができない。友だちが、親の気にいる子どもだろうか?というのは、子ども自身けっこう気にしているもんだ。食事時に、自分の子どもの友だちの悪口でも言おうものなら、カンカンになって怒るという子どもは多い。それは、その子が可哀想だからではない、自分の友だちの評価は、自分そのものへの評価になっているのだ。友だちの悪口を言われるのはその友だち=自分を悪く言われているのと同義である。ここんところが良く分かっていない親は多い。しかも、その親のスタンスを子ども自身が身に付けていると、自分の感覚や価値観でなく、親の価値観で友だち探しをやるようになる。そうなると、友だちの値踏みは、相当ハードルが高くなる。あるいは、自分の自尊心が強くなり過ぎて、相手の思い、価値観、感性を認知することが、相手の侵入と同じになり、そんなことなら、友だちはいらないということになる。
     最初に、親の「友だち観」をはっきりさせておくことは、親からまだ自律できない子どもをどうしたら、友だちづくりに抵抗なく取り組めるかどうかを考える上で重要なことであると思う。親が、幼いうちから理想的な友だちを自分の子に求めるのは完全に間違っているとボクは思っている。なぜなら、友だちになる理由も、進化するからだ。いきなり、親友的な友だちなどできない。最初は、相手も性格も容姿も関係ないのが普通だ。もともと小学校低学年くらいの友だちづくりは、おもしろそうだから友だちになったという理由がほとんどで、高学年や思春期にあるような、困った時に助けてくれたとかいう厚い友情等が問題になることはほとんどないからだ。それよりも、たまたま席が近かったとかという理由や、遊びで同じ仲間になったということくらいである。
     友だちが全然できないで困っている子を持つ親は心配でたまらないかもしれない。しかし、その時に「友だちが欲しいなぁ、けどできない」という子と、「どっちでもいいもん」という子どもとではやはり、友だちにたいする姿勢がちがうのだから、あまり、急がせない方がいい。別に、一人でもどってことはない!くらいに思う方がいい。むろん、ちょっとしたことで、友だちができることもあるから、ことさら一匹オオカミを気取る必要もないが。家に閉じこもりがちで外へでないときは、友だちと出会う機会も少ないかもしれない。しかし、だからと言って外へ無理矢理出すのもどうかと思う。誰かに誘ってもらうのもいいかもしれないし、一緒に出かけて、途中から、ほっぽり出すのもいいかもしれない。けれど、一番肝腎なのは、親がいくら苦労しても、子ども自身が「その気」にならなければ、友だちはうっとおしいものでしかない。子どもの熟し方と、親の願いが一致することはまれにしかない、そのあたりが難しい。親どうしが仲が良ければ、子どもも比較的抵抗なく、一緒に遊べる。そんな、当たり前の関係ができるといいと思う。「さあ、友だちをたくさんつくろうね」などということが、相当なプレッシャーになることは良くあるものだ。「ともだち百人できるかな」などという歌も、聞く子どもにとっては、友だちも百人=100点満点で評価されるのか?という受け取り方をしてしまう。のんびり、友だちができたらいいけどね、そんなに慌てなくても大丈夫というつもりで行く方が、子どもにとっても気が楽なのである。
     さて、最後に言っておきたいことがある。それは、「友だちとの充実度は親からの距離に反比例することが多い」という経験的な感覚がボクにはある。友だちづくりに奔走している親が、実は子どもの友だちに「引かせる」ようなきっかけを作っているようなことがある。実際に、子どもの前で「この子は友だちが少ないので……」とか「この子にどうして友だちができないのでしょうか?」などと言う親がいる。しかし、こういう親は、その言葉で「アンタは友だちもできないしょうもない子なんだね」と言っているのと同じことだと言うことに気づいていない。しょせん、友だちというのは、自分で工夫して作ったり壊したりするものなのだ。友だちの世話まで親がすることは、原則として「ない」と思う。●

    (2000−5−30)


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