きょういく大研究71(2001.10.15)

「開かれた学校」と「開かれたPTA」

  1. 学校の敷居の高さと自律性の低さ

     今度の教育改革では、学校の敷居を低くして、親や市民が学校の在り方にどんどん「口を出して行こう」ということになっている。これは、その方が子どもたちにとって「善いこと」になるだろうということからだ。
     学校が今まで閉鎖的であったことは事実だし、今でも、そうとう閉鎖的である。あくどい管理規則や違反行為を隠蔽した り、情報を隠したりすることは今でもちょくちょくある。だから、学校をきちんと市民の目にさらすことは意義がある。
     ところが、その「開き方」についてはボク自身、いろいろと疑義を持っている。一部権力者にのみ情報が筒抜けていたり、衆議に諮らずに、あたかも決まったことのように一方的に発表したり、教員を非難する体制をつくることになれば、それは、開かれた学校というよりも、「市民」を利用した傀儡政権でしかない。学校が自律性を持ち、実態をきちんと知らせて限界を明確にすることが同時に実施されなくてはいけない。
     個人の尊厳を損なうような「開き方」を許すべきではないだろう。学校に市民社会の論理を導入するということと、将来を生きる子どもに「何を語り、何を見せるか」ということが真剣に問われなければならなない。つまり、教育の最低の意味である「理想の追及」である。現実の厳しさ(市民社会の論理)と「理想や理念」とのバランスをどう取りながら、教職員や親が子どもの前に立つか?というむつかしさを「放棄」してはならないと思う。市民社会が「正しい」選択をしても、ボクは子どもに、他にも「正しい」選択や別の選択肢も可能なのだと示したい。例えば、今の「報復が正義」だという「正しい人」とは違う考えも子どもに示したい。つまり、自由な論議と多面的な知識や論理が交錯する中での「開かれた学校」であるべきなのだ。極めて水準の高いやりとりが必要になる。
     開かれた学校でも、「親の要求」を拒否することが正しいと思うときは、きちんと自分で自分の考えを述べるべきだし、妥協点があれば、それはそれで納得できる範囲で決めるのがい い。決定権がどこにあるのか?それを常に吟味する必要がある。

  2. 運動会やウエミナフェスタとの向かい合い方

     運動会の教職員の突然のリレー実施について、ボクは参加したけど基本的には反対だった。いきなり、プログラムにない予定しないことを入れるのは間違っている。しかも、衆議に諮ることもなくである。「PTA会長が言い出した」という噂も あったが、PTA会長は「私が言い出したのではない」ときっぱり否定していた。むろん、だれが言い出したのかというを問題にするほど暇ではない。走りたい人がいれば、きちんと提案してやればいい。しかし、どこかで決まったことがいきなり実施できるとしたら、無法地帯である。「いいことでも」勝手にやるのは間違いだ。権力者は自分の提案を常に「いいことだ」と思ってやるからだ。「いいこと」にも吟味が必要なのだ。
     高齢化した本校の教職員が「みんなでリレーに参加」のは無理がある。少なくともいままでこのリレーでケガをした教職員がいたのだから、もっと慎重に考えるべきなのだ。ボク個人はまだちょっとくらいは走れる。しかし、今回は見ていて本当に心配した同僚も少なくない。それに、ボクが請け負った器具係としても、準備時間短縮で頑張った。結果的に終了予定が三十分も伸びてしまったことの一因であるこのリレーに苦情をいいたい。低学年の子どもたちの心身にとって、午後の屋外での三十分延長がどれほどのことか、学校で日々つき合っている教職員は十分承知しているはずだ。
     ボクらのお疲れ飲み会に、突然、保護者が来たのに驚いた。飲み会と言えども、「反省会」なのだ。子どもや運営の話が色々でる。内輪の気楽さと愚痴、喜びと悔しさの交錯するところへ、いきなり保護者がこられたら帰りたくなる。払った会費を返せとは言わないが、安易にゆるした管理職の不手際としか言えない。くるなら最初からそういうべきだ。

  3. 民主主義の論理と方法論の未熟さ

     ウエミナフェスタも担うPTAの熱意は賞賛に値する。企画運営の会長はじめ役員や係の方の努力には頭が下がる。だが、ボクには、やはり若干の躊躇もある。それは、「やると決めてからの発表」だったからだ。多くの教職員は寝耳に水だった。
     むろん、「主催がPTAなら、勝手にやればいい」と言えるかもしれない。しかし、同じ学校で、しかもPTAには「T」も位置づけられているのだから、校長が「職務でない」と言ったって、子どもと親がくるなら参加するしかないなあと想う教職員も多いだろう。つまり、結果的に引き回されているという「感じ」がどうしてもする。
     せっかくのことだから、成功させたいのでボクも参加する。教職員のまとめもかって出た。PTAの主旨や想いはよく理解できる。だからこそ、もうすこし、PTAを「開かれたもの」(?)にして、最初の段階で、PTA学級委員までおろし、論議をして、教職員の意見も聞いてから決めて欲しかったと、あとの祭り的に想うのだ。民主主義はむつかしい。

    (2001−10−15)


きょういく大研究     ホームページへ戻る