第4回全国LD実践研究集会分科会3「学力と人間形成」報告

「学力」にふりまわされる学校、子どもたちは「生きている」

岡崎 勝(名古屋市立植田南小学校教員)

    はじめに

     ボクは障害児学級の担当もしたことはないし、障害児の学習の「専門家」でもない。どちらかというと、障害児を自分の「普通」学級へ積極的に招き入れて、「なんだかんだといいながら、一緒にいればいいじゃないか」と思っている方である。だから、ここで展開する学力についての問題提起と報告は、特に「障害児」を意識してはいない。逆に、障害児を外において論じるような「学力論」はできるだけしたくないというのが、まあ、無謀?な願いである。

  1. 「学力」の意味や定義を考えて、すぐに悩む「習い性」

     「学力」を、無限定に一生懸命に論じることで、どんどんと底なし沼に入っていくのが教育の世界ではないか?保護者に、学校の外で、「低学力ってなんだとおもう?」と聞くと、「テストの成績が悪いこと」と即座に返ってくる。ところが、学校の中で、同じ質問をすると「人間としての成長です??」なんてわけのわからない答えをするか、沈黙する。
     生活しながら、学力でどんなことをイメージするのか?このことは、学問的あるいは教育学的な論議よりも、うんと大切なことだと思う。
     もっと、子どもや、親、教員、地域の人々の話を聞くことが重要だと考えている。

  2. 教育改革の「学力」をだれも説明しない

     今度の教育改革では「生きる力」を養う、つまり「『自主的に課題を持ち、主体的に考える力』を学校教育の目標にするからな!むろん基礎学力もだいじだよ!念のため」と政府文部科学省は言っている。別に、ボクは言っていないし、周りの教員たちも言っていない。(現場の教員が誰も言っていないというこのことは、重要だと思っている。)
     先日、子どもたちに「君らは、来年から、生きる力ってのが大事になるそうだから、がんばってくれたまえ」と言ったら、「もう、生きとるじゃん」とか「死んだ人に生きる力ってか?」とブラックなジョークが飛び交った。「生きる力」ってのは、子どもたちは「元気はつらつな子」の必要不可欠なエネルギーのような感覚で受け止めている。
     いつも思うのだが、子どもたちに分かるような言葉で「教育目標」をきちんと説明して伝えることが重要だと。いままで、そういう努力が足らなかったしこれからも、子どもを外に置いたまま、教育論議はされるのだろう。
     偉い人たちの学力の定義はそれなりに参考になるが、色々ボクなりに勉強しても、結局「しっかり勉強しなさい。成績あげなさい!」ということに尽きる様な気がしている。

  3.  学力にふりまわされないで、愉快な毎日を!

     子どもと付き合う中で、「さあ、学力だ!」と、今まで以上に漢字の練習を始めたり、計算の宿題を出したりするようなことはしたくない。学校がこの教育改革や「低学力論議」にふりまわされて、生きる力=基礎学力=計算漢字力=毎日ガンガン勉強、というようなサイクルを定着させるようなことには反対したい。
     漢字なんて、テストをやるその日だけで、次の日は、半分は忘れるものなのだという現実。いくら漢字が書けても、日記や作文では圧倒的にひらがなが多いというのも現実なのだ。(まったくやる必要がないというのではない)
     ボクは、毎日「なんか、楽しいことないかな?」「今日は、愉快なことないかな?」「なんか、おもしろいことやってくれないかな?」という子どもたちの期待に応えていくことが、学校の役割だと思っている。
     先日、五年生の子どもにSケンという、「格闘技?」をやった。あまりの乱暴さに(比較の問題だけれど)次の日の親の苦情(連絡帳・電話等)を予想したが、全くなかった。子どもたちは、「本当にびっくりしました。あんな、怖いことは初めてです。けがもいっぱいしました。血もでました。でも、いつのまにか私も、男の子たちに、思いっきりぶつかっていました。もう一度やりたいです」と告白してくれた。
     愉快なことを期待してもらえるような学校をつくることが、教員の仕事だと思っている。たぶん、子どもが学校に期待しなくなったとき、それは、学校が集団棺桶になったときだろう。
     ボクは、低学力を真剣に考えなくてはいけないのは大人社会なのだというのが持論である。

    (2002−1−22)


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