日本家族看護学会編『家族看護学研究』第7巻第2号
(2002年3月発刊)

「学校の教室から見える子どもとその家族の支援」

岡崎 勝(名古屋市立植田南小学校教員)

目    次

    はじめに

     「子育てが困難な時代」だと言われている。私はときどき、同業の教員や親たちから、学校での指導方法や家庭での子育てに関する相談を受ける。その内容は、20年ほど前、私が教員になったころに比べると、随分違ってきている。「時代が違う」のは当然であるが、問題への対処や対応の方法が、以前ほど単純ではなくなっているのである。おおざっぱに言うなら、学校の教室にいる子どもたちの問題が、子どもたち「だけ」を見ていては解決できなくなってきているし、学校と家族、教員と親という関係を無視できなくなっているということである。
     本稿では、いくつかの事例をあげ、「現代の子どもの問題」がいかに困難で複雑になっているかを明らかにしながら、そこには家族の変容と学校の役割の変化があることも示していきたい。
     ただし、私は、自分があげる事例によって、「子供」や「家族」などを安易に一般化しようとするものではないことも付け加えたい。つまり、一つの事例でもって「最近の子どもは……」というような、一刀両断的な言説を生み出すことを目的としているのでない。100人子どもがいれば、その中には100様な子どもがおり、一般論では片づかないことくらいは現場にいるものなら誰も知っている。
     ここでは、多様化する子どもたちの行動を読みとりながら、その子どもたちへの「教職員・親・社会等々のまなざし」そのものも論述の対象とするつもりである。

    目次にもどる

  1. 子どもたちのステージ(おかれた状況)

     学校における「教科の成績」の善し悪しは、子どもの生活全体にとって大きな意味を持つ。「そんなことは当たり前だろう」という人、「いや『点数成績』だけがよくても幸せになれるわけではない」という人、みんなそれなりに正しい。しかし、学校の価値基準のものさしの内では「点数成績」が一番大きいし、自己承認される度合いも大きく、「ドッチバールが上手」や「こままわしが得意」などというよりは、社会的有用性があるのだと「暗黙の合意」がなされている。自分の「社会に向けられた値札」なのである。
     この「暗黙の合意」が、現実的には「人間そのものの選別」そして、差別の土台になっているので、私自身は、それを「相対化」していくような試みを仕事の中でしているつもりだ。しかし、圧倒的な力で「成績」のものさしは、子どもたちや親たちの心と体を縛りつつ、主体的に成績のものさしの上を走らせるようなインセンティブを生み出している。そして「暗黙の合意」は副産物として、たくさんのストレスを生む。
     しかし、現実に子どもたちを見ていると、「人間の価値」をその「成績」の善し悪しできまるなどということを深く「自覚」しているのではない。「人間の価値(人間の魅力)は成績とは無関係である」などというのは、ある程度、道徳の徳目的には、わかっているのだ。それよりも、彼らにとっては、「成績ゲームの勝者」になるのだということが、差し迫った一番の関心事なのである。このゲームでのステージは、学校によって、子どもたちに「機会均等」「共通」に与えられている。したがって、エントリーはすでに終了しており、勝者になるチャンスも、敗者になるチャンスもある。また、ゲームである以上、「難しい方」が「おもしろく価値がある」のである。
     「点数成績」のよくない子供たちを集めた「底辺校」と言われる高校で仕事をしている教員は「生徒たちは、授業中に、すぐに『わかんねええなあ』とか『そんな、むつかしいこと俺らにわかるわけねえじゃねえか』というんだ。だから、『じゃあ、ちょっと補習でもやって、簡単な小学生の高学年くらいの算数からやるか?』というと『てめえ、ばかにすんじゃねえ』と怒り出すんだよ……」という。彼なりに指導法を工夫し、興味のもているような授業をしようとしているのだが。つまり、彼ら生徒にとっては、「ゲーム」のレベルが易しくなっていることが問題なのであって、彼らの自分のもっている攻略スキルの力はまったく別なのだ。流行の、一番新しいゲームを攻略することが重要なのであって、すでに攻略本が出ているような、半年も前のゲームをいくらクリアーしても、自分の家の中なら価値や意味があるかもしれないが、いったん世間に出てしまえば、特に同世代の仲間内では、せいぜい「フツー」なのであって、全く社会的な希少性を持つという意味はないといえる。つまり、かっこよくないのである。学習への意欲は完膚無きまでに消去されている。その上、ゲーム(学習ゲーム)の難易度が低いということは、学校へ「学習しにくる」意味すらないということになる。
     極端にいうなら、かっこよさを求めなくなったときは、自分の部屋(家庭)から出ることをしなくなる。自分の攻略スキルに全く自信がなくなり、それが所属集団の中で、差別的に、敗者として明確に承認されてしまったときである。「底辺校」の場合は、そうした「経験と思い」が共有できる仲間が一緒にいるということだけが、まだ学校に来続けるインセンティブになっている。
     学校での学習がテレビゲーム感覚であることを「嘆かわしい」と言うのは簡単ではあるが、その子どもたちの状況と習慣化した行動は相当に深く浸透し定着している。

    目次にもどる

  2. 子育てから逃げる家族:「簡単な教育サービス」への欲望

     一男がいじめられているので何とかして欲しいという母親からの訴えがあった。訴えは小学校へ入学したばかりの五月の連休明けである。
     もともと、連休明けは、子どものトラブルが多く発生する。とりわけ学校の生活に慣れていない、つまり、学校の構えができていない子供たちが、連休中に親子関係が就学前のような濃密さになり、かつ居心地の良さ(これは、「甘えられる?甘やかしたい」関係が強化されるということであるが、学校のような緊張も強いられないという関係である)に安住してしまって、学校生活への復帰がむつかしくなるからである。
     いじめに関しては十年くらい前からマスコミで大々的に報道されるようになり、親たちも関心をもちはじめ、情報も行き届くようになった。「いじめ対応の親向けマニュアル」もたくさん出ているので、子供がいじめられているのではないか!と思えばすぐに学校に連絡してくるようになった。
     しかし、このときの一男の親は、すべて「自分の子供の話」をもとにしていた。実際に、一男がいじめている場合もあるが、そうでない場合もあるので、親の話を聞きつつ、担任は慎重に対応するのが普通だ。私も一年生だということもあって、十分注意した。
     気を付けねばならないのは、「いじめはいけない!」と声高に言う教員が、「通告」されたとたんに「容疑者」探しに熱意を持ち、逆に、疑われた子供の親から「予断と偏見に基づく人権の侵害もの」と言われ、間に挟まって右往左往する場合がある。
     ところが、私がこの問題を色々調べてみると、わかってきたのは、いじめの事実はないと言うこと、一男自身が虚偽の話をしていることが判明した。しかし、一男はなぜそんなうそをついたのだろうか?親も多少ショックを受け、自分の子供に「嘘はよくない」という叱責を繰り返したのだが、それ以上、原因について考えようとしない。私としては、どうも腑に落ちないので、親に「手の込んだ嘘をつくということは、彼なりの思いがあるのではないか?もう少し、じっくり話してみたらどうか?」とアドバイスするが、母親は「すんだことだし、もう叱ったからいいでしょう」という。
     一男は叱責された後、どちらかというとすっきりした顔で、しばらくは明るい態度で毎日学校に来ていた。が、また「いじめられた」と親に訴えたらしい。そこで、親は「また嘘ではないか?」と取り合わなかったが、話を聞いてみると、こんどは「体育の時間に後ろから突き飛ばされた」と訴える。しかも、足にはあざやすり傷ができている。親も放っておけないと思ったのだろう、「授業中にもっと注意して下さい。先生、ちゃんと見ていたんですか?」と私への抗議を含めてまた連絡帳へ書いて訴えてきた。
     私は、また、事実調べをできる限りやってみた。しかし、いじめなり、けんかなりで一男を突き飛ばしたような子供の存在は確認できなかった。確かに、体育の時間に鬼ごっこなどで走って、ぶつかったり、衝突したりすることはあるだろうし、実際によくある。だから、とりあえず「すみませんでした。今後は安全に配慮しながら授業をしていきます」旨の返事をして「今後、様子をみます」ということで納得してもらった。
     しかし、今どきの子どもたちは授業中に、ちょっとでもけがでもしようものなら、すぐに「保健室へ行って来ていいですか?」と聞きにくるのが普通で、まして、血や出ていたり、あざができていたりすれば、周囲の子供たちだって黙ってはいない。私は納得がいかなくて、それとなく、一男を観察しつつ、話をするように心がけていると、意外なことがわかってきた。
     一緒に帰る子供から、「一男ちゃんのけがは、わざとなんだよ」というのだ。つまり、「下校の途中でわざと転んでけがをしているんだよ」というのだ。本人に聞くと、泣きながら事実であることを認めた。しかし、こういうときに、安易に子供が「白状した」というような感覚で対応するのは間違っている。つまり、それも、事実かどうか?を疑う必要があるのだ。子どもたちは「物語」を作るのが得意だ。それは、私にしてみれば、迷惑な話でもあるが、子供の育ちにとっては、ある意味で非常に好ましいことだ。大人は、物語を作ることで癒されたり、想像力を鍛えたりする子供を認めたがらない。いつも、真実を、事実を、正義を、と迫る。私は、一男の話を聞きながら、親と話をする必要があると思った。
     早速連絡し、話がしたいというと、母親が「私が行きます」というので、「お父さんにも来て欲しい」というと、「父親は何もわかりませんから」という。それでも強引に、「父親も来て欲しい。」というと、電話に父親が出て「今忙しい」というので、「じゃあ、いつ時間がとれますか?というとムッとし、「当分忙しい」という。電話を切ろうとするので「じゃあ、私がそちらの家か、お父さんの会社へ伺います」というと「わかった、行きます」という。
     母親は会う前日まで、電話や連絡帳で、私に「あの人(父親)は何もわからない人だから……」「父親は忙しくて、子供のことはよく知らない」と、伏線を張ってくる。どうも子供をはさんでの両親の関係が不自然だという感想を持った。
     結局色々と三人で話をするうちに、一男の思いが少しはわかってきた。つまり、一男にしてみれば、自分が「病気」になったときくらいしか、親は心配してくれない。しかも、学校へいくようになって、盛んに「自立や独り立ち」を要求されはじめ、ストレスがたまってくる。友達とのけんかだと「なさけない」と一刀両断のもとに無視されるが、「いじめ」なら、いま流行していて、自殺までする子供がいるため、両親も真剣に自分のことを考えて、悩んでくれるということなのだ。
     自分をいじめられる子供と設定し、いじめる子供を設定し、両親と自分の共通した「仮想敵」に仕立て上げてきたのである。「結局、私たちの愛情の表し方がヘタなのでしょうか?」と両親が言う。
     父親は「早く『自立』しろと何度も言っていたのですが。難しすぎて、どうしたらいいかわからない……」とつぶやく。母親も、子供を育てることは大変なことだと思うようになったという。父親が「先生はしつこい人だなあと思った、母親だけでいいじゃないか?と思ったし、なんで俺がこんなことに付き合わされるのか!」と言う。私は笑いながら、「すいませんねえ、お父さん、今日も忙しかったんですか?」と聞くと、「今日は、テレビゲームをやってたんですけれどね」と言う。
     この両親からはありありと「めんどうなことから逃げたい」という気分が伝わってくる。でも、「先生、どうしたらいいんでしょうか?」と聞くこともしない(聞かれてもいい答えなどはないが)。父親が突然「愛情不足なのですよね」と言うので「そうかもしれません」と答えた。しかし、手あかにまみれた「愛情不足」などという言葉は、何も言っていないのと同じである。話し合ううちに「早く結論をつけて俺を解放してくれ!」という雰囲気が漂ってくる。母親は父親が口にした「愛情不足」という言葉で、自分の子育て能力を疑い始めているようにも見える。私は、話し合いを終えた。
     この話し合いで、一体私自身が親たちに何を期待していたのだろうかと考えてみた。おそらく、本当のところは「いろいろあるけどさ、面倒でも、こうやって試行錯誤するしかないんじゃないかな」ということなのだ。話し合いなんて無駄なことなのだろうけど、自分の子供について「時間を使って話した(彼らには浪費だろうが)」ということさえ、両親にとってよかったのではないかと自分を納得させたのだ。
     子育ては一つの正道があるわけはない。しかし、一男は「自立しなさい」という父親の言葉に、「ちゃんとして」という母親の言葉に疎外感を感じた一男が起こしたと、まずは言えるだろう。しかし、だからといって、言い方がまずいだとか、もっと愛情ある接し方があるだろうと言っても、それこそマニュアルはない。やれやれ面倒だなと思いつつ、疲れた子どもたちと付き合う、つまり一緒にいることで、とりあえずは十分ではないかと私は思う。子供を「正しい人間に教育しよう」と意気込むのもいいが、彼らは、そのまえに子育てに、産業的とも言える合理性や効率性を追求している。あるいは、「至上の愛」をどう身につけるかのハウツーを考えている。だが、こういう他律的な「家庭教育サービス」を充実させるような、子供との立ち向かいかたは、親自身が、それこそ自立していないといえる。子育ては面倒で、難しく、理屈通りにはいかないものであるし、親は仕事やつき合いで疲れているし、子供の方も新しい環境でストレスをためている。そういう、事実、現実を目の前にして、一生懸命になったり、手を抜いたりすることの繰り返しが「答え」なのではないか。
     この親たちには、自分の子供から「逃げるのをあきらめる」ということが必要な気がする。

    目次にもどる

  3. 閉塞する家族:「攻撃的排他的」子育ての孤立

     母親に「学校は信用できない」と言われた小山先生は、怒りを隠すこともなく職員室で「まったくあの親はなんて親だ!親が親だから子供もああなるんだな」と吐き捨てるように言う。「事件」自体はたいしたことではない。小山先生に叱られた一美さんが休み時間に家へ帰ってしまったのである。こんなことはたまにあるが、そんなにもめるようなことではない。叱った方が「ちょっとやりすぎました」といい、子供の親が「いえいえ、一美のほうこそすみませんでした」という程度で終わるのが普通だ。帰る途中で交通事故や誘拐さえ起きなければとりあえず安心ということだ。親の方も自分の子供が悪さをしたのだから、叱られて当然、黙って帰ってきたあんたが悪い……くらいで収まっていたものだ。ところが、一美さんの親はそれほど簡単ではなかった。
     まず、「うちの一美だけが悪いはずはないのに、相手の子をきちんと叱っていないではないか。うちの子が何か乱暴したとしても、その理由があるはずなのだから、きちんと理由を聞くべきだ、やむにやまれないことだったかもしれない。うちの一美だけが悪さをしていたわけではあるまい。ほかの子供も同じようなことをしていたと思うから、もっと公平に指導するべきだ。」と主張し、さらに、「学校の門からすぐ出られるのは、構造上の欠陥ではないか。安全に対する意識が低いのではないか。事故でも起きたら裁判にしますからね」と堂々たる理屈を言って担任の小山先生を批判したというのだ。
     むろん、「うちの子供は全然悪くない」と言っているわけではないが、最近はこういう反論をする親が増えている。ところが、こうした意見を述べながら、一方で、一美の母親は、自分の子供の前で「うちの子は馬鹿だから、どうしようもないんです」とか「一体誰の子なんでしょうね。信じられないでしょう!」と言う親である。
     一美の母親は、自分と子供との関係をどうとらえているのだろうか?、一方で、「うちの子供だけが悪くないこと」を強調し自分をかばっていてくれるようだし、もう一方では平気で自分をなじる。子供にとってみれば、母親が何を考えているかを予想しにくい非常に不安になる関係である。
     一般的には、家族で生活していれば、親の行動・振る舞いは、子供にとって、予想しやすく、生活の中で習慣的に対応して動けるような一つのシステムを形成しているはずなのだ。そうでないと、子供たちはどう対応したらいいのかと、緊張を強いられ、不安定な気持ちのまま生活することになる。
     結局、一美さん自身も、トラブルの原因をいくつか作っていることが判明し、周囲の子供からも、その子供たちの親からも、その指摘を受けることになった。むろん、その指摘は、きわめて穏健なもので、決してぶしつけなものではなかったし、かえって、信じられないくらいの寛容で思いやりのあるアドバイスだった。
     さて、この親は、小山先生のこのときの指導と対応によって、途端に他者との「交流を拒否」しはじめる。この「事件」をめぐる周囲との関わりによって、逆に、その親子は追い込まれていく。いままで、他人をあしざまに口汚くののしっているだけに、自分の居場所がないのである。小山先生もそれを、ある意味で、「自業自得」と判断し、放置した。結局、その親子は、学校に対しては、沈黙し、周囲の親たちとも、交流を断つことになった。
     が、担任としては、これを放置していくわけにはいかない。少なくとも、限定的にせよ、一美さんに関わることだけでも、親と交流して行かなくてはならない。結局、小山先生は、その子供の「長所」や「生活で善かったところ」を連絡帳やカードに書いて「親に褒めてもらいなさい」という指導をした。家族で学校のことを話題にしながら、一美さんを肯定的に承認してもらうことで、学校との関係もよいものにしていこうとしたのである。
     ところが、こうした努力も無駄となる。親は、小山先生のカードなど見ることもなく、子供の学校生活に対して無関心であった。小山先生が努力すればするほど、子供はプレッシャーを感じているようだった。小山先生が「こんどは、褒めてもらえるぞ」というのを憂鬱な顔をして見ているのである。
     結局は、そのまま十分な関係をむすぶこともなく、未だに親は学校に対しても、無関心というか、交流を持とうとせず至っている。
     親が非常に閉塞的な態度を取っているということの明確な原因が何かを断定することはできないが、親が学校や他者に対して攻撃的だったころは、それなりに元気で、笑顔のある親であった。しかし、いざ、親和的に関わろうとすると、俄然むつかしくなったようだ。親たちには、他者を受け入れながら暮らすという受容的な態度がないのではないか?と私う。受容的になりながら、他者と交流できないのだ。かつては、いつも、攻撃的な態度で、他の親どころか、学校までに対し、自信に満ちた法的な知識を駆使して批判をしてくるにもかかわらず、何かいつも苛立っているように見える。
     家族全体が他者に対して攻撃的であることで、他者を抑圧し、そのことで自己存在感を満足させているとしたら、それは、かなりいびつな関係の取り方である。わかりやす胃言葉でいうなら「素直でない」ということなのだろうが、職員室でそう評していた教員も多かった。単に、素直でないというよりは、自分と他者を肯定することで満足するのでなく、相手をうち負かすことによってのみ、自分の存在感があるという、まさしく、競争社会の原理を体現しているのではないかと思うのである。

    目次にもどる

  4. 教育家族の学校的な家庭:画一化され、競争する「個性」

     博司さんは六年生で、私学有名中学への進学をめざしている。三上先生はこの子供と親をもてあましている。というのも、この家族は、学歴も高く、今の学校に対して何も期待していないからだ。
     担任してすぐの五月に博司さんの家へ家庭訪問をした。そのときに、父親と母親が待っていて、出迎え、最初に言った言葉が「先生、私たち学校には期待していませんから、そんな気を使わなくてもけっこうですよ」であった。博司さんは、月曜日は、前日の日曜日の受験塾の特訓で寝不足なので、遅刻は常習。さらに、教室へは行かず、保健室で受験勉強することもある。三上先生は別に彼に甘く、大ぴらに許しているのではない。苦肉の策なのだ。授業をすれば「そんな簡単なことはもうやりたくない」とか「時間の無駄だ」という。挙げ句の果てには、ちょっとしたことでカッとして怒り、椅子を投げたりする。しかし、テストはほとんどが満点。いや、それ以上に理解していると言っていい。友達とのトラブルが続くと、保健室へ行きなさいという。そこで受験参考書や問題集をやるのである。それを、彼も喜んでいる。親もそのことをありがたがっているふしがある。
     親はそうした博司さんの行動を何ともおかしいとはおもっていない。逆に、「先生、愛知は管理教育ですから、自由に子供がのびのびしていないといけないですよ。博司はけっこう明るくてのびのびして、勉強も一生懸命やるし、いい子でしょ」という。三上先生は絶句である。
     彼から見ると、博司さんは、まったく「協調性」がないとうつる。しかも、手加減と言うものを知らない。けがをさせたことも幾度かある。しかし、親は、いつも「それも個性ですから、すみませんねえ」と平気である。「ちょっとくらい、みんなからヘンだと言われるくらいでちょうどいいんですよ。個性のない日本人の多い中で、博司は頑張っているんだから、親としては悔いはありません」とまで言う。大学の先生をしている父親は、口数は少ないが、そういう母親の言い分をニヤニヤ笑ってそばで聞いている。どうも、個性のレベルを超えているのではないかという気がするが、成績は抜群なので親になんと言ったらいいのかわからない。むろん、体育や音楽など受験にあまり影響のない教科については、欠席、見学も多く、「嫌いなことをやっても身に付かないし、まあ、大きくなってからやればいいんですよ」と親もいう。
     三上先生はこうした親とのやりとりの中で心身ともに疲弊していく。クラスの子供たちにも、博司さんが「理不尽な例外」とうつり、担任不審から学級全体もうまくいかなくなる。
     だが、よく考えてみれば、この博司さんのあり方は、よくある受験生活のハード版であり、別に「個性」でもなんでもないのだ。私から見れば、逆に、きわめて没個性的な受験生でしかない。確かに、学校として、秩序の維持だけ考えてみれば「困る」存在ではあろう。しかしながら、結局は既存の学習の枠組み(暗黙の合意)に拘束された中で、成績を上げるという限定された目的の中での学校生活にすぎない。
     ここで、博司さんは、親の言うことを従順に聞いているし、担任に言うことも、ほとんど親の受け売りである。博司さんは、親の論理をそのまま、繰り返しているだけで、三上先生に「勝てる」という実感を持っている。この家族は、そろって教育に関して情報をよく仕入れ、自分の都合のよいところをうまく吸収して、正当化の論理として身につけている。
     こうした家族には、支援というよりも、その問題性を明確に提示するしかない。私はそこで、三上先生の相談にのり、博司さんの両親の認識の間違いについて、次のような考えを伝えた。実際には、彼自身でやれることを工夫するしかない。これは、あくまで参考として述べてみたのである。
     まず、「管理教育」の原因は、まさに博司さんが取り組んでいるような、受験勉強至上主義、成績主義、という競争原理が一つの大きな要因になっていることである。その意味から言えば、博司さんは管理教育を体現する象徴的な子供であること。
     次に、担任が「協調性がない」ということは、即「個性」ということではない。クラスの仲間とある程度の距離がとれないのである。それは、単に未発達状態と考えた方がいいのではないか。もちろん、けんかしたり、トラブルが、起こしたりすることが、即「協調性の欠如」というのではない。他者とのトラブルなどは、あって当たり前。それをどう回収していくか、どう解決していくか、どうやりすごすかが「協調性」なのだ。
     博司さんの一家は、学校の役割を相対化し、自由に関わろうとしているように思えるが、実は、全く逆である。家庭そのものが学校化し、学校のもつ制度的な価値付けのシステムに依存していると言っていい。博司さんの場合、「不幸」にも成績がいいので、その問題点に気づかないのだろう。
     むろん、私は受験そのものを単純に否定しているのではない。受験を相対化しながら、それによって、自分らしさを創り出し、維持していくことの方が難しく、博司さんのようにその中にどっぷり浸かる方が簡単なんだということを知って欲しいと思うのだ。教育の情報が、あまりにも安易に家庭の中に入っていく。それらの情報を自分自身の心と体、体験と知恵で吟味することなく、受け入れることは危険きわまりないということである。

    目次にもどる

    まとめ

     親たちは、家族の一員として「子供」をきちんととらえているのか?逃げないで子供と「一緒に暮らす」ことができているのか?さらに、他の子供や家族と、連帯とまでは行かなくも、社会性とバランスを持ちながら適度な距離をとれているのだろうか?さらに、個性と言いながら、そこから生まれるリスクやトラブルに対してきちんと向き合えているのだろうか?そんなことを考えながら本稿を進めてきた。
     学校化された社会は、さまざまな教育の言説を生産している。その言説によって、あらたな不安や、苛立ちが生み出される。それを修復するための、教育言説が再生産される。この「泥沼」を認識することがまず必要になる。
     今、教員や親たちは「教育改革」の情報に振り回されている。「学力低下」という「危機」あおるマスコミにも問題はあるが、そもそも「学力」などが問題になること自体がおかしなことだ。「学力」を知らないと困るのは、教育研究者くらいなものだろう。「学力」などというものに、実体はない。あるとしたら、大人社会の学力であり、教員の学力である。昨今のテレビのクイズ番組のなんと簡単なことか?子供の学力をうんぬんするまえに、我々大人の問題であると措定するべきだろう。
     家族に問題があるときに、一番頼りになるのは、健全家庭でなく、「同じ問題で悩んだ家族」である。

    (2002−1−6)

    参考文献


きょういく大研究     ホームページへ戻る