きょういく大研究(2002.6.16)

朝日新聞の2002年6月12日夕刊第四面にボクの原稿が掲載された。その元になった原稿をここに掲載します。(この記事は東海三県のみです)
* なお、赤字の部分は削除されたところです。

学校五日制がはじまって、現場的教育改革論

 四月から、教育改革が本格実施となり、学校が週五日制になった。土曜日の子どもたちの過ごし方や、学力低下が問題になっている。しかし、この論議で一番欠けているのは現場の肉声、タテマエでない現実の認識である。 この国の教育改革は常に、学校の現場を置き去りにしてきた。現場を無視している教育改革は、いつも、したたかな現場に無視されてきた。今度もまたしかりである、まいったなあ。
 教育改革を論議するまえに、現場の教員や自分の身近にいる子どもたちに「どう?」と聞くべきではないか。実際に子どもたちに直接聞きもしないで、大人たちは論議していることが多い。

 学校週五日制に関していうなら、私のまわりにいる子どもたちは、極めて健康的に「休みはうれしい」と大喜びしている。土曜日は「勉強を強いられる学校生活」から解放されるのだから、うれしいのは当然だろう。それを「塾に行かされているから、かえって子どもは大変になっている。五日制は本当にいいのだろうか?」などと、したり顔でいうのはやめて欲しい。土曜日に「塾に行っている」のではない!「塾へ行かされている」のだ。塾へ行かされて、子どもが文句いうのは当たり前で、それは五日制のせいではない。せっかく、土曜日が休めると思ったら、「親から塾へ行け」と言われるんだから、子どもはたまらない。本来、学校の五日制は、子どもにとっては「週休二日制」なのだ。 なぜ、素直に「子どもには休みがいいに決まっている」と共感できないのだろうか。 大人の社会からしてみれば、いろいろ、面倒なこともあろう。 しかし、子どもに休みが増えたことを、苦笑いしながらも、とりあえず、喜んでやるべきではないか?私たち大人は、子ども時代、そんなに「休みが嫌い」だったのだろうか? 子どもたちに、大人の用意した「有意義な土曜日」を押しつけるのは、かえって子どもを忙しくする。学校五日制を批判する人々を見ていると、この国全体が「休む」ということに「憎悪」しているのかと錯覚する。「休み」を自前で楽しくする力が子どもにあると私は思う。地域で子どもたちが生きることを容認できないような、閉塞した社会こそ、批判されるべきだ。
 学校五日制で学力が低下するという声も大きい。週あたり二時間の授業時間が減るのだから、学習に全く影響がないというのはウソになる。しかし、学校での、学習が多過ぎるから減らしたのではないのか?「今までゆとり教育だった」というが、少なくとも私の現場感覚からすれば、「ゆとり教育」などなかったと言ってよい。学校を五日制にしたのだから、やっと勉強時間が減る、本物のゆとりが生まれる。識者らは「今の子は、昔の子よりバカになっている」とでもいいたげだ。まるで、低学力が降ってわいたかのように言うのも現場的ではない。教員の悩みの大半は、できる子よりできない子や、勉強好きの子より、勉強嫌いの子どもたちと、どうやってつき合っていくかであった。私たちは、仕事として、少しでも興味を持って授業が受けられるように今まで工夫してきたし、これからも工夫するだろう。学校は学力育成だけでなく、子ども集団が、なんだかんだと騒がしく動きながら、成長していくところにも大きな魅力があるのだ。
 いつだって、「近ごろの子どもは」と揶揄されてきた。とりわけ、社会に活力のない時代に、子どもたちはひどく責められる。そういえば、今の大人が子どものころは「三無主義(無責任、無気力、無感動)」と批判されたのだが、その後の決着はついたのであろうか?

 また、学校に競争原理を導入し、子どもを厳しく競わせたらどうか?という意見もある。しかし、私は全面的に反対だ。競争させればいいというのは余りに安易であるし、危険だ。学校の競争原理で生まれる敗者は人間の尊厳を持ち得るだろうか。あえて言うなら「公立の義務教育学校」は敗者を作らないことをその使命とし、理想としてきたのではないか。どんな弱点をもつ人間でも、なんとか周りと折り合いを付けながら共生できる社会をめざすべきである。敗者や弱者を踏みつけることを「正当化」するほど、学校は落ちぶれてはならない。自らが敗者であり弱者であり得るという想像力を失ってはならない。
 こんどの教育改革で、教員の多忙化にも拍車がかかっている。少人数学級が、教員の多忙化の上に積み上げられ、教員が疲弊していく。休暇や休息休憩がまともに取れないような教員の労働条件を改善しないままで、希望や理想を語ることなどできようか?ますます病める教員が増えるばかりである。大人社会こそ改革が必要なのだ。私は、自分がみじめであることで他者から哀れみを乞うよりも、自由をはばむものと闘いながら、楽しくにこやかに、子どもたちと希望を語る困難さを選びたい。
 結局は、不足した字数を「総合的な学習の批判」を加筆したのである。


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