きょういく大研究(2002.6.24)

学校の現実、子どもの参画は結構しんどい(こどもNPO第1回フォーラムでの話)

 岡崎です。「おそいはやい」という雑誌を作っています。どこにでも売っている雑誌ではありません。持ってきた現物を回しますので手にとってご覧ください。教員を25年やっております。天白区の植田南小学校に勤務しています。港から街の真ん中、そして郊外といろんな地域、子どもたち、親たちに接してきました。
 今日私が一番話さなきゃいけないことは何かと言ったら、「子どもの参画は結構しんどいぞ」ということです。そのことをちゃんと言わなければならないということです。
 つまり、学校で子どもの事件はいっぱいありますし、大変な子どもたちもいるかもしれないし、大変な保護者たちもいるかもしれないし、大変な先生たちは、もっといるかもしれませんが、学校というところは社会的にいうと子どもたちを一時保管しておくところなわけですね。大人たちが働いている間、子どもたちを安全な場所に保管しておこうというのが基本的な役割の一つだと僕は思っているんですけど。一方で次代を担う世代なので教育をしていこうと・・・。まぁ学校の存在意義は大きいと言われています。それを前提として皆さん納得しているわけですね。ところが現実には子どもにとっては非常に居心地の悪い場所になっていたり、不登校になったり、イジメだとかいろんな問題が起きています。多かれ少なかれ、こうした「いごこちの悪さ」はどこの学校にも、どこのクラスにもあると僕は思っています。
 たまたまタイミングが悪かったり、悪質だったりすると新聞に載ったりマスコミでいろいろ報道されたりして問題が外に知られるようになってくるわけです。私も時々事件のコメントを求められるのですが、そういうときはお断りしています。
 なぜかと言うと事件などというものはしばらく経ってみないとわかんなくて、自分が担当してないのに、やれそれは教師の指導のあり方に問題があるのだとか、保護者がちょっと教育を放棄したんじやないかとか言うようなコメントをするのは非常に恥ずかしいというか、5000万円の事件のときも僕が最初に言ったのは「地域に非常に経済効果があったんじゃないか」と言ったんです。新聞記者の方が「とんでもない」と言ったんですが、「現実にそうじゃないか、実際には地域にたくさんお金が落ちたんだから…」と言いました。子どものこととかいきさつなんか全然わかんない状態でですね、100円200円だと問題は小さくて、5000万円だから大きい問題なのか?金額によって問題の大きさが達うのか?などと、ボクは全然思っていないものですから、そういうコメントはなかなか難しいですね。
 学校の中で子どもの参画ということも出ていますが、文部科学省から始まって教育委員会も現場も四苦八苦してやっています。ただ、一番根っこのところで子どもたちや教員や保護者の声が本当に届いているのかということですが、教育改革の担当者にはあまり届いていないと思います。トップダウンで降りてきているというのが現実です。
 総合的な学習導入や学校評議員制度で学校が開かれるからいいこともあるんじゃないかと言われますが、僕も半分くらいはいいことだと思っています。今までと比べて学校が揺さぶられていて、ある意味で言えば、外圧なんですが、そこで、学校が相対化され、見直されること自体は、いいことだなと思います。一方ではそれに教員や子どもや保護者が主体的に関われるかと言うとそうではないのです。ハードルが高いのです。子どもの参画ということでいけば一番基本的なのは子ども自身が、学校に行っている「自分を相対化できるか」ということでは相当問題があるわけですね。なかなかそういう作業というのは子どもたちには難しいです。その場にいると言うことだけで満足したり、不満だったりする自分があるわけです。
 ただ、現実の学校ではそういった場所にいながら、そこにきちんと物を申すことは子どもにはできません。この前の『お・は』の特集で、大人から「どうしで分数の割り算は分子と分母をひっくり返しでかけるのか教えて欲しい」と言われてやって授業をやってきました。自称あまり出来のよくない大人が集まりまして、出来がよくないことで居直っている人たちなんですけれども、子どもでは居直るなんてことはないのですが、大人は「わからん」、と平気で言うのです。じゃあもう1回・・・とやっても「わかるけどわからん」というわけです。教えているほうも根をつめて考えてなくて、どこの教科書にもそう書いてあるだけでなぜひっくり返すなんて書いてないのです。現場では子ともたちは「わからない」とはあまりいいません。「なんでわからないの?」と聞かれ、教えられてもさらにわからなくなるだけてすから、[先生が一所懸命教えでくれるからわかったことにしよう]ということで過ぎていくのです。そういうところで子どもたちに何か企画をとか、今度の学級会で何をやりたいか決めて・・・とかを持ち出しでも、それはあくまで自分の意見というよりは、周りがどう見ているかとか先生が何を私たちに期待しているのかということ、本当に「戦術的」なことをやはり中心に考えています。それを見て教員は喜んでいます。「このクラスの子どもたちはすごい」とか、親たちも「子ともたちもなかなかやるわね」と感心している。僕から見ると大きな勘違いなんですが、ということが往々にしてあります。
 教師の実践記録なんかでは「子ともたちは生き生きしていた」となるわけです。生き生きさせるなんて非常に簡単なんです。子どもの首をグーッと絞めてパッと放せば生き生きしますよ。基本的に学校のシステムがそんな風になっていることを検証することなしに、生き生きとか子どもの目が輝いているなんて言い方はしてほしくないんです。生き生きしてなくて暗い感じの子がいてもいいじゃないですか。黙っている子たちって、抑圧された沈黙なんですね。物が言えない、異議も申し立てられない。同時に大人たちか考えなきやならないことは、黙っている子たちがみんなおかしいのかということです。権利としての沈黙もあるんです。だから何か話そうというときに「ちょっと考えたい、そんなに急がさないでよ」ということだってある。やはり大人の見方というのは非常に一面的で、外で元気よく遊びまわっている子は良くて、家でズッーと閉じこもってガンダムの絵を描いているとか、ポケモンのカードぱかり見ているとかは生き生きしていない奴だ、などとカテゴライズしていい子、悪い子と決めがちなんです。
 そこのところで子どもの参画と言ったときに、さまざまな方法での生活、授業、掌校の行事、遊ぴなとに関わるというやり方があるんだということをきちんと押さえておかないと、何か子どもたちが参加したり、大人と一所懸命やったり、総合的な学習では子どもたちの主体的な学びや考える力を養おうと言っていますけれども、何をもって参加したというのかということ、先ほど沈黙のことを言いましたけれども、参画しないこと、つまり参画することと同じレベルくらいに、つまりやるかやらないかという拒否権が子どもたちの中にきちんと位置づけられている場合、あるいはそれを少しルール変更しながら参画していくということがまず基盤にないと、やはりやらされている…一見やらされていないようでやらされているという風に僕は認識しています。
 大人の算数教室でさっき言ったように「先生わかんない」「理屈言われてもわかんない」といってもですね、こっちはですね、「理屈言うならこんなところになんかくるな」と言いたいですよ。でも子どもたちは自分の気持ちをこうは言えないです。逆に子どもたちに「わかった?」と言うと「ウーン」と首かしげている子がいるわけですね。「じゃぁもういっぺん」とやるんですね。3回か4回やると、先生があんなに一生懸命やってるからわかんないというのも申しわけないということで、「よくわかりました」となるわけです。そこで「どうわかったか言ってごらん?」とか聞かない約束なんです。暗黙の前提がある。あんまり責めない、そこでね。叱ったあとで何がわかんないか聞くのと同じですから。とにかく終わればいい。
 罵声の嵐が飛びかうことをずっと我慢しているわけですから、そういう状況の子たちがいっぱいいますから。その時にやっぱり子どもは学ぶ権利があるんだからわかるまで全員わかるまでやれーと設定することのむごさを教員をやっていてすごく思いました。つまり子どもたちが参画していく、積極的に物事を主体的に取り組んでいくと同時に、そういったことから逃げていく、きちんとやらないことはやらないということのバランスの中で決定しているかどうかということです。選択肢のないところで決定させているんじゃないんだよということを認識しないと、なかなか子どもたちが生き生きしているということは難しいです。
 特に授業の評価かなんかで子どもたちに良かったか悪かったかなんて聞く訳です。「つまんなかった」という子がいることが正常な状態だと思います。全部が楽しいと言うと何か洗脳しちゃったかな?なんてすごく思います。全然おもしろくなさそうだった子が「この間良かったよ、今日頑張ってましたね、先生」なんて言われると非常にうれしいわけです。人間関係の作り方なんてそう言うところがあるんです。つまり、まるっきりわからない教員が一所懸命しやべっているけれども好きだとか、すごくやさしくて、親切に教えてくれるけれど、「でも…嫌いだ」という教師がいていいと思います。
 そういうあり方がごく自然で普通なんだろなと思います。だから小学校時代の授業なんか全然覚えていないと思いますけれども、なんか叱られたこととかおもしろかったこととかを覚えていると思います。多分生活の中はそういうものだろうと思います。もう一つは大人の側から言っているんですが、子どもがいっぱいいろんなことを言ってきて収拾がつかないことがよくあります。「何がやりたい?自由に考えてね」なんて言おうものなら、パーッといっぱい出てくるんです。一日学校を使わせてくださいとか、野球のベースを枕にしたいとかいろいろあります。他のクラスほどうかな?と気にしつつ、給食のときにCDをかけたりするんですが、子どもの方から「モーニング娘いいですか?」とか聞いてきますと「いいよ」とかやってるんです。でも親からそれが流れてくると僕なんか大丈夫かな?とか心配するんですが、隣の教室からもモーニング娘の曲が溢れてきたりしてほっとするわけです。「ポケモンカード持ってきていいですか?」とも聞かれます。「いいよ、あんたたちで決めな」とか対応していますが、自分たちでいろいろ決めています。しかし、子どもたちにとって自分自身で決めることに関しで疑義を持つ子もいます。つまり自己決定することは相当に重いことであって、例えば「シャープペンシル持ってきていいですか?」と聞かれたんです。「僕は関係ない、君がシャープペンシルを使おうが鉛筆を使おうが関係ない。それによって起きたトラブルについては考えるけれども、そんなの好きにしてよ」「ルーズソックスいいですか?」とも聞かれます。「君、僕がいいっていったらどういうわけ?何か叱られたら岡崎先生がいいって言ったって絶対言うでしょ、それやめてよ。自分の責任でやってよ」というやり取りをしています。他の先生が何でそんなのやるんだと言ったら、その先生の言う理由がめちゃくちゃだったら君の味方をするけれども、君のほうがめちゃくちゃだったらその先生の味方をするよ」そんな単純なことを僕はやっているわけです。
 ボクは、高学年には社会の厳しい波がるんだから、ちょっとは宿題やってよと言います。そして、点検はしないで、答え合わせくらいはやりますが、やってない子にあーたら、こーたらと、説教なんしません。それでも、「岡崎先生は宿題をださないって聞いてたんですけどやっぱり出すんですね」「やっぱり岡崎先生は常識がありますね」と言われます。今までなかったみたいです。点検しないですからやってこなかったことで叱ったことは一度もありません。そうすると親の方は「点検やらないなら出す意味がないじゃないですか」と言います。ボクは「宿題はもともと家でやることなので、ボクは関係ないんです。あなたの家までいちいち訪問をして、「今晩は、宿題していますか?」なんて教師が点検に行けないでしょ。「やるかやらないかは家で勝手に決めてください。きっかけぐらいは僕が作っていいけれども」と言う話をするんです。子どもたちも宿題出してくれって言います。全部ではありませんけれども、半分くらいは言います。なぜかと言うと親がうるさいからです。宿題がないと「何か自分でやれ」と親から言われるのが嫌なんだそうです。僕は、やっているふりしてりゃいいじゃないか!と思うんですけれども、それがなかなかできないまじめな子どもたちなんですね。そういうのが多分大学行って高橋先生の授業を受けるんでしょうけど。宿題を出す教師がいいとか、出さない教師がいいとか言えないわけですよね、基本的には。間題は子どもたちがそれをうまくすり抜けられるかどうかということが学校との一つの関わり方なんです。
 大人が非常にやかましくなっていると感じています。「総合学習で学力がつくんでしょうか?」と言う親もいれば、反対に「総合学習やってくれて子どもが生き生きしています。」と言う親もいます。例えばここに集っている皆さんが僕のクラスの保護者だったら、きっと嫌ですね(笑い)。「子どもの参画をどうするんだ!」とか「教科書問題をどう考えるのか」とかいつも迫られたらたまらなくなると思います。何でもそうなんですが、語っているところに異質物が入ってくる状況を私たちはあまり考えないのです。学校でも「みんなができている、一人はみんなのために、みんなは一人のためにがんばるのはいいことだ」は常識になっています。ところが教育意識が非常に高くなってくると、いろんな親がいます。学力をあげてほしいという意味で教育意講が高い、それから学力はどうでもよくて、子どもがのびのびやっでくれればいい、学校が好きだと言えばいいと言う親もいます。そういった異質な親同士の対話というのはほとんどないんですよ。どちらかというと担任が自分の考えと一致していれば黙っているし、そうでなければ文句を言うのです。ですから、これから子どもの参画というテーマで子どもが主体的にいろんな活動に取り組むようになったなら、一番重要になるのは多分保護者とか教育に関わる教師や学童保育の指導員さんもそうですが、そういった異質なもの同士がどういう風に自分たちの中でバランスを取って行けるか、調整できるかと言うことにつきるのではないかと思います。
 ですから子どもの権利条約を大事にしよう!という講座にも招かれたことはありますが、権利って言ったってそれは獲得していくものであって、与えられるものではないわけですね。最近、ボクの友達が、「子どもたちに自由にやって」というと「先生、決めて」と言ってくるというんです。それは当たり前なんです。今まで、そうやって育ててきたからちっともおかしくないんです。「カラオケ大会でも自由にやれ」と言うと大抵びっくりして、「先生、本当にいいですか?」と何度も念押しされます。そういう子どもたちの中に既に出来上がっている固い枠組み(慣習的行動)みたいな物を打ち破っていきながら権利を獲得していくという作業がこれから必要だなと思います。
 どんどん学校が開かれていきますが、開かれたと同時にいやなものも見なければならないので、その様なものとどうつき合うかということを保護者の方も考えてください。全部学校の先生がやるという考え方では参画は始まらないと思います。保護者や近所の人が「授業をやってあげるわ」と言って来ていただいたら一番良いですね。先日そういうお父さんが見えて、やっていただきました。「一日で十分」と言って帰っていかれました。30人40人の子どもと1日付き合ってみた時に「おもしろさ」と「しんどさ」の両方が経験できるのです。日常的に子どもとつき合うって言うことは非常に面倒臭いことです。そうしたしんどさの上に、子どもを参画させると言うときには大人もエネルギーと精神的な自由が必要になります。自由にやっているところと我慢するところとが必要かと思います。大人は我慢がなかなかできなくてどうしても世話を焼こうとします。教育根性というのがあってですね、あぁすればいいとかこうすればいいとかすごくいつも思いますよ。それをぐーっと我慢して・・・教師がつらいときに、どうすればいいかと言うと、しばらく休暇でも取って、学校を休むことですよね、見なければいいもんですから。大人でもそうなんですが、子どもを育てていく上で見ていなければそのまま過ぎていくことでも、見てしまったばかりに不幸におとしいれられるってありますよね。知る権利も知らないほうがいい権利もあるわけで、その辺りのバランスも考えて子ども参画を考えていってほしいです。ばら色の部分ぱかりじゃなくてぱら色じゃない部分ももっとたくさんあると思います。逆に言うとしんどくて面倒臭いことがいっぱいある中で子どもがとにかくおもしろそうだという場面を見せてもらえるだけで僕は非常に幸せなんで、僕の感覚はそういうことでいま学校で仕事をしています。・・・拍手

この集会の全報告集が7月末に発刊されます。必要な方は、
http://www.kodomo-npo.or.jp/index.html
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